鈴木大拙の日本的霊性と即非の論理 [日本]

鈴木大拙の東方仏教と神秘主義」に続くページです。

このページでは、鈴木大拙の禅と真宗(浄土教)の解釈、そして、「日本的霊性」という言葉で、戦中・戦後の日本に対して彼が伝えようとした思想についてまとめます。

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*本文と関係ありません、大拙の顔写真が表紙に掲載された書です


<禅>

大拙の代表的な研究分野は、なんといっても禅です。

大拙は、渡米中の1927年から1934年にかけて、英文の「禅仏教のエッセイ」シリーズを3冊出版しました。
帰国後も、東方仏教徒協会から禅に関する英文の書の出版を継続しました。

これらは、欧米に禅を広く知らしめるきっかけとなりました。
欧米で禅が、日本語発音の「Zen」と呼ばれるのは、大拙の功績と言っても過言ではありません。

1940年からは、盤珪禅師に関する出版に尽くします。
同年に、まず「盤珪の不生禅」を出版し、続いて、1941年に「盤珪禅師語録」、1943年に「盤珪禅師説法」という2書の編校を行いました。

1943年には、「禅思想史研究」の出版を始め、また、「禅の思想」も出版しました。

「禅の思想」では、中国禅について、次のように書いています。

「中国では…平常の行動そのものの上に、禅をはたらかせようとするのである。禅はインド的静態性を離れて動態的方向をとるようになった」

つまり、禅は、日常の活動の中での悟りを重要する動態的なものであるということです。

また、禅の思想を「無分別の分別」、禅の行為を「無功用」という言葉などに代表させています。
単なる「無分別」ではなく、「分別」があること、そして、それが行為において働きとなることがミソなのです。

大拙は、「無分別の分別」は、人間の「霊的自覚」においてのみ可能であると書きます。
つまり、分別を超えている点が「霊性」であり、分別と無分別の矛盾を自覚していることが重要なのです。

「無功用」は、「ただその事を行じて、その他一切の利害得失を考えぬこと」と説明されます。
これは、親鸞の言葉の「自然法爾」と同じことだとも表現されます。
つまり、日常の行為の中の「あるがまま」です。

興味深いのは、大拙が、「宇宙霊」という言葉を使っていることです。
彼はこれを「法身」と同じものとして考えます。

「霊は力であり、はたらくが、自覚がないと霊ではない。自覚は霊が個多であるとき喚びさまされる。そうしてそれは人間でなくてはならぬ。宇宙霊というものも、人間がないとその霊たる所以を表現することができぬ」

つまり、禅の悟りを、個人の自覚の中での働き、つまり、主体的行為の中で捉え、その時に「宇宙霊」が顕在化するのです。


大拙は、自身が参禅し、思想的にも寄って立つ臨済禅(看話禅・公案禅)について、それが慧能以降の南宗禅、その動態禅の流れにあると考えます。
臨済禅は頓悟禅ですが、「禅思想史研究第一」では、慧能、神会に頓悟禅の起源を見ています。

大拙は、慧能の「見性」を、「定/慧」の、「知/行」の、「体/用」の不二であると書きます。
一方、南宗禅の中での比較としては、慧能の「見性」、神会の「知」、馬祖の「用」に対して、臨済がその3つを総合したと考えます。

一方、大拙は、日本の禅の到達地点を、盤珪禅師の「不生禅」に見ます。

「禅思想史研究第一」の最初に論じられたのも盤珪です。
この書では、日本の禅を三類型化し、盤珪の「不生禅」は、道元の「只管打坐(黙照禅)」と白隠の「公案禅(看話禅)」を止揚した日本禅の到達点とします。

大拙は、「盤珪禅師説法」中の解説「不生禅の特徴につきて」で、盤珪ほど独立独歩の禅者は禅史中でも稀有の出来事である、そして、盤珪のように自身の一貫した中心を持ちそれを「不生」という一言で表現した禅者は他にいない、と書きます。

大拙によれば、「只管打座」は悟りの「体」を得、「看話禅」は悟りの「用」を得ます。
ですが、盤珪は、打座も看話も不要とし、不生の一言で済ませます。
盤珪は、悟りを「不生」の二字で表現し、「生死を一棒に打殺せんとする」のです。

「仏心は不生にして一切事がととのひまするわひの」

盤珪は、日常語で説法し、仏教用語を使いません。

「みな人人今日の身の上の批判で相すんで、埒の明く事なれば、仏法も禅法もとかふやうもござらぬわひの」

大拙にとって、盤珪は、日本の禅の「あるがまま」を、究極的に体現した存在なのです。


<日本的霊性と真宗>

終戦直前の1944年に出版された「日本的霊性」は、一般に、大拙の代表作とされています。
「日本的霊性」という言葉は、戦時の日本が重視していた「日本的精神」に対するアンチテーゼの意味を持っていました。

「精神」が物質に対するもの、理念や道徳に関するものであるのに対して、「霊性」は精神と物質に二分化されない世界、道徳を超えたものであり、その働きです。

大拙がこの書で日本的霊性の代表として論じているのは、鎌倉時代以降の仏教であり、禅と浄土教(特に真宗)です。
彼は、「日本的霊性は鎌倉時代に始めて自覚の域に達した」と書いています。

神道ではなく、外来宗教であるはずの仏教を取り上げていることについては、次のように書いています。

「自分は第一、仏教をもって外来の宗教だとは考えない。…渡来したのは、仏教的儀礼とその付属物であった」
「神社神道または古神道などと称されて居るものは、日本民族の原始的習俗の固定化したもので、霊性には触れて居ない」

そして、日本的霊性の情性方面に顕現したものが、浄土系的経験であり、知的方面に顕現したのが、日本人生活の禅化であると。
「生活の禅化」というのは、「禅が日本人の生活の中に根深く喰いこんでいる」ということではなくて、「日本人の生活そのものが禅的である」という意味です。

大拙は、「霊性」を、智の問題ではなく、行為の問題として考えて、主体としての人を重視します。

「この人は、行為の主体である。霊性的直覚の主人公である。ここから「しかもその心を生ずる」のである。絶対無の場処という方に気をとられないで、はたらきの出る機を見得したいのである。そこに人があるのである。」

ですが、大拙は、次のように、禅者に対して批判をします。

「禅者は往々にして大慈大悲という心持ちを忘れることがある。…人そのものは、全体が悲であり智である。…人の一挙一動はことごとく悲智でなくてはならぬ」

この批判は、大拙の浄土系思想の解釈ともながっているのでしょう。
ちなみに、大拙は、「日本的霊性」を出版する2年前の1942年に「浄土系思想論」を出版しています。

大拙は、浄土系思想に関して、死後に浄土に行くことを目的にしたもの、自分の外にいる人格的存在である阿弥陀仏を信じ帰依するもの、とは解釈しません。
彼は、次のように書きます。

「浄土教は…絶対他力のところに、この教えの本質があるのである」(日本的霊性、以下同じ)
「浄土系思想の中心は念仏であって極楽往生ではない。」

大拙の解釈では、念仏を唱えることは阿弥陀仏と一体になること、他力とはあるがままに行動することです。
それは、主体を超えていると共に主体であり、受動的であるとともに能動的なのです。

また、大拙は、親鸞聖人が煩悩をそのまま肯定していることを評価して、次のように書いています。

「親鸞は罪業からの解放を説かぬ、即ち因果の繋縛からの自由を説かぬ。それはこの存在――現世的・相関的・業苦的存在をそのままにして、弥陀の絶対的本願力のはたらきに一切をまかせると云ふのである」
「日本的霊性のみが、因果を破壊せず、現世の存在を滅絶せずに、而も弥陀の光をして一切をそのままに包被せしめたのである」

大拙は、親鸞聖人の「自然法爾」という言葉を重視します。
1958年「真宗入門」では、次のように書いています。

「自然法爾は、日本語で言えば、アナタマカセです」
「法爾は「ありのままにある」という意味である」

そして、大拙は、真宗の妙好人(在俗の信心深い卓越した信者)の浅原才市に、真宗の思想の理想の姿を見ています。
禅の「あるがまま」の究極の体現者が盤珪ならば、真宗は才市なのです。
ちなみに、大拙は、才市のことを西谷啓治から教えられたようです。

才市について、真宗における念仏の意味について、次のように書いています。

「才市の全存在が南無阿弥陀仏になって居るというのである」
「彼の主体が南無阿弥陀仏そのもので、彼の意識というのは南無阿弥陀仏が南無阿弥陀仏を自覚するという意味になるのである」
「その南無阿弥陀仏がふと個己に復るとき、南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏と念仏せられる…」

そして、大拙は、あるがままの底にある大悲や利他が、真宗と日本的霊性にとって重要であると書きます。

「自然法爾底には無限の大悲がある、無尽の請願がある。日本的霊性的生涯の究竟も亦ここにある。」
「悲智円満の菩薩行が可能になる。日本的霊性も窮極において、この方向を指すものである」


<即非の論理、回互の思想>

大拙の親友の西田幾太郎は、仏教の体験的な知を、西洋の対象論理に対抗できるような普遍的な論理として体系化しなければいけないと考えていました。

大拙も西田に影響を受けて、西田が「矛盾的自己同一」という論理を作り上げていた頃、ほぼ同時に「般若即非の論理」を作りました。
西田も大拙も、「矛盾的自己同一」と「即非の論理」は、ほとんど同じであると述べています。

「即非の論理」は、初出は1941年の「禅への道」ですが、1944年の「日本的霊性」の「金剛経の禅」の章で詳説されました。

大拙は、「即非の論理」を、「般若系思想の根幹をなしている論理で、また禅の論理である。また、日本的霊性の論理である」と書いています。

「即非の論理」は、「金剛般若経」の「仏説般若波羅蜜 即非般若波羅蜜 是名般若波羅蜜」をもとにして、それを論理として抽出したものです。

形式化すると、次のようになります。

「AはAだと云うのは、
AはAではない、
故にAはAである」

これは、「否定を媒介にして、始めて肯定に入る」とも説明されます。

「金剛般若経」は、ごく初期の大乗経典で、「空」という概念も説きません。
大拙は、そのような初期の経典をテキストにしたのです。

ただ、これは不思議な論理ではなく、「仏の説く言葉と凡夫の言葉」は異なる、「Aは実体としては存在せず、現象として存在している」という合理的に理解できるものです。

ただ、禅はこの論理を論理の形式で取り扱わず、「普通の常識がまず否定せられて、その否定がまた否定せられて、もとの肯定に還る」とも書いています。

形式化してみると、例えば、こういうことではないでしょうか。

「Aではないと言うが、
そもそもAだという縛りはない
故にAでないことにこだわる必要もない」

大拙は、「即非の論理」を、単に論理や認識の問題ではなく、仏と個の関係や、主体的な人間に当てはめます。
大拙は次のように書いています。

「自分に言わせると、無とか有とかいうと、あまりにも論理的知性的になってしまうから、人という考えをそこへ入れてみたいというのである。この人は行為の主体である」(日本的霊性)
「臨済の言葉で云ふと、霊性は人である。「一無位の真人で」ある。…彼はこの人を「自省」したのである。…人は即非の論理を生きてゐるものである。」(「臨済の基本思想」1945)

これを真宗にあてはめると、「自然法爾」のあるがままの実践になります。


また、あまり知られていませんが、「即非の論理」とは別の禅の論理についても、「禅の思想」などで書いています。
これは、主語と述語、名詞と動詞、主体と対象を入れ替える「回互の思想」です。

大拙は、雲門の「東山水上行」や、道楷の「青山常運歩」などの曹洞宗系の禅師の独特の言葉使いや、道元による「山水経」でのその解説を取り上げます。
これらでは、動かないはずの山が、「流れる」、「歩く」と表現されています。

大拙は次のように書きます。

「…円環的、往還的、回互的、自己同一的に運歩するので、山が流れるのであり、流れる山があるのである」
「主語と述語とを別々のものとせず、主語と述語とを相互に回換させて…山が流れるともいい、流れるが山ともいう。体言と用言とが、どちらの方向からも、じかに結びつくというところに、禅家の物の見方があるのである。青山の運歩、東山の水上行などという表現はいずれもこれから出てくる」

ここには、中沢新一がマテ・ブランコの「対称的思考」をベースに主張する「レンマ的知性」と似た論理構造があります。


<現代性と華厳>

以上のように、大拙は、単なる無分別の認識だけではなく、「分別」や「主体的行為(人)」を重視します。
これは、従来から仏教、禅が説いてきたことです。

ですが、大拙は、それを、具体的に、現代に必要なものとして、つまり、西洋的な知識を学び、現代社会を運営するに必要なものとして考えていました。
それによって初めて、西洋と東洋が結びつき、新しい仏教、新しい日本的霊性となるのです。


また、大拙は、華厳教学の事事無礙法界の思想を評価し、「禅思想史研究第一」でも、華厳思想を最終的帰結と書いています。

そして、戦後すぐの1946年に出版された「霊性的日本の建設」や「仏教の大意」などで、その華厳思想を、戦後の新しい日本に必要な世界観であると訴えました。

「霊性的日本の建設」では、華厳的観点からライプニッツの思想を修正して、「モナッドは窓を十分に開け放って居る」ことで「モナッド間の連絡、回互、円融」が可能になると書きました。
ライプニッツは、世界を最善が実現され調和を持つものと考えますが、事事無礙法界の思想は、ライプニッツより動的なのです。

また、「事事無礙法界の曼荼羅にありては、天皇も事であり、我等も事である。事事が無礙に交渉し得るには天皇も曼荼羅の外に出ることを許されぬ」とも書いています。
つまり、中心がないのです。

華厳的な世界観は、日本を中心とする東亜共栄圏構想や、天皇を中心とする全体主義に対して、個人が抗する論理となりうる、ということです。

このように華厳思想に可能性を見い出すというのは、西田も構想していたようです。
西田は戦後を見ることなく亡くなりましたが、大拙は、西田の思いを継承したのだと言えます。


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