平田篤胤と久延彦祭式 [日本]


平田篤胤は国学(古道、復古神道)の「四大人」の一人で、荷田春満、賀茂真淵、本居宣長を継ぐ人物とされます。

ですが、篤胤は、諸宗教、文学以外にも、天文、暦学、地理、医学、蘭学、物理、兵学、易学などの諸学に秀でていたルネサンス的万能人でした。

そして、宣長らが文献学・注釈学方法をとる学者であったのに対して、篤胤はフィールドワーク的、さらには、修行実践をともなう体験的方法もとりました。

また、宣長が「現世」を重視し、抽象的思考を否定したのに対して、篤胤は「幽世」を重視し、抽象的な思考も許容しました。
そのため、明治から昭和にかけての「霊学(古神道神秘学)」の起点的存在になり、本田親徳や友清歓真にも影響を与えました。

このページでは、篤胤の幽冥界研究、心霊研究、霊学的側面を中心に彼の思想をまとめます。

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<歩み>

平田篤胤(1776-1843)は、秋田藩士の大番組頭だった大和田祚胤の四男として生まれましたが、幼い頃に里子に出されて育ちました。

二十歳の時に江戸に出て、苦学の末、1800年に、備中松山藩の江戸勤務の軍学者、平田藤兵衛の養子になりました。

その翌年、本居宣長の書に接して国学に傾倒し、1803年には、宣長国学の立場で儒教へ反駁した初の著作「呵妄書」を書き、1805年には、本居春庭に入門しました。

1807年には、医者として開業し、吉田長淑に入門して蘭学も学びました。
1808年には、白川家から神職教導の依頼を受け、「神祇伯家学則」の改正も手掛けました。

1811年には、「古道大意」、「古史徴」、「古史成文」、「古史伝」、「霊能真柱」といった彼の主著の執筆を進め、その一部を完成させたり、草稿を完成させたりしました。

1813年には、「霊能真柱」を出版し、宣長を継承しながらも独自の国学・古道を世に問いました。
この書では、宣長とは異なる死後観を描いています。

1820年、篤胤は、仙童寅吉に出会い、彼に仙境について聞き取った書を「仙境異聞」を著し、1822年に出版しました。
また、1821年には、妖怪と対決した体験を持つ稲生平太郎に関する調査をまとめた「稲生物怪録」、1823年には前世に記憶も持つ勝五郎に関する調査をまとめた「勝五郎再生記聞」なども著し、この頃、フィールドワークによる心霊・異界研究に邁進しました。

その一方、1821年の「密法修事部類稿」では、密教の修法を研究し、独自の神道の行法を考案しました。

1823年には、宣長の墓参を兼ねて上京し、本居大平、春庭らと面会しました。
本居門人の間では、信篤胤派と反篤胤派に分かれていましたが、長老格の服部中庸は、篤胤を本居門人の中で及ぶ者はいないと評価していました。

また、京都で吉田家を訪問し、吉田家より神職教導の依頼を受けました。
白川家と合わせて神道の二大家元から認められる神道家となったわけです。

1831年頃からは、新しい暦や度量衡制関係の著作を出版し始めました。
また、この頃には、篤胤門人は400人を越えるまでになりました。

1839年の「古史本辞経―五十音義訣」では、言霊宇宙論を展開しました。

ですが、1841年、蘭学の取り締りを強めた幕府から、江戸退却(秋田への帰還)と著述差し止めの命を受けてしまいます。
度量衡や暦の著作が危険とされたものと推測されています。
篤胤は、いち早く地動説を受け入れ、アレゴリー暦(太陽暦)の正しさを主張するなど、諸制度改革を推し進めようとする進歩派だったのです。

その後、1846年に江戸追放は免除され、1869年(明治2年)には、大学小助教に任じられて東京に戻りました。

ですが、1871年に亡くなり、没後は、白川家から「神霊真柱大人命」という諡名霊神号をもらって、平田神社で祀られています。


<真の古伝>

篤胤は、1810-1811年頃から、「古道大意」、古史三部作の「古史成文」、「古史徴」、「古史伝」、「霊能真柱」といった主著の執筆を進め、一部を完成させました。

「古史成文」は、彼が信じる「真の古伝」を復元した書で、1818年に出版されました。
「古史徴」は、その論拠に関する書で、1819年に出版されました。
「古史伝」は、その注釈書で、生涯書き続けた大著です。
生前に28巻まで完成し、29、30巻は書きかけのまま亡くなりましたが、その後、矢野玄道が継承して、1886年に全37巻を完成させました。

「真の古伝・古道」が存在するという国学の発想は、西洋オカルティズムにもある同時代的な現象でもありました。

宣長が「古事記」を絶対視したのに対して、篤胤は、「古道」を「古事記」、「日本書紀」、「古語拾遺」、「風土記」などの書を総合して復元しました。
また、彼は、記紀には各氏族の古伝を集めたもので混乱があるとして、「祝詞」をより重視しました。

また、篤胤には、両部神道や吉田神道にあった「根本枝葉果実論」と同様の思想を持っていました。
つまり、日本の「古道(真の古伝)」は、世界の最古で真実の道であり、儒教や仏教などはそのヴァリエーションに過ぎないとする考え方です。
そのため、記紀などに欠けた点を、他の宗教、他の国の古伝・聖典で補うことも可能になります。

つまり、日本中心主義による神道・古道の普遍化です。
この点でも、篤胤は宣長と異なります。

篤胤は、例えば、中国やインドの古典に記された上帝、閻魔は大国主、インドラは邇邇芸命、シュメール山は「すめら(皇)」に由来するなどと書いています。


<霊能真柱>

篤胤は、1813年に出版した「霊能真柱」で、「霊の真柱」を築くこと、つまり、「大倭心」を確立することを主張し、そのためには、死後の霊魂の行方について解明して安心することが必要であるとしました。

「霊能真柱」は、最初に宇宙生成論を説きます。
これは、宣長門下の服部中庸による「三大考」(1791)を紹介しながら、ほとんどこれを継承するものです。

「三大考」は、天・地・泉(黄泉)と神々の生成過程を、記紀をもとに推定した書です。
宣長は記紀神話の冒頭を宇宙開闢として解釈しなかったのですが、この書は宣長の世界観を宇宙生成論の方向に発展させました。
宣長門下では賛否がありましたが、宣長自身はこの書を評価しました。

「三大考」は、虚空に天之御中主神、高皇産霊神、神皇産霊神の造化三神が成った後、一物が成り、それが分離して天(=太陽)・地・泉(=月)になった、とします。

ちなみに、黄泉国と夜見国、須佐之男命と月夜見尊を同じではないかと推測したのは宣長です。

また、篤胤は、高皇産霊神は「顕事(現世)」を司り、神皇産霊神は「幽事(死後の幽冥界)」を司るとし、「天津祝詞」の男女神の神漏岐、神漏美であるとしました。
両神は、「大産霊神」と表現される根源神であり、天上で万物を主宰する大父母であり、人間の心身を与える存在です。

ちなみに、後に篤胤は、この宇宙生成論に言霊論を一体化させます。(詳細は後述)

また、宣長が天照大神の荒魂であり悪神であるとした「禍津日神」を、篤胤は、善神/悪神で考えず、穢れがあると荒ぶるのだとしました。
そして、高天原の天照大神の和魂が「直毘神」であり、黄泉国の須佐之男命の荒魂が「禍津日神」であり、人間にはこの2つの霊が、車の両輪のように与えられていると考えました。

宣長は、死後の霊魂は、善人でも悪人でも「黄泉国」に行って惨めに過ごすという死後観を持っていて、死後の魂の安らぎがないのが「真実の神道の安心」であると主張しました。

それに対して篤胤は、死後の霊魂は、大国主が主宰する「幽冥界(冥府、八十隈手、常世)」で、親族を見守って永遠に暮らすと考えました。
「幽冥界」は、須佐之男が主宰する穢れた地下の「黄泉国(根の国)」とは異なり、「現世(人間界)」と重なって存在する見えない世界なのです。

篤胤は、「霊能真柱」で師の考えが間違っていると説きながら、師は「黄泉国」ではなく山室山に鎮まっていると書いています。

これは、民俗学の描く世界観に近いと言えます。

また、「幽冥界」の大国主は、死後の人間を審判する存在でもあります。
篤胤にとって、「現世」は試練のための世界であり、「幽冥界」は裁きに応じた永遠の世界なのです。

宣長が天照大神の子孫が主宰する「現世」を重視したのに対して、篤胤は国津神を重視したと言えます。


また、篤胤は「霊能真柱」で、再生(輪廻)に関して、「知り難き事」ではあるが「稀にある」こととしました。

その後、前世を記憶している百姓の勝五郎に対してなされた聞き取り調査の記録、「勝五郎再生記聞」(1823)を著しました。
勝五郎の話によれば、彼は、前世で死後に、白髭の老翁に導かれて花咲く野に行き、その後、再生する家を指示されました。
篤胤は、この老翁を産土神社の熊野権現(須佐之男命)であると考えました。


<幽冥界研究>

1820年、篤胤は、仙境を行き来するとして江戸で評判になっていた少年の寅吉に出会いました。
彼は、寅吉の話に興味をいだき、その後9年間、自宅で面倒を見て、様々な聞き取り調査を詳細に行いました。
そして、それを、「仙境異聞」(1822)として出版しました。

寅吉の語る仙境は、「霊能真柱」で提示した「幽冥界」の構造に収まり切れない、顕世と連続する多層的な構造を持つ世界でした。

仙境は、神界と人間界の間にありますが、寅吉は生身のままに飛翔してその世界に行きます。

寅吉は、仙境である山にいる存在を「山人」と総称しましたが、これには5つの種類があります。

一つは、人間の修行者です。
その実態は、神道、仙道、修験道の習合したような修行者です。
寅吉はこれに当たります。

次に、神人、神仙。
寅吉の師である杉山僧正(仏教の僧ではない)はこれに当たります。

次に、出家して山岳で修行する僧で、「仏仙界」の住人です。
次に、天狗などの魑魅の類。
最後に、霊魂だけになって山にいる人間です。

寅吉によれば、どの山にも神と「山人」がいて、「山人」は各地の山を回っています。
「山人」は、人々が神社で行う願い事を神に伝え、それを叶える役目を負っています。

また、寅吉は、「山人」が丹薬を練るのは見たことがないとも言っています。
寅吉の世界には、錬丹術の思想がないようです。

また、天狗に関しては、天狐がもとであり、多くは、長生きした狐や鳶・鷲などが天狗になると語りました。

寅吉の語る「山人」の修行は、百日断食や、火の行、寒中三十日の水行、寒水や熱水に入る行などがあります。
また、「百日間のてっぱん行」と呼ばれる行は、節食して衣類を変えずに板の上に寝る行で、除災祈願のために行います。


以上、寅吉が語ったのは、中国の神仙思想と神道、修験道が習合したような世界です。
寅吉は神憑りになったこともありましたが、その本質は、異界飛翔を特徴とする脱魂型シャーマニズムの世界です。
これは日本的神仙道というべきものでしょう。

篤胤の「仙境異聞」の影響は大きく、その後、平田門下の参沢宗哲も、寅吉に似た体験のある島田幸安に対する聞き取りから「幽界物語」を著しました。
また、その後も、自身が神仙である宮地水位らにも影響を与えました。

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*寅吉と杉山僧正


<神行と久延彦祭式>

篤胤は、吉田神道が真言密教の影響を受けていると批判していましたが、自身も密教の行法を研究し、それを取り入れて独自の神道行法を考案しました。

篤胤は、「密法修事部類稿」(1821)で、136種の密教の修法の研究を行い、最後に神道版の「久延彦祭式(久延彦之伝)」の行法を紹介しています。

「久延彦祭式」は、密教の成就法を参考にした神人合一に至る行法で、篤胤はそれを「成仏」ならぬ「成神」に至る「神行」と表現しています。

「久延彦」は「古事記」に登場し、少彦名を助ける案山子の神、知恵の神です。
篤胤はこの神について、以下のように書いています。

「神像の本にして、有ゆる神祇精霊の憑つきて、天下の事は更なり、天上の事も知れる…」(密法修事部類稿)
「学問に志ざさむ人などは、殊に此神の御霊を仰ぎ…」(密法修事部類稿)
「此神を信じて、有ゆる神霊を、其の物実に招請して…」(毎朝神拝詞)

篤胤は、「久延彦」を、産霊神の化身であり、「原人間」のような存在でもあり、幽的世界の媒介者であり、導師であると考えていました。

また、この書で、篤胤は、密教の四種の呪法に対応する神道の神と方位、色を、次のように対応付けています。

・息災法:北・白:祓戸神
・増益法:東・黄:豊受神
・敬愛法:西・赤:天鈿女
・降伏法:南・黒:禍津日神

「久延彦祭式」は、次のような次第で構成されます。

1 :澡浴
2 :両壇再拝
3 :八百万の神々の礼拝、観想
4 :光明が現れて頭頂から入る観想
5 :懺悔による罪障の消滅祈願を三唱
6 :神道帰依戒を受け、帰依を誓いを三唱
7 :成神までの加護の祈願を三唱
8 :大空観(無辺の風気の観相)
9 :大地観(火・金・水・土からなる大地の観相)
10:大柱観(天の柱の観相)
11:国柱観(国の柱の観相)
12:吾身観(自分を久延彦として観相)
13:神のみを観想し自身の呪声を聞く瞑想し、柏手を打ち、神威を乞う十唱
14:柏手を打ち、祝詞の奏上を繰り返す

8から12の五観想は、宇宙生成過程に対応していて、また、密教の「五相成身観」の影響があるのかもしれません。

特に「吾身観」には、篤胤の思想が表現されています。
自分の霊魂を産霊神の分霊(彼はそれを「霊性」と表現します)であり、身体は大地と同体で五大からなると観想します。
そして、自分を「久延彦」であると観相します。

14の祝詞は、何十万回も読むことで、神通力を得て神仙になることができると書いています。
その祝詞は、次のような内容です。

「産霊神に由来する自身の霊魂の本質は無欲なものであるのに、この世界で私欲を生じさせて苦を受けている。
私は、あらゆる生き物を悟らせて私欲をなくさせると大願を起こす。
そして、自分から発した白色の光明が無辺世界を照らし、一切の生物の暗闇を除くと観想する。
そうすれば、自身は久延彦となる。
頭頂に祓戸の神がいて、穢れに向けて赤色の光を放つと観想する。
それによって、食べ物や供物の穢れを浄化し、加持する。
祓戸の神は降伏、増益、敬愛(あらゆる生命に対する)、息災の効果をもたらす。」

このように、「久延彦祭式」の瞑想法は、密教の影響は明らかですが、完全に神秘主義的な人間観・霊魂観を表現しています。

ですが、篤胤は、仏教の修法と異なる「神行」の特徴として、日常生活(世間の功)と両立するものであると書いています。


<言霊宇宙論>

篤胤には、先行する国学者らから継承し、発展させた言霊論(神秘主義的言語・音声・文字論)があり、後の古神道霊学者の言霊論に影響を与えました。

篤胤は、「古史徴」(1811)や「神字日文伝及び疑字篇草稿」(1821)、「古史本辞経―五十音義訣」(1839)で「神世文字(神代文字)」について書いています。
日本古来の文字である「神世文字」の存在は、新井白石や僧諦忍が肯定していましたが、篤胤の師の宣長は否定していました。

篤胤は、「古史徴」で、「真の古伝」を伝える祝詞が、本来は「神世文字」で書かれていたと推測しています。
つまり、彼にとって、「真の古伝」と「神世文字」は、切っても切れない一体の存在なのです。

そして、「古史本辞経―五十音義訣」では、「神世文字」は、八意思兼神が始めた鹿卜の太兆(ふとまに)に由来するもので、象形文字と表音文字の2種類があると書いています。

また、篤胤は、「古史徴」で、「言霊」の神は、天児屋根命の祖神である興台産霊神であると書いています。
おして、その力は、天之辞代主神、八意思兼神、太詔戸尊、櫛真知命、国之辞代主命によって働くのだと。

次に、音声論ですが、篤胤は「古史徴」で、最初の音声が「ア(阿)」であるする真言密教の「阿字本不生」論を否定しています。
そして、「ウ(宇)」が最初であるとして「宇字本不生」論を主張しています。

「ア」は開音の初めの音ですが、その前に、口を閉じた状態の根本音である「ウ」があるのです。

また、篤胤は「古史本辞経―五十音義訣」で、荷田春満、賀茂真淵の説を継承しながら、それを発展させ、五十音の「言霊宇宙論」を展開しました。

ちなみに、直接的な影響関係は認められませんが、「古史本辞経―五十音義訣」が出版される5年前に、山口志道と中村孝道の言霊論が出ています。

篤胤によれば、五十音は「五母韻」と「十父声(いわゆる子音)」の交合で構成されます。

「五母韻」の「ア・イ・ウ・エ・オ」は、それぞれ「初・体・用・令・助」という性質を持ちます。
そして、「ア・イ・ウ・エ・オ」は、宇宙生成と一体であり、また、人間の誕生とも一体です。

「ア・イ・ウ・エ・オ」は、次のように、宇宙の5つの場所と対応します。

・ア:天津国(高天日の御国)
・イ:天の八衢
・ウ:顕国(宇都志国、現世)
・エ:泉津平坂(黄泉平坂)
・オ:泉津国(月予美国、黄泉国)

まず、産霊神から「ウ」である「一の物」が生まれ、それが分かれて「ア」である「高天日の御国」と「ウ」である「宇都志国」になります。
さらに、そこから分かれて「オ」である「月予美国」が生まれます。
また、上昇する「イ」として「天の八衢」が、下降する「エ」として「泉津平坂」が生まれます。

このように、「ウ」は、原初の「一の物」でもあり、それから生まれた現世でもあります。
さらには、人間の霊魂(霊性)である産霊神の分霊の音でもあるのです。

また、篤胤は、「ア」である父=伊邪那岐=天照大神=直毘神の系列と、「オ」である、母=伊邪那美=月夜見=禍津日神の系列は、親しく通うのだとも書いています。


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