釈迦の思想と「スッタ・ニパータ4-5章」 [古代インド]


経典類以外に、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)に関する客観的な歴史的記録はなく、釈迦伝のほとんどは、後世に作られた伝説の類であると推測されます。

また、釈迦の思想が記されたのは、釈迦没後数百年たってからですので、それが釈迦その人の思想から、どれくらい変化しているかを分かりません。
ですが、最古層の記録と思われる経典の内容と、その後の変化から推測することはできます。

このページでは、最古層経典と推測される「スッタ・ニパータ4-5章」の思想と、若干のその後の変化について紹介します。


<釈迦の思想と経典>

初期経典(原始仏典)の内容は、釈迦没後すぐに500人の阿羅漢の確認のもとで成立したことになっています。
しかし、これは教団の教説を権威付けるために都合のよい内容ですし、それが事実であるという証拠はありません。

事実だとしても、経典が最初に記されたのは、釈迦没後数百年たってからです。
この間に内容が大きく変わった可能性があります。

その後も、その時代その時代に経典は再編集されたり創作されたりし続けました。
上座部のパーリ経典は、ほぼ5世紀に形が決まりますが、それ以降もまったく書き換えられなかったわけではありません。

原始仏典でも各経典で説かれる内容は異なります。
教団は、これを対機説法のためだと説明しますが、実際には、各教典の成立時期や成立過程が異なることが原因でしょう。

ですから、釈迦の思想を確定的に知ることはできません。
もちろん、釈迦の思想にも、非整合性や時代による変化があって当然です。
それがない、釈迦の思想は知りうる、と言うのは、信仰の立場です。

ですが、文献学的な経典研究によって、最古層の経典のみを先入観なしに読むことで、釈迦の思想に近いものを知ることができると推測できます。

また、その後の仏教思想の変化と逆方向に遡ることで、釈迦の思想を予想することができます。


<スッタ・ニパータ4-5章>

最古層の経典は、韻文経典で、韻律の古さ、引用関係の古さなどから、南伝の原始仏典の小部収録の「スッタ・ニパータ(集経)」に、第4章として収められている「八つの詩句(義足経)」と、第5章として修められている「彼岸に至る道」だと推測されます。
(異説もありますが。)

これらの原典は、釈迦存命時に、弟子が布教時に使った口承経典である可能性もあるようです。
これらの経典は、弟子たちが、樹木の下や洞窟、死体置き場などに寝て、遊行していた、まだサンガとして定住していない頃の思想を反映しています。

韻文ということもあり、韻律に合わせるため、パッチワーク的に構成されたものであり、ジャイナ教などの経典と共通する句もあります。
当時の沙門の多くは、思想を共有している部分があり、広く知られる句を共有して、それらを組み合わせて詩句が作られました。

それでも、これらの経典は、かなり一貫した思想を表現しています。
これらの経典の思想には、後の仏教思想とは根本的に異なる部分があります。


例えば、「教義」、「戒律」、「儀式」などでは悟れないとして、それらを否定しています。
まだ、「教義」も「戒律」も「儀式」もなかったのでしょう。

特に、教義を持たず、論争しないようにと何度も言っています。
また、形而上学的な思考を拒否する姿勢を示しています。

また、初期仏教の基本概念とされる「無常」、「無我」、「縁起」、「輪廻」などの言葉すら出てきません。

例えば、「縁起」については、その思想的な芽生えを見つけることはできますが、いかにして「苦」が生じるかではなく、いかにして「論争」が生じるか、という文脈で分析されます。
このように、教義に執着して論争することを避けることを重視しています。

「法」に関しては、「諸法について執着であると確知すべきである」と何度も語られます。
この言葉は、「私は、これは真実であるとは説かない」、「それゆえに、諸々の論争は超越されたのだ」といった言葉と一緒に説かれます。

ですから「法に執着しないように」という主張は、実体の実在性うんぬんではなく、教義を持つな、論争をするな(他者の教義を否定するな)という文脈で語られます。

「~」が本当の仏説だ、といった論争をしている人が今もたくさんいますが、釈迦の姿勢とは正反対のものでしょう。


また、「再生」に執着するなとは語っても、「輪廻」という言葉は出てこず、転生が存在するとも存在しないとも語りません。

「涅槃」は、あくまでも現世での目標として説いています。
それは、心身の消滅ではなく、煩悩の消滅です。

「欲望の流れを滅する」ということを、比喩的に「激流を渡る」と表現し、同じ意味で「生老死を越える」と表現します。

少なくとも、「輪廻」というテーマについて、説法においてほとんど関心を持っていなかった、と言えるでしょう。


具体的な修行法に関しては書かれていませんが、「常に気をつけているように」と何度も語られます。
「渇愛の滅尽を昼夜に観察しなさい」とも語られます。

「表象作用」や「識別作用」を否定することが繰り返し語られますので、言葉やイメージの対象が存在しないことを認識し、それらに執着しないよう、常に自覚して、放逸を避けるように、ということでしょう。

これは、時間を取って瞑想を行うということではなく、日常の中での常に注意を怠らないようにすべきであるということです。
後に「正念・正知」と呼ばれる行に近いものでしょう。

ですから、上座部のヴィパッサナー瞑想(観)のような、アビダルマ論に基づいた法の識別は説かなかったでしょう。
むしろ、「世を空(スニャータ)であると観察しなさい」と語られます。

釈迦は、概念やイメージのない状態を重視しますので、この点では、当サイトの定義では神秘主義思想となります。


<仏教の成立>

先に書いたように、経典類以外に、釈迦(ゴータマ・シッダールタ)に関する客観的な歴史的記録はなく、仏伝のほとんどは、後世に作られた伝説の類であろうと想像されます。

釈迦の名前の「シッダータ」は「成就」の意味ですので、本名であるかは疑がわれます。
母の名の「マーヤー」は「無明」、息子の名の「ラーフラ」は悪魔の名ですので、これらは事実とは考えにくく、教義的な解釈から後に名付けられたものでしょう。

また、釈迦は王子だったとされます。
ですが、シャカ族の国は、国と言っても実際は、王国ではなく部族共同体だったと推測されます。
ですから、釈迦は、族長の息子だったかもしれませんが、王子ではなかったでしょう。

文化人類学者のピエール・クラストルは、部族社会が「国家に抗する社会」という側面を持っていると言います。
実際、釈迦の思想には、「国家に抗する」思想、つまり、「一」なるものである、権力の一点集中や同一性(実体的思想)を否定する思想があったと言って間違いではないでしょう。


釈迦の死後に、仏教の教義や修行法が徐々に体系化され、それと平行して、修道伝承や成道伝承、説法伝承などの仏伝が創作・再解釈されていったと考えられます。

釈迦死後の思想上の最大の変化の一つは、当時の常識だった転生としての「輪廻」からの解脱を説くようになったことでしょう。

また、釈迦が徐々に神格化されていきました。

釈迦が亡くなった後の状態を完全な涅槃である「無余依涅槃」とし、現世で到達した「有余依涅槃」と区別するようになりました。
前者は、死後存在への関心・理想化であって、釈迦が説かなかったものです。

また、「スッタ・ニパータ」では、釈迦の弟子であっても、悟った人物に対しては「ブッダ」という言葉を使っていました。
ですが、後には、「ブッダ」が釈迦だけを指す言葉になり、悟った弟子に関しては「阿羅漢」と呼び分けをするようになりました。

同時に、釈迦は、他の弟子とは違って、他者を救うという性質が強調されるようになりました。


主要参考文献
・並川孝儀の諸著作
・「スッタ・ニパータ」の翻訳は正田大観の著作

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