日本の弥勒信仰(弥勒菩薩と弥勒神) [日本]

このページでは、日本における弥勒菩薩、ミトラ神(弥勒神)の信仰を、通史的にまとめます。

仏教の弥勒菩薩(マイトレーヤ)の信仰は、イランのミトラ神の信仰の影響で生まれました。
ミトラ神は、マニ教、ミトラス教などのイラン系諸宗教の主神であり、ゾロアスター教(マズダ教)にも登場します。

シルクロード都市(西域)でも、中国、朝鮮、日本でも、仏教化した弥勒菩薩信仰と、仏教化していないミトラ神信仰が併存し、互いに習合しながら、各地の宗教とも習合、土着化し、時代ごとに変容してきました。

当ブログでは、ゴードン学派などの世界的な潮流を受けた東條真人氏の見解を参照して、ミトラ神、及びその影響下で生じた神を主神とする宗教、信仰を総称して、広義に「ミトラ教」と表現しています。
そして、その中国での展開も、同様に「弥勒教」と表現します。
「ミトラ教」、「弥勒教」は分析概念として抽象して初めて見える巨大な運動体です。

日本の弥勒信仰には神秘主義的傾向は少ないですが、東西ユーラシアを席巻したミトラ神の東端におけるその姿は、重層的な歴史を感じさせるものです。



<ミトラ神と弥勒菩薩の基礎知識>

まず、ミトラ神と弥勒菩薩の基礎知識をまとめます。

ミトラ(ミスラ)神は、インド・イラン神話、古インド・イラン文化の2大主神(ミトラ/ヴァルナ、アパム・ナパート)の一つです。
その後の歴史の中では、3柱神(ミトラ/マズダ/アナーヒター)の1神にもなりました。

イラン系のゾロアスター教、ズルワン主義、ミトラス教、マニ教、ミール派イスラム教、孔雀派、天使教などで主神、もしくは、重要な神とされてきました。

広義でのミトラ教、ミトラ神信仰は、ユーラシア最大の宗教運動であり、諸帝国を超えて広がった超世界宗教であるという捉え方も可能です。
ですが、各地、各時代の宗教と習合し、神格はその地の神の呼び名が使用されたので、全体として捉えにくい宗教運動です。

また、その終末の救世主や太陽神などとしての姿や、3柱神という論理は、他宗教にも大きな影響を与えました。

ユダヤ教ではメタトロンとなり、キリスト教ではヨハネ黙示録の白馬で現れるキリストとなり、イスラム教ではアル・マフディーや「時の主」となり、ヒンドゥー教ではシャンバラ王カルキとなり、仏教では弥勒菩薩やシャンバラ王ラウドラチャクリンとなり、道教では金闕聖後帝君となりました。

ミトラ神の本来的な性質は、光、契約、友愛の神です。

他にも多数の側面、顕現(化身)を持ちます。
根源神である両性具有のズルワン、十二星座の支配者、太陽神、聖牛の供犠者、冥界の審判者、児童神、現在の世の教師、終末の救世主などです。


弥勒菩薩(マイトレーヤ)は、ミトラ神の未来の救世主という属性を大乗仏教が取り入れて生まれた菩薩でしょう。
紀元前後、パルティア、バクトリアのミトラ信仰の影響で、イラン東部からインド北部で生まれました。

弥勒菩薩が修行している兜率天に往生したいという一種の浄土思想である「上生信仰」と、未来に弥勒仏が地上に現れて人々を救うという「下生信仰」があります。

イラン系の宇宙論では、文化は周期的に堕落して預言者が現れますが、仏教はこれを「末法思想」という形で取り入れて、弥勒菩薩の「下生信仰」と結びつきました。
「末法思想」は「終末論」とは似て非なる思想です。

弥勒菩薩は釈迦の時代の次の時代の教主であり、「未来仏」と呼ばれます。
部派仏教では5億7千6百万年後、大乗仏教では56億7千万年後に現れます。


<中国での変容>

中国には、主にイラン系ソグド人を通して、仏教の弥勒信仰とともに、マニ教(明教)、ゾロアスター教(景教)、その他の多様なミトラ神の信仰がもたらされたと思われます。

中国側では、これらの諸宗教がはっきりと区別されていませんでした。
ミトラ神には様々な呼び名がつけられましたが、「弥勒」もその一つです。
「明教(マニ教)」では、ミトラ神を「天真弥勒」などと表現しました。

中国では、ミトラ教系の終末論思想と、弥勒菩薩の下生信仰が結びつき、戦闘的で革命的な弥勒信仰が民衆の間に広まったことが一つの特徴です。

「白蓮教」は、弥勒菩薩の下生信仰と終末論的な弥勒神信仰が習合して生まれた民間宗教結社の総称です。
「白蓮教」では、ミトラ神を、「白仏明王」、「弥勒明王」などと表現しました。
これは軍神的側面が強調された表現です。

また、ミトラ神の根源神ズルワンとしての側面は「古仏弥勒」、十二星座の主宰者としての姿は「妙見菩薩」、現在の世で化身となって教えを説く姿は「無為祖師」、その童子形は「弥勒童神(聖弥勒観音)」、終末の救世主としての姿は「弥勒仏」などと呼ばれました。

「妙見菩薩」は、中国の北辰・北斗信仰とミトラ神が習合した神を、仏教が天部として取り入れた尊格で、日本にも招来されました。
「妙見」という名は、「万の目を持ち、すべてを見渡す者」というミトラの尊称に由来します。

また、密教占星術も、カルデア=イラン系占星術の大きな影響を受けていて、日曜を示す「蜜」は太陽神としてのミトラのことです。

中国では、弥勒信仰は、禅宗の僧だった布袋の信仰とも習合しました。
ちなみに、十牛図の最後の図は、布袋=弥勒に会うことがゴールになっています。
布袋としての弥勒には、福神としての性質が表現されています。


<飛鳥時代の弥勒信仰>

飛鳥朝の時に、中国北朝・高句麗・新羅系統の弥勒信仰と、中国南朝・百済系統の弥勒信仰が伝わりました。
前者は秦氏や聖徳太子に、後者は蘇我氏に伝わりました。

秦氏の氏寺の広隆寺には、聖徳太子から賜った(622)とされる、有名な半跏思惟の弥勒像があります。

聖徳太子は、そもそもその実在すら疑われるような伝説的人物ですが、聖徳太子を日本仏教の教主(法王)、救世観音とする「太子信仰」が生まれました。
「太子」というのは、成道以前の釈迦を指す言葉で、もともと半跏思惟像はこの釈迦の像でした。
日本では、半跏思惟像と言えば弥勒像なので、「太子」には弥勒菩薩にも重ねられたのでしょう。


飛鳥朝には、仏教だけではなく、ゾロアスター教などのイランの宗教の影響があったというのは、松本清張だけでなく、イラン学の伊藤義教や井本英一も指摘しています。

他にも、栗本慎一郎(経済人類学者)は蘇我氏がサカスタンを故郷とするイラン系ミトラ教徒だったという説を、久慈力(作家)は蘇我氏がカッシートのバビロニア系ミトラ教徒だったという説を提唱したように、飛鳥朝にミトラ教が影響を与えたと考える人も現れています。

東大寺の教学、二月堂の創建、お水取りの創作に貢献した僧の実忠は、伊藤義教の推測によれば、イラン系の人間です。
二月堂の修二会のお水取りの儀礼では、二月堂の下にある井戸から水を汲みます。
この儀礼の背景には、イランの河神でありミトラ神の母でもあるアナーヒター信仰があると、氏は推測しています。

推古朝の時(612)、中国南部の呉から百済人の楽師・味摩之が、伎楽を日本に伝えました。
その伎楽には、ミトラ神の仮面劇が含まれていました。
伎楽は、東大寺の大仏開眼供養でも上演されました。


<秦氏と摩多羅神>

秦氏の広隆寺に弥勒菩薩半跏像があるように、秦氏は弥勒信仰を持っていたと思われます。

秦氏は、一般に、新羅からの渡来人とされますが、もともとは中央アジアの弓月国が故郷のようです。
ですから、秦氏は、古くからミトラ神への信仰を持っていて、そこに弥勒菩薩信仰が習合した可能性もあります。

少し時代を下りますが、広隆寺には、「摩多羅神」が牛に乗って寺院内を一巡する牛祭りがあります。

「摩多羅(マタラ)神」は謎の神で、大黒天(マハーカーラ)だとか、母天(マートリ)であるという説もありますが、蓮池利隆(中央アジア仏教史)は、ミトラ神説を唱えています。
名前が似ていること、牛と結びついていること、死後審判の神という点で、ミトラ神の性質と一致します。

「摩多羅神」は、天台宗の円仁が伝えた神で、それが広隆寺に伝わったとされます。
天台宗では、常行三昧堂(念仏堂)の後戸の神、つまり、阿弥陀仏の権現・守護神です。
阿弥陀仏(=無量寿仏)は、もともと無限時間神ズルワンであると考えられるため、偶然かもしれませんが、ズルワンの権化であるミトラ神の性質と一致します。

また、天台宗では、「摩多羅神」は玄旨帰命壇潅頂の主神になりましたが、これが北極星とされる点、少年を伴う点で、ミトラ神の性質と一致します。

上記したように、妙見菩薩(=尊星王)は、中国の北辰・北斗信仰とミトラ神とが習合した仏教の天部ですが、その秘法の尊星王法は、天台宗でも最高の大法の一つとされます。


ただ、ミトラ神の性質は多く、また、多くの神には歴史の中で重層的な影響が積み重なっていますので、ある神がミトラ神であるかないか、という考え方自体が無意味かもしれません。


<空海と弥勒信仰>

その後、奈良時代には、元興寺、興福寺など法相宗が弥勒の「上生信仰」を広めました。
そして、平安時代には、真言宗、天台宗の影響もあって、各地に弥勒寺が創建されました。

空海も弥勒信仰を持っていました。
空海が中国に渡る以前に書いた最初の書である「三教指帰」では、自らの姿を仮託した仮名乞児の乞食僧の姿を、弥勒の兜率天にいく旅姿だとしています。

また、真実かどうかは確実とは言えませんが、臨終の際には、食を断って、弥勒菩薩の尊像の前で坐禅三昧に入ったそうです。
そして、「吾開閇眼の後には、必ず兜率他天に往生して、弥勒慈尊の御前に侍す可し。五十六億余の後には必ず慈尊御共に下生し、祗候して吾先跡を問ふ可し」と言ったとされます。
ここには、上生信仰、下生信仰の両方が語られています。

空海没後には、大師の人定、復活信仰が生まれましたが、これも弥勒信仰と結びついています。

平安末期の12C後半には、高野山で「下生信仰」が高揚し、真言宗中興の祖の覚鑁も下生を目指して入定しました。


<鹿島の弥勒信仰>

戦国時代から安土桃山時代にかけて、関東を中心に「弥勒」の私年号が使われたり、鹿島を中心に「弥勒踊り」、「弥勒の船」などを特徴とする弥勒信仰が広がりました。

これらは、渡来した中国人を介して中国で広まった明朝時代の「白蓮教」が影響を与えた可能性がありますが、はっきりした証拠はありません。


戦国時代に、関東・中部の各地で、地方の土豪などによる私年号として、「弥勒」、「命禄」が作られました。
それらの年号は、1506-1508年の間と、1540-1542年の間に最も多く作られました。

弥勒の私年号を使うということは、おそらく「弥勒の世」が始まったという信仰の表現でしょう。


鹿島には、鹿島は東のはての地であり、さらに東方の海上他界から豊穣神が「宝船」に乗ってやってくるという信仰を持っていました。
また、関東・東海地方で、厄除けの「鹿島踊り」が行われていました。

そこに弥勒信仰が習合し、弥勒が「弥勒の船」に米を積んでやってくるという信仰、「弥勒踊り」へと変化しました。

鹿島の弥勒信仰では、「弥勒の世」は、凶作の年に弥勒が救済に現れるという考え、もしくは、豊作の年を意味します。
そこには末法思想や終末論、革命といった側面はありません。

鹿島の弥勒信仰は、鹿島に多い真言宗の弥勒菩薩信仰の影響で生まれたのかもしれません。

ですが、鹿島の「弥勒」の性質は福神であって、これは布袋信仰と習合した弥勒信仰に似ています。


また、沖縄にも鹿島と類似した信仰が伝わっていて、歌に同じ歌詞があるなど、両者に関係があることは間違いありません。
ですが、その影響関係に関してはっきりしたことは分かっていません。

沖縄地方では、弥勒は「みるく」、あるいは「みりく」と呼ばれ(朝鮮での発音の影響かもしれません)、布袋に似た面をつけて豊年祭で行列が行われます。


鹿島の「弥勒の船」は、後に、「七福神の宝船」の誕生に影響を与えたと思われます。
七福神の布袋は、弥勒の化身です。
直接の影響関係はなかったとしても、七福神は、中国の弥勒教の八明王、もとを辿ればミトラ教の7大天使の日本版のようになりました。


<富士講の弥勒信仰>

江戸時代には、食行身禄(じきぎょう・みろく、本姓は小林、本名は不詳、江戸では伊藤伊兵衛と名乗る、1671-1733)という富士山の行者をきっかけにして、修験道とは関係のない「富士講」と呼ばれる富士山信仰が生まれました。

この食行系の富士信仰は、江戸庶民の間で大きな信仰となり、江戸には多数の「富士塚」と呼ばれる小さな富士山が作られ、聖地になりました。

一般に、この修験道とは無関係な「富士講」は、角行藤仏(1541-1646)を祖とし、食行身禄が第6世、あるいは、第5世と言われています。
ですが、実際には、この間、細々とした行者間の継承関係があっただけで、宗教的組織を持った「富士講」が生まれたのは、食行の死後です。

角行は 後世の多くの富士講系の団体が祖として伝説化していますが、本人の思想は、富士山西麓の人穴に住んで修行したこと、護符の代金として金銭を得ていたことくらいしか分かっていません。

彼を師として継承した弟子筋は、いずれも仕事を持った江戸の庶民であり、専門的な宗教者ではありませんでした。
彼らは、修験道系に比して、禁欲より倫理的誓いを重視しました。

食行の師に当たる月行(1643-1717)が、元禄元年(1688、辰年)に、富士山の神である仙元大菩薩様から、自らが統治する「みろくの御世」になったというお告げを受け、大事な意味を持つ「参」の字を教えられました。

食行は、月行の教えを継承しましたが、弟子はいませんでした。
食行は、「みろくの御世」になっているもかかわらず、人々の行いが正しくないことに怒りを感じ、富士山八合目で、持参した厨子に閉じこもって入定(餓死ないしは凍死)を行いました。
その目的は、神に使える役人になって、悪い奴らを罰するためでした。

彼が月行から継承した神話は、下記のようなものです。

1万8千年前、富士山麓の4つの洞窟から4人の神が生まれました。
「ちち」と「はは」の二神が「しみ(須弥)のはしら」を作り、4人の神が人穴の中でそれを立てました。
そして、人間と米を作りました。
「ちち」と「はは」が6千年の間、世界を統治し、その後、「天照大神宮」が1万2千年間統治しました。
この間、釈迦如来が富士山頂に「一字の大事(参)」を伏せました。
新しく「仙元大菩薩様」の「みろくの御世」が始まり、万刧万万年続きます。

食行は、神道や仏教を否定しますし、「天照大神宮」も否定的な存在とされるようです。

食行が亡くなった後、知人らによって「富士講」が組織され、徐々に江戸の庶民の間に流行していきました。
ですが、その教えの中心は、士農工商に応じた道徳を説くものであり、弥勒信仰はあまり重視されませんでした。

月行や食行の主張は、「みろくの御世」はすでに始まっているということです。
そして、中国の白蓮教にあったような世直し志向は、食行には見られましたが、「富士講」にはありませんでした。

「富士講」の非主流派の伊藤参行は、月行、食行と少し異なる教義を作ったようです。

原初神は、「元のははちち様」などと表現されます。
そして、「元のははちち」は三柱神、「仙元大菩薩(木花咲耶姫)」、「長日月光仏」、「弥勒仏生仏(妙見弥勒)」を生みます。
これは、天祖参神(大祖参神)とも表現され、記紀の造化三神でもあるとされました。
そして、「元のははちち」、「天照大神宮」、「仙元大菩薩」が6千年ずつ世界を統治します。
食行は、「仙元大菩薩」と神人合一して、自身が「弥勒仏生仏」の化身であると悟りました。

この原初神と3柱神は、ミトラ教の、両性具有のズルワン(中国では無生父母)と、母神アナーヒター、父神ズルワン、子神ミトラの3神と似ています。
また、統治の3期間は、ゾロスター教が語る、アフラ・マズダの世界創造の6千年、アーリマンとの戦いの6千年、最後の審判後の神の国の3期間と似ています。
この類似は、間に白蓮教の存在を仮定しないと、理解しにくいのではないでしょうか。


「富士講」はその後に分派していき、明治期には、実行教、扶桑教、丸山教などが教派神道となって、教義も神道化しました。


<大本教の弥勒信仰>

大本の開祖の出口ナオは、明治25年、艮の金神が神懸かり、「三千世界の立替え」によって「艮の金神の世」が来ることを伝えました。
これは後に「みろくの世」と呼ばれるようになりました。

立替えは今からということですので、私年号や富士信仰の月行、食行の考えと同じです。

ですが、富士講系の教派神道化した各宗教が、国家神道に同調したのに対して、大本教は中国の白蓮教のように革命的性質を持っていたため、政府によって弾圧されました。

大本では、「みろくの神(弥勒大神)」を「天の祖神」、「大国常立神」とし、また、「木花咲耶姫」でもある「伊都能姫」であるとしますが、これは富士講系の考えに似ています。

また、「みろくの神」は、大本の聖師である出口王仁三郎に懸かった神でもあります。

王仁三郎の師だった大石凝真素美は、弥勒を「五六七」と表記し、弥勒が56歳7ヶ月の年齢で、日本に下生すると主張していました。

王仁三郎は彼の影響を受けて、弥勒を「五六七」と表記し、また、自身がその年齢になった昭和3年辰年に、「みろく大祭」を行いました。

大本の弥勒神話には、「隠遁神話」という独特の特徴があります。
「みろくの世」は、かつて統治していた「みろくの神」が復帰して、本来の世に戻すことを意味します。
悪い神によって、悪神であると貶められていた善神の統治が復活するのです。


参考文献
・「イラン文化渡来考」伊藤義教
・「ミロク信仰の研究」宮田登
・「角行系富士信仰」大谷正幸
・「ミトラ教 ミトレーアム・ジャパン」東條真人
など

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