空海の思想 [日本]


空海の歩みと山岳仏教・神仏習合の潮流」、「真言乗と真言宗」に続くページです。

一般に、空海の思想として語られるもののほとんどは、中期密教の思想です。
それは「大日経」と「金剛頂経」の思想、そして、両界を不二とする思想です。

初めて密教が持ち込まれた時代ならそれでも良いのでしょう。

ですが、後期密教を知る現代の我々からすれば、それでは未発達な密教だとか、あれが足りないこれが足りないとかしか思えません。

このページでは、中期密教の標準的思想とは異なる、空海独自の思想は何か、という見方を重視しつつ、空海の思想を考えます。


<最初のまとめ>

空海の思想として語られるものには、密教以前からのもの、中期密教のもの、独創によるものの3種があります。
それらを最初に簡単にまとめてみましょう。

まず、密教以前からの仏教と共通する部分です。

例えば、すべての人間は仏性を持っている(一切衆生悉有仏性)は、如来蔵系の仏教に共通する考えです。
草も木も成仏している(草木国土悉皆成仏)は、中国、日本の多くの宗派に共通する考えです。
心と体は一体である(色心不二)は、天台宗などにもある考えです。 


次に、密教に共通する部分です。

例えば、「法身」が説いた密教は顕教よりすぐれている、「真言」や「曼荼羅」は真実を表現できる(果分可説)、世界は大日如来の現れである、「三密加持」によって現世でこの身のままに成仏できる(即身成仏)、などです。
あるいは、世界は波動(響き)であり、元型的な文字(種子真言)から生まれたものであり、象徴的な言語である、などです。
これらの中には、密教に限らず、インドのタントリズムや世界の神秘主義思想、神秘主義言語論の多くに共通する考えがあります。


最後に、空海独自の思想、あるいは、空海が独自に強調をしたと思われる部分です。

世界や仏が「六大」できている、仏身はすべて「法身」である(四種法身説)、「加持」は仏と衆生の両方の行為である、現象世界も「曼荼羅」であり、日常の行為も「三密(無相の三密、本有の三密)」である、などです。

最後の空海独自の思想に関しては、以下に詳細を書きます。


<三教と二教>

空海は、その生涯の中で、諸宗教、仏教諸宗派を比較した教相判釈的な論書を何冊か書いています。
「聾瞽指帰(三教指帰)」、「弁顕密二教論」、「秘蔵宝鑰」、「秘密曼荼羅十住心論(以下、十住心論)」などです。

「聾瞽指帰」は仏教と他の宗教との比較、「弁顕密二教論」は顕教と密教の比較、「秘蔵宝鑰」と「十住心論」は諸宗教・宗派と対応した10段階の精神を比較したものです。

797年に空海が最初の書いた書「聾瞽指帰」では、儒教、道教、仏教の三教を比較し、仏教を最高の思想としました。

ですが、孔子や老子は、釈迦が中国に派遣し、人々のレベルに合わせて教えを説いたものであると書いています。
つまり、三教を単に区別し、優劣づけるのではなく、仏教で他を包括する三教斉合、法界一味の観点を示しているのです。

この書を書いた時点で、空海はすでに密教と出会ってはいましたが、密教については書いていません。
そして、釈迦が後を任せた弥勒菩薩のいる兜率天へ行きたいが、どの道をたどればよいか分からないと書いています。
つまり、空海は、まだ、確信できる道を見出していなかったのでしょう。


著作年は不明ですが、帰国後に空海が著した「弁顕密二教論」は、密教と顕教の二教を比較した書です。
ここで、空海は、密教が顕教とは次元が違う優れた教えであると書き、それを日本の仏教界や朝廷に向けて明確に主張しました。

この書は、「釈摩訶衍論」などを根拠とし、顕教を「応・化身」による随機の説法、密教を「法身」の内証智の説法であるとします。

そして、顕教は真実の世界は言葉で表現できない(果分不可説)としているけれど、密教は真実そのものを説く(果分可説)のです。

・顕教:応化身の随機の説法、果分不可説
・密教:法身の内証智の説法、果分可説 

「果分可説」な「言語」は、特別な「言語」です。
密教において、真実を説く言葉は、真言、陀羅尼であり、曼荼羅です。

空海は、
「真言教法は一一の声字、一一の言名、一一の句義、一一の成立、各々、無辺の義を具せり」
と「秘蔵宝鑰」で書いています。

密教の「言語」は、普通の意味レベルから見れば、多義的なのです。

また、空海は、「梵字悉曇字母ならびに釈義」で、梵語、梵字は「自然道理の所作なり」と書いています。
ですから、真言・陀羅尼は翻訳しては意味がなく、原語で発音しなければいけないのです。
そのため、空海はサンスクリットの勉強を重視しました。


<十住心>

引き続いて、空海が著した教相判釈的な論書に関してです。

空海は、830年に、淳和天皇が各宗派に宗旨をまとめるように命じたことに応じて、「秘蔵宝鑰」を著し、合わせて「十住心論」も著しました。

両書は、各宗教・宗派に対応させて心のあり方を10段階(十住心)に分けて比較したもので、「大日経」巻第一の「住心品」(心の差別の章)を根拠としています。

「秘蔵宝鑰」は略本、「十住心論」は広本とされます。

また、「秘蔵宝鑰」は、十住心を区別して優劣をつけたもの(浅略釈)で、「九顕一密」と表現されます。
それに対して、「十住心論」は、他の九住心に関しても密教を見出す解釈(深秘釈)を合わせたもので、「九顕十密」と表現されます。

つまり、「聾瞽指帰」が仏教で他教を統合していたように、「十住心論」は密教で他を統合しているのです。

十住心は下記の通りです。

(住心名) (宗教宗派) (特徴)
1 異生羝羊心:教乗起因:動物的な本能、三悪趣
2 童持斎心 :人乗  :倫理、仏教の戒
3 嬰童無畏心:天乗  :宗教心
4 唯蘊無我心:声聞乗 :無我を知る
5 抜業因種心:縁覚乗 :無知を取り除く
6 他縁大乗心:法相宗 :利他の心を持つ
7 覚心不生心:三論宗 :一切は空であると知る
8 一道無為心:天台宗 :一切は清らかであると知る
9 極無自性心:華厳宗 :一切は無自性で互いに浸透していると知る
10 秘密荘厳心:真言宗 :曼荼羅の展開

1の教乗起因は、倫理以前の心です。
2の人乗は、儒教などが対応します。
3の天乗は、天に生まれ変わる教えで、バラモン教、ヒンドゥー教、道教などが対応します。

また、1~3を世間の心、4・5を小乗、6・7を菩薩乗(権大乗)、8・9を仏乗(実大乗)、10密蔵(真言密教)とします。

そして、第十住心は、「顕薬塵を払い、真言、庫を開く。秘宝たちまちに陳じて、万徳すなわち証す」と説明されます。
つまり、密教は創造的なのです。

ちなみに、十住心は胎蔵界曼荼羅の区画には対応があり、1~3が最外院、4・5が釈迦院、6~10が中台八葉院の五仏四菩薩となります。


<十巻章>

真言宗では、真言教学の体系を説いた主要書を「十巻章」としてまとめています。
「弁顕密二教論」二巻、「秘蔵宝鑰」三巻、「即身成仏義」、「声字実相義」、「吽字義」、「般若心経秘鍵」(以上、空海著)、「発菩薩提心論」(龍猛菩薩著)です。

そして、この中の「即身成仏義」が身密、「声字実相義」は語密、「吽字義」は意密に対応するとされます。
この三書は、いずれも819年頃に著されました。

「吽字義」は恵果の口説に基づくとされますし、特徴的な内容の書とも思えないので、以下、「即身成仏義」と「声字実相義」について紹介します。


<「即身成仏義」と身体論>

「即身成仏義」は、空海の特徴的な思想を最も表現していて、彼の主著と言っても良いでしょう。

「即身成仏」という言葉は、龍猛菩薩著・不空訳の「菩提心論」に、「真言法の中にのみ即身成仏する」として現れます。
また、「即身成仏義」は、「大日経」や「金剛頂経」を引用して論を進めます。

密教は、現世のこの身のままに素早く悟れると説きます。
これが「即身成仏」の一つの意味です。

また、密教は、空の知恵によって「法身」を得るだけではなく、心身を消滅させずに「報身」、「応身」に変化させることを目指します。
このように理論化される前であっても、身体を否定しませんが、これがもう一つの「即身成仏」の意味のはずです。

さらに言えば、密教も空海も、如来蔵思想を継承しています。
つまり、衆生は本来悟っている、仏であるということです。
これは意識・心に関してはよく言われますが、身体に関しても同様ならば、「本来この身が仏」であるはずです。

実際、空海は、「即身成仏義」で、
「仏身即ちこれ衆生身、衆生身即ちこれ仏身、不同にして同、不異にして異である」
と書いています。

ですから、「即身成仏」にはこの意味もあるはずです。
つまり、「即身成仏義」とは、「いかにこの身のまま成仏するか」だけではなく、「いかにこの身が本来、仏なのか」でもあるはずです。

一般に密教では、後期密教でも、そのような説き方をしません。
ですが、空海が「即身成仏義」で書いていることは、そういうことでしょう。


「即身成仏義」の主張は、次の頌に集約されます。

 六大無礙にして常に瑜伽なり (体)
 四種曼荼羅、各々離れず   (相)
 三密加持すれば、速疾に顕わる(用)
 重重帝網なるを即身と名づく (無礙)

 法然に薩般若を具足して
 心数心王、刹塵に過ぎたり
 各五智無際智を具す
 円鏡力の故に実覚智なり   (成仏)

前半の4行は、身体に関して「即身」を表現するもの、後半4行は、心や智に関して「成仏」を表現するものです。
この前半の4行に特徴があります。

「体」は本体、「相」は性質、「用」は働きを意味し、中国仏教に特徴的な基本概念です。
「身」を「体」、「相」、「用」の観点から説明しています。
そして、「無礙」として書かれた内容は、結論としての「即身」の本質です。


「体」を説明する行の「六大」は、地・水・火・空気・虚空の「五大」に「識」を加えたものです。
空海は、「六大」を「大日経」と「金剛頂経」に求めます。
ただ、説一切有部にも「六大」の考え方があります。
ですが、空海が説く「六大」は独創的です。


物質的な元素と精神的なものを同列にすることは、空海の「色心不二」の思想を表現しているのでしょう。

また、「六大はよく一切の仏…を造す」と解説するように、「六大」は物質的を作る粗大元素を意味するだけではなく、仏をも作っているような本体的要素です。
ですから、「六大」は単なる素材ではなく、創造的な力です。

後期密教では、元素を粗大/微細/極微(本質的)と階層化しますが、元素が仏を作るという考えは空海の独創かもしれません。

また、空海は、この「体」を説明する中で、「四種法身」という言葉を使っています。
「自性法身」、「受用法身(報身)」、「变化法身(応身)」、「等流法身(神や鬼神など相手に応じて現れる身)」です。

一般に密教では仏身に関して三身説で考えることが多いですが、空海は四身で考えることが多く、しかも、驚くべきことに、すべてを「法身」と表現しているのです。
すべてを法身の現れとする世界観を強調した表現です。
「法身」でない仏身をいちいち「法身」と表現するのは、空海の独創かもしれません。

ちなみに、空海の法身論に関して付け加えるなら、「大日経開題」で、「自性法身」を「本地法身」と「加持身」に分けています。
「本地法身」が永遠に沈黙している法身であるのに対して、「加持身」は説法し加持を行う法身です。
この表現も空海の独創かもしれません。


「相」を説明する行の「四種曼荼羅」は、先に書いた通りです。
「大日経」は、「四種曼荼羅」を構成する字・印・形像・威儀事業のそれぞれを、「秘密身」であるとします。
それらは、「身」なのです。

空海は、それぞれを「大曼荼羅身」、「種子曼荼羅身」、「三昧耶曼荼羅身」、「羯磨曼荼羅身」と表現し、「曼荼羅身」であることを強調します。
それぞれの「秘密身」が「曼荼羅身」であるとは、個々の「字」、「印」、「形像」、「威儀事業」が、他と「離れず」な状態にあるということです。
このように、空海は、「曼荼羅」という言葉を、華厳的な意味で使うことが多いようです。


「用」を説明する行の「三密加持」について空海は、次のように説明します。

「一一の尊等しく刹塵の三密を具して、互相に加入し彼此摂持せり。
衆生の三密もまたかくの如し。故に三密加持と名づく。
…故に、早く大悉地を得る」

仏の「三密」と衆生の「三密」が互いに映し合うのが「三密加持」であり、それゆえに速く成仏できるのです。

「加持」という言葉は、密教では本来、仏が衆生に力を与えることを意味します。
ところが、空海は、衆生が仏の力を保持すること、あるいは、仏に力を与えることも含めて、衆生の側の行為としても「加持」という言葉を使います。


結論としては、あらゆる「身」が、その「体(六大)」、「相(四曼荼羅身)」、「用(三密)」が、「四仏身」が、「仏身」と「衆生身」が、重重帝網であること、つまり、互いに浸透して映しあった相入相即の状態であることが、「即身」なのです。

「無礙」を説明する行では、結論として、あらゆる「身」が、その「体(六大)」、「相(四曼荼羅身)」、が、「四仏身」が重重帝網です。
そして、「身」の「用」が三密加持すれば、「仏身」と「衆生身」が、重重帝網となります。
この重重帝網な、互いに浸透して映しあった相入相即の状態が、「即身」なのです。

それが、本来的(法然)に智の状態である「成仏」と一体の前提なのでしょう。


<「声字実相義」と言語論>

「声字実相義」は、「大日経」と「大日経疏」などを根拠としているとされます。

「大日経」の「具縁真言品」における真言の相を解釈して、「大日経疏」巻七に、「如来の一一の三昧門の声字実相は有仏無仏法として是の如くなるが故に」と説かれています。

「声字実相義」の主張は、次の頌に集約されます。

 五大は皆な響き有り
 十界に言語を具す
 六塵は悉く文字なり
 法身は是れ実相なり

空海は、表題について、
「内外の風気、わずかに発すれば、必ず響くを名づけて声といふなり。…声おこって虚しからず。必ず物の名を表するを号して字といふなり。名は必ず体を招く、これを実相と名づく。」
と解説しています。

つまり、「声」とは音のことで、「字」とは名、つまり、「言語」の形象的表現のことで、「実相」とは「言語」の意味のことです。
ですが、空海が言う「言語」は、一般に使われる意味での「言語」、つまり、特定の社会で共有される意味内容・意味表現を持ったものではありません。

「必ず」と書いているように、すべての音が、「言語」の表現となり、意味を持つのです。

さらには、「六塵は悉く文字」なので、「言語」を表現するのは、聴覚的な「音」や視覚的な「字」だけではありません。
「六塵」というのは、5つの感覚対象と思考対象です。
これらが「言語」の意味表現となるということは、臭いも味も「言語」となるのです。

ですから、すべての対象領域で、存在が「言語」なのです。
このような、すべてが「言語」という世界観は、世界的に他にも存在しますが、空海にも特徴的な思想です。


「十界」とは、地獄や畜生から仏の世界までを指します。
それらそれぞれが「言語」を持つ、あるいは、「言語」であるということは、「言語」のあり方には様々な次元があって、動物的な「言語」から仏の智恵の「言語」までがあるということでしょう。

そして、次のように、空海は説明します。
「仏界の文字は真実なり。…梵には曼荼羅といふ。…すなはち、真言と名づくるなり」

つまり、仏の真実を表現する言葉は、「真言」であり「曼荼羅」なのです。

また、次にようにも書きます。
「いはゆる声字実相とは、すなわちこれ法仏平等の三密、衆生本有の曼荼なり」

すべてが「言語」であり、それが「三密」であるとは、どういうことでしょう。

空海は、「三密」には、2種類の「三密」があると言います。
普通に言う「三密」は、言語を真言とし、行為を手印とし、心に仏の形像などを観想することですが、これを「有相の三密」と言います。
これに対して、そのような形式を持たず、日常の言語、行為、心が仏に適うものになる(清浄なものになる)ことを、「無相の三密」と言います。
如来蔵的に言えば、これは「本有の三密」となります。

「無相の三密」は、おそらく「大日経疏」を論拠にして空海が概念化したものではないでしょうか?
密教は「三業」を「三密」へと浄化する思想ですが、「無相の三密」はあくまでも清浄なものであって、煩悩を認めるはけではありません。
「無相の三密」は、象徴を越えているので、その意味で密教を越えていて、ゾクチェンや南宋禅に近い方向性があります。


すべてが「言語」であるということは、それが「無相の三密」であるということでしょう。
そして、それが「衆生本有の曼荼」ということは、衆生が本来、仏であり、それが「本有の三密」であるということでしょう。


最後に、「法身は是れ実相なり」とあります。
つまり、それらはすべては、「法身」の現れなのです。


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