親鸞の自然法爾 [日本]


このページでは、親鸞の思想全体ではなく、当ブログのテーマである神秘主義との接点として、「他力」を突き詰めた「絶対他力」の境地、その働きである「自然法爾」の観点から、その可能性としての解釈を行います。

阿弥陀如来の第十八願を信じて「他力」を選択することは、主体的な作為、計らいを放棄することであり、その時に現れる働きを「自然法爾」(自然な真実の働き)と呼びます。

「他力」の実践は、実際には、自然の創造性を信じて、「あるがまま」を肯定することとほとんど同じです。
「称名念仏」は易行(簡単な行法)とされますが、主体性の放棄は、実際には、日常的意識の放棄であり、決して易行ではありません。


<浄土真宗の特徴>

親鸞(1173-1263、)に始まる浄土真宗は、様々に評価されています。

真宗は、人格的な一神への信仰による救済という点で、キリスト教と似ていると言われることがあります。
それに、罪(悪人)の意識が前提にあること、神の国(仏の浄土)を目指す点でも、キリスト教と似ています。
人間の善悪の行いと関係なく救済が決まっている(決まる)という点では、カルヴィンの予定説と似ています。

また、「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」を書いたマックス・ウェーバーは、真宗がプロテスタンティズムと似ていると考えました。
五木寛之も、阿弥陀仏の「他力」の信仰を、市場原理の「見えざる手」を見るような信仰であると考えました。

また、人格的な一神への信仰による救済と、すべてを神にゆだねて信仰者の主体性を放棄していく点や、神仏の名を称えるという点では、インドのジャパ・ヨガを伴なうバクティ信仰と似ています。

ですが、この主体性を完全に放棄する「絶対他力」という部分に焦点を絞ると、別の側面が見えてきます。

この点からすれば、禅で言えば、「無心」や「自然知」に似ています。
道元の目的意識を放棄してただ座る「只管打坐」にも似ています。
称名念仏は「一念」で良いという考えは、頓悟禅に似ています。

また、道家の「無為自然」、修験道の「本有無作」や「自然智」、ゾクチェンの「自然解脱」や「無努力」、「任運(あるがまま)」にも似ています。

以下、この観点を中心に見ていきましょう。


<法然と親鸞>

親鸞は、法然を継承し、彼に帰依することを明言しています。
ですが、実際には、親鸞は法然と異なる部分を持っていました。
しかし、法然と異なる宗派を立てるようなことは意図しませんでした。

浄土教系の専修念仏宗でなくても、当時の旧仏教は、悪人でも救われるとか、念仏を称えることで救われると主張していました。
それらと異なる法然の特徴は、「大無量寿経」で語られる阿弥陀仏の四十八願の中の第十八願を絶対視する「選択本願念仏」です。

十八願は次のようなものです。

「たとい、われ仏となるをえんとき、十方の衆生が、至心に信楽して、わが国に生まれんと欲して、乃至十念せん。もし、生まれずんば、正覚を取らじ。ただ、五逆と正法を誹謗するものを除かん」

つまり、たとえ1回でも、10回でも、真心から信じて、浄土に生まれたいと望んだら、五逆(両親や僧の殺害など)と正法を誹謗する罪を犯した者以外は、浄土に生まれ変わって悟りを得られるように、という誓願です。

法然は、末法の時代にはすべての人間は平等に劣根一類なので、易行の称名念仏が浄土へ往生する最も優れた方法であるとしました。
そして、この「専修念仏」を主張する「浄土門」が、旧来の止観などの諸行を行う旧仏教の「聖道門」より優れているとしました。

この旧仏教を否定するかのような主張によって、「専修念仏」を主張する法然や親鸞らは弾圧を受けました。

浄土教の祖とされる源信が、臨終時の観仏(来迎の観想念仏)を重視したのに対して、法然は臨終時を重視せず、観仏ではなく称名念仏を重視しました。

法然は、「愚者になりて往生す」と語ったように、「選択本願念仏」は「他力」を重視して、「知」を放棄することを意味しました。
これは、「知(善行)」の宗教、「自力(自業自得)」の宗教としての本来の「仏教」の否定です。

親鸞も、そのような「他力」の思想を継承しています。
彼が、善悪人正機説を説いたとされる「善人なをもて往生をとぐ、いはんや悪人をや」(歎異抄)という有名な言葉があります。
この言葉は法然の言葉という説もありますが、親鸞はこの「善人」、「悪人」という言葉を次のように考えていました。

「善人」とは、「ひとへに他力をたのむ心欠けたる」、「自力作善」の人であり、「悪人」とは、「他力をたのみたてまつる」がゆえに「もともと往生の正因」の人のことです。
つまり、「自力」か「他力」かということです。

親鸞は、主体的な善悪の判断を放棄することを主張しただけではなく、人が善と行おうが悪を行おうが、それは過去の宿業によるものであって、実際には、主体的判断によるのではないと考えていました。

ですが、親鸞は、「悪」そのものを肯定しているわけではありません。
十八願の経文が、五逆や誹謗正法を犯した者を救済対象から除外したことを受け入れていて、そういう罪人は地獄に落ちるとしています。


<絶対他力>

親鸞は、法然を継承しながら、「他力」ということをより突き詰めたので、その思想の特徴は「絶対他力」であると言われます。

称名念仏を行う時、念仏を称えようと意図しても、浄土に行きたいと意図しても、それは「自力」になってしまいます。
ですが、親鸞は、念仏を唱えることを「自力」の善根であると考えることを否定したのです。

そして、以下のように、一切の意図(計らい)のない「絶対他力」の「他力念仏」を主張しました。

「総て万の事につけて往生には賢き思を具せずして、ただほれぼれと弥陀の御恩の深重なること常におもひ出しまゐらすべし。しかれば念仏も申され候、これ自然なり」(歎異抄)
「念仏は、まことに浄土にむまるるたねにてやはんべらん、また地獄におつるべき業にてやもて存知せざるなり」(歎異抄)

また、「自力」の念仏によって浄土に行けますが、それは真の浄土(真実報土)ではなく、仮の浄土(方便化身土、仮報土)であるとして、区別をしました。

それどころか、阿弥陀仏の「本願」に対する「信」が確立すれば、その時点で、念仏をまだ称えていずとも、往生してやがて悟りに至ることが確定する(正定聚の位を得る)と考えました。

「真実信心の行人は摂取不捨の故に正定聚の位に住す。この故に臨終まつことなし、来迎たのむことなし、信心の定まるとき往生また定まるなり」(古写書簡)

また、「自力」の放棄は、僧にとっては、「僧」として「弟子」を持つ、「布教」する、という意識の解体にまで及びます。

親鸞は、賀古の教信沙弥の影響を受けているようですが、念仏者には僧の意識を放棄した(元)僧が少なからずいました。
親鸞は、次のように語っています。

「たとひ牛盗人とはいはるとも、もしは後世者、もしは善人、もしは仏法者とみゆるやうにふるまふべからず」(改邪鈔)
「それがしはまたく弟子一人も持たず、その故は弥陀の本願をたもたしむる外は何事を教えてか弟子と号せん、弥陀の本願は仏智他力の授けたまうところなり、然ればみなともの同行なり、私の弟子にあらず」(改邪鈔)


<往相・還相の回向と横超の菩提心>

大乗仏教では、「回向」ということが認められていますが、この「回向」は、自身の「功徳」を他人に回すものなので、「自業自得」というカルマの原則から外れる原理です。
阿弥陀仏の「他力」は、誓願の力を借りて、阿弥陀仏自身の功徳を「回向」して衆生に向けたものです。

阿弥陀仏の「回向」は、衆生を浄土に向かわせる「往相」においても、浄土からこの世界に戻って衆生を救済させる「還相」においても、働きます。
つまり、悟りのために浄土に行くのも、戻って衆生を救済するのも、阿弥陀仏の「他力」に任せて行うべきものなのです。

ちなみに、浄土では、念仏ではなく、止観の正行を行って悟りに至ります。

親鸞は、「自力」の放棄を主張しましたが、それでも菩提心(他者救済を目的とする菩薩の決意)を否定しませんでした。
そして、菩提心を4種(二双四重)に分けて考えました。

「竪」を旧仏教の聖道門、「横」を専修念仏の浄土門とします。
そして、「出」は段階的な道、「超」は一挙に進む道とします。
これらをかけ合わせて4種となります。

親鸞が主張するのは、「他力」の念仏によって一挙に正定聚の位を得る「横超」であり、この菩提心を「横超の金剛心」と名づけました。


<久遠実成と法身の阿弥陀仏>

通常、阿弥陀仏は仏の一人であって、「法華経」の「久遠実成」の釈迦仏や密教の大日如来のような根源的な仏ではありません。

ですが、天台宗の浄土教には阿弥陀仏を「久遠実成」の仏とする考えがありました。
晩年の親鸞はこの考えを取り入れて、阿弥陀仏は「久遠実成」の仏であり、釈迦仏はその顕現であるとしました。

「久遠実成阿弥陀仏 五濁の凡愚をあはれみて 釈迦牟尼仏としめしてぞ 迦耶城には応現する」(浄土和讃)

また、浄土真宗の教義では、阿弥陀仏は報身であって、人格と形姿を備えた存在です。
ですが、親鸞は、報身の阿弥陀仏を「無上仏(法身)」の顕現と考えて、それを知らしめる存在であると考えました。

「無上仏と申すは、かたちもなくまします。かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。…かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめて弥陀仏と申すとぞ、ききならひて候ふ。弥陀仏は自然のやうをしらせん料(ため)なり」(古写書簡の自然法爾章、「末灯鈔」の第五通「自然法爾章」)

ここで、親鸞は、無形のものを「自然」と呼び、阿弥陀仏がそれを知らせると書いています。

このように、親鸞には、阿弥陀仏を、無形の次元と有形の次元の運動として捉える観点を持っていました。


<自然法爾>

親鸞は、86歳の時の書簡(古写書簡の「自然法爾の事」、「末灯鈔」の第五通「自然法爾章」)で、阿弥陀仏の本願力の働きを「自然法爾」と表現して、次のように書いています。

「自然といふは、「自」はおのづからといふ、行者のはからひにあらず、「然」といふは、しからしむといふことばなり。しからしむといふは、行者のはからいにあらず、如来のちかひにてあるがゆゑに法爾といふ」
「行者のよからんとも、あしからんともおもはぬを、自然とは申すぞとききて候ふ」

つまり、「自然法爾」は、善悪を判断するなどの計らいを捨てることで、受け止めることができる働きなのです。

「自然法爾」という言葉は、法然が仏願力の世界を「法爾道理」と言ったことを言い替えたものでしょう。
「法爾」という言葉は、より一般的な仏教用語では「法性」です。
また、「自然」という言葉は、「無量寿経」で浄土の荘厳の表現に使われている言葉です。

先にも引用したように、この書簡で、親鸞は、無上仏は「無形」であるので「自然」と表現し、阿弥陀仏はそれを知らせる存在であると書いています。
「自然法爾」が「無形」であるとは直接的には述べていませんが、そうであるか、それに至らせるものでしょう。


親鸞の思想は、「大無量寿経」に書かれた阿弥陀の四十八願の中の第十八願の絶対性を信じることが前提ですから、それを受け入れるには、その高いハードルを超える必要があります。

ですが、その思想の本質は、作為的な意識を捨てた時の自然なありようを信じることです。
これは、世界的に普遍性の高い思想です。

阿弥陀仏には、往相と還相の回向があるのですから、自然状態の作用にも、「無形」な悟りに向かわせる力と、「有形」に向かう「慈悲」の力があることになります。

現実の我々は、「計らい」を放棄しても、習慣化された煩悩性のものが現れることはよくあります。
ですが、仏教の一般的教義から考えると、現れるものが「無形」であれば、あるいは、「無形」になるならば、それは非煩悩性のもの、清浄な「仏性」の現れであると考えることができます。
阿弥陀仏や「自然法爾」が「無形」なものを知らしめるという作用は、この後者です。

また、後期密教やゾクチェンでは、「慈悲」を未顕現からの生成・顕現の自然な運動と解釈します。
親鸞の阿弥陀仏の還相の本願力の思想は、これと遠くはありません。


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