アンリ・ベルクソンと神秘主義 [近代その他]

アンリ・ベルクソン(1859-1941)は、一般に、「生の哲学」とカテゴライズされる潮流に属する、フランスの大哲学者で、「生命の飛躍(エラン・ヴィタル)」の概念が有名です。

ですが、彼が作った「持続」、「強度」、「異質多様性」、「潜在性」などの独特の概念は、ジル・ドゥルーズが引き継いだように、ベルグソンは真に現代的な存在論・形而上学を切り開いた哲学者として、再評価されています。

また、あまり知られていませんが、ベルグソンは、神秘家を「持続」や「エラン・ヴィタル」を体現した存在、人間が人間を越える存在になることを導く英雄、と捉えて評価しました。
ですから、ベルクソン哲学による神秘主義の解釈は、現代的な神秘主義を考える上で重要です。

ちなみに、彼の妹のミナ・ベルクソンは、儀式魔術結社ゴールデン・ドーンの首領であるマグレガー・メイザースの妻モイナ・メイザースであり、美術的才能を持つ、ドールデン・ドーンの主要な魔術師でした。


<「二源泉」における神秘家>

「道徳と宗教の二源泉」(1932)は、ベルクソンの最後の著作であり、彼の哲学の集大成となるものです。
この書で、彼は、「閉じた社会」とその「静的宗教」、「開かれた社会」とその「動的宗教」を区別し、後者を評価しました。
「動的宗教」とは、ほぼ、神秘主義のこと、あるいは、神秘家によって活力を取り戻された宗教のことです。

ベルクソンは、「静的宗教」を、「社会を解体させるものに対する防御的反作用」、「規律を与える」、「個人を社会に執着させる」などと表現しています。
それに対して、「動的宗教」を、「魂の高揚」、「歓喜の中の歓喜」、「ただ愛だけであるものへの愛」などと表現しました。

また、ベルクソンは、「真の神秘主義」、「完全な神秘主義」と、そうではない神秘主義を分けています。
「真の神秘主義」は、「行動」、「創造」、「愛」、「意志」、「意欲」を持つ神秘主義であって、そうでない神秘主義は、単に、観照・瞑想するだけの、生命力に欠ける神秘主義です。

そして、「真の神秘主義」は、具体的には、聖パウロ、聖カテリナ、聖テレサ、聖フランチェスコなどのキリスト教神秘主義であると書いています。

それに対して、ギリシャ神秘主義は、観照主義であって、行動や意志を欠くのです。
また、仏教は、生存意欲の滅却を特徴とし、全的な献身を知らないとして評価しません。
そして、ラーマクリシュナやヴィヴェーカーナンダは、全的な献身を知っているけれど、それはキリスト教の影響を受けたからだと書いています。

また、ベルクソンは、神秘主義、神秘家について、
「偉大な神秘家とは、種に、その物質性によって指定されている限界を飛び越え、このようにして神的活動を続け、それを発展させるような個性のことであろう」、
「神秘的天才が一度出現すれば、…彼は人類を新しい種にしようと欲するだろう…」、
と書いています。

つまり、ベルクソンは、神秘家を、人類を別の種にまで進化させる存在であるとして、英雄視しているのです。
彼にとって、「生命」とは、「飛躍的な創造(エラン・ヴィタル)」を持つものであり、神秘家は、それを体現する存在なのです。

では、ベルクソンにとって、どういう体験が神秘体験ものなのでしょうか。
それを理解するためには、彼の哲学を理解する必要があります。
以下、ドゥルーズの解釈を参考にしつつ、神秘主義解釈と関係しそうな部分を、なるだけ簡単に説明します。


<「試論」における持続と直観>

ベルクソンは最初の著作、「意識に直接与えられたものについての試論」(1889)で、彼の哲学の基本となる概念、「持続」について語っています。

ベルクソンには、「物質」と「精神」の独特の二元論の考え方があります。
「物質」の特徴は、「空間」的観点から「延長」と表現され、「精神」の特徴は、「時間」的観点から「持続」と表現されます。

精神的な存在に対して「持続」という時間的な言葉を使った背景には、人間は、知覚・刺激に対して、直ちに予測可能な自動的な反応をするのではなく、精神的要素(情動や記憶)による時間的な遅滞を経て、不確定な行動をするという見方があります。

「持続」というのは、非常に分かりにくい表現ですが、彼は、「持続」の本質を「異質多様性」と表現しています。
これは、分かりやすく言うと、質的に生成変化し続ける、「明確な輪郭を持たない」、「錯雑」で「稠密」な「集塊」のことです。

また、情動などの「精神」の大きさの度合いを「強度」と表現しますが、これは、多くの心理的諸要素が「相互浸透」している度合いであるとします。
「強度」は、「精神」の本質的性質です。
この相互浸透は、「時間」的観点からも言えることで、生成変化する「諸瞬間が互いに浸透し合う」状態です。

つまり、「精神」は、特定の性質を保持する、不変で、固定的で、個別的なものではなく、生成変化し続け、相互浸透し合う存在なのです。
ベルグソンは、「精神」のそのあり方を「持続」と表現したのです。

ベルクソンは、「持続」を対象とする認識を「直観」であると言います。
つまり、「直観」とは、単なる「表象」のような静的なものを対象とするのではなく、動的で錯綜した「持続」を対象とする認識を指すのです。

また、ベルクソンは、「物質」、あるいは、物質に近い単純な心理を、「自動運動」する存在であるとします。
それに対して、「持続」である「精神」は、「自由」なのです。

・物質=延長:自動運動
・精神=持続:自由、直観、強度


以上のように、ベルクソンは、神秘体験を、「持続」を「直観」する体験であり、「自由」を生むものと理解しました。
つまりは、「霊的存在」(「spirit」は「精神」とも「霊」とも訳せます)とは「持続」であり、「叡智」とは「持続」を対象とする「直観」であり、動的で生成的なものなのです。


<「物質と記憶」における意識論>

ベルクソンは、難解なことで有名な主著、「物質と記憶」(1896)で、分かりやすく言えばですが、意識の深層と表層の違いを、心理学的、形而上学的に理論化しました。

「試論」では、「精神」と「物質」の二元論を展開しましたが、「物質と記憶」では、「精神」と「物質」は程度の違いとされます。
そして、日常的な表層の意識は、「物質」に近いものだとされます。

つまり、「精神」には、「純粋持続」である「精神」的特徴が強い極と、外界に接して「知覚」し、「行動」する、「物質」と言って良いような極があるのです。

表層の「知覚」は、「イマージュ」と表現される固定的・個別的な表象でなされますが、この「イマージュ」は物質的存在で、外界や身体と区別されず、外界の対象物の場所にあるとされます。

「イマージュ」を物質的存在として使い、それが外部にあると考えたのは、観念論や実在論を避け、見たままを受け取って哲学化するというベルグソンの特徴があります。

表層は、外界に接して、現在の意識を構成し、「自動運動」で行動をする状態の精神です。
一方、深層は、過去の無数の「記憶」が、相互浸透し、常に全体で生成変化しながら働いている状態の精神です。

ベルクソンは、「表層意識」という表現は使っていないのですが、それを単に「意識」と表現することはあります。
同様に、「深層意識」という表現も使っていませんが、それを「深み」といった比喩で表現したり、「無意識」と表現することはあります。
ちなみに、ベルクソンの影響を受けたメルロー・ポンティは、これを「奥行き」表現し、ドゥルーズも「奥行き」という表現を継承しました。

ベルクソンは、「純粋記憶」と「純粋知覚」の二極の関係を、「強度」の度合いの違いであるとしました。
つまり、「精神(持続)」と「物質(延長)」の二元論が、「強度」の異なる「持続」の一元論に統合された、とも言えます。

ベルクソンは、認識し、知覚する時、対象(物質)と精神が、回路を作ると言います。
外界の「知覚」は「記憶」を呼び起こし、「記憶」が「知覚」に重なる、という回路が作られるのです。
そして、この回路を、何度も新しく拡張していくことで、意味の豊かさが生まれ、存在の深層を認識できるのだと言います。

そのため、観念や記憶されたイマージュは、「純粋記憶」と「純粋知覚」の間を運動します。

ベルクソンは、下のような図式を使います。

bergson_ensui.jpg

Pは外界である物質、円錐が人間の精神です。
そして、頂点Sが現在である「純粋知覚」、底面ABが過去である「純粋持続(記憶)」です。

・AB:無意識(深み):記憶
・S :意識     :知覚

ベルクソンは、深層(AB)の「純粋記憶」の状態の「記憶イマージュ」が、表層(S)の「知覚イマージュ」になる運動を「収縮(濃縮、集中、結晶)」、その逆の運動を「膨張(弛緩、分散)」と表現します。
あるいは、前者を「活動化(現実化)」、後者を「潜在化」とも表現します。

つまり、「膨張」、「潜在化」は、深層化、強度化、錯綜化であり、「収縮」、「活動化」は、表層化、固定化、個別化です。

・↓:収縮・現実化
・↑:膨張・潜在化

これを神秘主義の問題、用語と結びつければ、「叡智(イデア)」的認識は、「持続(純粋記憶)」、「潜在性」への「膨張」であり、「叡智的存在」による創造は、「持続(純粋記憶)」からの「収縮」、「現実化」です。

ベルクソンにとっては、普遍概念は単に表層的存在であり、深層にある「叡智的存在(イデア)」は、錯綜した強度ある存在です。

「叡智」的認識が「記憶」であるというのは、プラトンが「叡智」を「想起(魂がかつていた霊界を思い出すこと)」と表現したことと似ています。


<「創造的進化」における人間論>

ベルクソンは、「創造的進化」(1907)で、「持続」を本質とする「生命」は、「物質」の中に入って、進化をしながら、それ自身の本来の性質を発現するものであるという考えを述べています。
そして、生命は人間の「意識」において、その「持続」としての本質を十分に発現し、「自由」になったのです。

この考え方は、近代神智学や人智学の神秘主義的な進化観と似ています。
先に書いたように、「持続」は、神秘主義の「霊」を解釈した表現といっても良い概念ですから。

ベルグソンは、進化は、「分化」によってなされると考えます。
「持続」としての生命は、まず、植物と動物に分化します。
動物は、本能的動物と知性的動物(人間)に分化します。
そして、人間に至って、「持続」の本来の「強度」が発現されるのです。

ただ、分化といっても、それは「持続」なので、互いに他の性質を少しは持っています。
これは、神秘主義の「万物照応」の考え方に結びつけて考えることもできるでしょう。

また、ベルクソンは、「持続と同時性」(1922)で、個々の種、個々の個体の「持続」は、孤立したものではなく、全体としての「持続」とつながっていると書いています。
この考え方も、神秘主義的です。

最初に述べた神秘家の役割に戻れば、神秘家は、神秘体験という「純粋持続」の体験をすることで、「生命の飛躍(エラン・ヴィタル)」を体現して、「持続」の「強度」を増すように、人類を新しい種へと進化させる、というのが、ベルクソンの考えです。


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