道元の只管打坐と身心脱落 [日本]


道元は、日本の曹洞宗の祖として知られていますが、彼は、「曹洞宗」はもちろん、「禅宗」という宗派名を使うことも否定して、ただ、仏教の正法を追求しました。
ですが、道元の説く仏法には、独特のものがあります。

道元の禅の特徴は、臨済宗の「公案禅」に対して「只管打坐」とされ、それは仏を目指すのではなく、仏として行う坐禅です。
また、道元は、真理の体現を、「見性」や「悟り」といった認識論的な考え方ではなく、心身や行為という存在論的、実践論的な考え方で捉えました。

このページでは、まず、道元の基本的な坐禅観を示す「只管打坐」と「身心脱落」についてまとめます。

そして、以下のページに続きます。
「道元の非思量と現成公案」
「正法眼蔵の七十五巻本と十二巻本」

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<道元の歩みと正法眼蔵の諸本編集>

道元(1200-1253)は、父方は源氏系の久我氏、母方は藤原氏という貴族に生まれました。

13才の時に比叡山に登りましたが、信頼できる師に出会えなかったようです。
また、天台本覚思想が正しいなら、なぜ修行が必要であるのか疑問を持ちました。

そして、1217年、17歳の時に、建仁寺で栄西の弟子の明全に従事して、6年ほどの間、臨済禅を学びました。

1223年、24歳の時に、明全に従って宋に渡りました。
宋には4年4ヶ月滞在し、大慧宗杲の孫弟子である臨済宗の無際了派と、その後を継いだ天童如浄から臨済系の禅を学びました。
天童如浄は曹洞宗の法系を継ぐ祖師でしたが、宗派を分けることに否定的で、また、「只管打坐」を説きました。

1225年、道元は、如浄の元で「身心脱落」を得て、仏祖の列に加わった(法系の継承を認められた)とされます。(実態の詳細は後述)

1227年に帰国すると、建仁寺に戻り、その後、安養院を経て、1233年に興聖宝林寺に移り、ここを禅院として約10年間の指導を行いました。

この間に、「普勧坐禅儀」(1227年)、「弁道話」(1231年)、「学道用心集」(1234年以降)、「典座教訓」(1237年)などを執筆しました。
同時に、1233年から、後に「正法眼蔵」としてまとめられる「摩訶般若波羅蜜」、「現成公案」などを書き始めました。
また、興聖宝林寺での説法に関しては、弟子が「正法眼蔵随聞記」をまとめました。

1243年、道元は、おそらく比叡山の圧力が原因で、越前に下りました。
そして、1244年には、地頭だった波多野義重の支援によって大仏寺(後の永平寺)が建設され、道元は、ここで出家した弟子を第一にして指導を始めました。

この越前に下った前後に、一種の思想的の転向があったようです。
中国の祖師である臨済や徳山、大慧らに対する評価が肯定的なものから否定的なものに変わったのです。
これは「見性」を重視する禅に対する批判という形をとります。

越前に下ってすぐに「正法眼蔵」が構想され、そのもとに文章が書き進められました。
これらは、1246年に書かれた巻までの75巻が、道元の死後に「七十五巻本」としてまとめまれました。
ですが、別にまとめられた「六十巻本」が、道元の本来の構想だとする説もあります。

1247年、道元は鎌倉へ教化の旅に出て、北条時頼に法を説くなどしましたが、成果のないままに永平寺に戻りました。

そして、この旅で思うところがあったのか、翌1248年から、「正法眼蔵」の新構想が生まれました。
この構想は、最後の「八大人覚巻」に弟子の懐奘が添えた奥書によれば、新たに書くものと、過去の巻のすべてを書き換えて、合わせて全100巻にする予定でした。

ですが、道元が亡くなる1253年までになされたのは、7巻の新筆と5巻の書き換えであり、その内の半分は草稿の段階でした。
これらは1255年に懐奘によってまとめられて、「十二巻本」と呼ばれます。

さらにその数年後、懐奘は、「十二巻本」以前の巻を、道元が編集していた巻の後に諸巻を年代順にまとめて、「七十五巻本」としてまとめました。

「十二巻本」と「七十五巻本」には、その内容、表現において大きく異なります。(詳細は別ページに後述)

「七十五巻本」に関しては、すべて書き換えるか破棄する予定だったとする説と、すでに書き換えられているなどしていて、このままで「十二巻本」と合わせて100巻を構想したとする説があります。

後者であれば、「十二巻本」と「七十五巻本」は、互いに補い合うものとなります。
前者であれば、鎌倉布教前後で思想的な転換があって、「七十五巻本」は道元の晩年の思想とは異なる価値が低いものとなります。

いずれにせよ、「十二巻本」は、その後、昭和5年まで永平寺に秘されて、ほとんど読まれてきませんでした。

*以下、道元の書の引用に関して、「正法眼蔵」の場合は「○○巻」と巻名のみを書きます。
 特に明示しない場合は、「七十五巻本」の「正法眼蔵」の巻名です。


<如浄の只管打坐と心塵脱落>

道元が、師の如浄と交わした会話は、「宝慶記」に記されています。
如浄は、以下のように、「只管打坐」と「身心脱落」を説きました。

「堂頭和尚、示していう。
参禅は身心脱落だ。焼香・礼拝・念仏・修懺・看経はいらない。ひたすらに打坐するだけだ。

拝問する。いったい身心脱落とは何ですか。
堂頭和尚、示していう。
身心脱落とは坐禅だ。ひたすらに坐禅する時、五欲を離れ、五蓋を除くのだ。

拝問する。もし五欲を離れ、五蓋を除くというのなら、それは教学者の話すことと同じです。
つまり大小乗の修行者であるのですか」(現代語訳)

まず、「只管打坐」とは、焼香、礼拝、念仏、修懴、看経などの他の行ではなく、「坐禅」に専念するべきという意味です。

そして、「坐禅」は「身心脱落」をするためのものであり、「身心脱落」は「坐禅」によってのみなされるのです。
それが「五欲を離れ、五蓋を除く」ものであると。

つまり、如浄は、心の煩悩(塵)を落とすのが「坐禅」だと言っています。
ですから、実は、如浄は「身心脱落」ではなく、「心塵脱落」と言ったのでしょう。

天台の本覚思想を学び、また、頓悟禅も知っている道元は、これに納得できず、反論しています。
そのため、「心塵脱落」を「身心脱落」と聞き間違えた、もしくは、後から意図的に言葉を変更したのでしょう。

その後、如浄が次のように語りました。

「仏である祖師たちは階級を設けない。…お前がひたすらに坐禅の功夫をして、身心脱落して来たのは、それが他ならぬ 五蓋五欲を離れる術なのである。」

「五蓋を除く」というのは、段階的に徐々に取り除いていくのではなく、坐禅時に一挙に、一時的になくなるのです。
そして、道元の坐禅が、すでに「身心脱落」してきたと語っています。

つまり、道元は、中国で、ある時、「身心脱落」して「悟った」のではなく、如浄の言葉によって、坐禅をしてきたこと、坐禅をし続けることが「身心脱落」であると理解したということです。
坐禅は、煩悩をなくしていく修行ではなく、煩悩のない状態の行いであると。

ですが、道元のほとんどの弟子を含めて、後世のほとんどの人は、「身心脱落」の体験を一種の悟りを得ることのように誤解してきました。


<道元の只管打坐>

如浄の「只管打坐」を理解した道元は、「只管打坐」に目的や作為なしに坐禅を行うことであるとの意味づけを加えました
また、「心塵脱落」ではなく、「身心脱落」であると理解しました。

道元は、坐禅について、「自調之行を作すこと莫れ」(永平広録)、「無所得無所悟」(正法眼蔵随聞記)と書いています。

つまり、煩悩をなくして悟るために坐禅を行う、あるいは、臨済宗のように公案を解いて「見性」などを得るために坐禅を行ってはいけないし、実際、何も得るところがない、悟りを得ることがないのです。

そのため、「作仏を図ること莫れ」(普勧坐禅儀)、「坐はすなわち仏行なり」(正法眼蔵随聞記)と書きます。

つまり、坐禅は、仏になる「作仏」を修行として行うではなく、仏として行う「仏行」なのです。

坐禅は単なる「修行」ではなく、仏であることを「証」するものなので、「証修一等」とか「本証妙修」と表現されます。

このように、道元の「只管打坐」は、段階的な修行によって煩悩を落として悟ることを否定しました。
ですが、その一方で、「証修一等」という形であっても、坐禅が必要であると主張したことは、修行を不要とする天台本覚思想を否定したことになります。


<身心脱落と行仏>

「身心脱落」の意味は、簡単に言えば、「私の心身」という意識を棄てて環境全体と一体になることでしょう。
道元は、「身心脱落」について次のように書いています。

「仏道をならふというは、自己をならふなり。自己をならふというは、自己をわするるなり。自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。万法に証せらるるというは、自己の身心および他己の身心をして脱落せしむるなり」(現成公案巻)

この「身心脱落」の状態は、万法に証せらるる状態、つまり、環境と一体の心身に、諸法があるがままに現れた状態です。
「仏性」が人間に内在するという発想ではありません。

重要なのは、この状態は認識されることも、自覚されることもなく、それゆえに何かを「悟る」こととは関係がないということです。

そもそも道元は、人間の認識には根本的に限界があって、真実(万法)の一面(一法)しか理解できないと考えています。

「身心を挙して色を見取し、身心を挙して声を聴取するに、したしく会取すれども、かがみに影をやどすがごとくにあらず、水と月とのごとくにあらず。一方を証するときは、一方はくらし」(現成公案巻)

そして、道元は次のように書いています。

「諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。しかあれども証仏なり。仏を証しもてゆく。」(現成公案巻)

「諸仏かならず威儀を行足す、これ行仏なり。行仏…本覚・始覚にあらず、性覚・無覚にあらず」(行仏威儀巻)

「参禅とは心身脱落である。これは待悟を基準とするのではない。…待悟でないというのは、大悟を目的として道を学んではならない」(大悟巻-草案本:現代語訳)

つまり、認識や意識と関係なく、仏が行為の中に現れる(行仏、証仏)のです。

このように、道元は「身心脱落」を、何かを悟る認識や自覚ではなく、悟った状態である境界のない心身の存在や行為と理解しています。
これは、「見性」を主張する禅の一派に対する批判です。
同時に、「始覚・本覚」といった言葉を否定的に使っているので、本覚思想の批判にもなっています。

このように、道元が、仏性(万法)は認識されるのではなく、行為の中に現れると考えたことは、カントが物自体(叡智界)は認識されず、実践の中で実現されると考えたことと似ています。

ただ、特に初期の道元の表現には揺れがあって、「悟る」というような「見性」的表現もないわけではありません。

*「道元の非思量と現成公案」に続きます。


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