ブラヴァツキー夫人と神智学協会の歴史 [近代神智学・人智学]

1848年にニューヨークのフォックス姉妹が死者の霊と交流できると主張したハイズヴィル事件をきっかけとして、19C後半の欧米を「スピリチュアリズム(心霊主義)」が席巻しました。
これは、霊媒による降霊術によって、死後の世界や霊魂について研究しようという運動です。

「スピリチュアリズム」の降霊は普通の死者の霊魂を対象としたもので、直接的には宗教性は希薄で、神秘主義的傾向もありませんでした。
ですが、一部では、「スピリチュアリズム」の出身者が、神秘主義思想に傾倒していくという傾向がありました。
ブラヴァツキー夫人の神智学協会も、その一つです。

神智学協会の思想は、当時の欧米人が知りえた秘教のすべてを総合しようとしたもので、近代における神智学の一大総合でした。
そして、多数の分派(シュタイナーの人智学、アリス・ベイリーなど)を生み出し、それ以降の神秘主義思想や、ポップオカルトにも絶大な影響を与えました。

また、宗教関係者以外でも、例えば、ダーウィンと並ぶ進化論の提唱者アルフレッド・ウォレス、発明家のエジソン、野球の発案者のアブナー・ダブルディー、画家のカンディンスキー、チリのノーベル文学賞受賞詩人のガブリエラ・ミストラルらも協会員として知られています。
日本では、鈴木大拙とその妻のビアトリスは協会員で、京都の自宅をロッジにしていました。
ビアトリスと、バハーイ教徒(ミトラ教の流れにあるシーア派系宗教)だった彼女の母は、神智学の日本への導入に大きな役割を果たしました。

「神智学」という言葉は、一般名詞では、神的なものを対象とする学を意味します。
固有名詞としての「(近・現代)神智学」は、広義では、ブラヴァツキー夫人の神智学協会とその分派、及び、影響を受けて同調した潮流の思想を指します。
シャンバラのマスター達から伝えられた思想という意味で、「トランスヒマヤラ・エソテリシズム」と呼ばれることもあります。

より狭義には、神智学協会の思想を指します。
最も狭義には、ブラヴァツキー夫人のいた時の神智学協会とそれを厳格に継承する思想を指し、アニー・ベザントとリードビーターのアディヤール派の思想は「新神智学」と呼んで区別することもあります。

この項では、まず、神智学協会と関連潮流の歴史について、ブラヴァツキー夫人が亡くなるまでを概説します。


<神智学協会の設立>

神智学協会の設立者の一人、ブラヴァツキー夫人(1831-1891)は、ヘレナ・ペトロヴナ・フォン・ハーンとして、ウクライナの名家-父はドイツ系貴族、母はロシア系貴族-に生まれました。

彼女は、官吏のブラヴァツキー将軍と結婚しましたが、すぐに家を出ました。
その後、ヨーロッパや世界各地を転々としたようですが、その足取りははっきりしません。
伝記が出版されていますが、その記述は信頼できません。

他人の証言がある経歴を書けば、有名な霊媒のD・D・ヒュームの助手をしたようです。
また、1850年にはカイロで心霊協会を設立しましたが、雇っていた霊媒のトリックがばれて潰れたようです。

自伝によれば、1851年にロンドンでモリヤ大師(チベットに住むというマスター)に出会い、神智学協会の設立の命を受けたとされますが、これは信じられません。
また、1856年から7年間、霊体でチベットに滞在しイニシエーションを受けたとされますが、これもほとんどありえない話です。

神智学協会設立のもう一人の主役、H・S・オルコット大佐(1832-1907)は、法律家で、ジャーナリストとして霊媒の取材をしている時、ブラヴァツキー夫人と出会いました。
そして、オルコットは、霊媒としてのブラヴァツキー夫人と一緒に活動を始めました。

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*ブラヴァツキー夫人、オルコット

ブラヴァツキー夫人は、最初、霊媒がトリックを行っているという批判に対する反駁記事を書いていましたし、彼女が「スピリチュアリズム」のシーンから出てきたことは間違いありません。
ですが、やがて転向し、「スピリチュアリズム」の批判側に回りました。
その批判の仕方は、降霊で降りる霊魂は本当の霊魂ではなく、アストラル体の屍にすぎない、というエリファス・レヴィと同じ神智学的な論理によってです。

1875年3月、エジプトの「ルクソール同胞会」という結社のマスターから、オルコット宛に手紙が届きました。
その内容は、入団を許可することと、ブラヴァツキー夫人を援助せよ、ということでした。
この手紙は、ブラヴァツキー夫人がテレパシー的に受信したものとされますが、彼女が架空のマスターからの手書を創作した最初(?)の事件です。

架空の不可視のマスターは、西洋神秘主義の歴史では、薔薇十字団由来のアイディアですが、ブラヴァツキー夫人にはブルワー・リットンの小説の影響も指摘されています。

7月にブラヴァツキー夫人は、雑誌「心霊科学者」に寄稿しますが、これはカバラと薔薇十字主義を扱った内容で、彼女の神秘主義への転向は明確になります。

9月、夫人とオルコットの二人は、エジプト秘儀やカバラの研究家G・H・フェルトを招いて、「エジプト人が用いた比率に関する失われた正典」のテーマで講演を行いました。
その時、観客からその法則を用いて4大の霊を呼び出せることができるのかという質問があり、フェルトができると答えました。
オルコットは、その場でそれを研究する団体を設立しようと提案しました。
魔術的な降霊を調査することが目的の会だったわけです。
ですが、フェルトは、もらった準備金を持ってロンドンに逃亡してしまいます。

しかし、二人は会の設立をやめませんでした。
会の目的を、「宇宙を統治する法則についての知識を収取して広める」に変更して、「神智学協会」と命名しました。
場所はニューヨーク、会長はオルコット、通信書記がブラヴァツキー夫人です。

創設時の主要メンバーには、薔薇十字主義などオカルティズムに詳しく、英国薔薇十字会のメンバーで、高位メーソンでもある社会主義者のチャールズ・サザラン、弁護士のW・Q・ジャッジ、医療家で、新プラトン主義の研究家で、オカルティズムの文献復刻の編集を行っていたアレクサンダー・ワイルダー、オカルティズムに傾倒する霊媒のエマ・ハーディング=ブリテンらがいます。

サザランは、「神智学協会」の命名発案者であり、ブラヴァツキー夫人に様々なオカルト文献を教えた人物だと推測されます。
また、エマが霊的存在の代筆だと主張して1876年に出版した「魔法術」は、その後ブラヴァツキー夫人が出版した「アイシス・アンヴェイルド」と、アイディアや出典が重なる部分があります。

ですが、「スピリチュアリズム」の影響は、協会の内外で強く、ブラヴァツキーが「スピリチュアリズム」の批判をしたため、1876年の末には、協会の活動はほとんど停止してしまいました。

そのため、オルコットは協会の改革のため、フリーメーソン的な位階システムの導入を検討するようになりました。
ブラヴァツキー夫人も、高位メーソンであるサザランの仲介で、メーソンのインド系サット・ブハイ儀礼、エジプト系メンフィス・ミズライム儀礼の位階を取得しました。

1877年、ブラヴァツキー夫人は、最初の大著、「アイシス・アンヴェイルド(ヴェールを脱いだイシス、顕現せるイシス)」を出版します。
この書は2巻本です。
第1巻の「科学」篇は、近代科学批判と魔術を、第2巻の「神学」篇は、キリスト教以前の古代宗教をテーマにしたものです。

その内容は、雑多な事項を扱い、難解な表現で、脈絡を理解することも困難です。
ですが、エリファス・レヴィの「秘められた伝統」を継承していて、諸宗教、諸秘教文書の基盤には、太古の一つの智慧(秘密教義)があり、それはインドに発している、という後の主著「シークレット・ドクトリン」に継承される主張があります。
彼女の言う「インド」は古代のインドであり、ペルシャ、イラン、チベット、モンゴル、タタールを含む地域です。

この書は一部で評判になりましたが、協会の会員の増加にはつながりませんでした。


<インドのボンベイからアディヤールへ>

1877年、オルコットはインドの団体、「アーリア・サマージ」を知り、その代表のスワミ・ダヤーナンダ・サラスバティに手紙を出して提携関係を結びました。
そして、協会の名称も「アーリア・サマージの神智学協会」としました。

サラスワディは、「原初の永遠の宗教」を信じていて、神智学協会と方向性が一致すると考えたためです。
当時のヨーロッパの神秘主義思想家の間には、アーリア人の原初の宗教を人間の文化の根源と考える潮流(アーリアン学説)があり、ブラヴァツキー夫人とオルコットの二人も、インドに興味を持っていました。

1878年に、二人はロンドンに渡って支部を結成した後、1879年に、インドのボンベイに渡りました。
そして、9月には、機関誌「神智学の徒」を刊行します。

しかし、アーリア・サマージに神秘主義的志向が希薄であると判断し、関係を断つことにしました。
ですが、二人は、サラスバティからヨガを教わり、また、古代バラモンの書がヒマラヤの地下の洞窟に保管されていると聞かされたようです。

そして、1880年、2人はセイロンで仏教徒に改宗し、セイロンに7つの協会支部を設立します。
2人は、仏教がインドの太古の秘密教義を継承した智恵の宗教だと考えていたようです。

当時のセイロンの国教はキリスト教であり、その後、二人は仏教復興運動を展開し、多数の学校の運営なども行うようになりました。
特にオルコットは、その後もセイロンや仏教に関する運動を熱心に続けました。
オルコットは、1889年と91年に来日しましたが、それは大乗仏教と小乗仏教を統合しようという目的を持っての来日でした。


ブラヴァツキー夫人の周辺には、様々な奇跡(突然ベルの音が鳴る、薔薇の花が舞い落ちるなどなど…)が起こり、チベットのモリヤ大師からオルコットに指令の手紙が届くようになりました。
「大師(マスター、マハトマ、アデプトなどと称される)」とは、ゴビ砂漠の地下にあるシャンバラに本部を置く、神聖な同胞団のメンバーであり、彼らが太古から人類の霊的進化を助けてきたとされます。

また、協会にはインド英字紙の編集人であり、大物であるA・P・シネットが参加しました。

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*シネット

シネットはブラヴァツキー夫人にマスターへの手紙を依頼し、クート・フーミ大師からの返事とされる手紙をもらいました。
彼は哲学的なことに興味があったため、彼の質問はブラヴァツキー夫人に神智学の教義を書かせることにつながったのでしょう。

シネットはマスターからの手紙をもとにして、1881年に「オカルト・ワールド」、1883年に「エソテリック・ブッディズム」を出版し、神智学協会の思想を発表しました。
「エソテリック・ブッディズム」には、後に「シークレット・ドクトリン」で説かれるような、宇宙・人類発生論も説かれています。
ブラヴァツキー夫人は、この書の「ブッディズム」という言葉の意味を、「仏教」ではなくて、「智恵(ボディ)の教え」だと書いています。

ブラヴァツキー夫人と神智学協会は、バラモン哲学、ヒンドゥー教、仏教の思想、用語を大きく取り入れていきました。
以前の彼女らの思想は、西洋神秘主義の潮流の流行を追ったものでしたが、これ以降、その潮流の先端に躍り出て、新しい潮流を生み出すものへと進化していきました。

その一方で、協会が1878年から82年までボンベイにあった期間には、協会には多数のパルシー教徒(インド・ゾロアスター教徒)が入会しました。
彼らの中には、秘教派(ズルワン・ミトラ系のヤズダン教や孔雀派の影響を受けた者)がいて、彼らを通して、イラン・カルデア系の秘教の教えが、ブラヴァツキー夫人や神智学協会にもたらされました。
実は、夫人と協会の思想の核心には、インド思想同様に、イラン・カルデア系の思想があると言っても過言ではありません。

しかし、1882年、神智学協会は、マドラス近郊のアディヤールに本部を移します。
この移転によって、パルシーとの人的関係は薄れました。

夫人と協会は、イラン・カルデアの秘教の影響を大きく受けていながら、それを表に出しませんでした。
それは、二人が、インドをアーリア人の故郷であると考えていたことと、ボンベイのパルシー教徒との関係が薄れたことが原因でしょう。


1884年、ブラヴァツキー夫人に近い協会内部のメンバーが、夫人がトリックを使っていると告発しました。
1885年には、英国心霊研究協会がこれを調査して夫人の詐欺を認定し、神智学協会とブラヴァツキー夫人の信頼は大きく傷つきました。

オルコットは夫人に大師やトリックを使うことをやめるように諭して、二人は不仲になります。
夫人は役職を辞さざるをえなくなり、インドを離れて、ドイツ、ベルギーを経てロンドンへ移住することになりました。


<ロンドンへ>

1884年、ブラヴァツキー夫人がロンドンに移住してきた時、イギリス支部長は、神秘主義的なキリスト教界でカリスマ的存在だったアンナ・キングスフォード(1846-1888)でした。
彼女は、動物実験反対運動家、そして、幻視家としても有名でした。
ですが、キリスト教徒である彼女は、ブラヴァツキー夫人と対立し、翌年に脱退し、ゴールデンドーン設立者のマグレガー・メイザースらの協力のもと、「ヘルメス協会」を設立しました。

神智学協会とその周辺の運動は、ブラヴァツキー夫人やアンナ・キングスフォードをはじめ個性が強い大物の女性の神秘家が多数登場して牽引したところに特徴があります。
オルコットの後のインドの神智学協会を継いだアニー・ベザント、アメリカの神智学協会を独自な方向に主導したキャサリン・ティングリー、そして、神智学の後継的な教義を作ったアリス・ベイリー、シャンバラの捜索旅行をしたエレナ・レーリヒらです。

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*A・キングスフォード、A・ベザント、C・ティングリー、A・ベイリー

ロンドンに移住したブラヴァツキー夫人は、1885年、機関誌「ルシファー」を発刊し、その場を使いながら教義の発展を企てます。
また、1887年には彼女のロッジを開設し、その中に「エソテリック・セクション(ES)」を設置しました。

ブラヴァツキー夫人は、ESの会員に向けた文書で、「秘教部門の段階は見習いの段階であって、その一般的目的は実践的オカルティズム、すなわちラージャ・ヨガを学ぶために、学徒に準備させ、能力をつけることである」と書き、「パヴァガット・ギータ」や「ヨガ・スートラ」を推薦図書としています。
神智学の瞑想の理論は、「ヨガ・スートラ」によっていたようです。

また、スキャンダルを通して混乱してしまった協会に対して、「秘教部門は、全協会の救済のために取って置かれたもの」と書いています。
そして、メンバーは「人格を全く放棄」して、「同胞愛的結合を増進することにより、神智学協会全体の未来の成長を正しい方向に向けるように助けることが、この部門の目的である」と書いています。

ロンドンのブラヴァツキー夫人のロッジに参加した重要人物には、グノーシス主義やミトラス教などの古代宗教の研究家のジョージ・ロバート・ストーウ・ミード(1863-1933)がいます。
彼は、神智学協会のヨーロッパ支部の総長、そして、ESの共同秘書になり、機関誌「ルシファー」でも多数の論文、翻訳(「ヨハネの秘密の書」、「ヘルメス文書」、「スピティス・ソフィア」など)を執筆しました。
彼は、ブラヴァツキー夫人の教義上のアドバイザーだったと思われ、「シークレット・ドクトリン」の影の著者と言われることもあります。

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*ミード

1888年、ブラヴァツキー夫人は、主著にして近代オカルティズム最大の聖典「シークレット・ドクトリン」を出版します。
彼女によれば、これは聖職者用の秘密の言葉「センザル語」で書かれた最古の聖典「ヅヤーンの書」の抜粋した翻訳、解説、注釈という形式の書です。
「ヅヤーン」という言葉は、サンスクリットの「ジュニャーナ」に当たる言葉で、「智恵」を意味するのだそうです。

この書の内容は、隠された原初の智慧の教え、つまり「秘密教義」の抜粋だとされ、この書によって、ブラヴァツキー夫人と神智学協会の思想が確立されました。
と同時に、原初の言葉と原初の教え、そして、それを伝える経典とマスターという、疑惑の4点セットが揃うことになりました。

「アイシス・アンヴェイルド」は、「秘密教義」から枝分かれして伝えられた各地の思想を扱ったのに対して、「シークレット・ドクトリン」は、大本の「秘密教義」そのものを扱っているのです。

「シークレット・ドクトリン」は2巻の構成で、第1巻は「宇宙発生論」、第2巻は「人類発生論」を扱っています。

さらに、第3巻、第4巻がほとんどできていて、第3巻はアデプト達の伝記に示されているオカルティズムの歴史を扱い、第4巻はありのままの生活及び理想的生活をしていく上へのオカルト哲学の影響を扱うと、予告されました。
しかし、これらは出版されることなく終わり、原稿も発見されていません。
後に第3巻がアニー・ベザントの編集で出版されましたが、これはブラヴァツキー夫人が告知していた内容とは異なる、彼女の遺稿集です。

「シークレット・ドクトリン」の実際の内容は、バラモンのヴェーダーンタ哲学、ヒンドゥー教のプラーナ文献、イラン・カルデア系のズルワン・ミトラ教神智学、カバラ、新プラトン主義、さらには、アーリアン学説やファーブル・ドリヴェらの空想的人類史などを総合し、周期的・流出的・階層的宇宙論と、進化論、転生とカルマの法則などを結び付けたものです。
そして、下降(創造)と上昇(進化)を、宇宙全体から惑星、大陸、人種にまで適用して語りました。

また、同年に出版された「神智学の鍵」では、神智学協会と教義に関してQ&A方式で説明しました。
この書では、協会の基本目的を下記の3点としています。
1 …人類の普遍的同胞団の核を作ること
2 アーリア人及び他の聖典の研究、世界の宗教及び科学の研究を増進すること…
3 …人間に潜在する精神的及び霊的な能力を研究すること

神智学協会には、固有の教義や信仰はなく、会員にそれを問わないとしていて、また、「真理に勝る宗教はない」という言葉を掲げます。
つまり、神智学協会が求める「真理」は、教義や信仰ではないということなのです。

また、ブラヴァツキー夫人は、ダーウィン派の人たちの同胞愛のなさは、唯物論的な体系の欠陥を示していると主張しています。
この書にも、アーリアン学説の影響がありますが、彼女自身が多分、スラブ系の文化の中で育ったこともあってか、彼女の後継者に比べると、人種差別的要素は多くはありません。


同年には、著名なオカルト系作家のW・B・イエイツが「ES」に加入しました。
ですが、90年、なんらかの事情でブラヴァツキー夫人が彼を追い出しました。
イエイツはその後、ゴールデンドーンに参加します。

また、1889年には、フェビアン協会員の著名な社会活動家で無神論者のアニー・ベザント(1847-1933)が、「シークレット・ドクトリン」の書評を書くためにブラヴァツキー夫人に取材をしたことをきっかけとして神智学協会に加わりました。
彼女は、すぐに「ルシファー」副編集長、ブラヴァツキー・ロッジの支部長になり、ブラヴァツキー夫人が亡くなった後には、「ES」の責任者にもなりました。

ですが、1891年、ブラヴァツキー夫人は亡くなります。


*以下、後編「神智学協会アディヤール派と分派の歴史」に続きます。

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