空海の歩みと山岳仏教・神仏習合の潮流 [日本]


日本真言宗の開祖である弘法大師空海は、日本の宗教史上で最大の巨人です。
空海は、当時最先端の仏教を日本に持ち帰るとともに、それは神仏習合の基礎理論ともなって、日本の宗教の潮流を大きく変えました。

そして、神秘主義思想という観点から見れば、空海の思想は、日本で最初の本格的で体系的な神秘主義思想だと言えるでしょう。

このページでは、主に帰国までの空海の歩みを紹介し、また、彼の思想の個人的背景、及び宗教史的な背景ともなった山岳仏教や神仏習合の思想潮流についても紹介します。

*「真言乗と真言宗」、「空海の思想」に続きます。


<空海の入唐への歩み>

空海(774-835)の本名は佐伯真魚、父方の佐伯直は、讃岐の国造でした。
佐伯直は、蝦夷(エミシ)の虜囚だった佐伯部を地方で支配する役目を負っていて、彼ら自身、蝦夷だったのでしょう。
「サヘキ」は、異言語を話す人たちという意味だったようです。

自然を重視する空海の世界観には、蝦夷の自然観が影響を与えていたのかもしれません。

母方の阿刀氏は、大和川水系を管理し、渡来人との外交や貿易に励んだ氏族です。
義淵、玄昉、善珠、銅鏡などの一流の僧、特に山岳仏教に関わる僧を輩出する一方、大足、笠主などの一流の文官をも輩出しました。
特に叔父の阿刀大足は大学者で、桓武天皇が寵愛した伊豫親王の教育係でした。

仏教界、朝廷、官吏に強い人脈を持つ阿刀氏の力なしには、空海の出世・活躍はありえなかったでしょう。

真魚は、15歳から叔父の大足に師事して勉強をし、18歳(791)から大学寮に進みました。
真魚は、優れた才能を発揮し、すぐに若くして超一流の文人となりました。

当時の大学寮は官吏試験を受ける資格を得ることを目的にしていました。
真魚には僧侶と文官の2つの道があったわけですが、文官の道を歩み始めたのでしょう。
実際、兄弟の多くは官吏になりました。

ですが、785年に藤原種継の殺害事件が起こって、佐伯につらなる人々が加わっていたため、当時、真魚にとっては不利な政情となっていました。
また、桓武天皇の政策は、奈良仏教の勢力を排除し、東夷征伐を正当化するものであったため、真魚は良く思っていなかったでしょう。

そのためか、真魚は官吏登用試験を受けないままに大学を去り、山岳修行者となる道を歩みました。

真魚は、大学寮に通うかたわら、中国大陸や朝鮮半島やインドなどから来た仏教僧が多く出入りする大安寺にも出入りしていたと推測されます。
大安寺には、「虚空蔵求聞持法」を継承していた成実宗の勤操がいました。
また、法相宗の元興寺の護命とも出会い、教えを受けていたと推測されます。

勤操も護命も出自は渡来系の秦氏であり、山岳仏教の「自然智宗」と関係の深い僧でした。
秦氏は空海と関係の深い氏族で、空海が東寺の鎮守にした八幡神も秦氏の神でしたし、空海が重視する弥勒菩薩を日本に持ち込んだのも秦氏でした。

真魚は、各地の山岳で修行を行い、四国にも渡りました。
そして、室戸崎の海食洞窟で、「虚空蔵求聞持法」の修行中、明星が現れて口に飛び込むという神秘体験をして、この法を成就しました。

その後、おそらく793年(19歳)に、真魚は槙尾山寺で勤操に従って剃髪受戒し、大安寺所属の沙弥「教海」となったようです。
その後、名を「如空」、「無空」に改めたと伝える書もあります。

真魚にとって、官吏の道が断たれる年齢である24歳になった797年、自身の所信を表明する「聾瞽指帰(後に書き換えて「三教指帰」)」を書きました。
これは、真魚と同じ大足に学んでいた伊豫親王に献呈された書であると推測されます。

「聾瞽指帰」は、戯曲形式の比較思想論となっていて、儒教、道教、仏教を代表する人物が順に登場してそれぞれの教えを説きます。
仏教が最高のものとされ、真魚が仏教に進むという所信表明になりました。

この書は真央の博学、文章力が遺憾なく発揮されたもので、当時から広く読まれました。

その後数年間の活動は知られていませんが、華厳教学や、「大日経」、そして、中国語やサンスクリットの勉強をしていたのではないかと推測されます。
また、真魚は24歳の時に大和の久米寺で「大日経」に出会ったとされていますが、実際にはもっと早く、西大寺で密教仏や「大日経」に出合ったのではないかと推測されます。

密教は、経典で表面的な教義は理解できたとしても、その深い意味、実践的な行法は、阿闍梨からの直接の伝授が必要となります。
そのため、空海にはどうしても入唐が必要でした。

804年、入唐の直前に、東大寺で唐僧の泰信律師のもと、「具足戒」を受け、「空海」と改名します。
おそらく、伊豫親王が真魚の望みを知って、臨時得度者として出家させて、外交文書の担当者兼留学生として遣唐使に推薦したのでしょう。
実際、空海は遣唐使を代表して文書の書き、また、長安に入った後、藤原氏の大使が帰国するまで大使と共に唐の朝廷が用意した官宅に住みました。


<自然智宗と虚空蔵救聞持法>

奈良時代に、仏教には異なる2つの流れがあり、両者の間には交流もありました。
官僧たちによる南都仏教(南都六宗)と、私度僧たちによる山岳仏教です。
前者は学問的で鎮護国家を目的にした仏教であり、後者は折衷的で呪術的で民衆に向かう仏教です。

ですが、南都の僧にも、学問だけではなく清浄性や呪力が求められ、山岳修行が必須のものでした。
また、僧綱や十善師などの役職には、山岳修行で効験力を得た僧侶が、天皇の看病に当たるために選ばれました。

山岳仏教は、金峯山や熊野を中心とし、あるいは、長谷寺、室生山寺などの山岳寺院を拠点としていました。
山岳仏教で重視されていた経典には、「陀羅尼集経」、「孔雀明王経」、「孔雀明王呪経」、「如意輪陀羅尼経」など、雑密とされる経典が多くあります。

彼らの中には「虚空蔵救聞持法」の修行を行って、生得の智を得ることを目指す「自然智宗」と呼ばれる一派がいました。
中でも吉野の比蘇山寺はその重要な拠点であり、ここでは官僧も修行を行っていました。

南都仏教には、変化観音を信仰する形で密教が入っていましたが、一部に、「虚空蔵救聞持法」を修行する僧もいました。

「虚空蔵求聞持法」はインド僧の善無畏が漢訳し、道慈が718年に日本に招来し、勤操がそれを継承していました。
そして、その弟子で唐僧の神叡らが比蘇山寺で拓いた山林修行のグループ「自然智宗」に持ち込まれました。

そして、そのグループの誰かが、空海にこの法を教えました。

 善無畏→道慈→勤操→神叡…?→空海

「虚空蔵求聞持法」は、三密を行って虚空蔵菩薩を勧請し、一体化する成就法(サーダナ)です。
虚空蔵菩薩と行者の間を真言の文字列がめぐる観想を行いながら真言を唱えます。
そして、虚空蔵菩薩を送った後で、ヨガ状態を維持するために100万回のマントラを唱えます。
「虚空蔵求聞持法」は、初期密教(雑密)というより、中期密教クラスの水準の経典のようです。

空海は、この法を成就した時の体験に関して、「谷、響を惜しまず。明星来影す。」と書いています。
明星は虚空蔵菩薩の象徴です。
ですから、例えば、森の上の虚空を眺めながら、自然と尊格を一体と見るような形で観想を行っていたのかもしれません。


山岳仏教・自然智宗と南都仏教の二項対立は、「山岳仏教⇔南都仏教」=「山⇔都」=「自然秩序⇔律令秩序」と考えることができます。

空海の中では、これが前者が後者を包括する形での、=「密教>顕教」、あるいは、=「即身成仏(高野山)>国家鎮護(東寺)」だったのかもしれません。


<神仏習合>

当時の山岳仏教の私度僧は、神社にも神仏習合へ至る初期段階での働きかけを行っていました。

当時の地方豪族は、共同体の司祭者から私的領主に変わる最中で、私的利益を追求していまいた。
そのため、神社で地元の神を祀る共同体的祭儀は適さなくなり、また、罪の意識も感じていました。
また、仏教の浸透にともなって、人々は身勝手な神より慈悲深い仏を求めるようになり、新しい宗教的論理が必要とされていました。

仏教の論理では、仏を供養し僧侶に布施すれば救済が約束されました。
そして、人々が功徳を積むと神々の威光が回復され、五穀豊穣が実現されます。

そのため、地方豪族は、神が仏教に帰依したがっているとして、私度僧に「神宮寺」を建てさせました。
山岳仏教の私度僧は、呪力を持った存在であり、現世利益も叶える存在でもありました。

このような理由から、8Cに、気比大神神宮寺、鹿島神宮寺、多度神宮寺、伊勢大神宮寺、宇佐八幡神宮寺などが続々と作られていきました。

神が従来の神の身分から仏に帰依して菩薩になることを、「神身離脱」と呼びます。
この「神身離脱」と「神宮寺」の建立が「神仏習合」の第一段階とされます。

ですが、当時の雑密には、神と仏を結びつける体系的な教義がなく、また、大寺院とのつながりも弱いものでした。

空海自身は、そのような潮流に関わっていなかったかもしれませんが、その潮流や問題意識を知ってはいたでしょう。
また、そのような問題意識を持った勢力が、その解決のために空海を唐に送ることを促したという可能性があります。

実際、空海の真言密教は、この問題を解決しました。

真言密教は、体系性を持った包括的な教義(純密)であり、密教の曼荼羅の論理、化身の論理は、神と仏を結び付ける「本地垂迹説」(神仏習合の第三段階)の理論的枠組みとなりました。
密教の「三輪身説」では、「自性輪身(法身)」を本体とする仏が、「正法輪身」で菩薩として顕現したり、「教令輪身」で明王として顕現すると説きます。

こうして、空海の真言密教は、日本の中世・近世の宗教の最大の特徴である「神仏習合」の基礎理論として、それを導いたのです。

また、後に、真言宗は地方の神宮寺を取り込んで神仏習合を進めました。

ちなみに、空海は、高野山の鎮守として高野明神を勧請し、東寺の鎮守として宇佐八幡神と勧請しました。
これらは神を寺院の守護神とする先駆的な行為であり、この神の「鎮守」化は、神仏習合の第二段階とされます。


<恵果と空海>

空海は、唐の醴泉寺で、インド僧の般若三蔵と牟尼室利から梵語を習いました。
この寺には、恵果の弟子の義智もいました。

恵果は、「大日経」と「金剛頂経」の二つを継承した阿闍梨です。

空海は、805年に青龍寺の恵果を訪ねました。
この時、恵果は、「我れ汝が来たらんことを知りて、相い待つこと久し。」と語ったとされます。
恵果は、般若三蔵か義智から空海のことを聞き及んでいたのでしょう。

また、恵果は、「わずかに汝が来れるを見て、命の足らざらんことを恐る。今則ち法の在るとし有るを授く。」とも語ったとされます。

そして、恵果は2か月ほどの間で、空海に三昧耶戒、胎蔵界の学法灌頂、金剛界の五部の灌頂を与えました。
これはありえない速さですが、空海が大日経やサンスクリットなどの予備的な勉強を済ませていたことと、恵果が自分の寿命がもう少ないことを知っていたからでしょう。

ちなみに、恵果が両部の伝授を行ったのは、空海だけです。
空海は灌頂名として「遍照金剛」をもらいました。

恵果は、その2か月ほど後に亡くなりました。
その夜、瞑想中の空海の面前に恵果が現れ、「幾世にもわたって、相互に師となり弟子となって真言秘蔵の法門を弘めてきた間柄である。私(恵果)は来世は東国の日本に再生して、汝の弟子となる」(性霊集)と語りました。

実は、空海が生まれたのは、恵果の師だった不空三蔵が亡くなった年です。
ですから、恵果は、空海が不空三蔵の生まれ変わりと思っていたかもしれません。

空海は、高野山の開創を若い弟子の真然に託して亡くなりました。
なぜ、この若い弟子に託したのでしょう。
実は真然は、恵果が亡くなった年に生まれました。
つまり、空海は、真然が恵果の生まれ変わりだと信じて、恵果との約束を果たそうとしたのでしょう。


*「真言乗と真言宗」、「空海の思想」に続きます。


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