グレゴリオス・パラマス [中世ユダヤ&キリスト教]

ギリシャ正教(東方教会)では、アトスなどの修道院で、神を祈る中で光として現れる神との一体化する伝統が認められていました。
これを理論的に正当化したのが、グレゴリオス・パラマスです。

ギリシャ正教ではこの神との一体化を「人間神化(テオーシス)」と呼び、修道士が目指す人間の完成です。
人間神化にいたる祈りの修行法やその思想は「ヘシュカズム」と呼ばれます。
身体をまるめてへそを凝視し、意識は心臓の当たりに置きながら、「主イエス・キリスト、神の子よ、僕を憐れみたまえ」という祈りの言葉を繰り返し唱え、光として現れる神に触れ、一体化するというものです。

基本的に、キリスト教では、人は神に直接に触れることができないとし、人間の魂と神との間に断絶を認め、これを「神の闇」と表現します。
ローマ・カトリックでは「人間神化」は不可能であって、終末の神の国での至福こそが目標なのです。


グレゴリオス・パラマスは、ビザンチン帝国の末期の1296(もしくは1297)年に、コンスタンチノープルに生まれました。
彼は、アリストテレスなどを勉強した後、二十歳の頃に修道生活に入り、アトス山にて20年間、「ヘシュカズム」の実践に潜心しました。
1326年には、テサロニケで司祭になります。

その後、カトリックの国、イタリアからやってきたパルラアムが、「ヘシュカズム」を批判したため、パラマスは論争を行ないました。

パラマスは、人間が触れることができない神の「本質(ウーシア)」と、触れることができる神の「働き(エネルゲイア)」を区別しました。
ギリシャ正教はこれを認め、1347年に、パラマスは大主教となりました。


パラマスによれば、神の「ウーシア(本質)」は、人間が分有できないもので、「エネルゲイア(働き)」の原因です。

一方、「エネルゲイア」は、人間が分有できるもので、神の恵み、愛の流出です。
予知、意志、存在、光、真理、生命、不死、単純性、神性、無限…などの、神の属性であって、神の名であり、神と被造物をつなぐ働きです。

「ウーシア」と「エネルゲイア」は、太陽と太陽光のように、区別することができない一体のものです。

「エネルゲイア」は、神の実体(ヒュポスタシス)である「父」と「子」と「聖霊」に共通して存在しますが、人は「聖霊」を通してそれに触れることができます。
ギリシャ正教においては、「聖霊」は「父」なる神が直接に発する、「子」なる神と同格の存在です。

パラマスの「エネルゲイア」は、アリストテレスの「エネルゲイア(現実態)」の影響は受けていません。
パラマス自身は、擬ディオニュシオスを論拠としますが、擬ディオニュシオスは、パラマスのような区別を語っていません。


パラマスによれば、ヘシュカズムは、「肯定神学」です。
彼は、「否定神学」は言葉であり、言葉を超えるものを観想するのがヘシュカズムだと言います。

「エネルゲイア」は、神の「光」として体験されます。
ギリシャ正教では、福音書に記された、イエス・キリストがタボル山で弟子たちに白く光り輝く姿を示したことを、人間神化のモデルとして重視します。

パラマスによれば、「光」を見る「人間神化」は、知的な認識ではなく、「霊的感覚」であり、「テオリア(観照)」です。

祈りによってヌース(知性)を聖霊の恵みに結び付けます。
人間の魂が能動的な認識を捨て、受動的に「聖霊」としての神の「恩寵」=「照明」を受け入れ、神の似姿に作り直されるのだとされます。

ちなみに、カトリックでは、神秘的合一を、子なる「キリスト」=「ロゴス」を受け入れるとする点が異なります。


パルラアムは、アトスの修行の断食や屈拝は、触覚を強化すると批判しました。
しかし、パラマスは、修道士の行う実践が、ヌースから魂の情念の暗さを払拭し、清めることで、ヌースは聖霊の恵みに一致し、聖霊によって見ると反論しました。

パラマスは、人間の身体性を否定しません。

「精神から身体へ来る霊的な喜びは身体と関わっても、それ自体劣ったものとならず、身体を変容して、霊的なものとなし、肉の悪しき欲望を拒絶し、魂を引き下げないで、ともに引き上げ、…人間は全体として霊となる」

「霊を肉に釘付けしないで、肉を霊の尊厳の近くまで引き上げ、上に向かせ、同意させる幸いな情念、魂と身体に共通なエネルゲイアがある」

彼は、霊的なものが、身体を霊的なものに変容させると考えました。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。