托鉢修道院とスコラ学 - スコラ学を捨てたトマス・アクィナス [中世ユダヤ&キリスト教]

もともと、修道院は都市から離れて山間で隠遁生活を行う場所でした。
ですが、多くの異端が生まれた都市部で、正統説を説教して異端派を改宗させるための存在として新しいタイプの教皇直属の修道院が生まれました。
これは「托鉢修道院」、あるいは「説教修道院」と呼ばれます。
具体的にはドミニコ会とフランチェスコ会です。

托鉢修道院は異端に対抗するために異端同様の清貧さを重視しました。
ですが、これ自体が異端視の危険を持っていたのです。
カトリック教皇は、托鉢修道院の清貧さを認めつつ、それが過度にならないように制限し、これに反発したフランチェスコ会の厳格派に対して異端宣告をしました。


また、托鉢修道僧達は1200年に生まれたパリ大学の教師職を独占しました。
彼らは神学や哲学のスペシャリストとなり、一方で異端を恐れない革新的な新思想を担うと共に、他方で異端審問官を勤めました。

13Cにはトレド発のイスラム哲学の翻訳運動が進展して、本格的にイブン・ルシド(アヴェイロス)主義、アリストテレス主義が輸入され、スコラ学的方法が発展します。
ですが、1210年以来、アリストテレスの著作は次々と禁書にされました。
しかし、パリ大学これに屈せずに1255年には人文科を実質的にアリストテレスを中心とした哲学科としました。

すでに紹介したように、旧約聖書とアリストテレス哲学(アヴェイロス主義)には矛盾があって、これがイスラム哲学で問題とされました。
西欧の哲学や神学で問題とされた矛盾は次の2点です。

アヴェイロスによれば、世界は始まりも終わりもなく、個々人の霊魂の最高の部分である能動的知性(アリストテレスの言う「一切をなす知性」)は個人を越えた単一なる存在です。
ですが、キリスト教では世界は始まりのある有限の存在で、霊魂は個的な多数ある存在です。

この矛盾に対して、アリストテレス哲学を否定する立場、キリスト教に矛盾しない範囲で認める立場、宗教と哲学は立場が違うとして2つの真理を共に認める立場がありました。

13Cのフランチェスコ会の代表的な神学者であるボナヴェントゥラは、新プラトン主義的な神学の立場からアリストテレスを否定しました。
彼は偽ディオニシオスが存在をその階層に応じた受容能力によって神の似像となると考えたこと、また、アヴィセンアが魂を宇宙や霊的知性界の全体を映す鏡だと考えたこと、この2つの思想を統合しました。
そして、人間の霊を階層を映す鏡にして階層を見る目差し、人間の魂をすべてを互いに表現する教会的存在と考えました。


一方、中世のキリスト教神学、スコラ学を代表する思想家は、ボナヴェントゥラと同時期にパリ大学で教えていたドミニコ会のトマス・アクィナスです。
彼は、アリストテレスが「一切をなす知性」を一なる存在とは言っていないことを突き止め、また、世界の永遠性については、理性の範囲を越えたものとして聖書の啓示を優先しました。
トマスのアリストテレス主義は最初は異端とされましたが、彼の死後、正統説として認められるようになりました。

ですが、トマスの、そしてスコラ学の主著である『神学大全』は実は未完なのです。
トマスは『神学大全』を執筆中の1273年のある日のミサの時、神秘体験を経験しました。
そしてその後、彼は一切の執筆も教授も絶ったのです。

彼は秘書に「たいへんなものを見てしまった。それに比べれば私のこれまでに書いたものはワラクズのように思われる」と述べました。
つまり、キリスト教最大の神学者であるトマスは、ただ一度の神秘体験によって神学の価値を否定して沈黙を通したのです。 


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