スーフィズム [イスラム教]

8世紀頃、イスラム教徒は各国を征服して支配領土を広げて、それに伴って物質的な繁栄による享楽を受け入れるようになりました。
これに反発して、イスラム教本来の禁欲的な姿勢に戻ろうとする傾向や形式主義に反対する傾向の潮流が生まれました。
当時、シリアには神秘主義的傾向を持つ異端のキリスト教徒がいましたし、アラビアの砂漠地帯にも禁欲的な隠遁生活を送るキリスト教修道士がいました。
ですから、彼らの影響を受けて、禁欲・苦行を行なう者が現われたのです。

彼らを「スーフィー」、後に形成されていった彼らの思想を「スーフィズム」と呼びます。
ただ、「スーフィー」という呼び方は西洋の学者が使うもので、アラビア語では「タサウッフ」や「ファキール(貧者)」、ペルシャ語では「ダーヴィッシュ(貧者)」などと呼ばれます。

スーフィズムはイスラム教の正統派からは異端視をされてきましたが、11世紀ペルシャ出身の哲学者、ガザーリーのスーフィズムへの傾倒によってスーフィズムは半ば公認されるようになりました。
また、12C頃からは、聖者を教祖として教団化し、民衆化していきました。
ペルシャでは神秘主義的表現が詩の主要な形式になって、ルーミーなどのスーフィーによる名作詩が多数作られました。

スーフィズムは本来は禁欲・苦行の神秘的な実践道なのですが、やがてミスラ・マニ教やシーア派神学、神プラトン主義系のイスラム哲学など、様々な思想の影響を受け入れて独自の神智学を生み出していきました。
スーフィー達は、スーフィズムには教義は存在せず、すべての宗教の核心であると考えています。
そして、その核心である神秘的な教えは普遍的なものであり、古代から連続しつつ進化していると考えています。

スーフィズムの基本的な特徴は、「ズィクル」と呼ばれる修行法と、「タワックル」と呼ばれる姿勢です。
「ズィクル」は聖句を唱えながら行なう瞑想の修行です。
「タワックル」は神に対して絶対的な帰依を行なって、自己の意志を放棄し、一切の運命を受動的に受け入れる姿勢です。

初期のスーフィズムはシリア・キリスト教の影響を受けて、神との擬似恋愛的な交わりを目指しました。
つまり、人格的な神と人の浄化された霊魂が結婚に比喩されるような一体化を行なうのです。この時、神と人とは限りなく近づきます。「私なのかあなたなのか分からない」というようなスーフィー達がこの体験を語る語り口は、「ムナジャート(恋の睦言)」と呼ばれます。
9世紀にバダッドで活躍したペルシャ系のジュナイドや、その弟子で9~10世紀のペルシャ出身のハッラージはこれを突き詰めた代表的なスーフィーです。

ちなみに、ハッラージュはミトラ教系の孔雀派の聖者でもあり、アザゼル(イブリース、アーリマン)を守護天使とし、ミトラ教の秘密教義(堕天使が許されて復活した)を主張しました。

スーフィズムは8世紀末には新プラトン主義の影響を受けて、哲学的な反省もなうようになり、やがてイブン・スィーナーの宇宙論も受け入れました。

また一方で、9世紀末にはインド思想の影響も受けました。
特にイーラーンシャハリという人物は、インドに留学してインドにギリシャ思想を伝えるかたわら、インド思想を学んでこれをイスラム世界に伝えました。
彼らの活躍によってインド思想がイスラム世界にも知られるようになったのです。
その結果、スーフィーの中には、インドのサーンキヤ思想やヴェーダーンタ思想の影響を受けて、人格神との恋愛的合一を越えた、抽象的な神への帰一を主張する者が現れました。

9世紀のペルシャ人のバスターミーはこの代表的なスーフィーです。
(先に紹介したジュナイドもサーンキアの、ハッラージはヴェーダーンタの影響を受けています。)
バスターミーはサーンキア哲学がプルシャから不浄な要素をはぎとるように霊魂の浄化を語り、ヴェーダーンタ哲学がアートマンとブラフマンの同一性を主張するように霊魂の神化を語りました。
「我こそは絶対者」というような、スーフィーが人格を超えて神格となって発言する時の語り口は「シャタハート(酔言)」と呼ばれます。

バスターミーとハッラージの比較は、人格神と人間の断絶を特徴とするキリスト教・イスラム教の神秘主義と、抽象的な神への帰一を特徴とする新プラトン主義やインド神秘主義との違いについて考えさせてくれます。
バスターミーは霊魂の浄化の過程で見たヴィジョンを次のように語っています。
「神性の垂れ幕の向こう側に進み入ると、玉座は空だった。
その上に身を投げ出してあなたを求めると、また幕が巻上げられ、私は見た、私が私であることを、私だった」。

つまり、バスターミーは最後に自分自身が神となって、神が神としてバスターミーを通して自己認識をしているのです。
そしてここには、人格神と人間の関係が神への帰一にいたる途中に、「神の不在を見る」という体験があるのです。
この神の不在はキリスト教神秘主義の語る「神の闇」と似たものかもしれません。

ところで、抽象的な神への帰一の後での、人格神と人間の関係を考えることもできます。
ジュナイドはこの関係を神への帰一の体験よりも重視します。

  人格神との恋愛的合一(結婚):ムナジャート(恋の睦言・対話)
     ↓
  神の不在を見る 
     ↓
  抽象的一者への帰一:シャタハート(酔言・神の独白)
     ↓
  抽象的一者への帰一の後の人格神との恋愛的対話

また、スーフィズムでは、人間の心は機械のように習慣づけられたものを無意識に繰り返していると考えます。
それを解き放つための方法として「停止(休止)の行」があります。
何か行動している時に、旧に停止の命令を受けると、その時の心身の状態をストップさせます。
そして、その時の心のあり方を観察します。
そして、普段なら無意識に動いていた心の動き、連想、思考の癖を意識し、それを解き放つようにします。

スーフィズムでは、身体のいくつかの部位に意識を集中して、知覚を活性化させる修行も行います。
身体部位には次のような対応関係があります。

 ・丹田(太陽神経叢):自我、白色
 ・心臓:心、黄色
 ・胸の右:霊、赤色
 ・胸の中心:深い知覚、緑色
 ・額:直観、黒色

インドのチャクラの象徴体系や、ユダヤのカバラの身体象徴体系と、考え方が似ています。


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