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グルジェフの生涯と思想 [近代その他]

グルジェフは、20世紀の代表的な神秘主義者の一人です。

彼の思想は、東洋の秘教を、当時の西洋人に向けて分かりやすくカスタマイズしたものだと言われています。
ですが、その思想の背景はほとんど明らかにされておらず、独創性の高いものです。

最初に、このページでは、グルジェフの生涯と、彼の思想の核心となる人間=機械論、そして彼の思想の背景について、簡単にまとめます。

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<生涯>

ゲオルギイ・イワノヴィッチ・グルジェフは、コーカサス地方で、カッパドキア出身のギリシャ人の父とアルメニア人の母のもとに生まれました。
生年には諸説があり、1866-77年の間です。

家庭はロシア正教徒であり、彼はロシア軍属大聖堂の司祭長の下で教育を受けました。
そして、黒海とカピス海の間のカーズに移住してそこで育ちましたが、そこは宗教的な坩堝の地でした。

グルジェフの若い頃のことは、「注目すべき人々との出会い」という自伝に書かれていますが、この書には寓話的なフィクションという側面があり、どこまで事実であるか分かりません。

自伝によれば、グルジェフは「真理の探求者たち」という秘教的な知識を探求するグループに入りました。
メンバーは各地の聖地や遺跡を訪れ、各メンバーが様々な知識を得て、それを持ち寄って共有したそうです。
ですが、このグループが実在したかどうかは確認されていません。

ベネットによれば、グルジェフはロシア秘密警察のスパイとしても活動していて、各国への入国が容易で、ブラバツキー夫人も行けなかったチベットにも入国できたようです。

グルジェフは、教えを求めて各地をめぐり、アフガニスタンのブハラのナクシュバンディー教団(スーフィーのダーヴィッシュ系修道場)を経て、ヒンズークシのサルムング教団(古代バビロニアから続く伝統を継承しているとされる)に至り、そこから大きな影響を受けたそうです。
ですが、サルムング教団が実在することは確認されていません。

グルジェフは、ロシアの宮廷で一時期を暮らし、1912年頃から聖ペテルスブルグとモスクワでグループの指導を始めました。
これ以降の彼の活動に関しては、弟子達などによる客観的な記録があります。

この時期には、神秘学者で神智学協会員でもあったピョートル・ウスペンスキー(1878-1947)や、音楽家のオルガ・ド・ハルトマンらが弟子になりました。
グルジェフの思想を広く知らしめたウスペンスキーによる著作「奇跡を求めて」は、この時期のグルジェフの教えとワークの記録です。

グルジェフは、グループの中で、メンバー達を心理的に追い詰めることを頻繁に行いました。
メンバー同時の対立を煽ったり、わざと人前で恥をかかせたり、嫌なこと、無理なこと、意味のなさそうな作業をやらせたり、弟子に対してまったく正反対の態度を取ったり…
これらは、個々人の欠点を、あるいはその他の何らかのことを自覚させるための、ショック療法的な実験だったのでしょう。
ですが、そのせいで、精神を壊す人間もいたした。

1917年、グルジェフは、弟子達と、ロシア革命から逃れて、チフリスでグループを結成して共同生活を始めました。
ここにはパリからも弟子達のジャンヌ・ド・ザルツマン夫妻らが合流しました。
グルジェフは、ここでムーヴメンツ(神聖舞踏)を教え始め、1919年にはムーヴメンツの公演を行いました。

その後、彼らはコンスタンチノープル、ベルリン、ロンドンを経て、1922年にパリ郊外の館「シャトー・プリュウレ」を買い取り、「人間の調和的発展のための協会」を設立し、以降ここでワークに取り組みました。
ここでは、ロシア人とイギリス人を中心とする70人ほどで共同生活を行いました。

1924年、グルジェフは、36人の弟子とNYへ行き、ムーヴメンツの公演を行いました。
NYでは、ウスペンスキーの知り合いで神智学協会員でもあったA・R・オレージが迎えました。

同年、グルジェフは、大きな交通事故を起こして瀕死の重傷を負いました。
そして、彼は、協会を解散させ、多くの弟子を去らせました。

ウスペンスキーは、もともとグルジェフの人格に疑問をいただていたのですが、このような事故を起こしてしまうグルジェフに対して、より不信をいだくようになりました。
そして、ウスペンスキーは、グルジェフが、彼が伝えようとしている秘教の思想を伝える資格がない人物であると判断しました。
そして、その思想(ウスペンスキーはこれを「システム」と呼ぶ)を、彼と切り離して教え始めました。

グルジェフとの関係を断ってジョン・ベネットは、ウスペンスキーのグループに合流しました。
ですが、後に、ウスペンスキーはベネットが勝手に自分の思想とは異なるものを出版したことで破門し、ベネットはグルジェフの元に戻りました。

オレージも、1929年には、グルジェフの高圧的な態度と金銭の要求から、関係を断ちました。

グルジェフは、事故以来、病床で「全体とすべて」という三部作の著作を構想し、回復してからはこの著作に取り組みました。

1936年、グルジェフはパリ凱旋門近くのアパートに移住しました。
そして、ここで、新しいムーヴメンツを創作し、指導を行いました。

1947年、グルジェフは、世界の弟子(ロンドンのウスペンスキー、ジョン・ベネット、アメリカのオレージの弟子達)をパリに集め、ムーヴメンツを指導し、「ベルゼバブ」の朗読会、「馬鹿への乾杯」という儀式的ワークを行いました。

「馬鹿への乾杯」は、各人が役割と規則を与えられて行うもので、ユーモアと教えを含む、乾杯と会食の儀式です。
馬鹿のタイプによってその愚かさと可能性を、各人のセリフで示します。

1949年、グルジェフは亡くなり、葬儀は、パリのロシア正教会で行われました。


<著作>

グルジェフは、上記「全体とすべて」三部作に関して、「これまで私が偶然学ぶにいたった神秘、すなわち人間の内なる世界に関するこれまで知られていなかった神秘のほとんどすべてを…分かち合いたいと思うのである」、「最低限、その理論だけでも死ぬまでになんとか彼らに伝えなくてはならない」と、最後の著作で書いています。

「ベルセブブが語る孫への話」は、調和的な3つの脳を持つ生物の目から人間を見たという設定のフィクションで、不調和な人間を批判し、伝統的な常識の破壊をテーマとしています。

「注目すべき人々との出会い」は、若い頃の自伝という形式ですが、真理探究者のタイプを描いて、向かう道を指示する、新たな創造のための素材を知らせることをテーマとしています。

最後の「私が存在する時にのみ生は真実である」は、直接、自身の思想とワークについて書いたもので、現実に存在している世界を理解するのを助ける、現実と融合して一体となる可能性を分かち合うことをテーマとしています。
弟子たちへの講演を含み、ワークがなぜうまくいっていないのかの分析も行っています。

ですが、1935年、グルジェフはなぜか執筆を中止し、「私が存在する時にのみ生は真実である」は未完となりました。

グルジェフは、「ベルセブブ…」と「注目すべき…」は、ザルツマンに出版の時期を任せ、「私が存在する…」は、出版の是非も含めて任せて亡くなりました。

また、グルジェフは、1933年に、三部作とは別に、小著「来たるべき善の先駆け」をグループ内に配布しましたが、後にこれを回収して、弟子にも読むなと言っています。

また、著作の他に、講話や対話の記録がいくつが発表されています。


<継承グループ>

1949年、臨終に近づいたグルジェフは、ジャンヌ・ド・ザルツマンを呼んで後を託し、ザルツマン夫妻は、世界中の「グルジェフ・ファウンデーション」の代表を務めました。

ですが、英米の弟子たちの中にはザルツマン夫妻に反発する者もいて、各地で様々なグループが生まれました。

いくつかあげると、例えば、ウスペンスキーの流れでは、その弟子のロバート・S・ド・ロップが、カリフォルニアで「チャーチ・オブ・ザ・アース」を設立しました。

また、ベネットは、1971年、シャーボーンに「生涯教育のための国際学院」を設立し、彼が1975年に没した後は、ウエスト・ヴァージニアに「生涯教育のためのクレイモント協会学校」が設立され、活動が引き継がれました。

また、アメリカのオレージの流れでは、ポール・アンダーソン夫妻が、「グルジェフ・ファウンデーション」から分離して、「コンウェイ・グルジェフ・グループ」を設立しました。


<中心となる教え>

グルジェフの教えの核心の一つは、「人間は機械」だということです。
彼は、「人間は機械だ。…自分自身では、一つの考え、一つの行為すら生み出すことはできない」(「奇跡を求めて」)と言っています。

また、彼は、人間の「本質」と「人格」を区別します。
「本質」は生まれながらの自分自身の個性であり、「人格」は社会的に作られたもの、自分の外からやってきたものです。

つまり、普通の人間は、本当の自分自身である「本質」として、主体的には何も行っておらず、習慣的に作られた「人格」で、機械的な反応を繰り返しているだけなのです。

また、人間には、複数の機能の中心(センター)があって、それが分裂していると言います。
この分裂した状態を「自己観察」し、これらを統合することで、真の自己を取り戻すことができます。
センターが統合され、真の自己が見出された状態は、「存在する」と表現され、それを体験し、深める方法は、「自己想起」と呼ばれました。

「自己想起」は、簡単に言えば、外と内に同時に注意を向けて、自分の全体を自覚する方法です。
これを常時、継続することを目指します。

グルジェフは、自分が説く道は、苦行によって肉体に働きかける「ファキールの道」や、信仰という感情に働きかける「修行僧の道」、知識、精神に働きかける「ヨーギの道」に対して、「第四の道」であると言います。

「第四の道」は、他の道と違って、日常生活の中で歩める道です。
そして、意志を獲得し、同時に肉体、感情、精神の複数の機能に働きかけ、コントロールする道なのです。


<思想の背景>

一般に、グルジェフの教えは、東洋の教えを西洋人に向けてカスタマイズしたものだと言われることが多いようです。
ですが、具体的な背景が何で、どこからがカスタマイズした部分なのか、ほとんど分かっていません。
そのほとんどが、彼の独創である可能性もあります。

一般に、グルジェフの思想の背景は、スーフィズムだと推測されています。
一方、グルジェフ自身、彼の思想が「秘教的キリスト教」であると、述べたこともあります。
ですが、実は、スーフィーのバックボーンに秘教的キリスト教(愛の神秘主義)があって、スーフィー達はそれを意識していたので、矛盾はありません。

また、彼は、自身の最も核となる背景を、ヒンズークシにあるバビロニア時代から続くサルムング教団であるとほのめかしています。
ですが、この教団は見つかっておらず、おそらく存在しないでしょう。

彼は、ワークのメソッドのことを、「ハイダ・ヨガ」と表現したこともあるようです。
「ハイダ」は「即座に」という意味の言葉のようですがですが、他では聞いたことがありません。
今すぐに、「自己想起」して真実なる自己存在になれ、という意味でしょうか?

彼の思想の表現、その宇宙論や物質論子、エネルギー論の発想などには、明らかに近代科学の影響が読み取れます。
また、普遍的な法則とされるオクターブの法則のオクターブは、西洋のメジャー・スケールであり、客観的に言えば、これは地域的にも時代的にも限られており、普遍的とは考えられません。

また、彼の教えの多くは、これだと名明言できるような、対応する伝統を見つけることはできません。
彼が重視した「エニアグラム」という図も、グルジェフ以前にも以降にも、グルジェフの影響圏以外からは見つかっていません。

「自己想起」は、確かに、仏教の正念正知やヴィパッサナーに似ていますし、禅やゾクチェンの目指すところとも似ています。
思考、感情、本能などを識別する「自己観察」は、「四念処」と似ています。
ですが、これらを行う目的に、方向性の違いがあります。

その一方で、重要なエクササイズである「ストップ・エクササイズ」は、スーフィズムに存在します。
彼の教えの中で、その背景を指摘できる数少ない例です。




*グルジェフの動画での生前の姿

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