智顗と天台教学 [中国]

中国天台宗の教学を大成したのが天台智顗です。
智顗は、華厳教学の法蔵と共に、中国仏教教学を代表する人物です。

また、智顗は「天台小止観」、「摩訶止観」などの瞑想の実践書を著して、宗派を超えて影響を与えました。

智顗の教学・止観は、「中論」を独自解釈した「円融三諦」や、「三千世界」を一心に観る「一念三千」などが特徴です。


<法華経と天台宗>

天台宗が最も重視する「法華経」は、初期大乗仏教の経典です。

「法華経」は、釈迦は今生で初めて悟りを得たのではなく、その本体は、久遠の五百塵点劫の過去世において成仏し、久遠の寿命を持つ「久遠実成」の仏であると主張します。
そして、その仏が、永遠に衆生を救済へと導き続けるので、一切の衆生がいつかは必ず仏に成るのです。

「法華経」の最初の漢訳は、286年の竺法護訳「正法華経」、次の漢訳は、400年の鳩摩羅什訳「妙法蓮華経」であり、天台宗は、後訳に依っています。

天台宗の初祖は北斉の慧文、第二祖は南嶽慧思(515-577)とされますが、第三祖の天台智顗(538-597)が実質的な初祖であり、天台教学の大成者です。

南嶽慧思は、自性清浄心を根拠として頓悟を説いた人物です。
また、彼は、「法華経」が三乗(声聞・縁覚・菩薩乗)を統合する「一乗」の教えであるという立場を明確にしました。
また、「法華経」は、頓覚(一瞬に悟る)の教えであり、疾成仏道(すぐに悟れる)の教えであり、師なしに悟れる教えであると説きました。


<智顗>

智顗は、南嶽慧思に師事し、「法華経」、「摩訶般若波羅蜜経」、「大智度論」、そして「涅槃経」などを基にして天台教学を大成しました。
天台宗は、智顗が講義し、それを弟子がまとめた「法華玄義」、「法華文句」、「摩訶止観」を三大部として重視します。

初祖の慧文は、「中論」や「大智度論」から「一心三観」を読み取ったとされます。
智顗はそれを継承して「円融三諦(三諦円融)」の教学を体系化しました。

智顗は「三諦」(詳細は後述)と関係づけながら、以下のような教相判釈を行い、仏教の教えを段階づけました。

1 蔵教:小乗 :空諦(析空観)・界内の理事不相即
2 通教:大乗 :空諦(体空観)・界内の理事相即 
3 別教:華厳経:仮諦     ・界外の理事不相即
4 円教:法華経:中諦     ・界外の理事相即 

蔵教(小乗)の「析空観」は構成要素に分けて分析的に空を理解するのに対して、通教(大乗)の「体空観」は一挙に理解します。

別教(華厳経)は「仮諦」までを説き、円教(法華経)は「中諦」までを説くとされます。
この二教は、三界を越えた世界(界外)における菩薩のための教えとされます。

また、智顗の「次第禅門」、「天台小止観」、「摩訶止観」は、禅(止観)の実践書として、宗派を越えて重視されました。
もともと「禅」とか「禅門」というのは、天台宗のことを指していて、禅宗は「達磨宗」と名乗っていました。


<三諦>

天台宗では、中観派のナーガルジュナ(龍樹)の「中論」を解釈した「空諦」、「仮諦」、「中諦」の3つを「三諦」と呼びます。

智顗の「三諦」は、「三諦偈」と呼ばれる「中論」の24章18詩を、慧文の「一心三観」の見解を継承しながら、解釈したものです。
ですが、智顗の理解は、「中論」原典の意図とは、大きく異なります。

この部分の原典を訳すと、「どのようなものであれ縁起なるものを、我々はそれを空性と呼ぶ。それは仮説であり、また中道である」となります。

2つ目の「それ」は「空性」を指し、「空性」という言語表現は「仮」のものであり、その「仮」の表現が(有、無に偏らない)「中道」であるという意味です。

論理的には、「縁起」=「空」であり、「仮」=「中」です。

ですが、修行主体の体験段階で考えると、「有/無」の分別→無分別の「空」→「仮」=「中」となります。
中観派では、無分別の「空」は「等引智」、「仮」は「後得智」と呼び、2段階で考えます。

ですが、智顗は「それ」が「縁起」を指すと理解して、「縁起」が、「空」であり、「仮」であり、「中」であると解釈しました。
つまり、「縁起」によって生じる現象に「三諦」が備わっているという解釈です。

智顗における「仮」には、「空」の言語表現だけではなく、「有/無」の意味があります。
つまり、煩悩的な分別によって見る現象そのものとしての諸法が「仮」なのです。

また、「空」は、単に実体性の否定や無分別な智恵が見る実在ではなく、「仮」である現象を生む、心の母胎です。

そして、「中論」では、「仮」=「中」ですが、智顗にとって「中」は、「空」と「仮」の総合です。

後述するように、智顗は、最初、「三諦」を順次に観じる「漸次止観」を説きました。
ですが、後には、「三諦」のそれぞれが他の二諦を含む「円融三諦」と、「三諦」を一挙に観じる「円頓止観」を説きました。

ですが、智顗の「円頓止観」においても、「空諦」は、「従仮入空観」とされるように、「仮」から「空」へという方向性があり、「仮諦」は「従空入仮観」とされるように、「空」から「仮」への方向性があります。
しかし、「中論」の意図では、「仮」から「空」への方向性はなく、智顗の言う「仮」は、「有/無」のことです。

また、「円融三諦」における「中諦」の統合は、以下のように説かれます。
「空諦」は実体の否定であり、「仮諦」は「空」に留まらないという意味で否定の否定で、その両方の否定を認めます。
また、「空諦」の実体の否定を肯定し、「仮諦」の縁起する「仮」を肯定する、その両方の肯定を認めます。
この2つの否定と肯定を認めるのが、「中諦」における統合です。


<天台小止観>

智顗は、「次第禅門」で、「禅」という言葉を使って「止」について説きました。
ですが、「天台小止観」では、「止観」という言葉を使って、「観」についても説くようになりました。

ところが、智顗は「止」と「観」を必ずしも伝統的な意味で使っていません。
伝統的な意味においては、「止(奢摩他)」は「定」、「観(毘鉢舎那)」は「慧」として区別されます。
部派仏教のアビダルマでは、「止」と「観」はそもそも対象が異なるので両立しません。
インド大乗では対象が同じでも使いますが、「止」は集中、「観」は智恵を得るための観察であり、大雑把に言えば「止」に「観」を加えていきます。

しかし、智顗にとって、「止」と「観」は必ずしもそのように区別されるものではなく、連続的で一体的なものです。
時には、「止」と「観」がほとんど区別されず、どちらも「慧」とされることもあります。

智顗は、すべては心が作り出したものという唯識派的な世界観を持っています。
そのため、「観」に関しては、心を観察すること、つまり「観心」に他ならないと考えます。
ですから、「止」では外的対象を対象としても、「観」では外的対象を作る心を対象とする、という傾向があります。

修行の階梯も、「止」から「観」へと進むというよりも、「止観」の瞑想を順次深めていくという形になります。

「天台小止観」では、「証果」、つまり、「止観」の瞑想の成果として、「三止三観」が説かれます。
簡単に言えば、「空諦」→「仮諦」→「中諦」と「止観」を階梯的に行うもので、「漸次止観」と呼ばれます。
「次第禅門」でもこの「漸次止観」が説かれました。

「三諦」における「止」、「観」、「智恵」は下記のように名付けられています。

   (止)     (観)  (智)
空諦:体真止   :従仮入空観:一切智
仮諦:方便随縁止 :従空出仮観:道種智
中諦:息二辺分別止:中道正観 :一切種智

詳細は姉妹サイト「仏教の瞑想法と修行体系」の下記も参照ください。
天台小止観


<摩訶止観>

「摩訶止観」では、智顗の完成された思想を反映した「止観」の方法が説かれます。
「天台小止観」と比較したその特徴は、まず、「三諦」を段階的にではなく、一挙に総合して捉える「円頓止観」です。
そして、「摩訶止観」では、「中諦」の観法名は、「中道第一義観」に変わります。

この「円頓止観」は、中国仏教に特徴的な、超時間的・超合理的な、総合の論理です。
これは、「法華経」を「円教」として、すべてを総合して捉える発想に基づいて、「三止三観」を捉えたものです。

また、「摩訶止観」の特徴には、「止」に関して「四種三昧」を、「観」に関しては「十境十乗観法」や「一念三千」を説くことがあります。

「四種三昧」は、歩きながら阿弥陀仏の念仏、観想を行う「常行三昧」、座禅による三昧の「常坐三昧」、この2つを順に行う「半行半坐三昧」、日常の中で常に瞑想を行う「非行非坐三昧」です。

観法における「十境十乗観法」や「一念三千」など、「円頓」、つまり無時間的な総合という観点から説かれています。

また、「十境十乗観法」と「一念三千」の世界観は、教学として非常に複雑で完成度の高いものです。
ですが、現実に実践が可能であるのか、疑問が生じます。


<十境十乗観法>

「十境十乗観法」は、観察の対象を「十境」に分類し、観察の方法を「十乗」に分類し、その組み合わせ全体で100種類の観察を行う観法です。

「止観」の正行である「正修止観」は、大きくは、まず、観察の対象で「十境」に分類されます。
ここでの「対象」の意味は、「止観」をさえぎる10種の対象界とされます。

「陰入界境」以外は、何らかの問題があった場合に生じてくるものなので、「陰入界境」が最初に観察すべき、代表的な対象です。
具体的には、「五陰(五蘊)」、「六境」、「六根」、「六識」で、つまり、一般的な名色であり、凡夫にあっては、清浄ではないものです。

智顗は心がすべてを作り出すという唯識的な発想を持っているので、中でも、まず、「識」を対象として観察すべきであるとします。

その観察方法に「十乗」による観法と、「歴縁対境」による観法があり、まず、「十乗」観法を行います。
「十境」の一つ一つで、「十乗」という10種類の観察方法で「止観」を行います。

中でも、最初の「不可思議境の観察」が重要とされます。
これは、対象の世界が概念的な理解を越えているということの観察です。
その観察法の一つが、「一念三千」の観察です。


<一念三千>

「一念三千」は、一つの心の中に、「十法界」、「三界」、「十如是」を組み合わせた3000の性質を見るという観法です。
「三千」は「十法界」と「三世界」と「十如是」の組み合わせです。

「十法界」は、「六道」、「二乗(声聞・独覚)」、「菩薩」、「仏」の十の世界であり、いずれも心が生み出すものです。
その心のあり方は、「六道」は「有」、「二乗」は「空」、「菩薩」は「仮」、「仏」は「中」に対応します。

そして、それぞれの法界には、他の法界も含めて「十法界」が潜在的に存在すると観察します。
つまり、10×10=100種となりますが、これを「十界互具」と言います。

また、それぞれの世界には、名色の構成要素としての「五陰(五蘊)世界」と、生き物としての「衆生世界」と、容れ物としての「国土世界」の3つの世界があります。

「十如是」は、以上の世界のそれぞれが持っている十の側面です。
具体的には、「相」、「性」、「体」、「力」、「作」、「因」、「縁」、「果」、「報」、「本末究竟等」です。
「本末究竟等」は、「相」から「報」まですべてが「空」という点では同じであるという性質です。

ただ、「十如是」は「法華経」の「方便品」に説かれているとされるのですが、サンスクリット原典には「五如是」しかありません。
それを鳩摩羅什が「十如是」の形に訳し、南岳慧思が「十如」として取り上げたものです。

以上を組み合わせて10×10×3×10=3000となります。
こうして、すべての心の中に、この「三千世界」があると観察します。

そして、一瞬の一つの心と、一切法である三千世界は、どちらかが先にあるというものでもなく、一つの心が「三千世界」を生むのでもなく、一つの心が三千世界を含むのでもありません。
そのあり方が、精妙で、「不可思議」、つまり、概念的認識を越えていると観察します。

詳細は姉妹サイト「仏教の瞑想法と修行体系」の下記も参照ください。
摩訶止観 

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