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黄金の夜明け団の歴史1(設立と改革) [近代魔術]

このページでは、「黄金の夜明け団(以下GD)」の歴史を、その設立から改革まで、簡単にまとめます。

その前史も参考にしてください。


<設立>

GDの創設者のウィリアム・ウィン・ウェストコット(1828-1891)は、ロンドンの検死官として働き、切り裂きジャック事件などを担当した人物です。
彼の性格は、温厚で信頼されるタイプだったようです。

その一方で、彼は高位のフリーメイソンリーであり、英国薔薇十字協会(以下SRIA)の会員としてはウッドマンから会長の座を引き継ぎました。
また、神智学協会の会員、「ヘルメス協会」の名誉会員でもありました。

また、彼は、カバラの「形成の書」(1987)やエリファス・レヴィのタロット論「至聖所の魔術儀式」(1896)の翻訳、「ヘルメス文書集成」の刊行、「カバラ入門」(1910)などの著作も行うなど、オカルトの知識は一級でした。

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*ウェストコット

先に書いたように、ウェストコットが入手した暗合文書がGD結成のきっかけです。
この暗合文書にはメモがついており、そのメモには、この文書の暗合を解読した者は、「黄金の夜明け団」の代理人フロイライン・シュプレンゲル(魔法名サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス)に連絡をするようにと書かれていました。

ウェストコットは、彼女と手紙でやり取りを行って、「黄金の夜明け団」の外陣の結成の許可を得たと言います。
また、この暗合文書について、ウェストコットは、知り合いの牧師でメイソンリーのA・F・Aウッドフォードが古物商から入手したなどと語っています。

この暗号文書の正体については諸説がありますが、最も興味深いのは、ラファル・T・プリンクが「黄金の夜明け団の追跡」(1987)で行った、以下のような推測です。

元になった結社は、18C初頭のフランクフルトにはあったユダヤ系メイソンのロッジ「黄金の夜明け団(Chabrath Zeher Boquer Aour)」であろう。

暗合文書には、ドイツ人ではなく、イギリス人が書いたと思われる部分があるため、この文書の作成者は、ブルワー・リットンであり、それを暗号化したのは、リットンの知人で、魔術界の有名人であったフレッド・ホックリーであろう。

別の説としては、フランシス・キング(「近代オカルト魔術の儀式」、「魔術の再生」など)による次のような推測があります。

この文書の儀式は、ドイツの「黄金薔薇十字団」関係のものであり、作者はケネス・マッケンジーであろう。
彼が、友人のホックリーが準備する結社「八人の会」のためにこの文書を作成したけれど、活動に至らなかった。
そして、それがSRIAの蔵書となり、ウェストコットがそれを発見したのであろう。

先のページに書いたように、暗合文書に付いていたメモと、シュプレンゲル嬢との書簡は、ウェストコットによる捏造である、というエリック・ハウの説が、定説のようになっています。

ですが、ジェラルド・サスターによって、ハウの論拠は弱く、確証に至らないという反論もなされています(イスラエル・リガルディー「黄金の夜明けについて何を知るべきか」に掲載、1982)。

ウェストコットがこれらを捏造したとしても、他の2人の設立メンバーには、このことを明かさなかったようです。
マサースは、後年、ウェストコットの捏造を告発していますが、シュプレンゲル嬢の存在自体は信じていたようです。


マサースは、この文書に記された儀式の内容をヴァージョンアップして、GDの外陣の儀式を作成しました。

そして、ウェストコットらが開設したロンドンのイギリス支部は、ドイツ本部と、かつてあったイギリスの支部に続く、3番目の支部神殿「イシス・ウラニア・テンプルNo.3」であるとされました。

「イシス・ウラニア・テンプルNo.3」は、「生命の樹」のセフィロートに対応する10の位階、3つのオーダーからなります。
外陣がファースト・オーダーで、これが狭義の「黄金の夜明け」であり、内陣のセカンド・オーダーは「ルビーの薔薇と金の十字架」という名称でした。
ですが、当初、内陣は名だけのものでした。

そして、サード・オーダーはドイツの「秘密の首領」で構成され、彼らはアストラル・プロジェクション(霊体離脱)によって、アストラル界で活動するとされました。


S・L・マグレガー・マサースことサミュエル・リデル・マサース(メイザースとも表記される、1854-1918)は、不動産屋の事務員として働いていましたが、GD結成当時は、無職になり、ウェストコットの元に身を寄せていました。

その後は、団員のアニー・ホーニマンに生活を支援してもらいながら、大英博物館の図書室などでオカルトの研究に励みました。
彼の性格は、かなりの変人で社会性が欠如し、また、強権的だったようです。

ですが、魔術の知識の探求とその創造力には天才的な才能があり、ウェストコットの団の運営の才能と相まって、GDを成功に導きました。

マサースも、高位メイソンリーであり、SRIA会員であり、「ヘルメス協会」の名誉会員でした。
また、17Cカバラ文献「ヴェールを脱いだカバラ」(1887)の翻訳や、中世魔術書「ソロモン王の鍵」(1889)、「術士アブラメリンの聖なる魔術の書」(1898)、「ソロモン王の小鍵」(1903)、「アルマデル奥義書」(私家版)の翻訳なども行いました。

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*マサース

また彼は、ケルト、スコットランドの伝統を志向し、スコットランドの首長の血筋を表す「マグレガー」は自称していました。

彼は大英博物館の図書室で団員の勧誘を行いましたが、そこでアンリ・ベルグソンの妹、ミナ・ベルクソン(モイナ・マサース、1865ー1928)と出会い、結婚しました。
彼女は画家であり、GDの神殿などの美術を担当して、その才能を発揮しました。

儀式魔術では、美術的要素や演劇的要素も重要ですが、美術はモイナが、演劇は舞台女優だったフロレンス・ファーがいたことが、GDにとって大きな意味を持ちました。


<マサースによる改革>

1890年、ウェストコットは、シュプレンゲル嬢が亡くなったこと、そして、すでに独自で秘密の首領とのつながりを作るための知識は提供したため、今後はドイツの結社から連絡をしないという通達の手紙を作成して、「秘密の首領」に関する問題を終わらせようとしました。

ところが、翌年、マサースが、「秘密の首領」と接触を取ったことを宣言しました。

そして、彼は、実体のなかったセカンド・オーダーの改革を始めて、GDを本格的な魔術結社に変身させました。

彼は単独の責任者となり、セカンド・オーダーの入門儀式(5=6アデプタス・マイナー儀式)を創作し、カリキュラム(知識講義文書)と8種の厳格な試験制度を導入しました。

この入門儀式は、クリスチャン・ローゼンクロイツの墓廟をモデルとした「地下納骨所」の舞台装置を使用するもので、薔薇十字思想を継承するものでした。

マサースによれば、魔術の技法は、「秘密の首領」から、アストラル・プロジェクションや霊視などの超感覚的方法で教授されました。
そして、マサースが「秘密の首領」の唯一の代理人とされました。

ウェストコットによれば、マサースにセカンド・オーダーの儀式の知識を伝えたのはヨーロッパの達人ルクス・エ・テネブリスです。

この人物が実在するかどうかについても、諸説があります。
フランシス・キングは、ベルギーのマルティニストのディエッセン(ドクター・ティルソン)だと書いています。

ウェストコットは、「秘密の首領」が彼の創作であることを明かせないため、マサースの主張を否定することができなかったようです。


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イギリス・オカルト復興と黄金の夜明け団 [近代魔術]


19Cのイギリスでは、オカルティズムや魔術の復興があり、それが「英国薔薇十字協会」を経て、「黄金の夜明け団」の結成につながりました。

1888年3月1日にロンドンで設立された「黄金の夜明けヘルメス団(The Hermetic Order Of The Golden Dawn、「黄金の暁団」、「ゴールデン・ドーン」とも訳される)」は、西欧に伝わる伝統的な教義・象徴体系に基づいて、集団による儀式魔術を行う秘密結社です。

おそらくは、西欧において、初めて本格的な儀式魔術、高等魔術の実践を行った結社であり、その後の魔術や魔女術の歴史に大きな影響を与えました。

同団にはノーベル賞文学作家、有名舞台女優、オカルティズム系の著作家や作家、三流新聞を騒がせた魔術師など、多くの有名人が在籍していました。
そして、団が関係する新聞沙汰の事件などによって、その醜聞が世間レベルにまで流れて、多くの人間の知るところとなりました。

オリジナルの「黄金の夜明け団」は、すぐに分裂し、教義・実践法の暴露的な公開を経て、消滅しましたが、その後も、新たな世代によって、その伝統が復活・継承されています。

「黄金の夜明け団」の教義は伝統的の総合でしたが、実践には、新しい創造もあったと思われます。 
一言で言えば、それは、ヘルメス主義をカバラで統合し、実践においては、さらにそれを、エノク魔術で統合したものでした。

ですが、「黄金の夜明け団」は、教義にかかわる本質的な部分においては、現代的な側面がほとんどありませんでした。
そのため、「黄金の夜明け団」の影響を受けつつも、それを現代的なものに変革しようとする潮流も生まれました。


このページでは、「黄金の夜明け団(以下GD)」設立の前史としての、19Cイギリスのオカルティズムの潮流と、GDの概略の歴史について紹介します。


<イギリス魔術復興>

19Cイギリスの魔術復興は、フランシス・バレット(1770–80頃生まれる)に始まります。
1801年に彼は「魔術師」という魔術の研究書を出版し、後世に大きな影響を与えました。
この書は、玉石混交ではありましたが、アグリッパの「オカルト哲学」を継承する内容で、フランスのエリファス・レヴィ「高等魔術の教理と祭儀」にも影響を与えました。

また、バレットは、メリルボーンの自宅にて儀式魔術学校を開き、上記の書でメンバーを募集しました。
その中にはブルワー・リットンやフレッド・ホックリー等がいたとされています。

エドワード・ブルワー・リットン(1803-1873)は、政治家であり、小説家であり、オカルト研究家です。
オカルトの世界では、彼が1842年に発表した、薔薇十字をテーマとした小説「ザノーニ」で有名です。
ブラヴァツキー夫人がこの書に影響を受けたことも知られています。

リットンは、1853年に、ロンドンを訪問したエリファス・レヴィと会い、彼に降霊術の実験の場を提供しました。
また、1871年には、「英国薔薇十字協会(以下SRIA、後述)」から一方的に、名誉会員とされました。

フレッド・ホックリー(1809-1885)は、バレットの弟子であり、水晶球を使った霊視、霊との交流を得意としていました。
オカルト文献の蒐集家でもあり、多数の著作もなしています。
1870年代にSRIAに入会しました。
「黄金の夜明け」団創立の土台になった「暗号文書」は、彼の私文書の中から見付かったという説もあります。

ケネス・マッケンジー(1833-1886)は、若い頃、エリファス・レヴィに傾倒して、フランスに彼を訪問しました。
彼はジョン・ディーのエノク魔術の研究家としても知られています。
また、彼はホックリーの友人であり、ドイツ人の薔薇十字団から位階を受けたと主張していました。

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*リットン、マッケンジー

SRIAは、1867年に、ロバート・ウェントワース・リトル(1840-1878)によって設立されました。
彼は、エジンバラにあった薔薇十字協会に入会した後、SRIAを設立しました。
エジンバラの協会はスコティッシュ儀礼のメイソンだったのですが、SRIAの位階の作成にあたって、マッケンジーの助けを借りました。
SRIA は、10段階の位階を持っていましたが、これはドイツの「黄金薔薇十字団」の影響を受けたものであり、GDにも継承されました。

マッケンジーも1872年にSRIAに入会しましたが、リトルとの方向性の違いから、75年には脱会しました。
彼は、GDの創設者となるウィリアム・ウィン・ウェストコット(1828-1891)に、リトルを批判し、自分こそは本当の薔薇十字位階を持っているという手紙を書いています。

マッケンジーは、1874年にフリーメイソンの辞典「ロイヤル・メイソニック・サイクロペディア」を発表したことでも知られています。
この辞典は、様々な傍流の結社についても紹介しています。
また、彼の死後、夫人のアレクサンドリナは、GDに入会しています。

SRIAの「至高術士(最高マグス)」は、1878年にリトルからウィリアム・ロバート・ウッドマンに、そして、1891年には、ウェストコットに引き継がれました。
マッケンジーの遺稿の多くは、ウェストコットに引き継がれたと思われます。

アンナ・キングスフォード(1846-1888)は、医学博士の学位を持ち、女権論と動物実験反対の運動家としても活躍していました。
ですが、彼女は、天使や聖人の訪問を頻繁に体験するような幻視家でもあり、1882年には、神秘的キリスト教の重要人物として注目を集めるようになりました。
1883年、彼女は神智学協会のロンドン・ロッジの会長になりました。
ですが、ブラヴァツキー夫人と不仲となり、1884年には独立して「ヘルメス協会」を結成しました。

GDの創設者のウェストコットとS・L・マグレガー・マサース(1854-1918)は、「ヘルメス協会」の名誉会員であり、そこで講演を行っていました。
「ヘルメス協会」は、神智学協会と同様に、男女が平等に参加する団体でした。

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<黄金の夜明け団の歴史的概要>

GDは、高位のメイソンリーであり、SRIAに所属する3人によって、ロンドンで、1888年3月に設立されました。
主体になったのは、ウィリアム・ウィン・ウェストコットで、彼がウィリアム・ロバート・ウッドマン、S・L・マグレガー・マサースの2人を誘いました。

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*ウェストコットとマサース

当時、ウッドマンは、SRIAの会長で至高術師であり、優れたカバラ研究家だったため、団の権威付けのために担がれた、飾り的存在でした。

フリーメイソンやSRIAは男性のみの結社だったため、ウェストコットは、アンナ・キングスフォードの「ヘルメス協会」同様に、男女平等主義の結社を作ろうとしたのでしょう。

ウェストコットは、ある暗合文書を入手したのですが、それがトリテミウス式の暗合であることを見抜いて、それが魔術結社の儀式の骨格を書いたものであることを解読しました。

後に、ウェストコットは、この結社がフランクフルトの古い薔薇十字のロッジであり、ブルワー・リットンがそこで「ザノーニ」を書いた、と書いています。
そして、この結社は、ヨハン・F・フォークが率いるロンドン・ロッジを持っていたと。

先に書いたように、暗合文書に書かれた儀式の位階は、ドイツにあった「黄金薔薇十字団」、及び、SRIAの位階をほぼ継承しています。

この暗合文書の作者や結社に関しては、確かなことは分からず、様々な推測がなされていて、
リットンやホックニー、マッケンジーが関わったという説もあります。

*詳細は、次のページを参照。

この暗合文書にはメモがついており、そのメモには、この文書の暗合を解読した者は、「黄金の夜明け団」の代理人フロイライン・シュプレンゲル(魔法名サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス)に連絡をするようにと書かれていました。
ウェストコットは、彼女と手紙でやり取りを行って、「黄金の夜明け団」の外陣の結成の許可を得ました。

このメモの作者、代理人、代理人との書簡についても、確かなことは分からず、様々な推測がなされています。

ですが、エリック・ハウが「黄金の夜明けの魔術師たち」(1972)で行った論証が、定説のようになっています。
それによれば、このメモと書簡、そして、シュプレンゲル嬢は、ウェストコットが、GDを結成(復活)するために行った捏造です。

GDが設立されたのは、キングスフォードが亡くなった一週間後です。
R・A・ギルバートは、シュプレンゲル嬢の魔術師名「サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス」が、キングスフォードの魔法名と同じだと指摘しています。
つまり、キングスフォードがモデルだったのでしょう。


ウェストコットは、GDを魔術を愛好する男女参加の社交クラブとして設立しました。
ですが、1891年には、マサースがGDの主導権を奪い、本格的な魔術結社に改革しました。

GDの規模は、設立数年後の最盛期には、複数の支部に、団員を350人ほどかかけるまでになり、多くの有名人も参加しました。
その内、女性は1/3ほど、内陣にまで昇格したメンバーも1/3ほどでした。

有名人には、GDの主要メンバーの中だけでも、ノーベル賞文学作家のW・B・イェイツ、有名舞台女優のフロレンス・ファー、哲学者アンリ・ベルクソンの妹ミナ・ベルクソン、そして、世紀の悪徳魔術師として三流新聞を騒がせたアリウスター・クロウリーらがいました。
ウェストコットとマサースも、神秘主義文献の翻訳、著作で知られていました。

メンバーは、若い中産階級が主体で、多くのメンバーは社交クラブ以上のものを望んでいませんでした。

実際、本格的な魔術師として知られるメンバーは、マサースの他、J・W・ブロディ=イネスとその弟子のW・E・カーネギー・ディックソン、そして、早期に離脱したアラン・ベネットとその弟子で独自の体系を築いたアレイスター・クロウリーくらいです。


1897年に、ある事件をきっかけにウェストコットは脱退を余儀なくされ、GDの運営が弱体化していきました。
そして、メンバー間の内紛や、1901年の詐欺師が絡んだ醜聞事件などによって、1903年には、GDは「A∴O∴」、「暁の星」、「聖黄金の夜明け」の3つに分裂しました。

また、GDの教義や儀式が、秘密厳守の誓いを破ったメンバーによって、徐々に公開されていきました。
中でも、イスラエル・リガルディーが、1937-40年にかけて、「黄金の夜明け」4刊本で、GDの教義、儀礼体系のほとんどを公開してしまいました。
これによって、GD系の結社は壊滅的な打撃を受けました。

しかし、これによってGDの魔術は、途絶えませんでした。
ダイアン・フォーチュン、ポール・フォスター・ケース、リガルディーといった分裂以降の第2世代のメンバーや、その弟子達によって、継承され、拡大していきました。
ですが、その形は、通信教育や書籍、WEBを通したものに変化していきました。


* 詳細は下記をして参照ください。


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エリファス・レヴィとオカルティズム復興 [近代魔術]

19C中頃のエリファス・レヴィに始まり、その影響を受けた世紀末のパピュス、ガイタ、ペラダンらの活動は、19Cフランスのオカルティズム復興運動と呼ばれます。
この潮流は、神秘主義思想の歴史において、イリュミニズムやロマン主義と、神智学やゴールデン・ドーンの間をつなぐものです。

レヴィの時代は、一般人にも読書をする人が増え始めた時代であり、この潮流によって、かなり一般的なレベルで神秘主義思想や魔術が知られるようになりました。
神秘主義のポップ化の最初の段階と言えるかもしれません。

「オカルティズム」という言葉が使われるようになったのも、レヴィの影響です。

ですが、レヴィは形而上学的・教義的な興味を持っておらず、それらは、ブラヴァツキー夫人の近代神智学や、シュタイナーの人智学を待つ必要があります。
また、レヴィの潮流は「魔術」を中心とするものですが、彼が持っていたのは、あくまでも知的興味であり、魔術の本格的な実践は、ゴールデン・ドーンを待つ必要があります。

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<レヴィの生涯>

エリファス・レヴィことアルフォンス=ルイ・コンスタン(1810-1875)は、神学校で神学を修め、1835年に助祭になりました。

しかし、その後、社会主義運動に傾倒し、1841年と1846年に出版した書籍によって2度投獄されます。
また、1844年、聖母マリアを通した女性の復権、女性が主導する社会主義的ユートピアを主張した「神の母」を出版し、教会と決別します。

一方、「魔術師」を発表した幼馴染の文学者アルフォンス・エスキロスとの再会や、服役中にスウェデンボルグ、アグリッパ、ルルスなどの神秘主義文献を読んだことを通して、神秘主義思想に傾倒しました。
1852年には、カバラに精通し、メシアニズムに傾倒するヘネ・ヴロンスキーと出会い、この頃からオカルティズムの研究に没頭するようになりました。
また、1854年、オカルト系小説でも有名なブルワー・リットンの招きでイギリスに旅行し、様々な神秘主義者と交流を持ちました。

1855-6年に、レヴィの最初の神秘主義の書であり、主著である「高等魔術の教理と祭儀」を出版します。
この書の出版に当たって、アルフォンス=ルイをユダヤ語風の発音にしてエリファス・レヴィを名乗りました。

その後、1860年の「魔術の歴史」、1861年の「大いなる神秘の鍵」など、魔術に関する書を多数出版します。
これらの著作によって、18Cフランス、及び、その後のヨーロッパの神秘主義思想に、大きな影響を与えました。

レヴィには弟子的存在はいましたが、彼は組織や党派を作りませんでした。
また、彼は、儀式魔術をほとんど行わず、むしろ、危険であるとして弟子にも勧めませんでした。
彼は、実践家というより理論家であり、思想家というより啓蒙家でした。


<レヴィの魔術観>

ルネサンスの神秘思想と同様に、レヴィも、「原初の伝統」、「一つの教義」があると考えました。
異なる点は、易経などの東洋思想が少し付け加えられていることで、この点は彼の時代としては普通のことです。

レヴィは、「原初の伝統」は、主に「ヘルメス文書」やグノーシス主義文献の「エノクの創世記」に記されていて、その核心はカバラであると考えました。
もちろん、学問的な文献考証・時代考証はなされていません。

レヴィのカバラは、フランスのカバリストのギヨーム・ポステルなどの影響を受けた、キリスト教カバラです。
彼は、ポステルの影響を受けつつ、タロットがカバラ思想を表現するものとして重視しました。

レヴィは、「原初の伝統」は、キリスト教が弾圧したことによって、「秘められた伝統」、つまり、「オカルティズム(隠秘学、隠秘哲学)」になったと考えました。

レヴィにとって「オカルティズム」とは、何よりも「魔術」です。
彼の魔術観は、アグリッパや薔薇十字主義に代表されるルネサンス的な魔術観(魔術=哲学=自然科学)を基本としていて、特別な魔術観を創造したわけではありません。

レヴィは、魔術の象徴体系が、類比・照応で示される真理だと言います。
魔術は、自然全体を精神の下に従属させるものであり、「意志」と「想像力」が重要なのです。

彼は、ルネサンスの魔術師と同様、「魔術」と「妖術」を区別します。
ですが、ピコやアグリッパが強調した、神的な「カバラ魔術(天使魔術)」と「天界魔術」と「自然魔術」の区別をほとんど語りません。
「高等魔術」という言葉は、レヴィ以降に広く使われるようになったのだと思いますが、彼は、神的な領域に関わる純粋な「カバラ魔術(天使魔術)」の実践についてはほとんど語りません。

それに、レヴィは、魔術の実践をほとんど行わなかったようです。
彼は、実践と意志について語りながらも、我々の実践は学問探求であって、儀式を再興しようという意図は持っていないと言いました。

彼は、降霊術としての魔術を数度行い、死者の霊魂の姿を目にしましたが、それが本当の死者の霊魂であるとは信じませんでした。
そして、「魔術の実践は危険で被害がつきまとうと信じている。このような作業が常習的になった場合には、精神的にも、肉体的にも健康が持ちこたえられないだろう。」と語り、その実践を否定しています。


<レヴィのアストラル・ライト>

レヴィは、「アストラル・ライト」という概念を重視して多用して、魔術的な世界観を説明しました。

レヴィにとって「アストラル・ライト」は、第一に、魔術が機能する媒体です。
「アストラル・ライト」は、ルネサンス魔術の「霊気(スピリトゥス)」に相当する概念でしょう。
彼はこの言葉を、「世界霊魂」、「第一物質」、「磁気」などの言葉でも言い換えます。

「磁気」とも表現しているのは、当時流行っていたメスメルの「動物磁気」を「アストラル・ライト」に相当するものと考えたということです。
逆に言えば、「アストラル・ライト」の理論には、メスメルの影響があるのでしょう。
ですが、レヴィは、「動物磁気」による治療は、魔術師の治療魔術の稚拙な形であるとしました。

「アストラル・ライト」は流体的な質料的存在で、言葉(ロゴス)によって「形態」を持ちます。
レヴィは、「形態」を、「映像」、「反射」とも言い換えます。
ルネサンス魔術では、ストア派由来の「種子的理性」、カルデア由来の「イウンクス」などの概念を使いました。
近代神智学では、「想念形態(ソート・フォーム)」と呼ばれるようになるものです。

レヴィは、さらに、次のように、「アストラル・ライト」と「形態」について説明します。

「形態」は、人間の「想像力」によって変形、創造され、それが直接、他の人間の精神に「反射」して影響を与えます。
人間の霊魂は、肉体が呼吸するように、観念を呼吸します。
そして、人間の思考は、「アストラル・ライト」に「形態」としてすべて保存されます。
人間は、自分の回りを自分の思考の「反射」に取り囲まれて、それに影響を受けるのです。

「アストラル・ライト」は、脳、心臓、性器といった部位を通して、放射と吸収されます。
あるいは、別の場所では、手と目を通して行われると言っています。

大きな次元で言えば、アダムの堕落は「アストラル・ライト」に刻まれ、イエスの贖罪によって消されたのだと言います。

レヴィは、人間は「アストラル・ライト」を見る能力を生まれながらに持っているけれど、感覚を取り除くことによってしか作動しないと言います。

魔術によって作られた「形態」は、魔術的生命を持ちます。
レヴィは、悪魔を人格的存在と見るのはマニ教の名残であって、本当は、悪魔とは道から外れた力であり、「アストラル・ライト」の中の無秩序で醜悪な「形態」だと言います。

また、レヴィは、魔術の力を働かせるためには、魔術的な「鎖」が必要だと言います。
「鎖」には3種類あって、それは「言葉」と「記号」、「接触」です。

更に、レヴィは、「アストラル・ライト」が人間の霊魂の覆いとなると言い、それを「人間的光」、「霊体(アストラル体)」と表現しました。
新プラトン主義で「輝く霊体」と表現されたものでしょう。

そして、レヴィは、降霊術で呼び出されるのは、天に戻った人間の霊魂ではなく、「アストラル・ライト」に転写された、屍としての「霊体」、でしかないと主張しました。

ちなみに、この考え方は、ブラヴァツキー夫人が心霊主義を批判する時に使いました。
レヴィは、スウェデンボルグの霊視に対しても、「アストラル・ライト」の光線と反映を区別しなかったと批判しています。

レヴィの「アストラル・ライト」の理論は、彼の独創ではありませんが、彼を通して、神智学や人智学、ゴールデン・ドーンなどの魔術理論にも影響を与えました。

彼は「霊体」を「エーテル状」と表現していて、「エーテル体」と「アストラル体」と区別していません。
伝統的には、天体層の素材が「エーテル(アイテール)」ですから、それを踏襲しています。

しかし、近代神智学以降、両者は区別され、「エーテル」はあくまでも「物質」の微細なレベルとされ、「動物磁気」も「エーテル」次元のものとされます。

近代神智学や近代魔術では、「アストラル界」は感情や欲望に対応する次元を表現しますが、「アストラル・ライト」は「アストラル界」だけでなく、それ以上の次元を広く包含する概念です。
  

<レヴィのタロット>

レヴィは、ヘルメス文書の奥義はカバラであり、タロットはその神秘を開示するもので、ソロモン王の時代から伝わるものだと主張しました。
彼は、タロットが古代エジプトのトート神(ヘルメス神)の「トートの書」であるという、クールド・ジュブランの説を信じて継承しながら、それを深めたわけです。

また、ギョーム・ポステルやト・メレ、アタナシウス・キルヒャーを典拠に、ヘブライ語の22のアルファベットを、タロットの大アルカナに割り振りました。
この割り振りは、ジュブランとは逆で、大アルカナの1からの順でしたが、「愚者」を20と21の間に入れました。
そして、それが13の教義と9の信仰を表現するとしました。

「高等魔術の教理と祭儀」は、教理篇、祭儀編ともに22章からなり、それがヘブライ語のアルファベット、タロットの大アルカナに対応する構成になっています。

また、小アルカナに関しては、4つのマークをテトラグラマトンの聖四文字などに対応(棒=ヨッド=男根、盃=へー=女陰、剣=ヴァヴ=陰茎・均衡、コイン・円環=へー=世界)させました。
そして、10の数字札は10のセフィロートに、4つの絵札は人間性の4段階(夫、婦、若者、幼児)に対応させました。


<レヴィの影響>

すでに書いたように、レヴィの魔術は、まだまだ実践的なものではありませんでした。
彼は、呼吸法を語らず、明瞭なイメージ喚起(観想)についても語らず、守護天使・守護霊についても語らず、無意識にアクセスする心理学的観点も語りません。

ですが、レヴィの影響は大きく、オカルティストでは、フランスのパピュス、ガイダ、ペラダン、神智学協会のブラヴァツキー夫人、イギリス薔薇十字団のケネス・マッケンジー、ゴールデン・ドーンのアレイスター・クロウリーなどに及びます。

また、文学者では、ボードレール、ヴィリエ・ド・リラダン、マラルメ、ランボー、アンドレ・ブルトン、ジョルジュ・バタイユらにも影響を与えました。


以下、レヴィの影響を受けて、フランス19C末のオカルティズム復興を担った3人のオカルティスト、パピュス、ガイダ、ペラダンの活動について、簡単に紹介します。

<パピュス>

パピュスことジェラール・アンコース(1865-1916)は、以下に記すように、多くの人物と交流を持ち、多数の組織に関わった活動的な人物です。

パピュスは1887年、神智学協会のフランス支部であるイシス・ロッジに入会しました。
神智学協会の会誌「ロータス」に寄稿を始めましたが、この中でパピュスというペンネームを使うようになりました。
しかし、イシス・ロッジは1年後に解散となってしまいます。

1888年、ガイタ、ペラダンと共に、「薔薇十字カバラ団」を創立します。
また、「マルティニスト会」を設立し、1891年にはグランド・マスターに就任します。

1888年、「隠秘科学の基礎理論」を出版し、オカルティズム雑誌「イニシエーション」の編集を始めます。
1889年、「ボヘミアンのタロット」を出版します。

マグレガー・メイザースとも親交を持ち、1895年、「ゴールデン・ドーン」の「アハトゥール・テンプル」に入団します。
1897年、近代錬金術・ヘルメス哲学者として著名なジョリデェ・カストロとセディールらと親交を持ち、彼らと「ヘルメス学院」を設立します。

パピュスの著書の「ボヘミアンのタロット」は、後世のタロット解釈に大きな影響を与えました。
彼のタロット理論は「宇宙の車輪」とよばれる、十字の周りを循環する宇宙論に基づいたもので、ポステルやレヴィが提唱したカバラとタロットの関係を深めました。


<ガイタとペラダン>

スタニスラス・ド・ガイタ侯爵(1861-1897)は詩人として、サール・メロダックことジョセファン・ペラダン(1858-1918)は芸術運動や作家として活躍した人物です。

ガイタはペラダンの「至高の悪徳」を読んで、ペラダンに連絡を取り、弟子、そして友人になりました。
1888年に2人は、パピュスと「薔薇十字カバラ団」を設立し、ガイタが首領に就任します。
「薔薇十字カバラ団」の位階は「学士」、「修士」、「博士」からなりました。

ペラダンは、カトリック教徒としての近代魔術を追求しようとして、1890年に「薔薇十字カバラ団」を脱退して「カトリック薔薇十字聖杯神殿教団」を設立しました。
この結社はテンプル騎士団を意識した位階制で、「侍従武官」、「騎士」、「騎士分団長」からなりました。
しかし、ガイタはペラダンを「薔薇十字思想を歪めている」と非難しました。

「カトリック薔薇十字団」は、世紀末の芸術家達のサロンとしても機能しました。
ペラダンは、1892から1896年にかけて、パリで、ギュスターヴ・モロー、ジョルジュ・ルオー、フェリシアン・ロップスなどのそうそうたる画家達が参加した「薔薇十字展」を開催しました。
ここでは、ワグナー、エリック・サティ、ペラダンの音楽作品も上演しました。

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