ズルワン主義の潮流 [古代バビロニア&ペルシャ]

-6~-5C頃に新バビロニア(カルデア)で、ズルワン神を至高存在として、ミスラ派を中心にペルシャの宗教を統合し、カルデア(バビロニア)の階層的な天球の宇宙像を持つ占星学と習合させた神智学が生みだされました。
これが「ズルワン主義」です。

カルデア人司祭はマズダ教の迫害を逃れるため、ミスラ(ミトラ)教マギの庇護下に入り、ミスラ教と占星学の習合が起こったのです。
女性司祭のコスマルティディーネが大きな働きをしたと言われています。

ズルワン主義はペルシャの神話を再構築し、それをバビロニアの宇宙論の中に対応させることで、表面的にはペルシャの宗教でありながら、実質的にはカルデアの占星学であるような神智学が生み出されたのです。
ですから、「カルデア神学」と表現されることもあります。

アケメネス朝中期には、ズルワン主義が国教である3アフラ教(普遍ゾロアスター教)の主流となりました。
ズルワン主義は普遍的で秘教的な神智学としてペルシャ帝国内の様々な宗派の間に広がり、国学的な基礎的神学となりました。
ズルワン主義はペルシャ帝国内に限らず、東西に大きな影響を与えました。
実際、オリエント・西洋の神秘主義思想のすべての原型がズルワン主義(カルデア神学)の中にあります。


具体的には後の節で扱いますが、簡単にその影響範囲を書いてみましょう。


ギリシャ世界にはオルフェウスやピタゴラスらを通してズルワン主義やカルデアの星辰信仰が伝わりました。
オフェウス教の神話はズルワン主義をギリシャ語に翻訳したようなところがあります。
プラトンに至るギリシャ哲学は、ズルワン主義に影響を受けながら、ズルワン主義と平行して発展したと言えます。


ヘレニズム期に入って、アルサコス朝(パルティア)がミスラを国教とします。
この-2C頃には、ペルシャとローマの緩衝地帯であるシリアで、7光線理論やミスラ神の占星学的な神話が新たに編集され、「ミトラス教」が生まれました。
ミトラス教は、地母神信仰やギリシャ・ローマ神話と習合されて秘儀宗教化したものです。

ミトラス教はローマ世界を越えて全ヨーロッパに広がりました。
3~4Cのローマは実質的にミトラス教が国教であり、テオドシウス帝の異教禁止令まではミトラ=キリストであり、両教は習合していました。
この頃にマギ達によって書かれた書は『マグサイオイ文書』と呼ばれ、ヘレニズム・ローマ期の思想に大きな影響を与えました。


また、ヘレニズム期のストア哲学は、ギリシャ哲学を再度オリエント化したものでした。
トルコのストア派の哲学者達、特にポセイドニオスは大きな影響力を持ち、ミトラス教と密接な関係を持ちながらズルワン主義の影響を受けた哲学を発展させました。

こうして、紀元2、3世紀にはズルワン主義の影響の下、トルコでは『カルデア人の神託』編集され、一方アレキサンドリアでは一連の『ヘルメス文書』が編集されました。
そして、これらは新プラトン主義によってさらに体系的に哲学化されていきました。


ヘレニズム期に発展したミスラ教は占星学を取り入れたため、ズルワン主義と実質的には一体の存在となりました。
バビロニアでは3世紀には『大ブンダヒシュン』という書が表わされました。
これに対して、ペルシャの民族宗教にこだわるゾロアスター教(マズダ教)は、カルデアの占星学を否定しました。


また、3世紀に預言者マニ(マーニー・ハイイェー)が現われて、グノーシス主義や仏教を吸収してミスラ教を改革した「マニ教」を興し、中央アジアを中心に、地中海から中国にまで広がりました。
マニ教は独自の神話の形で新たな神智学を展開しました。 


中央アジアの大国バクトリアはマニ教を国教化し、ミスラとゼウスが習合し、また、ミスラと仏教の習合で弥勒信仰が生まれました。
この時期のバクトリアは、北伝仏教の中心地でした。


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