イブン・アラビーの存在一性論 [イスラム教]

ムヒーッ・ディーン・イブン・アラビー(イブヌ・ル・アラビー、1165-1240)は、11C後半にスペインに生まれて、その後、東方に移住してシリアを中心に活動し著作を行いました。

彼は新プラトン主義的なファルサファを学ぶ一方、各地のスーフィーの教団から秘儀伝授を受けました。
また、インドのタントリストのように、弟子を直接精神に導くことを行っていたヒドルという聖者からの導きをも得ました。

また、彼が少年の時に、当時老年となっていた合理主義的哲学者イブン・ルシドと体面した時の話は、伝説となって語られています。
イブン・ルシドはアラビーが弟子になりに来たと思って、彼に霊感によって何を得たのかと尋ねると、アラビーは「イエスとノー。イエスからノーへの間で精神は物質から離脱し、頭は胴体から切り離されました」と答えました。
これが理性を超えた世界の重要性を主張する答えだと理解したイブン・ルシドは、体を震わせてこの返答を恐れたといいます。

彼はイスラム教にこだわることなく、すべての神秘主義的、宗教的伝統の本質的な同一性を主張しました。
また、彼は理性的にではなく、神的な霊感のもとで著作を行いました。
彼の抽象的な哲学の背景には、様々な霊的ヴィジョンがあるのです。
そのため、彼の著作では象徴的な表現が重要な役割を果たしています。

イブン・アラビーは、極めて多作で、400冊を超える著作があるとされます。
その中でも主著とされるのは「叡智の台座」です。


<存在の階層>

アラビーは、存在の階層を、次の5段階で考えました。

1 本質の地平:非顕現、絶対的一性
2 属性の地平:神性の現前、神名、永遠の原型
3 行為の地平:主体の現前
4 想像の地平:中間世界
5 感覚の地平:物質的世界

アラビーは、現実を夢のようなものであるとし、解釈が必要であると考えました。
そして、存在の階層において、下位の存在は、より上位の存在の象徴なのです。
また、各存在は「鏡」であって、その存在の「備え」のあり方に従って、絶対者の像を映します。

彼はプロティノス同様に、宇宙は絶対者である神によって、一瞬ごとに創造されつつそこに帰還する存在です。
つまり、神の自己顕現は繰り返すことがなく、この世界のダイナミズムは「瞬間ごとにおける創造の更新」であると考えました。

アラビーにとって、1の絶対者は、「絶対的一性」です。
これは「(純粋)存在」、「真理(ハック)」とも表現される絶対有です。


1は細かく見ると、3段階で表現されます。

まず、「玄虚(ゲイブ)」、「無(アダム)」、「秘中の秘」、「不可知」、「(人間にとって)暗闇」などと表現される、まったき非顕現、非限定の絶対無があります。

そして、次に、自己分節・自己顕現の兆しとなる「絶対的一性」なる段階があります。

最後に、「神の一性」、「アッラーの一性」とされる、統合的全体の段階があります。


2の「永遠の原型」は、中期プラトンのイデアに相当する存在です。
神秘的直観によって捉えられる存在であり、そのためには理性を捨てる必要があります。
絶対者の「属性」=「神名」=「永遠の原型」は、多なる「本質」の世界です。
また、「有と無の境界線上の実在」、「神の自己意識」、「第1の知」、「類の類」、「第1質料」、「知性的存在」、「天使」、「ロゴス」とも表現されます。

この段階の存在は、「一」でありながら「多」であるので、「矛盾的一性」、「相対的一性」と表現されます。

これらの「属性」には、階層性があります。
最も上位の「属性」は、「慈しみあまねき者」です。

「慈しみ」とは、存在させる力です。
これは、「在れ」という言葉を発することでもあり、また、「神の息吹」とも表現されます。

他の「属性」としては、「知」、「意志」、「力」などがあり、この順に高い存在です。

4の「想像の地平」は、動的な「根元的イメージ」としての世界です。

アラビーは想像力を3つのレベルで考えました。
一番下のレベルが、人間の魂のレベルであり、個人的な魂に関するレベルです。
次が、宇宙的なレベルで、精霊が住み、天使が預言者に啓示するために下降してくる世界です。
そして、最も高いレベルが根元的なイメージの世界です。

(イブン・アラビーの宇宙論)
本質の地平
・玄虚=無=秘中の秘
・絶対的一性
・神の一性
属性の地平
矛盾的一性=神名=永遠の原型
「慈しみあまねき者」、「ムハンマド的真実性」、「完全人間」、
「聖者性」、「本質」、「意志」、「言葉」など
行為の地平:主体の現前
想像の地平:中間世界
感覚の地平:物質的世界


また、アラビーは、創造における絶対者の現象的側面として、三重性(三幅対)があるとします。
「本質」、「意志」、「言葉(命令)」の3つです。
絶対者は、創造に当たって、この3重性を持つ「単一性」となります。

絶対者の自己意識の中に、まず、「知」が生じ、「本質」である「永遠の原型」が現れます。
次の段階で、「知」に基づいた「意志」が生じ、「在れ」という「言葉」の「命令」によって、世界を創造します。

また、創造される被造物にも、最初に、3重性が生まれます。
これは、「もの性」、「聴取」、「順適」の3つです。


<完全人間、ムハンマド的光、聖者性>

アラビーには、「完全人間(普遍的人間)」という重要な概念があります。
これには、種としての人間と、個としての人間が到達する目標の2つがあります。

種として人間は、神の似姿であり、神の全側面を反映した存在です。
これは宇宙の原型としてのミクロコスモスであり、「原人間」であり、「第1知性体」と等しい存在です。
人間は、唯一、神の全側面を反映しているので、その本性は天使よりも上位の存在なのです。

個としての「完全人間」は、神の中に自己を消滅させて、本当の智者となった人間です。

また、アラビーによれば、預言者は、「完全人間」を体現した存在です。
中でもムハンマドは特別な存在であり、地上のムハンマドの前に、宇宙論的な存在としての「ムハンマド的真実性(ムハンマド的光)」があります。
「ムハンマド的光」は、「恒常原型」であり、あらゆる原型を統合する原理とされます。

「完全人間」は、神から知識を得る「聖者性」、天使から啓示を受ける「預言者性」、法を与える「使徒性」の3つを持ちます。
この中でも、「聖者性」が最も包括的なものであり、これは「神名」の一つでもあります。
それに対して、「預言者性」、「使徒性」は歴史的存在です。

また、これら3つには、それを「封印」する人間がいます。
もちろんイスラム教では、預言者を封印したのは、ムハンマドです。

ですが、アラビーは、ムハンマドが聖者性の封印であり、先天的に聖者性を持つ存在でもあったのですが、それを現さなかったと考えました。
そして、アラビー自身が、聖者性を封印するメシアであると、「マッカ啓示」で書いています。


<存在一性論>

ギリシャ哲学では世界を「素材」と「形・性質」の観点から考えましたが、イスラム哲学ではイブン・スィーナー以降、「存在」と「本質」の観点から考えました。
「本質」は「…である」と表現されるもので、形相・性質をより広い観点で意味し、「存在」は「…がある」と表現されるもので、「あるということ」を意味します。

この区別は人間の思考によって生まれる概念的な区別だと考えられたのですが、では、人間の思考以前の実在をも指すのは「存在」と「本質」のどちらだろうか?
これがイスラム哲学と西洋のスコラ学で大問題となりました。
だたし、西洋スコラ学ではイブン・ルシド経由で「存在」と「本質」の区別は、最初から実在的な区別だと誤解されて伝わりました。

スフラワルディーを含む多数派は「本質」が実在的だとしたのに対して、イブン・アラビーは「存在」を実在的なものと考えました。
「存在」は絶対的一性である神であって、また、様々に限定されて本質を伴う現われの実質なのです。

例えば「花が存在する」という文章があれば、普通、主語の「花」は「本質」で、述語の「存在する」は「花」のあり方を限定する偶然的な性質です。

ですが、イブン・アラビーは「存在」を重視するので、「存在」だけが常に主語になるべきだと考えました。
つまり、「花が存在する」ではなく、「存在が花する」という表現の方が正しいのです。

一切を一なる「存在」が多様化する諸段階と考えるイブン・アラビーの思想は「存在一性論」と呼ばれ、現在のイランの正統派の哲学となっています。

一見、スフラワルディーとイブン・アラビーの思想は反対のようですが、スフラワルディーの「光」をイブン・アラビーの「存在」に置き換えると、2人の思想はほとんど同じ構造を持ったものになります。
ですから、イブン・アラビーの「存在一性論」はすぐにフラワルディーの「照明学」と結びつけられて継承されていきました。

特に、17世紀ペルシャのサファビー朝期には、「サファビー朝ルネッサンス」と呼ばれるようにイスラム独特の文化が栄え、神智学も発展しました。
その代表的な神智学者はイスファハーン学派のミール・ダーマード(本質重視派)やその弟子のモッラー・サドラー(存在重視派)らです。
その後も、19世紀のサブザワーリーといった神智学者によって継承・発展させられ、現在に至る生きた思想となっています。


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