道元の非思量と現成公案 [日本]


道元の只管打坐と身心脱落」から続くページです。

このページでは、道元が坐禅中の状態を表現した「非思量」や「公案現成」、その先にある「行仏」、「仏向上」、そして、日常生活で起こるべき「現成公案」について紹介します。

また、あらためて、道元の「仏性」に関する考え方についてまとめます。


<入頭、出身、仏向上>

「只管打坐」や「証修一等」を説く道元は、坐禅を「仏法の全道」(弁道話)であるとも表現しています。
そのため、修行・仏道を段階的に説くことはしていません。

ですが、実際の体験において、2段階、もしくは、3段階で考えていたことを読み取ることはできます。

最初は、道元が、「入頭」、あるいは「十分の会」と呼ぶ段階で、一般には「証悟」と呼ばれる無分別な状態になる体験です。
そして次が、「出身」、あるいは、「一半の証」と呼ぶ段階です。

道元は、次のように書いています。

「たとい、会に誇り悟に豊かにして、瞥地の智通を獲、道を得、心を明らめて衝天の志気を挙し、入頭の辺量に逍遥すといえども、ほとんど出身の活路を虧闕す」(普勧坐禅儀)

「証悟を放棄して自己に戻ってくる、故にいまだ留まることなく行じ続けることになる。…まず「十分の会」の段階があり、次いで「一半の証」を行い続けてくるということは、この禅定の法にのみある」(普勧坐禅儀-天福本:現代語訳)

つまり、証悟の智を得て「十分の会」を得て「入頭」しても、それを放棄して、自己に戻って行じ続ける「出身」、「一半の証」が必要なのです。

また、道元は、「出身」について、次のように書きます。

「法身に妨げられてはらなない。もし、法身に妨げられてしまったら、少しでも身を転じようとすることも不可能となる。出身の道があるべきである。…言わない、言わないとしてきた古仏が言ったことがある、…この度生ということに仏法は究尽していると心得るべきであり、説くべきであり、称すべきである」(唯仏与仏巻-別本)

このように、「出身」は、無分別で主客のない「証悟」の「法身」の状態から出て、再度、主体的・相対的な自分に戻るのです。
そして、「出身」は説法に至ります。

また、道元は、「出身」と似たこととして「仏向上(仏向上事)」についても書いています。

「ただひとへに仏向上なるゆえに非仏なり。その非仏といふは、脱落仏面目なるゆえにいふ、脱落仏身心なるゆえにいふ」(仏向上事巻)
「いはゆる仏向上事といふは、仏にいたりて、すすみてさらに仏をみるなり」(仏向上事巻)

つまり、仏が身心に顕現した後、仏の面目・身心を脱落させ、仏を対象化することが「仏向上」です。

道元は、「仏向上」を「行仏」とも表現して次のように説きます。

「しるべし、諸仏の仏道にある、覚をまたざるなり。仏向上の道に行履を通達せること、唯行仏のみなり。…行仏にあらざれば、仏縛法縛いまだ解脱せず、仏魔法魔に黨類せらるるなり。」(行仏威儀巻)

行仏・仏道は、覚を目指すものではなく、それなしには、仏や法に縛られて魔になってしまうのです。

このように、「出身」と「仏向上」は同じことかもしれませんが、坐禅の体験だけでなく日常の生活や説法まであるので、ここに複数の段階が考えられます。


<非思量と公案現成>

「只管打座」の坐禅は、基本的に思考や作為をなくして行う、「作仏」ではなく「仏行」です。

「心意識の運転をやめ、念想観の測量を止めて、作仏を図ることなかれ」(普勧坐禅儀)

ですが、生まれた雑念について、「普勧坐禅儀」の最初の版である天福本では、次のような法雲円通の「坐禅儀」の言葉を引用していました。

「念起こらば即ち覚すべし。これを覚すれば即ち失す。久久に縁を忘れ、自ら一片に成る」

雑念が起こったらすぐに自覚して、それが消滅するようにすれば、いずれ雑念はなくなるのです。
ですが、その後の普及版では、次のように書き換えました。

「不思量底を思量せよ。不思量底、如何が思量せん。非思量。これ乃ち坐禅の要術なり」(普勧坐禅儀)

現代語訳すると、「思考(作為)しないはてを思考(作為)せよ。…それは非思考(非作為)である」となります。
これは薬山惟儼の言葉ですが、「非思量」とは具体的にはどのような思考なのでしょうか?

「坐禅儀」が坐禅の形を説くのに対して、「坐禅箴」はその本質を説くものです。
「坐禅箴巻」では、この言葉をいろいろと解説していて、「不動の坐禅にも我がある」などと書いていますが、要を得ません。

「坐禅箴」では、この後、宏智正覚の言葉、「事に触れずして知る知る、その知、自ら微なり。縁に対せずして照らす、その照、自らを妙なり」を引用してこれを解説しています。
つまり、外界に由来しない無分別的で非対象的な思考ということです。
その知の形は山河であり、活発発地であり、鳥が飛び去ると空も飛び去る、などとも表現しています。

「普勧坐禅儀」では、この後、「坐禅は、習禅にはあらず、ただこれ安楽の法門なり、菩提を究尽するの修証なり。公案現成、羅籠未だ到らず」と書いています。

つまり、仏性(菩提)を万法として十分に顕現(究尽)させるということです。
「非思量」がこの仏性の顕現であり、それを「公案現成」と表現しています。


道元は、不動の坐禅の要を「正身端坐」という座る時の姿勢としています。
ですが、もう一方で、「豈坐臥に拘らんや」(普勧坐禅儀)と書くように、坐禅という行為にこだわらないようにせよと書いています。

道元は、「作法是宗旨」(正法眼蔵・洗浄)とも書き、日常生活上の作法を厳密に規定していて、これが日常行為を修行と化しています。

「正身端坐」が「只管打座」のメソッドであるように、「作法」が日常行為の修行のメソッドなのでしょう。
それによって、その時々の「行為になりきる」ことを目指しているのでしょう。

では、この日常でも、「公案現成」がなされるのでしょうか?

*只管打座の坐禅の具体的な方法については姉妹サイトの下記ページもご参照ください
>只管打座
>只管打座と他のメソッドとの違い


<現成公案>

「七十五巻本」の最初に置かれているのが、「現成公案巻」です。
大慧の「正法眼蔵」では、「公案」は古則(古師が悟りに至った問答・逸話)のことです。

ですが、道元にとって「公案」は、普遍的原理である「仏性(仏法)」のことです。
「只管打坐」の坐禅の結果、それが現れることを、「現成公案」と表現しています。

道元は、先にあげたように「普勧坐禅儀」で、坐禅で「公案現成」すると書いています。
また、「坐禅箴巻」でも、「行仏」によって「公案現成」すると書いています。

「作仏を求めざる行仏あり。行仏さらに作仏にあらざるがゆえに、公案現成なり」(坐禅箴巻)

道元が「公案現成」と「現成公案」を書き分けているかどうかは定かではありませんが、実際、違う意味で使われています。

先に引用した、「現成公案巻」の「仏道をならふというは…身心をして脱落せしむるなり。」という有名な文章の後に、次のように書いてあります。

「悟迹の休歇なるあり、休歇なる悟迹を長長出ならしむ」(現成公案巻)

つまり、悟りの跡をなくして、跡の見えない悟りを伸ばしていくのです。
これは、「仏向上」の段階のことを述べているのでしょう。

道元は、さらにこの後で、「現成公案」について、次のように書いています。

「しかあるを、水をきはめ、そらをきはめてのち、水そらをゆかむと擬する鳥魚あらむは、水にもそらにもみちをうべからず、ところをうべからず。このところをうれば、この行李したがひて現成公案す。このみちをうれば、この行李したがひて現成公案なり」(現成公案巻)

つまり、「現成公案」は、仏道を究めたところで起こるのではなく、道を進んでいる途上で起こります。
そして、「行李(行履)したがひて」というのは、坐禅の成果が日常に及んでということです。

つまり、「公案現成」は坐禅中の事態に対して使われていたのに対して、「現成公案」は日常の行為の事態として使われています。

ちなみに、道元は「公案見成」という言葉も使いますが、これは行為の中に万法が現れるのではなく、認識対象として一法(諸法)が現れることを意味します。

「現成公案」は「正法眼蔵」の始めの巻名ですから、道元は、坐禅中の体験だけではなく、日常生活を重視していたことが分かります。

・入頭 :公案現成:万法 ?
・出身 :公案見成:一法 ?
・仏向上:現成公案:一行 ?


<仏性と諸法実相>

では、「公案現成」や「現成公案」、「公案見成」のもとになる、道元の「仏性」や「諸法実相」に関する考えはどうなっているのでしょう。

道元は、「仏性巻」で、「仏性」は人間の中にある知的な意識でもなく、人間の中で種子のように育つものではなく、すべての存在そのものであると書いています。

「たれかいふし、仏性に覚知覚了ありと。覚者知者はたとひ諸仏なりとも、仏性は覚知覚了にあらざるなり。…仏性かならず悉有なり、悉有は仏性なるがゆゑに」(仏性巻)
「ある一類おもはく、仏性は草木の種子のごとし。…かくのごとく見解する、凡夫の情量なり」(仏性巻)

そのため、如来蔵思想を表明する「大般涅槃経」の有名な命題「一切衆生悉有仏性」も、「すべての人間はみな仏性を有している」と読みません。
「すべての人間は、あらゆる存在である仏性である」と読みます。

つまり、「悉有=仏性」であり、「一切衆生∈悉有」なのです。

この「仏性」は、時が至れば、主客なくただ見る(当観)ことで顕現します。

「時節若し至れば、仏性現前す。…有漏智、無漏智、本覚、始覚、無覚、正覚等の智をもちゐるには観ぜられざるなり。当観といふは、能観所観にかかはれず、正観邪観等に準ずべきにあらず、これ当観なり」(仏性巻)

道元は、上の文章で、「本覚」や「始覚」といった言葉を否定的に使っているので、本覚思想に対して批判的立場に立っていることが分かります。

「当観」という表現を使っているので、「仏性」は認識されるもののように感じます。
ですが、これはあくまでも主客未分な体験であり、「当観」が「仏性を超えた仏性(脱体仏性、仏仏聻)」とされます。


また、道元は、「諸法実相巻」で次のように書いています。

「仏祖の現成は、究尽の実相なり、実相は諸法なり。諸法は如是相なり、如是性なり、如是身なり…如是相は一相にあらず、如是相は、一如是にあらず。無量無辺、不可道、不可測の如是なり」(諸法実相巻)

諸法は「無量無辺」であり、「不可測」であるとします。

つまり、仏祖には、「諸法」が「実相」として顕現(現成)し尽くしています。
ですが、「実相」は「諸法」の顕現の一面であり、「一相」はさらにその一面でしかありません。
「諸法」の顕現は無限で理解を超えたものです。

ですから、「身心脱落」の「仏行」は、顕現(現成)する無限の万法に開かれていますが、認識できる顕現(見成)は、そのごく一部、一相、一法ごとなのです。


*「正法眼蔵の七十五巻本と十二巻本」に続きます。

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