クロウリーとO∴T∴O∴の歴史 [近代魔術]

アレイスター・クロウリーは、魔術結社「黄金の夜明け団(以下GD)」を脱退した後、独自の魔術を追求した人物です。

彼はパートナーを霊媒として、あるいは、自身が変性意識状態となり、霊的存在から様々な書、魔術的知識を受け取りました。
そして、自身を、「ホルスのアイオーン」という父権的道徳から開放された新しい時代の預言者と見なしました。
彼が受け取り、形成した魔術的教義は、「セレマ(テレマ)」と呼ばれます。

また、クロウリーは、「東方聖堂騎士団(以下OTO)」と関係を持ち、その性魔術を取り入れて、発展させました。

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<GD>

クロウリーは有名人で、その生涯もよく知られていますが、当サイトの観点から、限定して紹介します。

アリウスター・クロウリーことエドワード・アレクサンダー・クロウリー(875-1947)は、ビール酒造業を営む裕福な家庭に生まれました。

両親は、ダービー派のアクスクルーシブ・プレスレンという、キリスト教の極端な原理主義的厳格派を信仰していて、クロウリーは、同派の寄宿学校に通いました。
この学校は告げ口を推奨し、嘘でも反駁できないようなところで、クロウリーは校長や母親からは、言われのない疑いと虐待を受けて、体を壊し、退学を余儀なくされました。

クロウリーは、この家庭と宗派への反発心からか、生涯、反キリスト的教な思想を持ち続けたようです。

A・E・ウェイトの書を読んで手紙を書いたことをきっかけに、魔術結社に関心を持ち、1998年に、GDに入団しました。

GDでは、団員達に落胆しましたが、実力者のアラン・ベネットの弟子となりました。
ですが、ベネットは喘息が悪化したため、療養のためにセイロンに移住しました。
ベネットは、神智学協会員で東洋にも関心のあったためですが、彼は後に、仏教の僧院に入りました。

1899年、クロウリーは、ロンドンの団員からその性格を問題視され、アデプタス・マイナーへの昇格を拒否されたため、パリのマサースを頼って、昇格を果たしました。
ですが、マサース派と反マサース派の対立抗争に巻き込まれ、マサースにも失望し、1900年、彼は世界旅行に出かけました。


<法の書とA∴A∴>

クロウリーは、旅行中のメキシコで、エノク魔術によるアイテールの上昇を企て、30番目、29番目の参入に成功しました。

また、セイロンに立ち寄り、ベネットからヨガを習い、「ディヤーナ(8支則の7番目で、集中力を維持する瞑想段階)」に成功しました。
以降、彼は自身の魔術において、ヨガを重視し続けました。

1903年、クロウリーはローズ・ケリーと出会い、結婚して新婚旅行に出ました。
エジプトでの魔術を行っている時、偶然、ローズに霊が降りました。
この霊は、「エイワス」という名で、ホルス神(ホール=パアル=クラアト)の使いであると名乗りました。
クロウリーは、エイワスの声を直接聞けるようになり、「法の書」を授けられました。

この書は、キリスト教などの、人間が奴隷となっていた時代「オシリスのアイオーン」が終わり、人間が神となる新しい時代「ホルスのアイオーン」が来ることを告げるものであり、クロウリーは、その預言者であると理解しました。

この書は、クロウリーの人生を決定づけるもので、彼はこの書の意味を解釈し続けましたが、晩年になっても、完全には理解出来ていないことを認めています。

また、同年の覚書で、「哲学にあっては頑固なまでの唯名論者となった。私は真正な仏教徒の一員と言えば言えるような位置にまで至っていた」と書いています。
道徳的な反キリスト思想が、仏教的な反実体主義の哲学へと拡大されたのでしょうか。

1907年、クロウリーは、ヨガの「サマディー(8支則の最後の、無概念の集中を持続する瞑想段階)」に成功し、これは大きな達成であると考えました。

それもあってか、クロウリーは、自身の結社、「銀の星(Argenteum Astrum、以下A∴A∴)」を設立しました。

この団は、GDのように首領に反対するグループが生まれないことを配慮してか、あるいは、個人主義の反映か、団員の教育は師が一対一形式で行い、団員同士の交流をほとんどさせませんでした。
その中核を為すのは「法の書」の教えであり、ヨガも取り入れました。
初期のメンバーには、後に魔術界で有名になったオースティン・スペアもいました。

1909年には、機関誌「The Equinox(春秋分点)」を始めました。
これは一般人にも魔術的知識が普及するようにと、破格の安値で頒布しました。

また、この年、アルジェリアで、エノク魔術によるアイテールの上昇の挑戦を再開しました。
そして、クロウリーは、15番目のアイテールの天使に秘儀参入を受けて、「8=3マジスター・テンプリ」に昇格したと判断しました。

14番目のアイテールにはなかなか到達できなかったのですが、同性愛関係にあったヴィクター・ノイバーグを相手に、マゾ的な同性愛の儀式を行うと、これを通過できました。

また、「深淵」を越えるために、10番目のアイテールの「コロンゾンの悪魔」を召喚する儀式を行ったのですが、この時、クロウリーが魔法の三角形の中で悪魔を憑依させて一体化し、魔法円の中にいたノイバーグがこれと戦いました。

アイテールの上昇のヴィジョンは、後に「霊視と幻聴」として公開されました。

1911年、パリでメアリー・デスティという女性と親しくなり、彼女を通して「アブ・ウル・ディズ」という霊から、「アバの書(第四の書)」をクロウリーが書くための準備を与えるとのメッセージを受け取りました。
そして、イタリアで、クロウリーが口述、デスティが筆記と言う形で書き始めました。

第一部はヨガを中心とした神秘主義がテーマの書、第二部は儀式魔術の道具の作り方を中心とした魔術の基礎をテーマにした書となりました。
ですが、二人が喧嘩別れをしてたため、この第二部で終わりました。

ちなみに、第三部は1929年に出版された「魔術-理論と実践」として、第四部は1936年に「春秋分点」第三巻三号「神々の春秋分点」として限定で出版された「セレマ-法」として書かれました。


<OTO>

1912年、「春秋分点」で公開した内容が、GDの秘密の公開に当たるとして、マサースがクロウリーを訴えるという事件が起こりました。
マサースはこの裁判で自分が薔薇十字団の真の首領であると主張したため、多くの薔薇十字系の団体からマサースは反発を受け、マサースの敵であるクロウリーに名誉位階が贈られるといった現象が起こりました。
OTOも、クロウリーに名誉位階を授与しました。

その後、クロウリーは、「虚言の書」の中の六芒星儀式「サファイアの星の儀式」の部分で、性魔術について比喩的な表現で書きました。
ところが、これが、OTOの性魔術の秘密の公開に当たるとして、OTOの首領のセオドア・ロイスが、クロウリーの元を訪れて、糾弾しました。

ですが、クロウリーはOTOからその教えを受けておらず、独自で、確信を持たずに書いたものでした。
クロウリーは、ロイスの指摘を受けて初めて、OTOの性魔術を理解し、その重要性に気づきました。

ロイスは、クロウリーの言い分を認めて、クロウリーにイギリス支部(「ミステリア・ミスティカ・マキシマ(M∴M∴M∴)」)設立許可を与えました。
また、クロウリーも、ベルリンに赴いて、OTOの高等秘密文書を学習しました。

1914年、クロウリーは、OTOの第7位階以上のための性魔術の指南書、「神々の本性について」、「神々と人間との秘密の婚姻について」、「愛の書」、「ホムンクルス」を書きました。
*詳細は次のページを参照

第一次大戦後の1915年、クロウリーは、「9=2メイガス」の位階に達したと宣言しました。

また、「法の書」に書かれていた、「彼の後より来る者こそ、一切の「鍵」を発見する者となる」の、「後より来る者」を自分の息子であると思い、二人の女性を相手に、性魔術の儀式を行いながら、自分の子供を作ることを企てました。
しかし、子供を得ることはできませんでした。

ところが、1916年、OTO団員でありクロウリーの弟子だったフラター・エイカドが、神秘体験をして、自分が8=3の位階の存在になったと、クロウリーに伝えたました。
エイカドは、この時点で、まだ、2=9の位階でした。

ですが、この連絡が、クロウリーが「息子」を作るための儀式を行ってから、ちょうど9ヵ月後でした。
また、エイカドが「法の書」の解釈の鍵(LA(無、ヌイト)=AL(神、ハディト)=31)を発見したことから、クロウリーはエイカドこそが自分の「魔術的息子」であると考えました。

ですが、後に(1925年)、エイカドは全裸で街を歩いて逮捕され、クロウリーは彼を破門にしました。

エイカド.jpg


<セレマの僧院>

1920年、クロウリーは、シシリー島でコミュニティ的な「セレマの僧院」を設立し、二人の恋人と、その子供たちと生活を始めました。

翌年には、最高の位階「10=1イプシシマス」に昇格したと宣言しました。
この時、かなり薬物を使って、試練を越えたと判断したようです。

1923年、野良猫を生け贄として殺害し、その血を飲むという儀式を行い、それがもとでメンバーに死者が出て、クロウリーも病気になりました。
その後、イタリアから国外退去命令を受けます。

1925年、クロウリーは、テオドール・ルイス亡き後のOTOの3代目の首領になりました。

1929年、フランスからも国外退去命令を受け、ロンドンに戻り、「魔術―理論と実践」などを出版しました。
1944年には、「トートの書」と、クロウリー版のタロットカードを出版しました。
ですが、1947年、クロウリーは、心臓疾患、気管支炎で死亡しました。


<死後>

1951年、クロウリーの遺産管理人だったジョン・シモンズが、クロウリーを冷笑的に描いた伝記を出版しました。
ところが、逆にこれによって、ダーク・ヒーローとしてクロウリーに注目が集まることになっていきました。

一方、クロウリーの弟子達も、クロウリーの伝記やクロウリーの魔術解説書を出版するようになり、クロウリーに対する理解が進みました。

ケネス・グラントは、1960年に「アレイスター・クロウリー」、1972年に「魔術の復活」、1983年に「アレイスター・クロウリーと甦る秘神」などを出版し、彼自身しか知らないとされる独自資料を元に、独自の解釈を行いました。 
彼は、クロウリーのOTO系、左道系の魔術に関心を示しました。

また、イスラエル・リガルディーは、1970年に「三角形の目」を出版しました。
彼は、グラントと反対に、GD系の正統流の魔術に興味を持つ人物です。

クロウリーは生前にはさほど大きな影響力を持つことがありませんでしたが、1960年代以降のカウンター・カルチャーの潮流の中で人気が出て、ロック・スターのジミー・ページや、映画監督のケネス・アンガーらにも支持されました。

また、2009年には、J・ダニエル・ガンサーが、「子供のアイオーンへの秘儀参入」を出版し、A∴A∴の内部で口伝でのみ伝えられていた多くの概念を公開しました。
この書によって、クロウリー魔術の解釈は深化され、新しい段階に入りました。

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<A∴A∴とOTO>

クロウリーが首領を務めた「A∴A∴」と「O∴T∴O∴」の2つの結社は、どちらも「法の書」で示された教義「テルマ」に基づくものでしたが、この2つは、まったく性質が異なる結社でした。

A∴A∴は、GDを継承するものですが、個の啓発に焦点を絞り、師から弟子へ一対一で秘儀伝授を行なう組織であり、「ロッジ」や「テンプル」という概念を持ちません。
位階構成は次の通りです。

・団に属さない位階:「学徒」、0=0
・1stオーダー G∴D∴(黄金の夜明け団):1=10から4=7
・中継位階:「境界の主」
・2ndオーダー R∴C∴(薔薇十字団):5=6から7=4
・中継異界:「深淵の嬰児」
・3rdオーダー S. S.(銀の星団):8=3から10=1

銀の星紋章.jpg
A∴A∴日本WEBサイト

一方、OTOは、イニシエーションの階梯と儀式魔術を通して集団を訓練する組織です。
下位の位階はフリー・メイソン的な儀式を持つ位階で、上位位階は性魔術が置かれています。
現在の位階構成は次の通りです。

・大地の男の三組:第0-4、「完全なる参入者またはエルサレムの王子」
・すべての三組に属さない位階:「東と西の騎士」
・恋人の三組:第5-7
・隠者の三組:第8-9
・三組に関与しない特別位階:第10-12

これらの位階は、基本的にはセフィロートと対応していませんが、「大地の男の三組」の6位階は、7つのチャクラ(第0は2つ)と対応しています。

また、OTOは、教会部門として、公の組織「グノーシス・カトリック教会」を持っています。

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<クロウリー以前のOTO>

OTOは、オーストリアの裕福な製紙化学者のカール・ケルナー(1851-1905)によって、1895年に結成されました。
世界を幅広く旅行して回ったケルナーは、旅先でスーフィーとヒンドゥーのタントリズムの達人らと出会ったそうです。
ですが、その性魔術には、アメリカの「光のヘルメス友愛団」のパスカル・ビバリー・ランドルフ(1825-1874)の影響が指摘されています。
ケルナーは、「メイソン大学」というコンセプトを持っていました。

1905年にケルナーが亡くなった後、OTOの2代目の首領は、セオドア・ロイス(1855-1923)が継承しました。
彼は歌手で、ジャーナリスト、そしてプロシア警察のスパイとしても活動していました。
彼は、1906年に、OTOの憲法を交付しました。
また、英国薔薇十字教会のウェストコットとも、儀式のやり取りや相互公認などのやり取りを行っていました。
また、彼は、バーバリアン・イルミナティの復活を画策していたこともあって、OTOの位階には、その影響も取り入れています。

このように、OTOは、非公認メイソンリー儀礼のコレクターが、「メイソン大学」のコンセプトをもとに結成した結社でした。
そして、下位位階には、「メンフィス・アンド・ミツライム」や「古代公認スコティッシュ儀礼」などのメイソン系の儀式を配し、上位位階には性魔術を配する、という独特な構成を持った結社でした。
また、ハタ・ヨガも取り入れていました。


<クロウリーのOTO>

先に書いたように、1912年に、クロウリーが第10位階に就任し、イギリス支部「M∴M∴M∴」を結成しました。

彼はその後、OTOに彼の教義「セレマ」のエッセンスを注ぎ込んで、第5位階以上の儀式を改変しました。
第5位階の儀式は、キリスト教を否定して、「ホルスのアイオーン」を受け入れることを象徴するものでした。

1925年、ロイスの亡くなった後、クロウリーがOTOの第3代の首領になりました。

また、1944年、近代魔女術の父となるジェラルド・ガードナーがOTOに参加しました。


<クロウリー後のOTO>

1947年にクロウリーが亡くなった後には、ドイツのクロウリーの代理人だったカール・ゲルマーが首領を継承しました。

クロウリーの弟子だったケネス・グラントは、1951年に、イギリスのOTOを運営する権限があると公言しましたが、ゲルマーは1955年にグラントをOTOから破門しました。
ですが、これに対して、グラントは、自分がOTOの首領であると宣言しました。
彼の団体は、「タイフォニアンOTO(TOTO)」と呼ばれています。

ゲルマーは1962年に亡くなりました。

クロウリーにOTOの第9位階授けられていたグラディー・ルイス・マクマートリーは、1970年代にOTOの首領を宣言して、その復興を手掛けました。
このOTOは、他のOTOを名乗るグループと区別して「カリフェイトOTO」と呼ばれることもあります。

1985年には、ゲルマーの弟子だったマルセロ・ラモス・モッタと、マクマートリーのカリフェイトOTOの間に法廷闘争が勃発しました。
そして、マクマートリーが、正統なOTO(クロウリーの著作権所有者)として認められました。

ですが、マクマートリーは、モッタがA∴A∴の首領であることは認めました。
モッタの組織は、「東方聖堂騎士団協会(SOTO)」と呼ばれています。
先に書いたダニエル・ガンサーは、この出身です。

同年に、マクマートリーは息をひきとり、フラター・ハイメナウス・ベータが6代目の首領となりました。
ハイメナエウス・ベータは、かつてモッタのA∴A∴のプロベイショナーだったこともあり、かつての両団の抗争は終結して、盟友関係が回復されました。


もちろん、上記以外に、勝手にクロウリーの影響を受けたと主張するグループ、勝手にOTOを名乗っているグループは多数あり、中には、スキャンダラスな話題をふりまいたものもあります。

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