ニューエイジの背景(ビートニク、ヒッピー、サイケデリック) [現代]

ニューエイジ・ムーヴメントは、70年代のアメリカを中心に、心理学、宗教、哲学、人類学、科学、生活スタイルなど、様々な分野で盛んになった複合的な文化運動です。
その影響は、アメリカを越えて世界的となり、また、80年代以降も、様々な形に変化して継続しました。

ニューエイジの特徴には、神秘主義的な精神の高揚がありました。
このように様々な神秘主義的な思想が高揚し交流した思想運動は、西洋の歴史で言えば、ルネサンスや、20C初頭スイスのアスコーナのカウンター・カルチャーを例として挙げることができます。

ただ、ニューエイジから重要な思想家が生まれたかというと疑問もあります。

このページでは、ニューエイジの背景となった、50-60年代にカルフォルニアを中心に興ったカウンター・カルチャーについてまとめます。
具体的には、ビートニク、ヒッピー、そして、サイケデリック・カルチャーです。


<ニューエイジ・ムーヴメントとは>

「ニューエイジ」という言葉は、地球の地軸の歳差運動にともなって、魚座の時代から水瓶座(アクエリアス)の新時代(ニューエイジ)に移行しようとしている、というところから来ています。
もともと、この言葉を流行らせるきっかけを作ったのは、神智学協会のアリス・ベイリーでしょう。
ちなみに、日本では、「ニューエイジ」は、「精神世界」という言葉でまとめられる傾向がありました。

ニューエイジ・ムーヴメントの背景には、資本主義が進む中で物質主義的が行き過ぎることに対する反動があります。
そして、そこに、近・現代の機械論的・合理主義的世界観、人間中心主義・自我中心主義的な価値観を反省する思想が結びつきました。
その中から、先に書いたように、神秘主義的な精神の高揚が生まれたのでしょう。

ニューエイジ・ムーヴメントは、複合的な文化運動でした。
当サイトでは、他のページで、東洋諸宗教へ傾倒する「ネオ・オリエンタリズム」、宗教以前の宗教的伝統へ傾倒する「ネオ・シャーマニズム」、自己超越を目指す新しい心理学・心理療法である「トランス・パーソナル心理学」、機械論的・還元主義的でないアプローチを行う「ニュー・サイエンス」の観点から、ニューエイジ・ムーヴメントを捉えて紹介しています。


<ビートニク>

ビートニク(ビート・ジェネレーション)は、ヒッピー、ニューエイジに先駆したカウンター・カルチャーでした。
ビートニクを指す「ヒップスター」という言葉は、「ヒッピー」の語源となりました。
自然志向、禅などの東洋思想志向、意識拡大のツールとしてのドラッグ、平和主義などの点が、ヒッピー、ニューエイジへと継承されました。

ビートニクは、50年代後半に、カリフォルニアを中心に起こった詩人、作家の運動で、代表的な人物は、アレン・ギンズバーク、ジャック・ケルアック、ゲイリー・スナイダー、ウィリアム・バローズらです。

スナイダー、ケルアックは、鈴木大拙の影響で禅に傾倒しました。
スナイダーは禅の詩人の寒山の詩を英訳しましたが、寒山を一種の理想像として、ミルヴァレー山脈の掘っ立て小屋に住んでいました。
彼は、一時、京都郊外にも住んでいました。

禅の紹介者として有名なアラン・ワッツには「ビート禅、スクエア禅、禅」(1959年)という著があって、ビートニク的な思い切りのいい禅、生活の中で行う一般人の禅、東洋の本場の禅を比較して紹介しています。

ビートニクはドラッグを肯定的に捕らえましたが、ビートニクにドラッグを持ち込んだのはウィリアム・バローズでした。
彼らが使ったのは、マリファナ、メスカリンでした。

ギンズバーグは、1960年にはマジックマッシュルームの調査にペルー旅行に行きましたし、ドラッグの体験記や詩も発表しました。
その後、彼は仏教、ヒンドゥー教に傾倒して、インドのベナレスに住みました。
彼の人生は、ヒッピー、ニューエイジ系の原型のようです。

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また、「カッコーの巣の上で」で知られる作家のケン・キージーは、ビートニクとヒッピーをつなぐ存在です。

キージーは、1950年代後半に、サイケデリック集団「メリー・プランクスターズ」を結成し、カルフォルニアで共同生活を始めました。
1964年には、サイケデリックな塗装をしたバスで、LSDを広める実験ツアーを始めました。
そのメンバーには、ケルアックの「路上」の登場人物のモデルになったニール・キャサディら、数人のビートニクがいました。

1966年には、サンフランシスコで、参加者にLSDを配り、グレイトフル・デッドやジミ・ヘンドリックスが参加するロック・フェスを行い、サイケデリック・ロックの教祖、そして、ヒッピー・コミューンの先駆者にもなりました。


<ヒッピー、フラワー・ムーヴメント>

サイケデリック・ロックに興味を持った若者が、ヘイト・アシュバリー周辺で共同生活を始め、全米から多くの若者が移住してきたのが、ヒッピーの始まりです。
ロック以外では、ストリート演劇集団の「ディガーズ」のゲリラ的活動が、一つの中心でした。

直接的なヒッピー・ムーヴメントは、1967年に行われた集会「ヒューマン・ビーイン」と、モントレー・ポップ・フェスティヴァルに始まり、同年の夏に全米から10万人がサンフランシスコのヘイト・アシュベリー周辺に集まった「サマー・オブ・ラブ」をピークとして、ごく短期間で終わりました。

ヘイト・アシュベリーでは、メディアの過熱した連日の報道もあって、人口が過密して治安も悪化し、10月6日、「ディガーズ」はヒッピーの「死」を宣言する葬儀パレードを行って、自らムーヴメントを終了させました。
それ以降、ヒッピーのムーヴメントは、各地でコミューン化していきました。

ビートニクが詩や文学を表現手段としたのに対して、ヒッピーは視覚芸術(サイケデリック・アート)を主な表現手段としました。
音楽的には、ビートニクがモダン・ジャズを聴いたのに対して、ヒッピーはサイケデリック・ロックを聴きました。
ドラッグは、ビートニクがマリファナ、メスカリンであったのに対して、ヒッピーはLSDでした。


<サイケデリック・ムーヴメント>

LSDなどの幻覚剤系のドラッグによって意識拡大を目指す「サイケデリック・カルチャー」は、ヒッピー、ニューエイジ思想が生まれるための、極めて大きなきっかけになりました。

LSDやメスカリンなどの幻覚剤は、簡単に誰もが自我意識を越えた宗教的・神秘的体験をすることができたため、多くの人がそれまでの価値観、人生観を変えるきっかけになりました。
彼らは、従来の世界観は、自分たちが作った夢の一種でしかないということに気づき、その外側で圧倒的な「神聖さ」の体験をしました。

ドラッグによる意識拡大、変性意識体験を経た人々は、「サイケデリック・アート(ロック)」、「ニュー・オリエンタリズム」、「ニュー・シャーマニズム」、「トランス・パーソナル心理学」などなど、様々な道を歩んでいくことになりました。

ビートニク以外にも、サイケデリック・カルチャーの重要な思想的先駆者として、イギリス出身でアメリカに移住した作家のオルダス・ハクスリーがいます。

ハクスリーの著書には、「永遠の哲学」(1944年)という、神秘主義的な普遍的世界観を論じた著書があります。
また、メスカリンの体験をもとにしたエッセイ「知覚の扉」(1954年)、「天国と地獄」(1956年)があります。
彼は、神秘主義思想とドラッグ体験を結び付けて考察した思想家です。

「知覚の扉」には、メスカリンの体験に関して、「裸の実在が一瞬一瞬目の前に開示していく奇跡」、「すべてがすべての中にあり、同時に個物でもある」というがあります。

また、彼はクリシュナムルティとは長年家族ぐるみのつき合いをしていました。

ハクスリーが亡くなる時、彼はLSDを妻に要求し、妻が注射をしました。
ちなみに、彼が書いたユートピア小説の「島」では、死ぬ間際にLSDをモデルにした「モクシャ剤(解脱薬)」と呼ばれる薬が渡されるユートピア島が描かれます。

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メスカリンと比較にならないほどの幻覚作用を持つLSDは、1938年に、スイス人のアルバート・ホフマンによって、呼吸・循環器系の促進薬として開発されました。

その後、一部で精神的な治療薬としての試行錯誤が行われました。
1957年にはアメリカのハンフリー・オズモンドが研究成果を学会発表し、「サイケデリック(精神拡大、精神出現)」という造語を作り、「サイケデリック・セラピー」という言葉を使うようになりました。

治療を越えた「サイケデリック」の可能性を説いた象徴的人物は、ハーバード大学の心理学者だったティモシー・リアリーです。
彼は1960年頃から、はやりホフマンがキノコから合成したシロシビンを、次いでLSDを使った実験を始めました。
彼の実験には、ハクスリーやギンズバーク、ワッツも参加、協力しました。

リアリーのハーバードの同僚だった心理学・社会学者のリチャード・アルパートは、ドラッグ体験を「チベット死者の書」が正確に描写していると考え、リアリーと共著「サイケデリック体験―チベット死者の書に基づくマニュアル」(1964)を発表しました。
そしてその後、彼はインドに道を求め、「ネオ・オリエンタリズム」の導師「パパ・ラム・ダス」となりました。

1964年には、LSD実験ツアー旅行をバスで行っていたケン・キージーが、リアリーを訪ねました。
先に書いたように、彼は、ヒッピーとサイケデリック・ロックの教祖になりました。

ですが、1960年代後半には、アメリカで、マリファナ、LSDが麻薬として違法化されるようになりました。

1968年、リアリーはこれに反対して、カリフォルニア知事の出馬を宣言しました。
そして、ジミ・ヘンドリックスらが参加したキャンペーンソング「You Can Be Anyone This Time Around」を制作し、ジョン・レノンも支持を表明して応援ソング「Come Together」を作りました。

ですが、リアリーは、マリファナとLSDの所持で逮捕・投獄されました。
彼は、一旦、脱走してスイスに亡命するも、アメリカの秘密警察に捕まってアメリカに護送されました。

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リアリーもラム・ダスも心理学者ではありましたが、LSD体験から、新しい心理学理論・心理療法を作りませんでした。

LSD体験から新しい意識論を作り、「トランス・パーソナル心理学」の一翼を担ったのは、1956年からLSDを使った実験を行っていたチェコスロバキアのスタニスラフ・グロフや、1964年からはLSDを服用してアイソレーション・タンクの実験を行っていたジョン・C・リリーらです。

*彼らについては、「トランス・パーソナル心理学」をご参照ください。


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