プロティノスの流出と帰還 [ヘレニズム・ローマ]

プロティノスの一者と階層」に続き、「流出」と「帰還」をテーマに、神秘主義哲学の最初の大成者プロティノスの哲学をまとめます。
 

<流出>

プロティノスの哲学の特徴は、世界が至高存在から段階的に順次一つ下位の存在が上の存在から生み出されるという世界観を、初めて哲学的に体系化したことです。
この世界観はヘレニズム期のアレキサンドリアの思想の特徴でもあります。

プラトンは日常意識から至高意識へと至る神秘体験の「上昇」のプロセスを、霊魂の「復帰」として語りました。
プロティノスはこれに加えて、至高意識から日常意識へという神秘体験の「下降」のプロセスを、自らの体験の反省に基づいて、宇宙生成の諸段階として形而上学的に哲学化しました。
これはプラトンやアリストテレスが「思索」の結果、宇宙の階層性を形・性質の実現度や普遍性の度合として語ったのとはまったく異なります。

プロティノスは、至高存在である「一者」が世界を生み出すことを、泉から水が自然に溢れることに喩えて「流出(発出、プロオドス)」と表現しました。
ですから、「一者」とすべての存在は一体です。
そして、「流出」される諸階層の存在は、段階的であると同時に、連続しています。

「無」である一者は、意図することなく、その充填する性質から自然に、無目的に「流出」を起こします。
ですが、各段階の「流出」は、常に、一種の自己反省、自己認識が媒介します。

「一者」は「流出」を行っても、自身は変わることなく「一者」に留まります。
「流出」された存在は、「無限定」な存在からしだいに「限定」されて宇宙が形成されていきます。
宇宙は「一者」の「限定」ですが、「一者」自身です。

「一者」は世界に内在して、また逆に、世界の一切は「一者」を憧れて観照することによってそこに「帰還」します。

ですが、この「流出」は過去のできごとではなくて、「帰還」も未来のできごとではありません。
「流出」と「帰還」は無時間的に常に起こっているのです。

つまり、プロティノスの宇宙論には、ゾロアスター教のような直線的な時間も、ズルワン主義のような循環する時間もなく、宇宙は永遠に存在し続けるのです。

「一者」は下位の存在には無関心です。
これはキリスト教の神が愛(恩恵)によって積極的に下位の存在に関わることと対照的です。


「流出」には、階層的な段階があります。
「一者」は「ヌース」を、「ヌース」は「魂」を、「魂」は「質料」を、という具合に段階的に起こります。
ですが、無時間的な出来事なので、これは論理的な段階です。

この時、上位の存在は、そのままに留まりながら下位の存在を生みます。
この階層間の関係は、上位存在の外的・派生的働きが、下位存在の実体的・内的働きになっています。

各段階の「流出」による創造は、2、あるいは、3段階で行われます。

まず、無形の素材(質料)として生み出し、次にその質料的存在が上位の存在を「振り返る」ことで形作られます。
これは、上位の存在を対象として見て、その「映像」を作ること、「形相」を受け取ることです。
「振り返り」と「帰還」は同じことであり、形作られること、「似像」になることです。

そして、この生み出され形成された存在は、自身を認識することだけで、さらに下位の存在を生み出します。

下位の存在は創造力の点で上位の存在に劣り、最下位の段階の物質的な「質料」は何も生まません。
したがって、最も「悪」なる存在です。


プロティノスによれば、「一者」からの創造は自然なもので、また、人間の「魂」が物質界へ下ることも、罪によって堕落した結果ではなくて必然的な過程だとされます。
ですが、「魂」が「ヌース」に向かわずに身体に縛られてしまうことは悪です。

「魂」は物質界に下ることによって、物質界の不完全さ、「ヌース」の世界の完全性を認識することができるようになります。
そして、人間は全自然が「一者」を憧れ目指すことの代表者として、一者に帰還する観照体験によって全自然に満足を与える存在なのです。


<帰還>

プラトン、アリストテレスにとっては、至高存在との「合一」的体験は、「ヌース(霊的知性、叡智)」の働きである直観的体験でした。
そしてそれは、「霊魂」が自らのもっとも純粋な本質である「ヌース」としての部分に目覚めることでした。
ですが、プロティノスにとっては、「一者」は「ヌース」を超えた存在です。

プロティノスは、「合一」体験を「至福」とも表現します。
また、「触れる」といった触覚的にも表現しました。

プロティノスは、「一者」への「帰還」である「合一」体験に至る過程を3つに分けて考えています。

まず、倫理的な行為などの「浄化(準備)」です。
次が、「魂」が本来の「ヌース」の世界を見る「観想(テオリア)」。
最後が、「一者」と合一する「忘我(エクスタシス)」です。
 
「観想」とは、まず、「霊魂」が感性的に限定された自分を捨てて、「ヌース」の霊的な直観の働きに純粋化することです。
すると、そのうちに、突然の飛躍によって、「ヌース」の働きそのものを消滅させて、「ヌース」の限定を捨てて、自らの外に出る「忘我」が体験されるのです。

この飛躍は「ヌース」の意識的な努力によるものでもなければ、「一者」の働きかけによるものでもなく、突然に自然に起こります。
「一者」それ自体は常に超越的な状態にあるので、下位の存在に思いをこらすような存在ではありません。
 
「合一」体験は、「魂」の上昇とも表現されますが、「魂」はどこまでいっても「魂」であり、他にものに変化したり、どこかに行くのではありません。
「合一」体験は「魂」に内在する「ヌース」や「一者」が顕在化する過程で達成されるのです。


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