金春禅竹の翁論と六輪一露説 [日本]

「猿楽と荒神と黒い翁」に続くページです。

世阿弥の娘婿であり、世阿弥の後の新しい猿楽・能楽を創造したとされる金春禅竹は、芸能者としては珍しく、形而上学的な表現でも、その哲学・宗教思想を表現しました。

このページでは、金春禅竹の翁=宿神論である「明宿集」と、芸能論であり、意識論でもある「六輪一露説」を紹介します。
「明宿集」は、翁=宿神を根源神とし、「六輪一露説」は根源からの顕現と帰還を描いています。


<金春禅竹>

金春禅竹(1405-1471)は、大和猿楽の中でも、最も由緒ある円満井座に由来する金春流の太夫です。

禅竹は、世阿弥の女婿でもあり、世阿弥が晩年に自分の芸の継承者として唯一期待をしていた人物です。
禅竹は、世阿弥に指導を仰いでいて、世阿弥から「六義」、「捨玉得花」を相伝されました。
また、世阿弥の長男の元雅も、観世流の秘伝書、「一大事の秘伝の一巻」を禅竹に見せています。

禅竹は、世阿弥の次の世代の新しい能楽を創造しました。
彼の能楽には、人間の内面を描く、重韻を多用する、龍神物を加えた、世阿弥と異なる幽玄観を持っている、などの特徴があります。

また、禅竹は、形而上学的な翁=宿神論、芸能論を著しています。
彼は、天台宗(山門)の教学に詳しく、他にも、華厳教学、禅、神道説などにも精通していたようです。
彼が記した伝書は秘伝でしたが、1915年に初公開されました。
また、翁や宿神を論じた「明宿集」は、1964年に発見され、1969年に公開されました。


<金春家の宗教>

金春家では、毎月一日には「翁面」を、十五日には「仏舎利」を、二十八日には「鬼面」を供養・礼拝していたと、「明宿集」に書かれています。

また、三宝として、「御影」、「仏舎利」、「面」が伝えられていました。
このうち、「面」と「仏舎利」は、聖徳太子から猿楽の祖である秦河勝が賜ったものとされます。
「御影」には、「明宿集」に書かれている、秦河勝が紫宸殿で翁を舞った姿が描かれていると推測されます。

禅竹は、「明宿集」で如来の三密に対応するものとして、「経巻(口密)」、「舎利(身密)」、「神明(意密)」を上げています。
これは、天台宗にあった考え方のようです。
そして、「翁」、「鬼面」を「神明(神)」に当たるとしています。

また、禅竹には、「仏舎利」と「荒神」を同一視する考えがあったようです。
その背景には、天台宗が「仏舎利」と山王を同体視する説、「荒神縁起」が「荒神」と「仏舎利」を同体視する説、春日社の仏舎利信仰などが想定されます。

そして、金春家には、三宝の面とは別に、「おそろし殿」と呼ばれる面が祀られていました。
これは太夫になった者のみが、一代に一度だけしか見ることを許されていませんでした。
この面は、大避神社縁起によれば、やはり聖徳太子から河勝が賜ったもので、龍神の天地人の三面のうちの天の面であるそうです。

・仏舎利:身密:荒神
・翁面 :意密:御影
・鬼面 :意密:おそろし殿


<明宿集>

「明宿集」は、禅竹が、国つ神や祖神の化身と考えられていた「翁」と、芸能者・被差別民の神だった「宿神」について論じた書です。

禅竹は、正体のはっきりしなかった「翁」と「宿神」を、「翁=宿神」として、それを抽象的な原理で捉えました。
そして、様々な存在がその顕現であり、その働きを宿していると考えました。
それはて、ほとんど形而上学的な「翁・宿神一元論」です。

この書は、ほとんど「翁」について書かれていて、「宿神」については別名として出てくるだけです。
そのため、この書の最初のタイトルは「明翁集」でした。
ですが、それを「明宿集」としたということは、「翁」が「宿神」であるということを重視したかったからでしょう。

最初に「明宿集」の要旨をまとめます。

「翁」は根源神であり、あらゆる存在に内在します。
星宿・日・月にもその働きであるという点から、「宿神」と呼ばれます。

「翁」には、柔和と憤怒の2相があって、「鬼面」はその一つの側面です。

また、「翁」は、法華経、阿弥陀と一体であり、「翁」の芸道は弥陀如来来迎への道であるとされます。

禅竹は、「猿楽」についても書いています。

「猿楽」とは、天照大神の岩戸を開いた時の「神楽」であり、「神」から偏を取って「申楽」と名づけたのだと。
また、釈迦が生きていた頃、祇園精舎で供養を行った時に、天魔を鎮めるために後戸で舞ったのも猿楽であると。

そして、聖徳太子が天下太平のために、秦河勝に舞わせたのが「翁舞」です。
ですが、実は、秦河勝は「翁」が仮現した姿であり、その後、秦河勝は「大荒神」になりました。

以下、もう少し詳しく見ていきましょう。


<翁と宿神>

禅竹は、最初に、「翁」が宇宙創造の始めから存在した神であるとします。
そして、その法身は大日如来であり、報身は阿弥陀如来であり、応身は釈迦牟尼であると。

また、天体にあっては無数の星、日、月、地上にあっては山河大地、森羅万象、草木や鉱物などにいたるまで、すべてが「翁」の分身の行う霊妙な働きにあずかっているとします。
そして、「翁」は、太陽・月・星宿の意味を込めて、「宿神」と呼ばれます。

このように、禅竹は、「翁」を根源神であり、すべての中で働く内在神であるとします。
これはおそらく、「荒神」が世界の最初に出現した神であるという説があったことが背景になっているのでしょう。

また、禅竹は、「宿神」を星の神としての側面を重視して捉えています。
その背景には、天台宗の星辰信仰や、山王と北斗を同体視する山王神道系の思想や、北斗の本命星と「荒神」の習合があると思われます。

本命星(その人間の運命を司る北斗七星の星の一つ)を供養しないと、次の生で「荒神」になって災いをなすけれど、供養すると宇賀神として福をもたらすとする思想が、「北斗法愚記」などに見られます。

また、「明宿集」は、「荒神」の法身・報身・応身の三身や、そして、太陽・月・星の三つの光が、「式三番」に表現されているとします。
さらに、三輪の神が「翁」と一体で、三輪の御室山が「式三番」の形であるとも書かれています。

そして、「翁」には、「柔和と憤怒」の二つの形があって、これは善悪一如の表現であるとされます。
柔和相は「本有如来」の姿で、憤怒相は愚かな人間を調伏するための鬼神の姿です。
この二相は、「鬼面」と「翁面」で表現されます。

この「翁」の二相も、「荒神」の如来荒神/忿怒荒神といった二相から影響を受けているのでしょう。

また、「翁」の姿は、立烏帽子が太陽と月を象徴し、御数珠は星座を、御檜扇は十二の月を、水干は「胞衣」を、袈裟の紫色は中道を象徴しているとします。

「胞衣」が出てくることも、「翁」が「荒神」から影響を受け、また、「宿神」が「シャグジ神」であることを表しています。


<翁の化身>

「明宿集」は、「翁」が、様々な存在として化身すると言います。

まず、「翁」は、法華経、阿弥陀如来、観音と一体です。

そのため、「翁」の芸道こそ法華経に説かれている教えであり、阿弥陀如来の来迎へのまっすぐな道であるとされます。
そして、「翁」が、鼓を打ち颯爽として鈴を振る所作は、阿弥陀如来来迎の作法であり、「キリーク・サ・サク」となる鈴の声は、阿弥陀三尊の真言を表現しているのだと。

また、「翁」は、すべての諸天・諸明王と一体であるとされます。
摩利支天は「宿神」、歓喜天は「荒神」、すなわち「翁」であり、弁才天、愛染明王、不動明王も「翁」です。

「翁」は、様々な神にも顕現し、天と地を媒介する者とされます。
住吉大明神、諏訪明神、塩竃の神(塩土翁)、春日明神、先に挙げた三輪の神などです。

「翁」が住吉大明神であるということは、和歌の神であり、戦争の神でもあるということです。
禅竹は、猿楽は「歌舞」であって、「歌」を含んでいることを強調します。

また、「翁」は、猿楽の祖の秦河勝に化身しました。
そして、河勝が「大荒神」と呼ばれたいきさつを語って、「大荒神」が胎児を包む「胞衣」の象徴(つまり、胞衣荒神)であり、「翁」のまとう襅の袖もこれを象徴していると言います。

秦河勝を「荒神」であると強調する点で、禅竹は、「翁」の「鬼面」としての側面を重視していることが分かります。

また、河勝には三人の子があり、一人は武士になり、その子孫は長谷川党になりました。
もう一人は楽人となり、その子孫は四天王寺で舞いを始めました。
もう一人は猿楽者となり、その子孫が我々の円満井座の金春大夫なのです。

春日明神は「翁」と一体ですが、「春」という字を分解すると「二大日」となり、両界曼荼羅を表現しているとします。
そして、「金春」にも「春」の字があって、春日明神と深い因縁があり、春日神社で猿楽を舞ってきたのだと。

また、「翁」は、他の様々な人間にも仮現します。

「伊勢物語」の作者である在五中将業平に化身して、深淵な性愛の道を教えたのだと。
「古今集」の歌仙として出現したときには、三人翁と言う呼び名をもって、一つの本体を三つに分裂させて現れました。
禅・教(天台教学)・律・真言などの祖師はすべて「翁」と一体であり、達磨大師、聖徳太子は「翁」の霊妙なる働きを体現していたのだと。


<翁の意識論>

「明宿集」は、「翁」を精神的な側面からも説きます。

「翁」は、父も母も未だ生まれていない未発の状態の真如(本来の面目)のことだとします。
と同時に、「翁」は、常に生起していて、その慈悲の心が「翁」なのです。

つまり、「翁」は、心の根源であり、そこから顕現でもあるのです。
「翁」は、この存在とも非存在とも思える自分の心のうちにあるのです。

そして、提婆(デーヴァダッタ)と龍女の心の本性は、生命活動を方便として用いて悟りに至る「翁」の本意を現していると言います。
つまり、煩悩を悟りへ転化するということですが、これは、本来、密教的な思想です。

また、「翁舞」を舞う時の心構えを、次のように語ります。
「無心無相の状態になって」、「宇宙を舞う日月のような気品をもって」、「障りになるものは塵一つないという状態で」舞うのだと。
「鋭い利剣のような性質をもって」舞えとも言いますが、その剣は、「一念不生の剣」なのだと。


<六輪一露説>

「六輪一露説」は、猿楽・能楽における意識・動作の生成、芸の上達の段階を論じた芸能論です。
ですが、きわめて抽象的・形而上学的であり、神秘主義的な意識論になっています。
そのため、芸能だけではなく、日常的な行動にも適用できるものです。

「六輪一露」は、天台教学やその「一心三観」、神道説、密教、華厳教学、禅など、様々な思想を取り入れています。

「六輪一露説」は、最初、1444年までに、禅竹の詞と図、そして、東大寺戒壇院の僧の志玉の注を加えたものとして作られました。
志玉は華厳教学が専門であり、彼の注は中国華厳宗の澄観の法界論に基づいて書いています。

「六輪一露説」は、その後に、一条兼良による儒教サイドからの注と、禅僧の南江宗沅の後書きをつけて、「六輪一露之記」としてまとめられました。

その後も、禅竹はこの説について書き続け、「六輪一露之記注」、「六輪一露秘注(寛正本・文正本)」などを著しました。

「六輪」は、意識や舞の生成・上達段階を表現しますが、それは未顕現から顕現し、また、未顕現に戻る6段階になっています。

そして、「一露」は、「六輪」のさらに根源、世界と心身の根源であり、それが「六輪」を貫く「利剣(鋭利な剣)」として表現されます。
「一露」は水体であり、水を根源的な存在とする世界観を示しています。

「六輪一露」は、それぞれが絵図で表現されますが、これら絵図も、密教、神道説、禅の十牛図などの図像表現の影響を受けています。


<六輪>

「六輪」とその意味、図像は以下の通りです。

 (六輪) (意味)
1 寿輪:未顕現(型がない)
2 竪輪:顕現(型が生まれる動き)の始まり
3 住輪:顕現(型)の安定
4 像輪:顕現の分化(すべての型が整う)
5 破輪:回帰の始まり(型を外した型が自由に生まれる)
6 空輪:未顕現への回帰(すべての型が可能性としてある)

*意味は善竹の言葉ではなく、当ブログ主の解釈です


*寿輪・竪輪・住輪


*像輪・破輪・空輪

禅竹は、「六輪」を、「無主無物の妙用」と書いています。
また、志玉は、「真如隨縁の万法」、「流転還滅の始終」とします。
つまり、空無からの顕現と空無への帰還です。

「六輪」の進行は、第一輪が「未顕現」であり、第二・三輪は「顕現」への動き、第四輪は「顕現」の完成、第五輪は「未顕現」への回帰の動き、そして、第六輪は最初の「未顕現」への回帰です。

天台宗の山門派に、「荒神の動」と「不動明王の不動」を対で考える思想がありました。
これで言えば、第一輪と第六輪が「不動」であり、第二論から第五輪までが「動」に当たります。

志玉の注によれば、第二から第五までの四輪は、「生・住・異・滅」の四相に当たります。

一条兼良の注によれば、「六輪」は、「乾」、「元」、「亨」、「利」、「貞」、「太極」、「一露」は「無極」に当たります。


以下、「六輪一露之記」、「六輪一露之記注」、「六輪一露秘注」の禅竹自身の言葉で「六輪」のそれぞれを見てみましょう。

第一の「寿輪」は、「歌舞幽玄の根源」、「感を成すの器」、「天地未分の形」、「阿字本不生の形」、「色心不二の幽玄」、「無為無事の位」と表現されます。

そして、「歌舞一心の妙体」であり、この円相は、「音曲の息始終円相の形」、つまり、連続的な呼吸であるとされます。

第二の「堅輪」は、「立上点」、「精神と成り」、「横竪顕れ」、「天地すでに分かれ」、「一気起こる」、「神祇の元祖」、「万物生起の始め」、「序より破に移る所」と表現されます。

そして、「舞風の幽玄の至上の感」であり、「遠白体にて、峰の桜の露に匂い、秋の夜の月の雲間に冴え上がるごとく」と譬えられます。

「神祇の元祖」と書かれているように、「荒神」や国常立尊といった根源神の出現は、ここに相当します。

第三の「住輪」は、「諸体生曲を成ずる安所」、「天は天、地は地たる形」、「万像住所の落居」、「生死涅槃ここに顕わる」、「落居し収まる妙所」と表現されます。
そして、「隠れ顕われ如意」とされます。

以上の第一輪から第三輪までの「上三輪」は「清浄」とされます。
ですが、第四、第五輪に至っても、「上三輪」を留めたままに行うべきものとされます。

また、禅竹は、上三輪を「空・仮・中」の三諦、「法・報・応」の三身、「序・破・急」の三種段、そして、「式三番」と対応づけています。


次の第四の「像輪」は、「森羅万像、この輪に治まる」、「道々品々分かれ変わり」、「品々の物まね」、「分かれては竪・住、天地人の三才となる」と表現されます。

そして、人に関しては「老・女・軍の三体より…」であり、「音曲・舞・態、その物その物になりて整え分かつも上三輪を忘れず」とされます。

「像輪」の絵図は、牛が描かれているなど、十牛図の影響があります。

第五の「破輪」は、「天地十方、無尽の異相の形を成す」、「破れども…作す」、「成住壊空、成住壊空と転ずる」と表現されます。

そして、「荒く動きはたらけど高位の閑静の姿を離れず」、「異形逆風の舞踏も儚く優しき曲味至す」、「音曲闌けて舞、異相、逆風なれど上三果の矩をおのずからこえず」なのです。

第六の「空輪」は、「無主無色の位」、「元初に帰る」、「太極」と表現されます。
そして、「老木に花残れる体」、「ただいたずらに立てりといえども、月の万水に浮かび、花の匂ひの外に薫るが如くなり」と譬えられる芸の到達点です。


<一露>

「一露」は、「六輪」の根源であり、「六輪」を貫いて存在し、「剣」で表現されます。

禅竹は、「六輪一露概抄」で、「一露は寿輪いまだあらわれざる時よりの性剣、円相根本の性体、精なり」と書いています。
また、「六輪一露之記注」では、「六輪をつなぐ精心なり」とも書いていています。
つまり、「一露」は「寿輪」が仮現する前の未顕現の未顕現であり、「六輪」の根源として常に働いているのです。

そして、禅竹は、「五音三曲集」で「万物これ水体なり」、「一露はすなはち一水の初」と書いています。
また、「六輪一露之記注」で「一露」について「天地の精主、万物出生の精魂」とも書いています。
つまり、「一水」は万物の根源存在であり、「一露」はその根源の根源なのです。

禅竹が水を根源存在とする背景には、中世の神道説があります。

記紀神話では、水の中に葦牙のような根源神が生じたとしていますが、中世神話はこの水の根源性を重視します。

「類聚神祇本源」などが、「一露」を天地の初めとし、伊勢神道は、根源神を「水徳」の存在としました。
また、「神皇実録」などが、「一水」を人間の初めとしました。

「一水」、「一露」を人間の根源とする背景には、仏教の胎生論の影響もあります。

仏教の胎生論では、「胎内五位(成長の5段階)」を説いていて、その最初が「羯羅藍位」です。
密教では、男女の赤白二水の結合に「識」が加わって、人間が誕生します。
「羯羅藍位」がこの結合水とされ、それが「露」と表現されるようになりました。
つまり、仏教の胎生論で、「一露」は心身の根源なのです。

禅竹も、「一露」を心身の根源という意味で、「精心」とも表現します。
そして、「五音三曲集」では、「阿字」から「一水」が生まれ、それから不浄な「五臓」が生まれ、それから骨・肉・皮や、息・音曲・舞や、五音・五調子が生まれるという生成論を説きました。

禅竹の胎生論の背景には、胎内から見守る神とされた「荒神」信仰も想定できます。
「荒神」は、「胞衣神」でもあり、「本命神」でもありました。


また、志玉が、「一露」を華厳教学の比喩から注釈したため、禅竹もその影響を受けました。

志玉によれば、「一露」は自性清浄心であり、「真如の一心」であり、「一露」を「一心」として解釈します。

東大寺の華厳的比喩では、「一露」自身は無色であることで、周りのすべてを映します。
その点では「鏡」と同じですが、「一露」は「水」という変幻自在な根源存在であるという点で勝ります。

禅竹も、「五音三曲集」で、「水色また空なり。映すに従ってその色を現す。その色もとどまることなし」と書いています。
そして、「一露」が「大円鏡智となる」とも。

また、善竹は、「一音、一舞、一体皆この勢力なり」とも書いています。
芸能論としては、無心であれば何でも舞える、ということになります。


<利剣>

「一露」は「利剣(鋭利な剣)」、「性剣(本質である剣)」として表現されます。

禅竹は、「一露」について、「空色の二見に落ちず、自在無礙にして、一塵もさわることなし」と書いています。
また、志玉も、「六門の有相・無相を共にはらうこと、剣の万障を払うに似たり」と書いています。

つまり、「一露」は、「六輪」としての顕現、未顕現へのこだわりを切り払う「剣」なのです。

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「一露」の「利剣」の柄の部分は金剛杵のような形をしています。
「利剣」の図像表現の背景には、密教神道説の剣の図の影響が想定できます。

例えば、両部神道系の「麗気記」の神道灌頂の「日本紀本尊」は、蓮華の上に立てられた剣で表現されます。
また、密教では、三昧耶形として描かれる剣や、文殊菩薩や不動明王の持物の剣があり、この柄は金剛杵の形です。

志玉は、「一露」の「利剣」を不動明王の利剣、文殊内証の智剣であるとしています。

「剣」と「水」を結びつける思想は、神道説にあります。
「麗気記」の注釈書「神図我私鈔」は、「宝剣」と「一水」を結びつけています。
また、「大和葛城宝山記」などの中世神話では、原初の水から生まれた葦牙が、「独股金剛杵」や「天之瓊矛」になったと語ります。
この「独股金剛杵」や「天之瓊矛」は、「利剣」に変換可能な象徴です。


*参考文献

「世阿弥 禅竹」日本思想体系
「禅竹能楽論の世界」高橋悠介


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