神仙道の潮流 [日本]


江戸中期から昭和期にかけての神仙道は、国学、復古神道、霊学などと影響を与え合いながら、一体となって形成された日本独特の形態の宗教です。

このページでは、この日本の神仙道の特徴と流れを簡単に紹介します。
そして、その代表である宮地神仙道の思想については、次のページ「宮地神仙道」に分けて紹介します。

*宮地神仙道の思想については、「宮地神仙道」をお読みください。


<日本の神仙道の特徴>

江戸中期から昭和初期にかけて(近世・近代)の日本の神仙道は、中国の神仙信仰(道教、仙道)と神道が習合したもので、修験道(両部神道)や天狗信仰などの影響もあります。

ですが、平田篤胤の流れにある国学・古神道家から見れば、中国の道教も日本の「古道」が分岐したものであり、神道の一部と考えることができるのです。

本来、神道には、職位以外に、仏教のような修行の進展と対応する位階がありませんでした。
ですが、神仙道は、仙道の修行と神仙の位階をここに持ち込んだと考えることができます。

また、神仙道は、記紀神話の神々と、道教の哲学やパンテオン、神仙の位階を習合させました。

日本の神仙道は、異界飛翔する「脱魂型シャーマニズム」の特徴を持っています。
これは、一般の神道や「霊学」の「帰神法」の神憑りが、「憑霊型シャーマニズム」の特徴を持っているのと対照的です。

シャーマニズムと神仙道の類似点としては、霊界の先代・先祖シャーマン=仙人による導き、三界(天上・中間・地下)への飛翔、世界樹(世界柱)=天御柱(国中御柱、中岳神界)、病気治療などがあります。

ただし、神仙道がシャーマニズムと異なる点は、肉体で仙境に行くとする点、霊的身体を形成するとする点でしょうか。

日本の神仙道は、中国の仙道同様に、「霊胎(真胎)」を形成して、肉体を霊的な身体に変えて不老長寿になることを目指します。
神秘主義の観点から核心を探れば、そのための行法である「内丹法(瞑想的な煉丹術)」がどれくらいあるのか、という点になります。

日本の神仙道には、「外丹法(物理的な煉丹術)」は、ほとんど見られません。
一方、宮地水位が語る「霊胎凝結法」は、一種の内丹法ですが、中国の文献には見られない独特なものです。


<江戸中期の先駆者>

江戸中期における日本の神仙道の先駆者と言えるのは、まず、竜雷神人こと大神貫道(?-安永年間1772-81年)です。
彼は摂州の神職者で、諸教を研究して注釈しました。
その著「養神延命録」では、神仙道と神道の同一性を説きました。

大神は、幼少の頃は病弱でしたが、神人に出会い、仙道の修練を積んで健康になりました。
幼少の頃に霊的存在によって仙境に導かれるのは、日本の神仙道の多くの実践者に見られる特徴です。

大神は、少彦名命が神仙修煉の祖神であり、神仙の門の源は高天原にあって、扶桑太帝=大国主神が秘蔵し、暘谷神王=事代主神が守護していると書いています。

つまり、神仙の神々を国津神系として捉えています。
少彦名命を主神とすることは、以降の神仙道にも受け継がれました。

大神は、「胎神温養」、「内観調気」などを授かったとしていますが、その具体的な行法は秘しました。
仙境で得た知識の重要な部分は秘さなければいけないというのは、日本の神仙道の特徴です。


次に、大神とほぼ同時期の先駆者に、菊丘臥山人(臥仙)こと大江文坡(?-1790)がいます。

大江は、京都に生まれ、二十歳の頃に日向で修行して、異人から清浄無為の「真一」を悟ることが神仙の教えであると教授されました。

大江は、その「仙教真一」との思想から、仙書を解釈し、「正対化霊天真坤元霊符伝」、「北斗七星神符伝」、「五岳真形図伝」など多数の書を発表しました。
また、数々の霊符も伝授しました。


<平田篤胤とその門下>

別ページで紹介した平田篤胤(1776-1843)は、仙童寅吉に出会って、その聞き取り調査の記録「仙境異聞」を著しました。

篤胤は、晩年に、道教の研究を進め、「五岳真形図説」、「神仙方術編」、「神仙行気編」、「玄学得門遍」などを著しました。
また、弟子に道教系の様々な霊符(長生符など)や祭式(六甲祭式など)を伝授しました。

ちなみに、篤胤と別れた後の寅吉は、千葉、銚子で医療に従事して、男子を設け、1859年に亡くなったそうです。

篤胤が「仙境異聞」を著した後、和歌山生まれの平田門下の参沢明(本名:寺沢立敬、1809-)は、島田幸案という仙童に出会いました。
そして、島田を仲立ちとして、その師の清浄利仙君という神仙との問答をまとめた20巻の「霊界物語(神界物語)」を発表しました。

清浄利仙君は、九州の赤山にいる神仙で、仁徳天皇の時に生まれ、少彦名神に導かれて仙境に入ったとされます。

「霊界物語」によれば、天狗の位階は、大天狗→小天狗→木仙→鬼→木葉天狗→摩天狗・邪鬼、であると書いています。
また、毎年10月に、神仙たちは出雲の大仙境の集会に集まりますが、そこには閟宮という東王父・西王母の本宮神仙の大都があるのです。
また、平田篤胤は、伊勢の山室山で神仙になっているとも書いています。

ちなみに、後に、宮地水位は、仙境で、清浄利仙君、平田篤胤、寅吉らに会ったと述べています。


<宮地常盤>

宮地神仙道は、土佐の宮地常盤・水位のによって始められた神仙道です。
彼らは、もともと神仙で、一時的に人間として生まれた「謫仙」であると主張しています。

宮地常盤(1818-1890)は、土佐の天満宮の神官で、平田篤胤没後の門人でもありました。
37歳の時から本気で修行して10年で大山祇命に通じることができるようになり、大山祇命の命で土佐の高山手箱山を開きました。

また、常盤は、少名彦那神と神縁を結びました。
彼によれば、少名彦那神は、道教では東海大神仙王大司青真小童君と呼ばれます。
そして、北極紫微宮直系の大神で、二大神都を開き、伊弉諾尊の代理で神仙界を統制しています。

常盤は、様々な幽界に入り、飛行の法、海上歩行の法を伝授され、天狗を使役しました。
ところが、口外を禁じられていた術について仲間に漏らした咎を受けて、神界や神法の記憶を奪われ、言葉を発することができなくされたと伝えられています。


<宮地水位>

常磐の子の宮地水位(本名:再来→堅磐、1852-1904)は、10歳頃から神仙界に出入りするようになったという、日本の神仙道の代表的人物です。

彼は人間に生まれる前は、元大霊寿真という位階の神仙で、神集岳神界の仙官だったのですが、何らかの掟を犯しために、人間に生まれたと言います。

水位は、少名彦那神の下で働く川丹先生こと玄丹大霊寿真人を師とします。
彼は、仙境の様子を「仙境備忘録」に著しましたが、あくまでも忘備録でした。
また、中国の道教の書の研究も行いました。

太上大道君が書いた「五岳真形図」(葛洪の書にも書かれた霊図)の書写を許されたと言います。

また、仙境で、杉山清定仙君に会い、また、平田篤胤に引き合わされました。
清定仙君の分身が寅吉の師の杉山僧正であり、篤胤(羽雪大霊寿真仙)は、大霊寿真の高位の位にあって、神集岳神界の大永宮衆議官の仙職に就いていたそうです。

水位の最期は、尸解したと伝えられています。

水位は、膨大な著作をなしたのですが、それらは高知図書館、天満宮社務所、分家などに所蔵されていましたが、戦火や火災で焼失してしまいました。


<宮地巌夫>

水位の後を継いだのは、水位の道友であり、水位の親戚の宮地家の養子だった宮地巌夫(仙名:方全霊寿真、1847-1918)です。

巌夫は、神道界で活躍し、伊勢神宮の禰宜にもなった人物で、国家祭祀にも関わる重要な職((宮内省式部職掌典)に就き、乃木大将にも影響を与えたと伝えられています。
彼は平田門下に入り、篤胤も重視した「雲笈七籤」など、神仙道、道教の研究を行いました。

その著には、饒速日命から河野至道まで日本の神仙を二百数十人を取り上げた「本朝神仙記伝」があります。

また、彼は道教(仙道)の養生法、瞑想法を「自修鎮魂法」という名で語りました。
そして、その目的を、天に上らんとする魂と、地に下ろうとする魄を結合させ健康の安全をはかることとします。
魂魄が分離すると死ぬのです。

ちなみに、巌夫によれば、仙境で、寅吉は錬形の法で霊魂のみになって修行としているそうです。

宮地巌夫(二代)の後、宮地神仙道は、泰岳先生こと宮地威夫(三代)、神仙道本部を設立した清水宗徳(四代)、竹川文男(五代)に継承されました。
清水宗徳は、次の節で紹介する友清歓真の神道天行居もとから宮地神仙道に移ったため、何人かが彼の後に従いました。

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*宮地巌夫


<国安仙人>

宮地水位以降の神仙道についてまとめます。

国安仙人こと国安普明(本名:米太郎、1860-)は、江戸深川に生まれ、子供の頃に聖良仙人によって仙境に連れられ、以降、日光の山奥などで修行を受けました。

25歳の頃には神通自在になり、その後、弟子の前で、空中から食料を取り出したり、消えていなくなったり、天狗を眷属として使うなど、数々の業を見せたと伝えられています。

そして、26歳の時に神界で位を受けた後に、人助けのために人間界に戻り、病気治療などを行いました。

国安仙人も、最期は尸解したと伝えられています。

国安仙人によれば、霊界の構造は、天上5界(神界)、中央8界、地底5界からなります。
中央界の最上界は「聖闡界」で、他に霊山に開けた「山嶽界」、天狗界の「尚忩界」などがあります。


<友清歓真>

様々な霊学を統合しようとした友清歓真(1888-1952)は、自身が継承した一つが宮地神仙道であると主張しました。
ここでは、彼の神仙道の側面のみを紹介します。

友清は、30歳の頃に、平田篤胤の「古今妖怪考」を読んで天狗や神仙道に興味を持ちました。

そして、1922年に、宮地水位からの霊啓が始まったといいます。
その翌年には、水位の文章を集めて「幽冥界研究資料」として出版しました。
水位が広く知られるようになったのは、この出版以降です。

友清は、水位が語った神集岳神界に通って、その様子を「玄扈雑記」に著しました。
彼は、水位の書を読む前に仙境を訪れていて、水位の仙境に関する記述が自分の体験と同じであると驚いたと書いています。

「玄扈雑記」によれば、友清の師は麗明先生で、水位もこの先生から教えを受けました。

また、霊界は、天津神国3界、国津神国3界、黄泉国2界からなります。

天津神国の高位神都の紫府宮神界には、風神館という大神域があります。
友清歓真は、防府にある石城山こそ大神たちの神山であると主張し、そこにある石城山霊界が国津神国の最上層であり、その下に水位の言う万霊岳神界や、現界があると言います。

また、霊界に2種類あって、「たま霊界」は、思念すればそれが現れる世界で、一方の「むすび霊界」は、現世同様に客観的に環境が存在する世界です。



*宮地神仙道の思想については、「宮地神仙道」をお読みください。


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