中沢新一の流動的知性とレンマ的知性 [日本]


この項目では、中沢新一が2000年以降に、マテ・ブランコや山内得立に影響を受け、「流動的知性」や「レンマ的知性」といった概念を使って語っている思想についてまとめます。


<流動的知性と対称的思考>

中沢は、5巻本「カイエ・ソバージュ」の頃から重要な概念として「流動的知性」を使うようになりました。
そして、その特徴を、チリ出身の精神分析学者マテ・ブランコの言葉で「対称的思考」と表現しました。

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*「カイエ・ソバージュV 対称性人類学」

これは、これまで仏教的な知性を「意味形成性」として考えてきたことからの、発展形なのでしょう。

ブランコは、人間の思考は、「対称的思考」と「非対称的思考」の「バイロジック(二重論理)」であると考えました。
そして、「対称性」は、無意識の思考の一つの特徴です。

彼によれば、無意識は、アリストテレス型の論理と同様に、二項操作を行うのですが、命題の二項を入れ替えても「真」となります。
例えば、意識的なアリストテレス的思考では、親は親であり子は子なので、両者は「非対称」です。
ところが、無意識の思考では、子が親になり親が子になるので、「対称的」なのです。

また、「私は人間である」は、「人間は私である」にもなるので、「対称的思考」では、部分と全体が等価となります。

そして、ブランコは、「対称性」の強さに応じた層的な構造を想定し、最深層である「基本的マトリックス」は、あらゆるものが他のものに等しく不可分になる極限状態であると言います。
ただ、中沢はこの点については取り上げていないと思います。

また、ブランコは、「対称的無意識」が、高次元の構造を持っていて、それが「非対称的思考」に翻訳される時に、3次元的になると考えました。
ですから、「対称的無意識」が思考する「天使」や「精霊」は、高次元存在なのです。

中沢も、「高次元な無意識が3次元的な論理のグリットにぶつかるたびごとに、そこに圧縮や置き換えをほどこされた「喩」や「象徴」が出現してくる」と書きます。
つまり、「比喩」や「象徴」は、高次元知性である「流動的知性」の3次元への翻訳なのです。


<神話的思考と仏教>

中沢は、「流動的知性」=「対称的思考」が、後期旧石器時代に現生人類の「心」の発生とともに誕生したと考えます。

そして、レヴィ・ストロースの言う「野性の思考」、つまり、神話的思考は「バイロジック」であると。
これは、ブランコだけでなく、フランスの社会学者ブリュノ・ラトゥールが使った「対象的人類学」に影響を受けてのことです。

「対称的」な神話的思考は、例えば、人間と動物、人間と自然を等価に考えるような世界観を生み出します。
「対称的思考」は、神話を仲立ちとして自然との連続を回復しようとしてきたのです。

中沢は、国家発生以前のアニミズム(精霊信仰)の2種類の霊格、「スピリット」、「グレート・スピリット」と、「流動的知性」の関係を考察します。

「スピリット」は、日常と非日常(あの世)の境界にいる存在、つまり、意識的な心とその外との境界を出入りする存在であり、「流動的知性」の働きと関係しています。
中沢は、「流動的知性」が心を出入りすることを「超越性」と表現し、それがスピノザの言う「内在的超越」であると書きます。

ですが、「グレート・スピリット」は、多数存在する「スピリット」とは違って、至高で、唯一の存在であり、人格も姿も持ちません。

中沢は、この2つに対応して、「流動的知性」に2つの層を区別します。
「スピリット」に対応するのが、「思考と思考の外との境界」を特徴とする普通の「流動的知性」、そして、「グレート・スピリット」に対応するのが「純粋流動的知性」です。

「純粋流動的知性」は言語以前の知性で、直接、触れることができません。
ですが、「純粋流動的知性」が心に入ってくると、言語の深層に、比喩と象徴をもたらします。
我々が触れることのできる普通の「流動的知性」は、この比喩や象徴の働きをする知性です。
「流動的知性」が暗喩、換喩によって、特定の領域を越えて働く「脱領域性」を持っています。

・スピリット     :思考の境界  :比喩・象徴
・グレート・スピリット:純粋流動的知性:言語以前

「流動的知性」は、「自分の内に流れ込んでは、また流れ去っていく」存在なので、その全体を把握することができない存在です
そして、「純粋流動的知性」は、「思考そのものを思考する」ような「純粋思考」であり、「形も色ももたない抽象性を本質とする」のです。

また、中沢は、「流動的知性」が、ドゥルーズ=ガタリが「アンチ・オイディプス」で無意識について書いたように、欠けたところがないのだと言います。
つまり、対象を持たず、自分自身として差異を産出する存在です。
これは、以前から中沢が言ってきた「意味形成性」としての知性です。

ですが、王と国家が発生すると、アニミズムは多神教へと変貌し、「スピリット」、「グレート・スピリット」は高次対称性を失って、「神」になってしまいます。
さらに、一神教という最初の「形而上学革命」によって、「流動的知性」は抑圧されるようになり、「神秘主義」というレッテルが貼られるようになったのです。

中沢は、仏教の「空」や「悟り」、禅の「無心」が、「(純粋)流動的知性」であると言います。
彼は書いてはいませんが、ゾクチェンで言えば、「セム(心)」に対する「セムニー(心そのもの)」がこれに当たるのでしょう。

中沢は、仏教を、国家の誕生と共に失われた「バイロジック」と「対称的思考」を、高いレベルで取り戻そうとするものだと言います。


<レンマ的知性>

中沢は、2019年出版の「レンマ学」で、「流動的知性」を「レンマ的知性」と言い換えて、その知性やそれが捉える世界の分析を「レンマ学」と表現するようになりました。

「レンマ学」は、過去においては、仏教が「華厳教学」として大成していて、中沢の「レンマ学」は、それを継承して発展させるものと位置づけています。

「レンマ」はギリシャ語で、合理的な知性の「ロゴス」対して、直観的な知性を意味します。
「ヌース」や「ソフィア」ではなく「レンマ」を使ったのは、西田幾太郎にも師事した哲学者の山内得立の影響でしょう。
彼は、「ロゴスとレンマ」という書で、西洋の論理を「ロゴス」、仏教などの東洋の論理を「レンマ」として比較分析しました。

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*「レンマ学」

「レンマ的知性」は、中沢が「流動的知性」、「対称的思考」として語ってきた特徴を持っています。
ですが、さらに「レンマ学」では、それを、「非中枢神経系的」、「非因果律的」、「超準的」、「非線形的」、「非可換性」などと表現します。

「レンマ的知性」は、動的に運動する全体を捉える知性であり、仏教用語で表現すれば、「縁起的」であり、「華厳的」です。

中沢は、「レンマ的知性」を現生人類の出現と共に発生したと書いていますので、これは大脳新皮質の働きだと思われます。
ですが、「レンマ的知性」に関して、粘菌やタコの腕を例にあげらながら、それが非中枢神経的なものであるとも書いています。

大脳新皮質が非中枢神経系の働きを取り込むようになったということかもしれませんが、両者には大きな開きがあります。
「レンマ的知性」は、「非ロゴス的」な働きの総称であって、非常に大雑把な概念ということになります。

中沢は、人間の知性を「ロゴス的知性」、「レンマ的知性」、「純粋レンマ的知性」の3層に分けて考えます。
「カイエ・ソバージュ」で「流動的知性」と「純粋流動的知性」を区別したように、比喩的思考を行う「レンマ的知性」と、言語以前の「純粋レンマ的知性」に分けたのです。

この3層とフロイトの精神分析学などの概念との対応は、下記のようになると書きます。

1 ロゴス的知性  :フロイトの二次過程
2 レンマ的知性  :フロイトの一次過程、ブランコの対称的無意識
3 純粋レンマ的知性:フロイトの「もの」、ガタリの機械状無意識

また、ユングの「集合的無意識」は2と3に当たります。

そして、この3層と仏教の「大乗起信論」、華厳教学などとの概念との対応は下記のようになります。

1 ロゴス的知性  :阿頼耶識・心生滅、事法界
2 レンマ的知性  :阿頼耶識・心真如、理事無礙法界   
3 純粋レンマ的知性:如来蔵・心真如 、理法界

ただし、中沢は、1にも「理法界」の要素を付け加えます。
これは、「違い」を認識する「ロゴス的知性」ではなく、その背後の「同一性」を認識するような「ロゴス的知性」なのだと。


<レンマ学>

先に書いたように、中沢は、華厳教学を「レンマ学」として高く評価し紹介します。
特に、中国華厳宗の法蔵が「華厳五教章」で分析した法界の特徴「十玄縁起」や「六相円融」、澄観が「法界玄鏡」などで分析した「四種法界」の理論です。

一般に、華厳教学は、部分が他の部分全体を映している、という「一即一切」、「一切中一切」の論理で知られています。
法蔵は、その構造を「相入」と「相即」の概念で捉えました。

中沢は、「相即」を、各部分が「他とつながる」ことで、「暗喩」に関係するものと解釈します。
そして、「相入」を、「他との力の出し入れ」によって個々の性質が「潜在/顕在化する」ことで、「換喩」に関係するもの解釈します。

また、中沢は、「理事無礙法界」を単に認識の問題とせず、生命現象、言語、芸術言語を生み出すものであると解釈します。
そして、「事事無礙法界」をライプニッツのモナド論と比較して、「事事無礙法界」は動的な「相入」の関係がある点でモナド論とは異なると言います。

また、中沢は、「レンマ学」をこのような哲学的な領域だけではなく、言語学や芸術学、数学などの分野でも考えています。

言語学の領域では、ジュリア・クリステヴァが「セメイオチケ」や「詩的言語の革命」で展開した言語論を評価し、その「セミオティック機構」が「純粋レンマ的知性」の働きに等しいものと考えます。

中沢は、数は現代の数論においても集合によって定義され、そこに縁起的側面、つまり、「レンマ的」側面がありますが、一旦、生成された数は縁起性を断ち切って「ロゴス的数」になると言います。
法蔵も、数を縁起的なものと考え、「自性を持つ数(ロゴス的数)」と「自性を持たない数(レンマ的数)」を区別しました。

中沢によれば、現在の数論においては、複素数や行列が「レンマ的数」で、物理学ではそれらを使う量子力学が「レンマ的」です。
ですが、量子力学は、現在の数学では十分に表現することができません。
そして、虚数的部分に縁起的要素を含んだ「レンマ的数」から成る数学が必要だと言い、黒川重信が開拓している「絶対数学」に期待します。

このような数学、「超準的」な数学や物理学は、合理的に拡張されるものですが、我々の「標準的」な意識からすれば、神秘的なものです。


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