オーロビンド・ゴーシュのインテグラル・ヨガ [近・現代インド]

オーロビンドは、近・現代インドの聖者達の中で、ヨガを真に現代的視点から捉えた直した点で、特出した人物です。

オーロビンドは、進化を重視し、生命=進化=ヨガと捉えました。
そして、彼が提唱した「インテグラル・ヨガ(統合的ヨガ)」は、人間の全能力を変革し、それを生活の中で活かすためのものでした。

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<人生>

オーロビンド・ゴーシュ(1872-1950)は、カルカッタの医師の三男として生まれました。
父はブラフマ・サマージの指導者でした。

オーロビンドは、5才の時に、イギリス人の師弟のための学校に入学し、7才の時には、両親と共にイギリスに渡り、聖職者で語学者の家に預けられて、各種の教育を受けました。
1890年には、ケンブリッジのキングス・カレッジに入学し、主席で卒業しました。

1893年、オーロビンドはインドに帰国し、バローダ・カレッジの副校長に就任しました。
彼は、サンスクリット語を勉強して、マハーバーラタなどの古典、インド哲学、ヴィヴェーカーナンダなどを読んで学びました。
ですが、彼が一番興味を持っていたのは、詩作でした。

1904年頃から、ラーマクリシュナ・ミッションの関係者などにヨガを学び始めました。
1906年には、カルカッタの公民専門学校の校長に就任した後、日刊紙に執筆するなど、インド独立の政治活動に熱中しました。
その一方で、別の師からヨガを学び、サマディを体験したようです。

1908年、オーロビンドは逮捕されましたが、その勾留中に、「バガヴァッド・ギーター」、「ウパニシャッド」を熟読して影響を受けました。
また、瞑想中に疑問を持った時、ヴィヴェーカーナンダの声が聞こえて、アドバイスをしてくれたそうです。
この時、ヴィヴェーカーナンダは、すでに亡くなっていましたが。

1909年に釈放された後、週刊誌「カルマヨーギン」、「ダルマ」を発行しましたが、オーロビンドの興味は、内面的な真理へと移っていました。

1910年、オーロビンドは、南インドのボンディチェリーに移住しました。
1914年には、哲学雑誌「アーリア」を発行し、執筆に務めました。
「神聖な生活」、「ヨガの総合」などの彼の主要な著作は、ここで6年半の間に掲載したものです。


<内化と進化>

一般的に言って、インドの伝統的な世界観は、堕落論(展開説)と循環論であって、進化論ではありません。
ですが、オーロビンドは、西洋の進化論の影響を受けて、東西の思想を統合して「内化(インヴォリューション)」と「進化(エヴォリューション)」で考えました。

オーロビンドによれば、世界は絶対者が展開・下降して「内化」したものであって、世界はその内在化した絶対者が発現・解放するように「進化」し、上昇するのです。

オーロビンドは、次のように書いています。

「西洋の進化の概念は…進化そのものの意味を発見しようとはせず…」
「「進化」という言葉は…先行する「内化」の必然性を示唆するもの」(以上、「スピリチュアル・エボリューション」)

また、進化における人間の意味について、次のように書いています。

「人間の出現によって、自然はこの手段(人間)の意識的な意志によって進化することが可能となった」(「シュリ・オーロビンドの教えとサーダナーの体系」)
「人間は…進化の意味そのもの、自然の主人公である」(「スピリチュアル・エボリューション」)
「精神の進化は…内在するものの発現…」(「スピリチュアル・エボリューション」)


<8つの存在要素>

オーロビンドは、次のように、存在を8つの要素で考えます。

(絶対者) (世界)
存在  - 物質
意識-力 - 生命
至福  - 霊魂
超心  - 心

右の世界(低次の存在)の4要素は、左の絶対者(高次の存在、精神)の4要素の投射であり、対応しています。

「存在・意識・至福」の3要素は、ヴェーダーンタ哲学で「絶対者」を表現する「サット・チット・アーナンダ」です。
「チット」を、オーロビンドは「意識-力(コンシャスネス-フォース)」と表現します。

この3要素は、「超心(スーパーマインド)」としても現れます。
また、これは、「最高の真理意識」とも表現され、それは「主観的知識」であもり「客観的認識力」でもあります。

「超心」は、「心」が接している部分のようで、オーロビンドは次のように書いています。

「超心を通して神の存在へと上昇していく」
「心と超心がベール越しに出会う。このベールを取り払うことが、人間が神聖な生活の条件になる」(スピリチュアル・エボリューション)

世界は、基本的に、「物質」→「生命」→「心(マインド)」と順次に進化します。
これらは、階層をなしていると言えます。

また、「生命」は、金属→植物→動物→人間という進化の中で顕在化してきます。
「心」は「生命」の中だけではなく、偏在する存在であるとも書いています。

そして、「霊魂(ソウル、サイケ)」は、「心」、「生命」、「物質」の結節点に顕在化する第4の要素だと表現しています。
「魂」と「心」の進化、階層の関係ははっきりしません。
ですが、金属→植物→動物→人間という進化の階層と、8要素の対応関係を見ると、
「物質」→「生命」→「霊魂」→「心」という階層を考えたくなります。


絶対者に関しては、「存在・意識・至福」とは別に、「プルシャ(純粋意識)」、「アートマン(真我)」、「イーシュヴァラ(自在神)」という3つの側面を持ちます。

オーロビンドは、ヴェーダーンタ的な一元論の立場に立っているようで、サーンキヤの2元論に対しては批判しています。
彼は、「プラクリティ(純粋物質)」を、「プルシャ」の「マーヤー」、「シャクティ」としての一側面であると考えます。
また、「プルシャ」を「存在(サット)」、「プラクリティ」を「意識(チット)」であると考えます。

また、オーロビンドは、現世肯定的な思想の持ち主なので、その観点からは、「プラクリティ」を「マーヤー」と見て否定するヴェーダーンタよりも、「シャクティ」と見て肯定するタントラを評価します。

「イーシュヴァラ(自在神)」という側面に関して、神の人格性に関しては、その「意識」という側面までを認めますが、それ以上の人格性は認めません。


<進化とヨガ>

オーロビンドの世界観は、世界は絶対者が展開して「内化(involution)」したものであって、世界はその内在化した絶対者が顕在化して「進化(evolution)」する存在です。
ですから、生命とは、精神とは、人間とは、進化する存在なのです。

そして、ヨガとは、クンダリニー・ヨガに明瞭なように、その進化を凝縮した行為なのです。
つまり、オーロビンドは、クンダリニーを上昇させることが、世界に内化して眠れる絶対者を顕在化して上昇させることの象徴のように見なしました。

このヨガ観を、オーロビンドは、「生命全体がヨガである」と表現しました。

そのため、オーロビンドのヨガは、2つの特徴を持っています。
人間のすべての能力を伸ばすこと、それらを生活の中で活かすことです。

オーロビンドは、次のように書いています。

「人間の内なる自然の通常の活動は、すべての要素が複雑にからみあった統合的な運動であり…私たちが追求するヨガもまた自然の統合的活動である」
「ヨーギのトランス状態は…目標では決してなく…見る、生きる、活動する意識すべての拡大と向上のための手段だ」(以上「インテグラル・ヨガ」)

このように、オーロビンドにとってのヨガは、絶対者との合一の体験を、人間の全能力を生活の中で生かすように変えていくべきものなのであって、隠遁するものではないのです。
この、現世肯定的で、総合的なヨガであり、オーロビンドは、それを「インテグラル・ヨガ」と呼びました。


<5つのヨガの弱点>

オーロビンドはヴィヴェーカーナンダの影響を受けましたが、そのヨガ観はまったく異なります。
ヴィヴェーカーナンダは、人の性格によって「バクティ・ヨガ」、「カルマ・ヨガ」、「ラージャ・ヨガ」、「ジュニャーナ・ヨガ」の4つから選択するという形で、ヨガを紹介しました。
「ラージャ・ヨガ」は古典ヨガ(8支ヨガ)ことで、「ハタ・ヨガ」はそのプラーナヤーマの支則として少しだけ紹介されました。

ですが、オーロビンドは、それぞれのヨガには弱点があり、偏りがあると考えます。

「ハタ・ヨガ」は、基本的に肉体と生命に働きかける方法であり、「ラージャ・ヨガ」は心、「バクティ・ヨガ」は心の中の感情に、「カルマ・ヨガ」は意志に、「ジュニャーナ・ヨガ」は知性に働きかける方法であって、他を伸ばしません。

オーロビンドの「インテグラル・ヨガ」は、人間の全能力を伸ばすことを目指すので、どの種類のヨガを選んでも、それだけではダメなのです。

また、「ハタ・ヨガ」は生命と肉体を扱いますが、その並外れた完成によってそれを乗り越えて、精神(超心、絶対者)の次元に入ることができます。
ですが、「ハタ・ヨガ」は人間生活から完全な断絶を強いるのだと言います。

「ラージャ・ヨガ」も、心を扱いますが、その並外れた完成によってそれを乗り越えて、精神の次元に入れます。
オーロビンドは、「ラージャ・ヨガ」を基本的には古典ヨガ(8支ヨガ)として捉えていますが、「ハタ・ヨガ」の手法も利用し、クンダリニーを上昇させるものと考えています。
ですが、「ラージャ・ヨガ」の特徴を、集中とトランスとして捉えていて、トランスという例外的な状態に依存しすぎると言います。

・バクティ・ヨガ  :感情:愛
・カルマ・ヨガ   :意志:労働
・ジュニャーナ・ヨガ:知性:知識

・ラージャ・ヨガ  :心→精神
・ハタ・ヨガ    :肉体・生命→精神


<タントラの道>

オーロビンドは、以上の5つの道(ヨガ)以外に、「タントラの道」をあげて、重視しました。
彼は、「タントラの道」は、総合的ですが、独特で、他のヨガと違ってヴェーダ的手法と区別していると書きます。

彼の言う「タントラの道」が具体的には良く分からないのですが、「タントラ・ヨガ」とは表現せず、「ハタ・ヨガ」とも区別していることから、儀礼的な要素も含んでいるのでしょう。
逆に、「ハタ・ヨガ」に関しては、ヴェーダ的・バラモン的なものとして解釈しているのでしょう。

また、「タントラの道」の特徴は、自然的側面をヴェーダのように「マーヤー」として否定するのではなく、「シャクティ」として重視して、精神(絶対者)を見出すことです。

オーロビンドは、次のように書いています。

「人間の中の自然(シャクティ)を精神の顕在化する力へと高めることが、タントラの手法である」
「プルシャ(絶対者)がエネルギー(シャクティ)エネルギーの活動に熱中している時、そこには活動、創造、生成の愉楽、つまり、アーナンダがある」(以上「インテグラル・ヨガ」)

また、タントラの左道に関しても、「徳と罪の二項対立の行き過ぎに不満を抱いて、それを行為の自然的な真正さという概念に置き換えた」と書き、その本来的な意味については否定はしていません。

オーロビンドは、このように、「タントラの道」を、統合的であること、現世肯定的であることで評価したのです。


<インテグラル・ヨガ>

オーロビンドの「インテグラル・ヨガ」は、誰もが歩むべき、一つの体系化されたヨガではないようです。
いくつかの法則、特徴がありますが、限定された方法ではありません。

最初に一つの道を選びますが、どれという決まりはなく、なるだけ早く絶対者のサマディに到達できる道が望まれます。
その後で、絶対者(精神)を、すべての能力に反映させることで、それらを伸ばし、統合するのです。
オーロビンドは次のように書いています。

「知性、意志、感情、感覚、肉体のそれぞれの活動の中に、神に由来する衝動を感じられるように…その時、人間は超人になる」(「インテグラル・ヨガ」)

オーロビンドは、「カルマ・ヨガ」、「ジュニャーナ・ヨガ」、「バクティ・ヨガ」の3つのヨガが扱う「労働」、「知識」、「愛」を、神において統合して、三位一体とすべきであると書きます。
オーロビンドは、この3者について、次のように書きます。

「労働は知識においてその極致を見出し、知識は労働において成就を見出す」
「愛が成就さらえると…知識をもたらし、知識が完全であるほど愛の可能性はいっそう豊かになる」
「3つの道のいずれも、一定の広さとともに追求されたなら、その高みで、他の力を取り入れて、その成就にいたりうる…その一つから出発すれば十分であり…」(以上「インテグラル・ヨガ」)

絶対者の体験を、諸能力に反映させるためには、サマディ体験を日常意識へとつなげることが必要です。
オーロビンドは次のように書いています。

「自分のサマディの主人になれば、忘却の深淵を通らず、内面から外側の目覚めへと移行することができる…内面で達成されたことを…目覚めた意識が獲得し、それを目覚めた生活の通常の経験、能力、心理状態へとたやすく転換できるようになる」(「インテグラル・ヨガ」)

そのためもあってか、「インテグラル・ヨガ」は、各人の中の「秘密の主人」、つまり、内的な導師を重視します。


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