白隠慧鶴の公案体系 [日本]


白隠慧鶴は、日本臨済宗の中興の祖とされます。
日本の臨済宗、黄檗宗の印可を受けた正師は、現在、すべての白隠の法系に当たります。

白隠は「隻手音声」の公案を作ったこと、そして、禅の歴史の中で、本格的な公案による段階的な修道体系を初めて作ったことで知られています。
その公案体系は「悟後の修行」を重視するもので、彼はそれによって優秀な弟子を育てました。

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*自画像


<白隠の人生>

白隠慧鶴(1685-1768)は、駿河の浮島原宿の駅長をしていた長沢家を生家として生まれ、母は日蓮宗の熱心な信者でした。
父方の杉山家は熊野水軍の末裔の家柄で、臨済宗の松蔭寺を中興した和尚の親戚筋でした。

白隠は、幼少時にある上人から地獄の話を聞いて強い恐れをいだき、それをきっかけに15歳の時に松蔭寺に出家をしました。
「法華経」にも親しみながらも禅宗の松蔭寺に出家したのは、「法華経」を評価していなかったからでもありました。

その後、白隠は、各地を渡り歩いて何人もの禅師に参じました。
一時、仏法を信じられなくなり、詩、画、彫刻に遊んだこともありましたが、信を取り戻しました。
そして、美濃の馬翁のところで「趙州無字」の公案に挑み始めました。

*「趙州無字」の具体的な瞑想法については姉妹サイトの下記ページを参照ください
無字の公案の瞑想

そして、白隠が24歳の時、越後の英厳寺で、ある晩、坐禅中に暁の頃に寺の鐘が鳴った瞬間に大悟しました。
いわゆる無分別・無我を自覚する「見性」体験です。(詳細後述)

ですが、寺には白隠の体験を理解し、指導できる師がおらず、白隠は天狗になって「見性」の体験に満足して、その先に進むことはできませんでした。

ですが、信州の小さな村の庵に優れた禅師がいると聞いて会いに行き、その弟子になりました。
その禅師は正受老人こと道鏡慧端です。

正受老人は、16歳の時、階段を登る途中に独悟した天才的人物です。
その後、至道無難に印可を得て、彼の後を譲られるも、断って山林に隠れるようにして少人数の弟子の指導をしていました。

正受老人は、白隠を「鬼窟裏」、「死禅和」だと、つまり、「見性」に閉じこもっていると厳しく批判して、白隠の境地を先に進める「悟後の修行」を促しました。

白隠は、その後、正受老人から後を継ぐように言われるも、兄弟子がいたので断りました。その後、訳あって正受老人のもとを去りました。

白隠が正受老人の指導を受けたのは、わずか8か月の間だけでした。
ですが、白隠は、その後の生涯をかけて、その教えを理解し、体得することに尽くすことになりました。

正受老人の元を離れた白隠は、その後も、坐禅修行に励みつつ、各地の禅師を尋ねて参じました。
ですが、正受老人以上の師には出会えませんでした。

白隠は、26歳の時、禅病を患いましたが、洛東の白川山中の白幽真人に「内観法」と「軟酥の法」を習って克服したとされます。
白隠は、このことを「夜船閑話」として著しました。

*この具体的な瞑想法については姉妹サイトの下記ページを参照ください
禅病の治療法

白隠は、33歳の時に、松蔭寺の住職になり、翌年に「白隠」と号しました。
彼は生涯、松蔭寺を本拠としました。
「白隠」の名の由来は、おそらく末法思想の「白法隠没」に由来しますが、白雪に隠れた富士山に由来するとする説もあります。

白隠は、42歳の時に、「法華経」の「譬喩品」を読んでいて、こおろぎが鳴く声を聞いた時、法華の妙理を理解し、正受老人の声を聞き、号泣しました。
彼は、この時、正受老人の教え(平生の受用底)を理解したと書いています。
ちなみに、「譬喩品」は、菩薩道と日常の中の真理を説きます。

その後、白隠の名は各地に知れ渡るようになり、各地で説法、指導に尽くしました。

また、63-64歳頃には、有名な「隻手音声」の公案を考案しました。(詳細後述)

白隠は、「息耕録開筵普説」(1740)、「夜船閑話」(1741)、「遠羅天釜」(1749)、「宝鑑貽照」(1758)、「坐禅和讃」(不明)など、多数の漢文和文の著作類をなしました。

また、書画でも多数の作品を残し、その非凡な才能を評価されています。


<隻手音声>

白隠が1747-8年頃に考案した有名な公案に、「隻手音声」があります。
「両掌相打って声あり、隻手に何の音声がある」という極めて短く単純な公案です。
この公案は初関のための公案、つまり、最初に出され、「見性」を得るためのものです。

白隠自身は、最初に「趙州無字」の公案に挑んで、大変、苦心したという経験があります。
「趙州無字」はテーマが抽象的であるため、現実を離れた領域として捉えられがちです。
ですが、「隻手音声」は具体的なので、そういう欠点がありません。

白隠は、「隻手音声」について書いた書簡(1753)で、片手とは、一切の何かであるものそれ自体を示し、何ものでもない私を示す、と説明しています。
そして、片手の声が会得される時には、日常のすべての振舞いが、人に本来備わる活きた三昧、深い落ち着きを持つようになるのだと。

ちなみに、白隠が考案した公案は、他に以下のものなどがあります。

「印籠の中より富士山を出してみよ」
「海上の帆かけ船を止めてみよ」
「東海道に一人の人も通らぬのはなぜか」


<見性体験>

白隠は、「見性」を得る体験について、次のように書いています。

「純一無雑、打成一片の真理現前して…真正大疑現前底の時節と申すことに侍り」(遠羅天釜)

「私去十分、胸間時々熱悶して、忽然として話頭に和して身心ともに打失す。是嶮崖に撤する底の時節という。豁然として歎息し来れば、水を飲んで冷暖自知する底の大歓喜あらん。これを往生と名づけ、見性という」(遠羅天釜続集)

「参禅は疑団の凝結を以て至要とす。…胸中一点の情念なくして、ただ一箇の「無」の字のみあり。…是を大撤妙悟、カ地一下の時節(「カ」はくにがまえに「カ」)という」(遠羅天釜続集)

「「無」の字を参究して、大疑現前し、大死一番して大歓喜を得る底は、数限りなく是れあり」(遠羅天釜続集)

つまり、公案を胸に抱いて坐禅を続けると、やがて我がなくなり、その解けない公案そのものと一体化します。
この状態を白隠は、「打成一片」とか、「疑団(の凝結)」、「大疑現前底の時節」と表現します。

そして、ある瞬間に「大歓喜」と共に「見性」が得られます。

白隠の場合、寺の鐘が鳴った瞬間に悟りました。
つまり、三昧の状態が何らかのきっかけで破れて自覚を持った瞬間に、「見性」を得られるのです。

白隠は、「見性」を、「往生」とか、「大撤妙悟」、「カ地一下の時節」と表現します。
「カ地一下の時節」というのは、思わず一声を発する機会といった意味です。

正受老人は、これを「正念の決定」と呼びます。
ですが、ここに留まらずに行う「悟後の修行」を重視し、それを「正念の相続」と表現しました。

「悟後の修行」は、坐禅だけではなく、日常が重視されます。
正受老人はこれを「不断禅」、白隠は「動中の工夫」などと表現しました。

もちろん、「悟後の修行」は、白隠以前の禅宗でも、仏教でも説かれてきたことです。
中観派では「後得智」、浄土門では「還相」、神秘主義一般では「下降道」に当たるものです。
白隠の特徴は、それを公案の修道体系として整備して、弟子を育てたことです。


<公案体系と洞山五位>

公案の段階については、日本では白隠以前に、聖一国師(1202-1280)の、「理致」→「機関」→「向上」の3段階で考える簡単なものがありました。
白隠はこれを5段階へと精密化しました。

白隠の公案体系については、例えば、高弟の東嶺円慈が「宗門無尽燈論」で説いています。

白隠の公案体系のベースには、「洞山五位」の思想があります。
これは、中国の9Cの禅師で曹洞宗の祖である洞山良价が、禅の境地を5段階で考えて、五連章の長短句の頌として表現したものです。

白隠は、若い頃に正受老人から「洞山五位」を伝授されています。
ですが、白隠は66歳の時に「洞山五位偏正口訣」で、やっとその奥義を理解できたと書いています。
そして、70代の著作の「宝鑑貽照」、「荊叢毒蘂」などでもこれについて説明しています。

 (五位)   (意味)          (智) (三身)
1 正中偏:無差別に至る         :大円鏡智:法身
2 偏中正:無差別の中に差別が顕れる   :平等性智:報身
3 正中来:慈悲と共に差別が顕れる
4 偏中至:差別即無差別、自利即他利に至る:妙観察智:報身と化身
5 兼中到:差別と無差別が合わせて行き着く:成所作智:化身

「正」は無分別・平等・空・理であり、「偏」は分別・差別・色・事です。

1の「正中偏」は、正の中に偏が帰する位で、無差別の境地であり、ここに留まれば現実の差別相に至りません。大円鏡智、法身はこれに当たります。

2の「偏中正」は、偏の中に正が覚めている位で、一切の差別は平等で、一切の外の世界が自己であるとする境地であり、やはり、ここに留まれば現実の差別相に至りません。平等性智、報身はこれに当たります。

3の「正中来」は、正中より自ずと働き出て来る位で、現実の差別相が働き、慈悲を起こして四弘誓願を行ずる境地です。

4の「偏中至」は、3の状態と同時に、偏中に至る位で、自利即他利となる境地です。
妙観察智、報身と化身がこれに当たります。
公案では「難透」がこれに当たります。

5の「兼中到」は、3と4が兼ねて到った位、つまり、差別と無差別が合わせて行き着くところです。
成所作智、化身がこれに当たります。

ただ、白隠は、洞山の第五の頌を不満として、雲門宗の雪雲「祖英集」の中の徳雲の下記の句が適しているとしました。

「疲れ果てた徳雲老人は
幾たびも幾たびも、妙峰の山を下る
彼はあの馬鹿聖人を相棒にたのんで
せっせと二人で雪を担い、井戸を埋め立てるのだ」(現代語訳)


<白隠の公案体系>

白隠の公案体系は、「法身」→「機関」→「言詮」→「難透」→「向上」の5段階で構成され、さらに、「五位・十重禁戒」→「末後の牢関」→「最後の一訣」がそれに加えられます。

1 法身:見性、本来の面目
2 機関:具体的な行為で表現
3 言詮:言語で自由に表現
4 難透:煩悩の残りをなくす
5 向上:悟臭を抜く
6 五位・十重禁戒:公案の整理、般若の立場からの戒の理解
7 末後の牢関:最後を尽くす
8 最後の一訣:最後の最後を尽くす

1の「法身」は、「初関」である「見性」、つまり悟りを得るための公案です。
これによって「本来の面目」を現わします。
これに当たる公案には、「本来面目」、「趙州無字」などがあります。

2の「機関」は、悟りを日常での具体的な働きとして現わすもので、禅宗では「全体作用」や「機用」といった言葉で表現されます。
行為で表現された公案や、行為で表現して回答する公案もここに含まれます。
これに当たる公案には、「水上行話」、「南泉斬猫」などがあります。

3の「言詮」は、悟りを言語で自由に表現することです。
これに当たる公案には、「日々是好日」「雲門屎橛」などがあります。

4の「難透」は、この公案を通ることが難しいという意味で、煩悩の残りカスをなくすためのものです。
これに当たる公案には、「牛過窓櫺」、「南泉株花」などがあります。

5の「向上」は、悟臭を抜く、つまり、仏や悟りといったことへのこだわりをなくすための公案です。
これに当たる公案には、「暮雲之頌」「白雲未在」などがあります。

6の「五位・十重禁戒」は、公案ではなく、改めて以上の5段階の公案を整理して理解するのが「五位」で、般若の立場から戒を理解するのが「十重禁戒」です。

7の「末後の牢関」は、最後を尽くさせるための公案で、決まった公案があるわけではないようです。
ですが例えば、「臨済一句白状底」などが使われるようです。

8の「最後の一訣」は、さらに最後の最後を尽くす公案として、これを設ける場合があるようです。
やはり、特定の公案がきまっているわけではないようですが、最初の「趙州無字」が使われることもあるようです。

*白隠の公案体系については姉妹サイトの下記ページもご参照ください。
白隠の公案禅の階梯:公案
白隠の公案禅の階梯:階梯


<白隠の法系と思想的位置>

白隠以前の禅、特に臨済禅の大勢は、宋代禅を輸入したものでした。

「碧巌録」が重視され、公案一則ごとに著語をつける「文字禅」、つまり、知識が重視される禅であり、「見性」という悟りの体験を重視するものではありませんでした。
ちなみに、「碧巌録」には「趙州無字」も収録されていません。

特に京都の禅宗は、江戸幕府の管理体制の中で、保守的で知識重視のものになっていました。

一方、江戸時代に中国からやってきた隠元の黄檗宗(臨済正宗)は、明代の「念仏禅」の亡命でした。

それらに対して、江戸時代には、「不生禅」の盤珪のように、公案禅も教学も、いや坐禅すら否定して、簡易な日本語で民衆に説く禅師が現れました。
それは唐代以前の、その場のその人を見て説く禅であり、また、日本の禅の誕生でもありました。

また、関東、江戸でも、庶民に向けて簡易な日本語で説く、伝統にとらわれないような、新しい日本の禅が生まれました。
これには、仁王禅(観仏禅)の鈴木正三、白隠が五百年間出の人と評価した愚堂や、その弟子の無難らがいます。

白隠もこの潮流にあり、関東禅のこの系譜は、次のように考えることができます。

・愚堂東寔→至道無難→道鏡慧端(正受)→白隠慧鶴

また、白隠は、自身自身も五百年間出の人物であり、日本に伝えられた禅宗の唯一の正統であると考えていました。

白隠の「息耕録開筵普説」(1740)は、宋代の禅師の虚堂智愚の語録の解説ですが、そこで自身の法系を妙心寺派から虚堂にまで遡らせました。

・虚堂智愚→大応国師(南浦紹明)→宗峰妙超(大燈国師)→関山慧玄

先に述べたように、白隠は、「見性」と「悟後の修行」の両方を重視し、方法論においては公案禅の正しいあり方を求めました。
そして、その立場から、他を批判しました。

盤珪の弟子らによる「不生禅」や「黙照禅」に対しては、「見性」がない「そのまま禅」になりがちであり、「見性」があってもそこに留まって「悟後の修行」がないと批判しました。
また、「念仏禅」に対しては「見性」がない、隠元の黄檗宗は正当な公案禅を継承していないと批判しました。

また、白隠は、諸宗の瞑想法、つまり、天台の止観、真言の阿字観、浄土門の称名念仏、曹洞の只管打座などを、「無字」の公案の別ヴァージョンと捉えて、実践の観点から諸派を統合しようとしました。

白隠は、各地に名を知られた禅師となりましたが、臨済宗の僧位では低い立場でした。
ですが、彼が新しい形の教団を目指したのではないかと見る説もあります。(柳田聖山「臨済の家風」)
つまり、幕府や臨済宗の本末制度や檀家制度とは異なる形態の組織化を行ったということです。

白隠が、晩年に至るまで各地を説法して歩いたのは、そのネットワーク作りとなりました。
また、多数の著作類を著し、自費出版にも携わったのは、その運営資金のためだったかもしれません。


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