大乗起信論 [中国]

「大乗起信論(以下、「起信論」)」は、インドの馬鳴の撰述とされますが、おそらくは6C前半に中国北朝で、地論宗に近い者によって、様々な漢文の仏教文献を参考にして作られた偽書です。

ですが、この書は大乗仏教の綱要書的な書で、如来蔵系思想を中心に、独自の唯識説を展開し、中国、日本の仏教思想に大きな影響を与えました。


<一心・二門・三大・四信・五行>

「起信論」の内容は、「一心・二門・三大・四信・五行」としてまとめられます。

「一心」、あるいは「心」とは、無分別で清浄な如来蔵の心と、煩悩・無明の部分を合わせた、煩悩即涅槃としての心です。
煩悩のある心も、本来的には、清浄な心と同じということです。
そのため、「衆生心」とも表現されます。

「心」は、存在論的には「真如」と呼ばれます。
つまり、「真如」も、清浄な部分だけではなく、分別された現象をも含む概念です。

「二門」とは、無分別で清浄な部分の「真如」と、分別・煩悩の「生滅」の2つです。
「一心」をこの2つに分けると、「心真如」と「心生滅」となります。

「三大」は、基体の側面である「体」、性質の側面である「相」、作用・働きの側面である「用」です。
これらの概念は、中国仏教に独特のものであり、インド仏教には存在しません。

「真如」については、「体」は永遠の存在であり、「相」は功徳を持っていること、つまり、智恵であり、光明であり、清浄な自性清浄心であること、そして、「用」は善の因果応報、つまり、他者を救済し続ける働きを持っていることとされます。

「四信」は、仏、法、僧の三法に加えて、「真如」の4つを信じることです。

「五行」は、修行の項目で、六波羅蜜に当たりますが、禅定波羅蜜と智恵波羅蜜を合わせて「止観」として、全部で5つにまとめて、数合わせをしたものです。

また、六波羅蜜ができないような普通の人には、「念仏」を勧めています。


<真如>

「起信論」で最も重要な概念は、「真如」であり、それを別の側面から表現した「覚」です。
「如来蔵」という言葉はほとんど使われません。

「真如」は「空」なのですが、それを否定的表現と肯定的表現で、「如実空」と「如実不空」と表現します。

「如実空」とは、分別を完全に離れていることで、否定的表現です。
ですが、「如実不空」とは、常恒不変で清浄であることです。
つまり、「如実不空」は、「真如」が肯定的な表現される性質を持っているということです。

また、「真如」は、「如来蔵」として迷いの心の中にも存在しています。
そのあり方を、「智浄相」と言います。

そして、「真如」は、人が仏になって他人を教化する働きの中にも存在しています。
そのあり方を、「不思議業相」と言います。
これは、煩悩のない分別であり、後得智に相当するものでしょう。

「真如」は、煩悩がなくなっても、「智恵」として存在し続けます。
唯識派では、「真如」は無為法、「智恵」は有為法です。
ですが、「起信論」では、「真如」は「智恵」でもあり、共に無為法とされます。

・真如
 =如実空  :無分別性
 =如実不空 :清浄性
 =智浄相  :迷いの中に内在
 =不思議業相:仏の働き
 =智慧   :煩悩がなくなった時

また、「起信論」は、「真如」の働きという観点から、独自の「三身説」を説きます。

「法身」は、「真如」そのものですが、他人を救済する功徳を持っているという肯定的側面を強調します。
「報身」は、菩薩が智恵を心の中で仏の形で見る姿であり、「真如」の働きです。
「応身」は、凡夫が心の中に見る仏の姿ですが、外界に存在していると見間違います。
これも真如の働きです。

このように、「真如」の積極的な働きを強調することが「起信論」の特徴です。


<識>

「起信論」は、如来蔵系の書ですが、独自の唯識説によって論じています。
その唯識説は、本来のインド唯識派、中国の法相宗の説とは異なり、如来蔵系の経典である「楞伽経」の唯識説を継承しています。

唯識派(法相宗)では、五感に対応する「前五識」と「意識」を合わせて狭義に「識」と呼び、「末那識」を「意」、「阿頼耶識」を「心」と呼びます。
これに対して、「起信論」では、独自の「五識」を「意」と呼び、「意識」はそのまま「意識」、そして、「阿頼耶識」を「阿梨耶識」と書きます。

「起信論」の「五識(五意)」は、五感とは無関係で、分別心の5段階を表現したものです。
「業識」が分別心へ動き出す心、「転識」は主体が現れる心、「現識」は現象世界が現れる心、「智識」は分別する心、「相続識」は執着する心です。

そして、「意識」は「相続識」と異なるものではなく、それが展開したものです。

「阿梨耶識」という言葉は、「起信論」では次のように語れられます。

「不生不滅と生滅と和合して、一に非ず、異なるに非ざるを、名付けて阿梨耶識と為す。この識に二種の義あり。一切の法を摂政し、一切の法を生ず」

「阿梨耶識」という言葉が出てくるのは、これ一度だけで、これ以上の説明はなされません。

「阿梨耶識」は「阿頼耶識」で、それを無分別な「心真如」と、分別智の「心正滅」の両方を合わせたものと解釈しているのでしょう。
ですが、唯識派では「阿頼耶識」は無分別な「如来蔵」を含みません。


<熏習>

「起信論」は、独自の熏習理論を持っています。
唯識派では、「阿頼耶識」の「種子」から生じた「現行」が、「種子」を「阿頼耶識」に熏習します。
ですが、「起信論」では、「無明」が「真如」を熏習し、また、逆に、「真如」が「無明」を熏習します。
唯識派では、「真如」から「無明」の方向への熏習はありません。

「無明」が「真如」を熏習することは、「染法熏習」と呼びますが、これを3段階で考えます。

まず、「無明」が「真如」に働きかけて「妄心」が生まれますが、これを「無明熏習」と呼びます。
次に、「妄心」が「無明」を増長させて、「妄境界」(対象世界)を生み出しますが、これを「妄心薫習」と呼びます。
さらに、「妄境界」が「妄心」に働きかけて「執着心」を生み出しますが、これを「妄境界薫習」と呼びます。

一方、「真如」が無明を熏習することを「浄法熏習」と呼びます。

まず、「真如」が「妄心」に働きかけて、「厭求心」(向上心のこと)を生み出しますが、これを「真如薫習」と呼びます。
次に、「厭求心」が「真如」に働きかけて「無明」を消滅させますが、これを「妄心薫習」と呼びます(同じ名前が上記にもありましたが別のものです)。

また、「真如熏習」には2種あって、「真如」が自分の心の内から働きかける熏習を「自体相熏習」、「真如」が他人に働きかける熏習を「用熏習」と呼びます。
「真如」が他人の救済のために働きかけることは、「真如」が持つ自然な性質であり「自然業」と呼びます。

・無明→真如:染法熏習(無明熏習→妄心薫習→妄境界薫習)
・真如→無明:浄法熏習(真如薫習→妄心薫習)
 >内から:自体相熏習
 >外から:用熏習

このように、「起信論」では、熏習の理論においても、「真如」の積極的な働きを強調する理論になっています。

これは、心の奥底の智的存在が表層の意識に働きかけて救済しようとするものであり、グノーシス主義的で、マニ教(明教)、ミトラ教(弥勒教)とも似ています。
どのような影響があったか、なかったかは分かりませんが、影響関係を想像したくなります。


<覚>

「真如」は「覚」、「無明」は「不覚」と呼ばれますが、修行によって「不覚」から「覚」に向かうその段階によって、「覚」を区別して命名します。

・不覚(随染本覚)→始覚→相似覚→隋分覚→究竟覚(性浄本覚)

初めて「不覚」の状態から「覚」を目指そうと目ざめた「覚」を、「始覚」と呼びます。
「始覚」は、最初だけでなく、「覚」が完全になるまでの道全体を指します。

次に、粗い分別をなくした段階は、「覚」に似ているので、「相似覚」と呼ばれます。
声聞や縁覚の「覚」は、「相似覚」とされます。

次に、法身を自覚した菩薩の段階が「隋分覚」です。
これは一時的な「覚」です。

最後に、修行を完成して「真如」と一体となったのが「究竟覚」です。

ですが、「覚」は、もともと「如来蔵」として潜在的にであれ、存在しています。
そのため、この意味で「本覚」と呼びます。

また、「本覚」が、「不覚」の状態の時の汚れた状態にあることを「随染本覚」と呼びます。
これに対して、目覚めた状態の「本覚」を「性浄本覚」と呼びます。


<不覚>

「起信論」は、「不覚」のあり方を、煩悩が働く段階の観点から、「三細」と「六麁」としてまとめます。

「三細」は、微細な迷いの状態で、3段階からなります。

・無明業相:分別の心が動き始める段階
・能見相 :主体が生まれる段階
・境界相 :対象が生まれる段階

「六麁」は、粗い迷いの状態で、6段階からなります。

・智相  :愛・不愛の分別
・相続相 :苦・楽の分別
・執取相 :対象への執着
・計名字相:言語的認識
・起業相 :言語による執着
・業繋苦相:業による因果応報

また、迷いの心を「染心」と表現し、迷いを6種に分けて「六染」と呼びます。
主客分離以前の無自覚なレベル(不相応)の「染心」が3つ、そして、自覚できるレベル(相応)の「染心」が3つあります。
「染心」は、自覚できるレベルの粗いものから順に、なくしていく必要があります。


<発心・行>

「起信論」は、独自の修行階梯を立てていて、3段階の「発心」を数えます。

まず、最初が、普通の発菩薩心ですが、これを「信成就発心」を呼びます。
「起信論」では、これによって、必ず涅槃が約束される「不退」となるとされます。
この状態を「正定聚」とも表現します。

その後、「四方便」という修行を行います。
「無住処涅槃」という目標を学ぶ、悪行をやめる、善行を行う、平等な大悲を起こす、の4つの行です。
「無住処涅槃」は、日常の分別の生活の中で、それにこだわらずに、そこに「涅槃」を見出す大乗の理念です。

次に、「解行発心」を起こします。
これは、一大阿僧祇劫の行、つまり、無限のように長い菩薩行を続けることを願う発心です。
菩薩の「五十二位」で言えば、「十信」を成就し、「十住」に進むことに当たります。

その後、「六波羅蜜」の修行を行います。
無分別智に向かう修行段階に当たります。

次に、「証発心」を起こします。
「真如」を証する発心です。

そして、無分別智によって「真如」と一体化する修行を行います。
これは「十地」の段階に当たります。

「起信論」では、「止(奢摩他)」の瞑想は、対象を持たずに、無分別の状態に至ることを行います。

そして、法身と衆生身を同じと見る「止」を「一行三昧」、分別・無分別にこだわらない「止」を「真如三昧」と呼びます。

「観(毘鉢舎那)」の瞑想は、縁起する現象を対象にしますが、他に無常、苦、無我、不浄の4つの観察を行います。
また、「観」は、日常の中においても行うべきとされます。

ですが、「止観」を行えない人に向けては、「念仏」を勧めます。
「念仏」としか書かれていないので、「観仏」か「称名念仏」か不明ですが、後者と推測されます。


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