日本の弥勒信仰(弥勒菩薩と弥勒神) [日本]

このページでは、日本における弥勒菩薩、ミトラ神(弥勒神)の信仰を、通史的にまとめます。

仏教の弥勒菩薩(マイトレーヤ)の信仰は、イランのミトラ神の信仰の影響で生まれました。
ミトラ神は、マニ教、ミトラス教などのイラン系諸宗教の主神であり、ゾロアスター教(マズダ教)にも登場します。

シルクロード都市(西域)でも、中国、朝鮮、日本でも、仏教化した弥勒菩薩信仰と、仏教化していないミトラ神信仰が併存し、互いに習合しながら、各地の宗教とも習合、土着化し、時代ごとに変容してきました。

当ブログでは、ゴードン学派などの世界的な潮流を受けた東條真人氏の見解を参照して、ミトラ神、及びその影響下で生じた神を主神とする宗教、信仰を総称して、広義に「ミトラ教」と表現しています。
そして、その中国での展開も、同様に「弥勒教」と表現します。
「ミトラ教」、「弥勒教」は分析概念として抽象して初めて見える巨大な運動体です。

日本の弥勒信仰には神秘主義的傾向は少ないですが、東西ユーラシアを席巻したミトラ神の東端におけるその姿は、重層的な歴史を感じさせるものです。



<ミトラ神と弥勒菩薩の基礎知識>

まず、ミトラ神と弥勒菩薩の基礎知識をまとめます。

ミトラ(ミスラ)神は、インド・イラン神話、古インド・イラン文化の2大主神(ミトラ/ヴァルナ、アパム・ナパート)の一つです。
その後の歴史の中では、3柱神(ミトラ/マズダ/アナーヒター)の1神にもなりました。

イラン系のゾロアスター教、ズルワン主義、ミトラス教、マニ教、ミール派イスラム教、孔雀派、天使教などで主神、もしくは、重要な神とされてきました。

広義でのミトラ教、ミトラ神信仰は、ユーラシア最大の宗教運動であり、諸帝国を超えて広がった超世界宗教であるという捉え方も可能です。
ですが、各地、各時代の宗教と習合し、神格はその地の神の呼び名が使用されたので、全体として捉えにくい宗教運動です。

また、その終末の救世主や太陽神などとしての姿や、3柱神という論理は、他宗教にも大きな影響を与えました。

ユダヤ教ではメタトロンとなり、キリスト教ではヨハネ黙示録の白馬で現れるキリストとなり、イスラム教ではアル・マフディーや「時の主」となり、ヒンドゥー教ではシャンバラ王カルキとなり、仏教では弥勒菩薩やシャンバラ王ラウドラチャクリンとなり、道教では金闕聖後帝君となりました。

ミトラ神の本来的な性質は、光、契約、友愛の神です。

他にも多数の側面、顕現(化身)を持ちます。
根源神である両性具有のズルワン、十二星座の支配者、太陽神、聖牛の供犠者、冥界の審判者、児童神、現在の世の教師、終末の救世主などです。


弥勒菩薩(マイトレーヤ)は、ミトラ神の未来の救世主という属性を大乗仏教が取り入れて生まれた菩薩でしょう。
紀元前後、パルティア、バクトリアのミトラ信仰の影響で、イラン東部からインド北部で生まれました。

弥勒菩薩が修行している兜率天に往生したいという一種の浄土思想である「上生信仰」と、未来に弥勒仏が地上に現れて人々を救うという「下生信仰」があります。

イラン系の宇宙論では、文化は周期的に堕落して預言者が現れますが、仏教はこれを「末法思想」という形で取り入れて、弥勒菩薩の「下生信仰」と結びつきました。
「末法思想」は「終末論」とは似て非なる思想です。

弥勒菩薩は釈迦の時代の次の時代の教主であり、「未来仏」と呼ばれます。
部派仏教では5億7千6百万年後、大乗仏教では56億7千万年後に現れます。


<中国での変容>

中国には、主にイラン系ソグド人を通して、仏教の弥勒信仰とともに、マニ教(明教)、ゾロアスター教(景教)、その他の多様なミトラ神の信仰がもたらされたと思われます。

中国側では、これらの諸宗教がはっきりと区別されていませんでした。
ミトラ神には様々な呼び名がつけられましたが、「弥勒」もその一つです。
「明教(マニ教)」では、ミトラ神を「天真弥勒」などと表現しました。

中国では、ミトラ教系の終末論思想と、弥勒菩薩の下生信仰が結びつき、戦闘的で革命的な弥勒信仰が民衆の間に広まったことが一つの特徴です。

「白蓮教」は、弥勒菩薩の下生信仰と終末論的な弥勒神信仰が習合して生まれた民間宗教結社の総称です。
「白蓮教」では、ミトラ神を、「白仏明王」、「弥勒明王」などと表現しました。
これは軍神的側面が強調された表現です。

また、ミトラ神の根源神ズルワンとしての側面は「古仏弥勒」、十二星座の主宰者としての姿は「妙見菩薩」、現在の世で化身となって教えを説く姿は「無為祖師」、その童子形は「弥勒童神(聖弥勒観音)」、終末の救世主としての姿は「弥勒仏」などと呼ばれました。

「妙見菩薩」は、中国の北辰・北斗信仰とミトラ神が習合した神を、仏教が天部として取り入れた尊格で、日本にも招来されました。
「妙見」という名は、「万の目を持ち、すべてを見渡す者」というミトラの尊称に由来します。

また、密教占星術も、カルデア=イラン系占星術の大きな影響を受けていて、日曜を示す「蜜」は太陽神としてのミトラのことです。

中国では、弥勒信仰は、禅宗の僧だった布袋の信仰とも習合しました。
ちなみに、十牛図の最後の図は、布袋=弥勒に会うことがゴールになっています。
布袋としての弥勒には、福神としての性質が表現されています。


<飛鳥時代の弥勒信仰>

飛鳥朝の時に、中国北朝・高句麗・新羅系統の弥勒信仰と、中国南朝・百済系統の弥勒信仰が伝わりました。
前者は秦氏や聖徳太子に、後者は蘇我氏に伝わりました。

秦氏の氏寺の広隆寺には、聖徳太子から賜った(622)とされる、有名な半跏思惟の弥勒像があります。

聖徳太子は、そもそもその実在すら疑われるような伝説的人物ですが、聖徳太子を日本仏教の教主(法王)、救世観音とする「太子信仰」が生まれました。
「太子」というのは、成道以前の釈迦を指す言葉で、もともと半跏思惟像はこの釈迦の像でした。
日本では、半跏思惟像と言えば弥勒像なので、「太子」には弥勒菩薩にも重ねられたのでしょう。


飛鳥朝には、仏教だけではなく、ゾロアスター教などのイランの宗教の影響があったというのは、松本清張だけでなく、イラン学の伊藤義教や井本英一も指摘しています。

他にも、栗本慎一郎(経済人類学者)は蘇我氏がサカスタンを故郷とするイラン系ミトラ教徒だったという説を、久慈力(作家)は蘇我氏がカッシートのバビロニア系ミトラ教徒だったという説を提唱したように、飛鳥朝にミトラ教が影響を与えたと考える人も現れています。

東大寺の教学、二月堂の創建、お水取りの創作に貢献した僧の実忠は、伊藤義教の推測によれば、イラン系の人間です。
二月堂の修二会のお水取りの儀礼では、二月堂の下にある井戸から水を汲みます。
この儀礼の背景には、イランの河神でありミトラ神の母でもあるアナーヒター信仰があると、氏は推測しています。

推古朝の時(612)、中国南部の呉から百済人の楽師・味摩之が、伎楽を日本に伝えました。
その伎楽には、ミトラ神の仮面劇が含まれていました。
伎楽は、東大寺の大仏開眼供養でも上演されました。


<秦氏と摩多羅神>

秦氏の広隆寺に弥勒菩薩半跏像があるように、秦氏は弥勒信仰を持っていたと思われます。

秦氏は、一般に、新羅からの渡来人とされますが、もともとは中央アジアの弓月国が故郷のようです。
ですから、秦氏は、古くからミトラ神への信仰を持っていて、そこに弥勒菩薩信仰が習合した可能性もあります。

少し時代を下りますが、広隆寺には、「摩多羅神」が牛に乗って寺院内を一巡する牛祭りがあります。

「摩多羅(マタラ)神」は謎の神で、大黒天(マハーカーラ)だとか、母天(マートリ)であるという説もありますが、蓮池利隆(中央アジア仏教史)は、ミトラ神説を唱えています。
名前が似ていること、牛と結びついていること、死後審判の神という点で、ミトラ神の性質と一致します。

「摩多羅神」は、天台宗の円仁が伝えた神で、それが広隆寺に伝わったとされます。
天台宗では、常行三昧堂(念仏堂)の後戸の神、つまり、阿弥陀仏の権現・守護神です。
阿弥陀仏(=無量寿仏)は、もともと無限時間神ズルワンであると考えられるため、偶然かもしれませんが、ズルワンの権化であるミトラ神の性質と一致します。

また、天台宗では、「摩多羅神」は玄旨帰命壇潅頂の主神になりましたが、これが北極星とされる点、少年を伴う点で、ミトラ神の性質と一致します。

上記したように、妙見菩薩(=尊星王)は、中国の北辰・北斗信仰とミトラ神とが習合した仏教の天部ですが、その秘法の尊星王法は、天台宗でも最高の大法の一つとされます。


ただ、ミトラ神の性質は多く、また、多くの神には歴史の中で重層的な影響が積み重なっていますので、ある神がミトラ神であるかないか、という考え方自体が無意味かもしれません。


<空海と弥勒信仰>

その後、奈良時代には、元興寺、興福寺など法相宗が弥勒の「上生信仰」を広めました。
そして、平安時代には、真言宗、天台宗の影響もあって、各地に弥勒寺が創建されました。

空海も弥勒信仰を持っていました。
空海が中国に渡る以前に書いた最初の書である「三教指帰」では、自らの姿を仮託した仮名乞児の乞食僧の姿を、弥勒の兜率天にいく旅姿だとしています。

また、真実かどうかは確実とは言えませんが、臨終の際には、食を断って、弥勒菩薩の尊像の前で坐禅三昧に入ったそうです。
そして、「吾開閇眼の後には、必ず兜率他天に往生して、弥勒慈尊の御前に侍す可し。五十六億余の後には必ず慈尊御共に下生し、祗候して吾先跡を問ふ可し」と言ったとされます。
ここには、上生信仰、下生信仰の両方が語られています。

空海没後には、大師の人定、復活信仰が生まれましたが、これも弥勒信仰と結びついています。

平安末期の12C後半には、高野山で「下生信仰」が高揚し、真言宗中興の祖の覚鑁も下生を目指して入定しました。


<鹿島の弥勒信仰>

戦国時代から安土桃山時代にかけて、関東を中心に「弥勒」の私年号が使われたり、鹿島を中心に「弥勒踊り」、「弥勒の船」などを特徴とする弥勒信仰が広がりました。

これらは、渡来した中国人を介して中国で広まった明朝時代の「白蓮教」が影響を与えた可能性がありますが、はっきりした証拠はありません。


戦国時代に、関東・中部の各地で、地方の土豪などによる私年号として、「弥勒」、「命禄」が作られました。
それらの年号は、1506-1508年の間と、1540-1542年の間に最も多く作られました。

弥勒の私年号を使うということは、おそらく「弥勒の世」が始まったという信仰の表現でしょう。


鹿島には、鹿島は東のはての地であり、さらに東方の海上他界から豊穣神が「宝船」に乗ってやってくるという信仰を持っていました。
また、関東・東海地方で、厄除けの「鹿島踊り」が行われていました。

そこに弥勒信仰が習合し、弥勒が「弥勒の船」に米を積んでやってくるという信仰、「弥勒踊り」へと変化しました。

鹿島の弥勒信仰では、「弥勒の世」は、凶作の年に弥勒が救済に現れるという考え、もしくは、豊作の年を意味します。
そこには末法思想や終末論、革命といった側面はありません。

鹿島の弥勒信仰は、鹿島に多い真言宗の弥勒菩薩信仰の影響で生まれたのかもしれません。

ですが、鹿島の「弥勒」の性質は福神であって、これは布袋信仰と習合した弥勒信仰に似ています。


また、沖縄にも鹿島と類似した信仰が伝わっていて、歌に同じ歌詞があるなど、両者に関係があることは間違いありません。
ですが、その影響関係に関してはっきりしたことは分かっていません。

沖縄地方では、弥勒は「みるく」、あるいは「みりく」と呼ばれ(朝鮮での発音の影響かもしれません)、布袋に似た面をつけて豊年祭で行列が行われます。


鹿島の「弥勒の船」は、後に、「七福神の宝船」の誕生に影響を与えたと思われます。
七福神の布袋は、弥勒の化身です。
直接の影響関係はなかったとしても、七福神は、中国の弥勒教の八明王、もとを辿ればミトラ教の7大天使の日本版のようになりました。


<富士講の弥勒信仰>

江戸時代には、食行身禄(じきぎょう・みろく、本姓は小林、本名は不詳、江戸では伊藤伊兵衛と名乗る、1671-1733)という富士山の行者をきっかけにして、修験道とは関係のない「富士講」と呼ばれる富士山信仰が生まれました。

この食行系の富士信仰は、江戸庶民の間で大きな信仰となり、江戸には多数の「富士塚」と呼ばれる小さな富士山が作られ、聖地になりました。

一般に、この修験道とは無関係な「富士講」は、角行藤仏(1541-1646)を祖とし、食行身禄が第6世、あるいは、第5世と言われています。
ですが、実際には、この間、細々とした行者間の継承関係があっただけで、宗教的組織を持った「富士講」が生まれたのは、食行の死後です。

角行は 後世の多くの富士講系の団体が祖として伝説化していますが、本人の思想は、富士山西麓の人穴に住んで修行したこと、護符の代金として金銭を得ていたことくらいしか分かっていません。

彼を師として継承した弟子筋は、いずれも仕事を持った江戸の庶民であり、専門的な宗教者ではありませんでした。
彼らは、修験道系に比して、禁欲より倫理的誓いを重視しました。

食行の師に当たる月行(1643-1717)が、元禄元年(1688、辰年)に、富士山の神である仙元大菩薩様から、自らが統治する「みろくの御世」になったというお告げを受け、大事な意味を持つ「参」の字を教えられました。

食行は、月行の教えを継承しましたが、弟子はいませんでした。
食行は、「みろくの御世」になっているもかかわらず、人々の行いが正しくないことに怒りを感じ、富士山八合目で、持参した厨子に閉じこもって入定(餓死ないしは凍死)を行いました。
その目的は、神に使える役人になって、悪い奴らを罰するためでした。

彼が月行から継承した神話は、下記のようなものです。

1万8千年前、富士山麓の4つの洞窟から4人の神が生まれました。
「ちち」と「はは」の二神が「しみ(須弥)のはしら」を作り、4人の神が人穴の中でそれを立てました。
そして、人間と米を作りました。
「ちち」と「はは」が6千年の間、世界を統治し、その後、「天照大神宮」が1万2千年間統治しました。
この間、釈迦如来が富士山頂に「一字の大事(参)」を伏せました。
新しく「仙元大菩薩様」の「みろくの御世」が始まり、万刧万万年続きます。

食行は、神道や仏教を否定しますし、「天照大神宮」も否定的な存在とされるようです。

食行が亡くなった後、知人らによって「富士講」が組織され、徐々に江戸の庶民の間に流行していきました。
ですが、その教えの中心は、士農工商に応じた道徳を説くものであり、弥勒信仰はあまり重視されませんでした。

月行や食行の主張は、「みろくの御世」はすでに始まっているということです。
そして、中国の白蓮教にあったような世直し志向は、食行には見られましたが、「富士講」にはありませんでした。

「富士講」の非主流派の伊藤参行は、月行、食行と少し異なる教義を作ったようです。

原初神は、「元のははちち様」などと表現されます。
そして、「元のははちち」は三柱神、「仙元大菩薩(木花咲耶姫)」、「長日月光仏」、「弥勒仏生仏(妙見弥勒)」を生みます。
これは、天祖参神(大祖参神)とも表現され、記紀の造化三神でもあるとされました。
そして、「元のははちち」、「天照大神宮」、「仙元大菩薩」が6千年ずつ世界を統治します。
食行は、「仙元大菩薩」と神人合一して、自身が「弥勒仏生仏」の化身であると悟りました。

この原初神と3柱神は、ミトラ教の、両性具有のズルワン(中国では無生父母)と、母神アナーヒター、父神ズルワン、子神ミトラの3神と似ています。
また、統治の3期間は、ゾロスター教が語る、アフラ・マズダの世界創造の6千年、アーリマンとの戦いの6千年、最後の審判後の神の国の3期間と似ています。
この類似は、間に白蓮教の存在を仮定しないと、理解しにくいのではないでしょうか。


「富士講」はその後に分派していき、明治期には、実行教、扶桑教、丸山教などが教派神道となって、教義も神道化しました。


<大本教の弥勒信仰>

大本の開祖の出口ナオは、明治25年、艮の金神が神懸かり、「三千世界の立替え」によって「艮の金神の世」が来ることを伝えました。
これは後に「みろくの世」と呼ばれるようになりました。

立替えは今からということですので、私年号や富士信仰の月行、食行の考えと同じです。

ですが、富士講系の教派神道化した各宗教が、国家神道に同調したのに対して、大本教は中国の白蓮教のように革命的性質を持っていたため、政府によって弾圧されました。

大本では、「みろくの神(弥勒大神)」を「天の祖神」、「大国常立神」とし、また、「木花咲耶姫」でもある「伊都能姫」であるとしますが、これは富士講系の考えに似ています。

また、「みろくの神」は、大本の聖師である出口王仁三郎に懸かった神でもあります。

王仁三郎の師だった大石凝真素美は、弥勒を「五六七」と表記し、弥勒が56歳7ヶ月の年齢で、日本に下生すると主張していました。

王仁三郎は彼の影響を受けて、弥勒を「五六七」と表記し、また、自身がその年齢になった昭和3年辰年に、「みろく大祭」を行いました。

大本の弥勒神話には、「隠遁神話」という独特の特徴があります。
「みろくの世」は、かつて統治していた「みろくの神」が復帰して、本来の世に戻すことを意味します。
悪い神によって、悪神であると貶められていた善神の統治が復活するのです。


参考文献
・「イラン文化渡来考」伊藤義教
・「ミロク信仰の研究」宮田登
・「角行系富士信仰」大谷正幸
・「ミトラ教 ミトレーアム・ジャパン」東條真人
など

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折口信夫の「死者の書」と神道の宗教化 [日本]


折口信夫の産霊信仰と鎮魂法」から続くページです。

このページでは、折口信夫が唯一完成させた小説「死者の書」と、戦後に主張した神道の宗教化、産霊神の一神教について取り上げます。

それは、折口が考えた、古代と未来をつなぎ、神道、仏教、キリスト教を総合しつつそれらを越える、普遍的な宗教とは何か、という問題です。

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<死者の書>

「死者の書」は、折口が「釈迢空」名義で、完成させた唯一の小説です。
この小説は、1939(昭和14)年に連載され、その4年後に、構成を変えて第二稿として出版されました。

また、戦後の1948(昭和23)年頃に、続篇の草稿が執筆されました。
ただ、折口の草稿には「死者の書」とだけあり、「続篇」とは書かれていません。
続篇の草稿が書かれたのは、ちょうど、折口が、神道宗教化をテーマにした講演を行っていた頃です。

「死者の書」には、折口自身の宗教観、そして、彼の日本の宗教に関する考え方が表れています。
そして、その内容は、折口が神道宗教化として、神道の新しい方向性として考えていたものとつながっているはずです。


「死者の書」は、古代的な神祇信仰が終わり、仏教(阿弥陀浄土信仰)の時代へと移行する8世紀半ばが舞台です。
この小説では、この頃の日本人の宗教心の変容を描いています。

主人公は、藤原南家の豊成の娘の郎女(中将姫)です。
彼女は、氏神の巫女(神の妻)となるべく育てられましたが、それにあきたらず、阿弥陀浄土の信仰にも傾倒するようになりました。

そして、太陽が沈む西方の二上山越えに阿弥陀仏を幻視するようになり、二上山とその麓の当麻寺まで出かけます。
郎女は、巫女でもあったので、それは恋(魂乞い)の要素を持つものでもありました。

ですがその裏側には、50年ほど前に謀反を疑われて自害に追い込まれ、二上山の山頂近くに正しい葬儀なく埋葬された滋賀津彦(大津皇子)が、復活して、郎女を魂乞う行為がありました。
滋賀津彦は、生前の最期に見た鎌足の娘の耳面刀自に思いを寄せて、この世に執心を残し、彼女に似た同氏族の子孫である郎女に魂乞いし、そのもとに訪れようとしていました。

滋賀津彦は、天若日子や隼別に重ねられて、反逆者として描かれます。
ということは、怨霊でもあり、郎女は巫女として、彼を鎮魂することが望まれます。

郎女は、蓮の糸で布を織り、そこに幻視した阿弥陀仏の姿を描きました。
彼女が描いたのは、阿弥陀仏だけでしたが、それを見たお付きの刀自達には、数千の地涌の菩薩の姿が現れました(浄土の光景を描いた当麻曼荼羅となりました)。
阿弥陀仏と菩薩達が来迎して、滋賀津彦の魂は救済されたのでしょうか。

郎女が、没する太陽を眺め、阿弥陀仏を幻視したのは、「日想観」の一種です。
「日想観」は、「観無量寿経」で説かれる観相法の第一のもので、日没に浄土を観想する方法です。
折口が若い頃に親しんだ四天王寺や天王寺の夕陽丘には、「日想観」を行って往生をしようとする習慣がありました。

一方、「死者の書」では、二上山麓の当麻の女達が、彼岸に太陽を追って歩く「野遊び」という古代的な風習の様子も書かれています。

つまり、「死者の書」では、古代的な風習、魂請い、鎮魂が、仏教的な阿弥陀浄土の信仰の観想に変換される様子が描かれています。

実は、折口が古代学として日本の古代に見ようとしていたものは、日本的なものではなく、普遍的なものなのでした。
それだからでしょうか、「死者の書」は、世界の宗教とつなげられています。

「死者の書」というタイトルは、エジプトの「死者の書」から来たものです。
出版された折口の「死者の書」には、山越し阿弥陀像、当麻曼荼羅に加えて、エジプト神話のオシリス復活の絵が添えられていました。

折口の「死者の書」には、郎女が蓮華の中から阿弥陀仏の姿が現れるヴィジョンを見る場面がありますが、ここにはオシリスの復活と共通する要素があります。
つまり、郎女による滋賀津彦の救済は、イシスによるオシリスの復活と重ねられています。

このように、「死者の書」には、日本の古代的な信仰が持つ普遍的な宗教心の変容が描かれています。

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*山越し阿弥陀像、当麻曼荼羅


<死者の書・続篇>

「死者の書・続編」は、平安時代末期の高野山が舞台となり、郎女と同じ藤原氏の左大臣頼長を主人公とする物語です。

高野山は二上山と同様に死者の山です。
それに、頼長は、四天王寺の日想院から高野山に赴いたり、高野山から二上山麓の当麻寺に行ったりするなど、「死者の書」の舞台とも結び付けられています。

続篇は、頼長が空海を復活させる(招魂する)物語として構想されたのかもしれませんが、未完のため、その部分は描かれていません。

藤原頼長は、高野山の僧から入定した空海は今でも髪が伸びていて、二十年に一度、その頭髪を切る儀式が行われているという話を聞きます。
また、「日京卜」という珍しい占いの法があるという話も。

高野の谷の一つに、空海が唐より連れ帰った鬼神の子孫とされ、「苅堂の聖」と呼ばれる下級の法師達が住んでいます。
彼らが、空海の頭髪を切る儀式の前日に、落日に向けて十文字の形に組んだ枝を投げると、そこに空海の姿が現れるので、これよって髪の長さを占うのが「日京卜」です。

頼長は、これが占いではなく、「招魂の法」であると理解します。
これは、ペルシャ人によって西域から長安に伝わった景教(ネストリウス派キリスト教)の招魂術であり、これによってキリストの姿を現して礼拝するのです。

つまり、「日京卜」の「日京」は「景教」の「景」なのです。
そして、「日」は、景教が日の神の信仰と習合していることを予期させます。


「死者の書」では、普遍性を持つ古代的なものの、新しい形への変容が描かれました。
そのテーマは続篇でも継承されているはずです。

真言密教の大日如来は太陽の仏ですし、ネストリウス派キリスト教はペルシャの太陽神信仰と習合している可能性もありますから、太陽信仰というテーマも同じです。

入定した空海と、ネストリウス派の招魂法が登場するので、死と復活というテーマも同じです。

では、折口は、なぜ、続篇を描こうとしたのでしょうか?

「死者の書」の主人公が郎女という女性であるのに対して、続篇の頼長は、学識の高い男色家です。
また、「死者の書」が参照したエジプトの宗教は、イシスという女神を重視する宗教ですが、続篇のネストリウス派キリスト教は、聖母マリアという人間の女性の神性を否定する派です。

つまり、女性原理のテーマが、男性原理、あるいは、無性原理というテーマに変わっています。

また、「死者の書」が扱う阿弥陀信仰は一神教的傾向が高い宗教ですが、続篇が扱うキリスト教は一神教であり、ネストリウス派は正統派以上に一神教的な異端です。

つまり、一神教というテーマが明確化されています。

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*自筆の続篇草稿


<藤無染と新仏教>

「死者の書」の背景を推測してみましょう。

折口が、1905(明治38)年に国学院大学に入学して上京した時、藤無染らのもとに同居しました。
藤無染は年上の僧侶で、恋人だったのではないかと推測されている人物です。

藤無染は、浄土真宗の僧侶でしたが、「新仏教」の運動の中にいました。
折口は、藤無染の思想や、彼の背景となった当時の「新仏教」運動、仏教改革運動に影響を受けたのではないかと推測されます。

「新仏教」は、仏教とキリスト教が共通の思想を持っているとして、総合的な新しい仏教を生み出そうとする傾向を持っていました。
その背景には、欧米で同様の主張をしていた思想家達の影響がありました。
鈴木大拙のアメリカの師であるポール・ケーラスもその一人であり、ケーラスやスウェデンボルグを翻訳した鈴木も、「新仏教」にとっては大きな存在でした。

また、この運動の背景の一つには、ブラバツキー夫人の神智学もありました。
藤無染は、真宗が海外の思想を学ぶために設立した西本願寺の「文学寮」で学びましたが、「文学寮」では神智学も研究されていました。

藤無染は、仏陀とキリストの伝記の共通する部分を抜き出して並べた「二聖の福音」(明治38)という書を出版しています。
彼は、この書で、ケ―ラスやアーサー・リリーの書を参考文献としてあげています。
リリーは、神智学や、そのイギリス支部長でキリスト教神秘主義者だったアンナ・キングスフォードの影響を受けた人物です。

ですが、「新仏教」を生む母体になった真宗は、やがてその運動を弾圧する側に回りました。
折口には、藤無染が、真宗などの旧仏教に対する反逆者と映っていたでしょう。
また、藤無染は、早くに亡くなりました。

ですから、藤無染は「死者の書」の滋賀津彦に重なる人物です。
つまり、「死者の書」の折口個人の背景には、折口が藤無染を復活・供養するというテーマがあるのです。

そして、新しい宗教を体現した郎女と、新しい神道を目指した折口、新しい仏教を創造した空海と、新しい仏教を目指した藤無染は、重なります。


また、折口は、メレシコーフスキーの「背教者じゆりあの」という書を絶賛していました。
この書は、ペルシャ由来の太陽神ミトラスを信仰した古代ローマの反キリスト皇帝のユリアヌスをテーマにしています。
そして、ギリシャ・ローマなどの古代の神々の復活や異教の神々を通して、キリスト教を蘇えらせることを主張しています。

つまり、太陽神を一つの焦点として、古代的多神教と一神教の統合がテーマになっています。
これは、「死者の書」のテーマとも重なります。


また、折口が読んだであろう文章に、佐伯好郎が「世界聖典外纂」に掲載した「景教」があります。
これは、正統派キリスト教とネストリウス派を対比し、その背景を、前者は地母神崇拝のエジプト神学を背景にしたアレキサンドリア派、後者はギリシャ哲学を継承したシリア派としています。

偶然かもしれませんが、これは「死者の書」とその続篇との対比に重なります。


<鈴木大拙との対決>

1948年、折口は、新仏教の導師でもあった鈴木大拙と、雑誌が企画した座談会「神道と仏教」で初めて会いました。
そして、ここで、極めて興味深い対話を行って、激烈に火花を散らしました。

ちなみに、鈴木は「日本的霊性」で、神道は霊性には触れていないとして切り捨てています。

折口は、この座談会で鈴木に、自分は真宗の家で育ったけれど、真宗には弱点があるように感じるが、真宗の弱点はどんなところにあると思うか、と問いました。

鈴木は、これに答えませんでした。

一方、鈴木は、神道には神の愛がない、神道が穢れを払うのは暴力的だが、仏教には穢れを受け入れる慈悲がある、と発言しました。

それに対して、折口は、出雲のスサノヲとオオクニヌシにおいては、暴力と苦しみが愛と喜びと一つになっていて、ここに神道の愛が存在すると応えました。

ちなみに、折口は、太陽信仰にこだわりと持っていながらも、アマテラスにはほとんど関心を示さず、スサノヲにこだわっていました。
折口の最後の詩集「近代悲傷集」も、スサノヲをモチーフに歌われています。
また、反逆者という点では原点となる存在であり、「死者の書」の「滋賀津彦」とも重なります。
(また、キリストを意識しつつ、贖罪神と愛の神としてのスサノヲを重視する点では、出口王仁三郎と共通していることが興味深いです。)

また、鈴木は、神道には教義の体系がなくていまだ宗教ではないと批判し、これまでの神道を破壊して新しい神道を作るべきではないかと発言しました。

ですが、実は、これは、折口が、当時、すでに主張していたことと同じでした。


<神道の宗教化、産霊神の一神教>

折口は、太平洋戦争の敗戦を、国家神道となった神道の神の、キリスト教に対する敗北であると捉えました。
明治以降の神社神道には、キリスト教徒が持っていたような情熱がなかったと。

そして、戦後の1947(昭和22)年から1949(昭和24)年にかけての、「神道の友人よ」、「民族教より人類教へ」、「神道宗教化の意義」、「神道の新しい方向」という講演や新聞への執筆で、神道の宗教化を主張しました。

折口は、神道には体系化された教義がなく、特に国家神道は国民道徳と結び付けられる一方、宗教的な罪障観がないことが問題であると考えました。
そのため、例えば、特攻隊を美化するようなことになってしまったと考えたのでしょう。

また、折口は、神道は多神教と考えられているけれど、「事実において日本の神を考えます時には、みな一神教的な考え方になるのです」(神道の新しい方向)と書いています。

この一神教化を考える時、折口は、戦争末期になって、神道家や官僚の中で、天照大神と天御中主神のどちらが上かという論争が起こったことを取り上げます。
そして、それが現世的な争いに過ぎなかったので、神々に背かれたのだと批判しました。

そして、折口は、本当に必要な神の実体というのは、「天照大神、或るは天御中主神、それらの神々の間に漂蕩し、棚引いている 一種の宗教的な或る性質」だと表現しました。

折口は、「霊性」という言葉を使っていませんが、この神の間に漂う流体的な神的実体というのは、「霊性」としか表現できないものでしょう。

折口は、それを「産霊神」であり、「宗教から自由なもの」であると言います。

「日本の信仰の中には…すべてに宗教から自由なものと言つていゝものゝあることです。それは、高皇産霊神、神皇産霊神と言つてゐる――、あの産霊神の信仰です」(同上)

「神道教は要するに、この高皇産霊神、神皇産霊神を中心とした宗教神の筋目の上に、更に考へを進めて行かなければなりません。」(同上)

宗教化を掲げながら宗教から自由というのも不思議ですが、折口の目指す新しい神道は、「産霊神」を中心にした、超宗教であり、超一神教なのでしょう。

キリスト教も参考にしながら、「産霊神」を最高神として自身の神道を描くということであれば、平田篤胤の思想を継承しているとも言えます。

折口が、古事記の根源神である「天御中主神」を重視しなかったのは、「天御中主神」には信仰の内容としての実態がないからです。
それに比べて、高産霊神、神産霊神は職能がはっきり分かると考えました。
「産霊神」は、前のページで書いたように、物質な肉体に霊魂を与え、その物質や肉体を育て、霊魂を育てる神です。

折口が、「産霊神」を「宗教から自由なもの」と考えたのは、おそらく、「産霊神」が人格神ではなく、非人格的な創造力という性格しか持たないからでしょう。

「民族教より人類教へ」という講演タイトルにもあるように、折口が目指した「神道教」は、単に日本の新しい宗教ということではなく、人類にとっての普遍的な新しい宗教なのでしょう。

文化人類学では、ラッファエーレ・ペッタッツォーニやヴィルヘルム・シュミットが、原初的な文化に、すでに至高神を持つ一神教的な信仰が存在することを確認していました。
この「原始一神教」と呼ばれる信仰の至高神は、例えば、北米では「グレート・スピリット」と呼ばれます。
折口は、その神を「既存神」あるいは、「至上神」と表現します。

この神は、超越神である一方、マナ的な力と一体で、万物に内在する神という側面も持っていて、神々とも共存可能です。

折口の目指した「産霊神」を中心にした「神道教」は、そのような原始一神教を継承しながら、それを宗教化するものなのでしょう。

折口は、神道学では、その教義化の準備はほとんどできていると考えていました。
そして、後は、情熱を持った宗教家の出現こそが必要だと、それを期待しました。


<欠けていた観点>

最後に、当ブログとして、折口になかった観点を書きます。

折口は、古代の鎮魂法を研究しましたが、神道宗教化において、その行法化については考えませんでした。
例えば、平田篤胤は真言密教の行法を研究して久延彦祭式を創作しましたし、本田親徳や川面凡児は鎮魂法を行法化しましたが、折口にはそのような行法という観点がありませんでした。


また、折口は、ほとんど憑霊的側面から宗教を見ましたが、例えば、平田篤胤の幽界研究を含めて神仙道や、出口王仁三郎にもあったような、脱魂的側面(単なる遊離ではなく、意図的な幽界飛翔)については関心を示しませんでした。

これは折口が、古代日本の特徴として憑霊型の巫女を取り出したからですが、さらに狩猟的な古層には脱魂型の男巫もあったはずです。
日本の歴史の中ではその潮流は、神道以外、俗流神道、民間神道としてあったのではないかと思います。

それに、折口も参照して統合を考えていたはずのユダヤ・キリスト・イスラムの一神教の預言者は脱魂型ですから、どちらかと言えば、こちらに普遍性があります。


*主要参考文献
・折口信夫全集「神道宗教篇」
・折口信夫「死者の書」、「初稿・死者の書」、「死者の書・続篇」
・安藤礼二「神々の闘争 折口信夫論」、「折口信夫」、「光の曼荼羅 日本文学論」
・中沢新一「古代から来た未来人 折口信夫」


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折口信夫の産霊信仰と鎮魂法 [日本]


折口信夫は、民俗学、国文学、あるいは、神道学、古代学、芸能史学の学者であり、その総合的で独特な学問は、「折口学」とも表現されました。
彼は柳田国男と並んぶ民俗学の創始者ですが、彼にとってそれは新しい国学であり、彼は最後の国学者でもありました。

また、折口は、釈迢空と号した歌人であり、小説家でもありました。

折口の学問に対する姿勢は独特で、コカインを服用して、古代人の思考方法や世界観を体験的に理解しようとし、直観や象徴を重視して学問を行いました。

一般に、折口信夫は、神秘主義者とは言われません。
ですが、彼が論じた、「外来魂」=「たま」は、非日常的な無形のエネルギーであり、「産霊」や「鎮魂」はそれを扱う技術です。
そして、神霊を憑依させた者が語る神の言葉は、非日常的な言葉です。

この非日常的な霊魂と言葉と意味の発生を巡る折口の思想は、霊学者の観点とは異なりますが、本ブログの定義では神秘主義的なものと言えます。

このページでは、折口学全般の紹介ではなく、その霊魂観、言語観、鎮魂法、産霊信仰といったテーマについてまとめます。

そして、続くページでは、小説「死者の書」と神道宗教化について取り上げます。

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<たま>

折口信夫(1887-1953)は、日本における「霊魂」の古語を「たま」であるとしました。

「霊魂はたまであり、今所謂たましひはもと霊魂の作用である。たまは霊体であって、多くの場合露出せず、ものに内在してゐる。そう言る時、霊をつゝんでゐるものをもたまと言ふ」(霊魂・1951・昭和26)

「たま」は霊力を持った霊体で、折口は、この「たま」を「外来魂」として捉えました。
文化人類学で霊力を意味する「マナ」の英語が「external soul(外在魂)」ですが、折口はこれを「外来魂」、あるいは「威霊」と訳して自身の重要な霊魂概念としました。

「たましひは、肉体内に常在して居るものだとは思つて居なかった様である。…たましひの居る場所から、或る期間だけ、仮りに人間の体内に入り来るものとして居たので…」(原始信仰・1931・昭和6)

「たま」は、その根源においては、人格的存在ではなく、無個性な一つの力のような存在です。
そのため、自由に分割、分霊することもできます。

「霊魂そのものには、それ程はつきりと思慮記憶があるものとは、古人は思はず、霊魂を自由な状態において考へたのである」(民族史観における他界観念:1952・昭和27)

文化人類学では、「霊魂」(一定の人格性を持った)が根源存在であると考える原始宗教を「アニミズム(精霊信仰)」と呼びます。
それに対して、人格性のない霊的な力である「マナ」が根源存在であると考える原始宗教を「マナイズム(アニマティズム、ヴァイタリズム)」と呼びます。

折口の霊魂観は、「マナイズム」のようにも思えますが、純粋なそれではなく「アニミズム」寄りのものでした。

折口にとって、「たま」は、抽象的で不可視なものですが、同時に、物体的に捉えることができるものです。

また、霊学の言う四魂に関しては、「さち(幸魂)」を狩猟の能力を与える霊魂と解釈しました。
そして、「奇霊」は医療の威力を持つ霊魂です。

また、「荒魂」を戦争の威力を発する時に分離されるもので、外来魂ではない霊魂であるとしました。
そして、「和魂」は「荒魂」ができる時に相対的に現れる霊魂であるとしました。(原始信仰、霊魂)


折口によれば、「たま」は、後代に、人間から見て善いものが「神」と呼ばれるようになり、邪悪なものが「もの」と呼ばれるようになりました。(霊魂の話:1929・昭和4年)

「たま」は、外来神である「マレビト」として、定期的に共同体に来訪します。
沖縄のアカマタ・クロマタのように、「マレビト」は、もともと、鬼や獣のような異形の姿になって来訪しました。(国文学の発生 第三稿:1929・昭和4年)


「マレビト」は、土地の精霊と約束を切り替えに来るのが一番の目的でした。(春来る鬼:1931・昭和6年)

「マレビト」には、人間に土地を奪われて、人間に対して悪意を持っている野山の精霊たちを、服従を誓わせ、逆に自分たちを祝福しに来させるようにしたものもありました。(日本芸能史序説:1950・昭和25年)

一方、成熟した人間の「完成した霊魂」は、死後、「常世」に至ります。
人間の霊魂は、「他界身」としては異形の姿(獣身)をとることもあります。
アイヌや沖縄など日本の一部にはトーテミズムがあり、その場合は「他界身」は「トーテム動物」となります。
ですが、「常世」の霊魂は、最終的に無個性な男女一種類の霊魂に、あるいは、人格に限定されない霊魂に帰一します。

ところが、人間でも「未完成な霊魂」は、「常世」に至らず、山野に留まります。
彼らは、植物や石などを体(一種の他界身)にすることもあり、「精霊」と呼ばれます。
これら山野にいる雑多な邪霊は、人間をうらやみ、危害を加えることがあります。
これが日本的なアニミズムです。
(民族史観における他界観念:1952・昭和27)


<柳田国男>

折口の民俗学における師は柳田国男です。
ですが、二人の霊魂観は大きく異なると言われています。

柳田にとって根源的な霊魂は、共同体の「祖霊(祖神)」であって、共同体の内部から生まれ、共同体を守り、その自己同一性の根拠となるような存在です。

それに対して、折口にとっての根源的な霊魂は、「祖霊」ではない無個性な力であって、外来する時には異形の姿となって、共同体を活性化する存在です。
折口は、共同体を見守る「祖霊」というのは、近代以降の信仰ではないかと考えました。

「其先祖と言ふ存在は、今一つ先行する形があつた。他界にゐる祖裔関係から解放せられ、完成した霊魂であつたことである」(民族史観における他界観念)

ですが、最初期の柳田の論考である、「石神問答」(1910・明治43)では、外来する、善悪を兼ねた異形の神々を扱っていました。
そして、「「イタカ」及び「サンカ」」(1911-12・明治44-45、雑誌連載)では、漂泊の芸能者を扱っていました。
これは、ほとんど折口のテーマを同じです。

つまり、折口は、柳田がその後に否定した、あるいは、扱わなくなったテーマを継承したのです。
ですから、柳田による執拗な折口批判は、過去の自己批判でもあったのです。

柳田にはさらに古い論考があって、「幽冥談」(1905・明治38、雑誌掲載)では、天狗などの異形の者として「隠れ世」から現れる日本の神々を扱っていました。
そして、平田篤胤一派の幽冥研究を評価しています。
折口も、「先生の学の初めが、平田学に似ている」(先生の学問)と書いています。
折口が興味を持った柳田民俗学の出発点は、後の姿と大きく異なるのです。


<産霊>

折口は、「霊魂(たま)」を扱う神の技術を「産霊(むすび)」、人間の技術を「鎮魂」として捉えました。

「産霊」は、「霊魂をものの中に入れて、それが育つやうな術」です。

「生物の根本になるたまがあるが、それが理想的な形に入れられると、その物体も生命を持ち、物質も大きくなり、霊魂も亦大きく発達する。その霊(タマ)が働くことが出来、その術をむすぶと言ふのだ。…つまり、むすびの神は、其等のむすびの術を行う主たる神だ」(神道宗教化の意義:1946・昭和21)

霊魂を物質や肉体に入れると、霊魂も物質も肉体も発達して増える、つまり、生命力を与えるのが「産霊」です。
そして、それを行う神として神格化されたのが「産霊神」、つまり、「高皇産霊神」と「神皇産霊神」の神です。

この両神は、天照大神が大切なことを行う時は、必ず出現します。
そして、神も万物も、その「産霊」によって作られたものなのです。

「(産霊によって成長した)その一番完全なものが神、それから人間となつた。それの不完全な、物質的な現れの、最も著しく、強力に示したものが、国土或いは嶋だ、と古代人は考えました」(神道の新しい方向:1949・昭和24)


<鎮魂>

折口にとって、「たま(霊魂)」を扱う人間の技術全般が「鎮魂」ですが、これは複合的に考えることができる幅の広い概念です。
「鎮魂」は次のように分類することができます。

まず、「たま」を呼んで(招魂)それを体に付着してエネルギーを高めることが、「たまふり(魂触り)」です。
「魂乞い」とも呼ばれます。

そして、それを体の中に入れて遊離しないように固定することが「たましずめ(魂鎮め)」です。
また、悪霊などが体に触れて来ないように抑えつけることもこれに当たります。

また、体内の「たま」の力を増殖させることが「たまのふゆ(魂殖ゆ)」です。
それを行うのが「ふゆ(冬)」です。
「たま」は増やして分けて他人に与えることができます。

以上の「鎮魂」は、基本的に巫女などの術師が誰かに対して行う技術です。
ですが、自分で行う方法もあります。
「忌籠り」もその方法です。

また、折口は、「禊」も、水を介して何らかの霊魂を、あるいは水神や海神の霊魂を付着させる鎮魂法として解釈しました。


「鎮魂」の具体的な方法は多様で、以下に列記したようなものがあります。

本田親徳や川面凡児の鎮魂法は「行法」的な方法ですが、折口のそれは、儀式、呪術、芸能、あるいは、単に、風習や迷信のように感じられるものでしょう。
芸能に関しては、折口は、鎮魂法から生まれたものと考えています。

ですが、どのような呪術的な技術も、形式だけが残ってそれだけを見れば、そのように見えます。

まず、「舞踊(あそび)」は、霊魂を呼び出す方法です。
一定の形式で謡う「歌謡」は、その霊魂を歌に乗せて体に入れる方法です。

「反閉(四股)」、「田遊び」は、地を踏みつけることで悪霊を抑えつける方法です。

「はふり」は、体を振って霊魂を呼び入れる方法です。
「袖振り」、「領巾振り(ひれふり)」のような布を振ることは、霊魂を呼ぶ方法です。

上にもあげた「物忌み」は、布団のようなもの(も)をかぶってじっとしていることで、霊魂を呼び入れる方法です。

「鳥の遊び」、「魚の遊び」は、鳥や魚を捕まえて、それを見る、食べることで、それが持っている霊魂を体内に入れる方法です。

「花見」、「国見」は、自然を見ることで、それが持っている霊魂を呼び入れる方法です。

「国偲び(くにしのび)」は、土地を思い浮かべることで、その霊魂を呼び入れる方法です。
旅先で郷土を思い浮かべることなどがあります。

「霊合(たまあひ)」は、相手の人物を思い浮かべることで、その霊魂を呼び入れる方法です。
恋愛の「魂乞い」でも行われます。

また、宮中で行われている鎮魂法としては、以下の方法があります。

アメノウズメが行ったとされる「宇気槽撞き(宇気槽の上に乗って矛で突くこと)」は、大地の霊を呼び出し、悪霊を抑えつける方法です。

箱から服を取り出して振動させる「御衣振動」は、霊魂を呼び入れる、あるいは、増殖させる方法です。

「糸結び」は、糸で輪を作って箱に収める、あるいは、箱を糸で縛ることで、霊魂をつなぎとめる方法です。
神宝に糸を結んで、その神宝の名や呪詞を唱えながら、神宝を振動させることもあります。
この場合、霊魂を呼び入れる方法です。
伯家や橘家が伝えています。

以上の3つの方法は、「一二三四五六七八九十(ひとふたみよいつむゆななやここのたりや)」を唱えながら、同時に行います。

また、臣下から天皇などに、歌舞奏楽や食物、神宝、寿詞(よごと)を捧げることは、国魂や自分の霊魂などを、捧げて移動させる行為です。


<神語・言霊>

折口の国学院大学の卒業論文は「言語情調論」(1910・明治43)です。
「情調」とは感情を喚起する働きです。

この書で、折口は、「間接的言語」=「差別的言語」と、「直接的言語」=「包括的言語」を区別しています。
後者の「直接的言語」は象徴的言語であり、詩的言語でもあります。

折口は、その後、この象徴的言語を、神の言葉(託宣、神語、神言、祝詞、呪言…)として捉えるようになりました。
「祝言」は、神、あるいは「マレビト」が発する、土地を祝福する言葉に由来します。
また、「祝詞」、「呪言」は、土地の精霊を服従させる言葉に由来します。

そして、神が自叙伝を語る言葉が叙事詩となりました。
折口は、このような神の言葉が、文学の起源であると考えました。

詩的・呪的言語が意味を発生させるという論考から出発したという点では、折口は井筒俊彦と似ています。


折口は、古代人の思考の特徴を象徴的思考であるとして、これを「類化性能」と表現しました。

そして、折口は、「思兼神(おもひかねのかみ)」を、意味を「兼ねる」神、つまり、象徴言語の神であると考えました。

「思兼というのは、いろいろな意味を兼ねて考える、そういう言葉を拵えた神の名であった。すなわち言葉は、一語にも、いろいろな意味を兼ねたのである」(古代における言語伝承の推移)

また、折口は、創造する霊力である「産霊」が、特定の形式の言葉(台=と)に憑依することで、「言霊」が生じると考えました。
この言霊の神、呪言の守護神は「興台産霊(ことどむすび)」であり、「思兼神」はその人格神化した名であり、呪言の創製者であり、「興台産霊」の子である「天児屋命(あめのこやねのみこと)」は祝詞の神です。

むすびと言うのは、すべて物に化寓(やど)らねば、活力を顕す事の出来ぬ外来魂なので、呪言の形式で唱へられる時に、其の憑り来て其の力を完うするものであつた。興台(ことゞ)――正式には、興言台と書いたのであらう――産霊(むすび)は、後代は所謂詞霊(ことだま)と称せられて一般化したが、正しくはある方式即とを具へて行ふ詞章(こと)の憑霊と言ふことが出来る」

「こやねは興言台(ことゞ)の方式を伝へ、詞章を永遠に維持し、唱法を保有する呪言の守護神だつたらしい。此中臣の祖神と一つ神だと証明せられて来た思兼ノ神は、たかみむすびの子と伝えられるが、ことゞむすびの人格神化した名である。此神は、呪言の創製者と考へられてゐたものであらう」
(国文学の発生(第四稿)呪言から寿詞へ:1927・昭和2)

折口にとって、言葉(意味)の発生は霊魂の発生は一体で、それは「神語」であり、「言霊」を持った言葉なのです。


*主要参考文献
・折口信夫全集「古代研究」、「民俗学偏」、「神道宗教篇」
・安藤礼二「神々の闘争 折口信夫論」、「折口信夫」
・津城寛文「折口信夫の鎮魂論」

*「折口信夫の「死者の書」と神道の宗教化」に続きます。


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西田幾多郎の絶対無の哲学 [日本]


初めて日本独自の哲学を生み出したと言われる西田幾多郎は、参禅によって得た「見性」体験をもとに、東洋の無の思想を西洋哲学の枠組みを使いながら哲学化しました。

西田哲学の特徴は、「無」を「一般概念(概念的一般者)」として理解し、そこからの創造を、自己限定的、相互否定的、弁証法的なものとして理論化したことでしょう。

さらにそれは、華厳教学の事事無礙の世界を、主体性を持った個人による、歴史・社会的で物質的な創造として描くものでした。

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<参禅>

西田幾多郎(1870-1945)は、石川県河北郡の出身で、第四高等中学校第一部では、欧米への禅の紹介者として有名な鈴木大拙と同級生でした。

西田は、20代後半の1897(明治30)年頃から参禅を始め、金沢、京都の何人かの禅師に師事しました。
1901(明治34)年には、金沢の洗心庵の雪門禅師に戎を受けて、寸心居士の号を授かりました。

西田は、1902(明治35)年の書簡で、「必ず成就せずんば死して瞑せざらんと欲す」と書き送っています。
また、翌年の日記では、「見性までは宗教や哲学の事を考えず」と書いています。

禅では、無分別の智を得ることを「見性」と言いますが、西田は、是が非でも「見性」を得なければ哲学はできない、と考えていたのです。
その理由は、西田が、昭和18年に送った西谷啓治宛の書簡でわかります。

「禅といふものは真に現実把握を生命とするものではないかとおもひます。私はこんなことは不可能ではあるが何とかして哲学と結合したい、これが私の三十代からの念願で御座います」

つまり、禅こそが真の現実の認識をもたらすもので、それを哲学化したかった、ということです。

西田は、1903(明治36)年になって、京都の大徳寺の廣州禅師のもとで、「無字」の公案を通ることができました。
つまり、「見性」を認められたのです。

ですが、この時、西田自身は、その実感を持てませんでした。
そのため、その後も、金沢の洗心庵の雪門禅師のもとで、数年の間、「隻手音声」の公案に取り組みました。
その後は、仕事が忙しくなってか、参禅は途絶えます。

西田は、「見性」について、晩年に以下のように書いています。

「禅宗では、見性成仏と云ふが、かゝる語は誤解せられてはならない。…自己は自己自身を見ることはできない。…見と云ふのは、自己の転換を云ふのである」(場所的論理と宗教的世界観)

つまり、西田は、真理の認識というより、自己を否定する体験であると解釈しました。


<東洋思想、仏教、日本文化>

西田は、西洋思想の特徴を「対象論理」であると考えました。
彼は、「神秘主義」という言葉を、プロティノスや否定神学のような西洋の神秘主義を指して使いますが、これらについても「対象論理」であると批判しています。

西田は、「対象論理」でない東洋の思考、「無」の思想を、西洋に匹敵するような論理として体系化することを目指しました。

ですが、東洋思想や仏教は、心ばかりを対象として、物を対象としないことが欠点だと考えました。
そして、仏教思想を科学とも結びつけようと考えました。

ちなみに、西田は、量子力学の「観測の理論」が主客分離できないことや、「不確定性原理」、「相補性」が、自身の「絶対矛盾的自己同一」(後述)と似ていると考えました。


一方、日本文化の特徴は、「物」に至ることであると考えましたが、それは論理的ではなくて、情的、実践的なものでした。

「我国文化は、…物に至るという方向にあるのではないかと思ふ…事事無礙と云ふことである」
「日本へ仏教が入って来た時、華厳とか天台とか云ふ理智的な宗教が伝えられた…それは漸々と簡素化せされ、実践化せられた」(以上、「日本文化の問題」)

ですが、その華厳や天台の教学については、自身の哲学と通じるものであると考えていました。

「(絶対矛盾的自己同一の見方に)東洋哲学の粋とも云ふべき、天台や華厳の思想に通じるものがあると思ふ」(哲学論文集第五)


<初期の哲学:純粋経験>

西田は、最初の著作「善の研究」(1911)で、「純粋経験」を唯一の実在としてすべてを説明しようとしました。

「純粋経験」は、西田によれば、「一切の思慮分別の加わる以前の経験そのままの状態。言いかえれば直接的経験の状態」です。

それは、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」、「経験するというのは事実そのままに知るの意である」とも述べています。

つまり、「純粋経験」は「主客未分」の状態の「知」なのです。

「純粋経験」という言葉は、ウィリアム・ジェイムスから来ています。
西田は、ジェイムスの「宗教経験の諸相」を鈴木大拙に勧められて読み、「面白く候。よほど禅に似たる所あるように思われ候」と感想を送っています。

西田は、「純粋経験」が対象的思考によって分裂し、その後、自覚によって再統一されるまでの、意識の統一の展開過程を考えました。

1 主客未分の状態 :感覚的知覚
2 主客分裂の状態 :反省的思惟
3 自覚的統一の状態:知的直観

西田は、この過程を、
「先ず全体が含意的implicitに現れる、それよりその内容が分化発展する。而してこの分化発展が終わった時実在の実現せられ完成せられるのである」
と考えました。

西田は、最後に自覚的な統一に至った状態を神人合一としても解釈しています。

「真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。…キリスト教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という」

また、西田は、「純粋経験」を展開させるものを、「意志」であり、「統一的或者」、「或無意識的統一力」であると書いています。

さらに、西田は、その「統一力」が「概念的一般性」であると書きます。

「純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力はただちに概念の一般性そのものでなければならぬ…純粋経験の事実とはいわゆる一般的なるものが己自身を実現するのである」

このように、西田の思想には、その初めから、禅的な体験をもとにしながらも、それとはまったく異なる、ヘーゲル的とでも言える要素が結合しています。


また、その後の「自覚における直観と反省」(1917)では、3段階目の「自覚」を、「自己の内に自己を映す」こと、自己自身の直観であるとしました。


<前期の哲学1:絶対無の場所>

西田の哲学の初期から前期へは移行の特徴は、「意識」から「場所」へ、「個」から「一般(普遍)」への観点の移動であると見ることができます。

西田は、論文「場所」(1926)で、「場所」という概念を導入しました。
そして、「働くものから見るものへ」(1927)、「一般者の自覚的体系」(1930)などで「場所の理論」を構築していきました。
この「場所」の概念とともに、西田の哲学は「西田哲学」と呼ばれるものになりました。

「善の研究」では主客が「分離」した状態を自覚によって「統一」すると考えました。
ですが、「場所」の理論では、主観が客観を「包む」と考え、自覚を「包み込む」ものへと拡張していくと考えました。

上記した「自己を映す」という自覚は、自己を対象として限定する行為です。
ですが、主観である「意識する意識」は、対象化できません。
ですから、自己を対象として限定した時、常に、隠れ去ってしまうものがあるのです。
それが対象として限定されたものを「包み込む場所」です。

西田は、下記のような3段階の「場所」を考えました。

1 有の場所  :物と物が関係する場所
2 意識の野  :意識と対象が関係する場所
3 絶対無の場所:「意識の野」が拡大した極限

そして、3段階目の主客合一の状態の「場所」を、「真の無の場所」、「絶対無の場所」と表現し、「合わせ鏡」に喩えました。

ちなみに、「場所」は空間的イメージの概念ですが、西田がその後に展開した時間論では、それが「永遠の今」、「絶対的現在」として捉えられます。


<前期の哲学2:超越的述語面>

また、西田は、述語主義、普遍主義の立場から、「絶対無の場所」を「超越的述語面」として考えました。
これは、初期から存在した「一般概念」の展開という考えを体系化し、「場所」と概念的な判断との関係を明らかにしようとしたものです。

その理論的背景には、アリストテレスの「主語の論理学」と、ヘーゲルの「述語の論理学」があります。

アリストテレスは、「主語主義」の立場から、「主語(特殊)」となって「述語(一般)」とならないものを個的実体(基体)とし、「述語」は「主語」に内属するものとする論理学を作りました。
彼にとって、「一般」は抽象でしかありません。

これに対して、ヘーゲルは、「述語主義」の立場から、個物を含み、個物に内在する「具体的普遍」というものを考えて、「述語(普遍)」が「主語(特殊)」を個別化するとする論理学を作りました。
「普遍」は、個物へと発展する歴史的存在です。

これを受けて、西田も、「述語主義」の立場から、「述語」を「具体的一般者」と考えます。
そして、意識は「述語」となって「主語」にならないとし、「述語(普遍)」が「主語(個物)」を包括するとする論理学を作りました。
ですが、歴史の担い手は、「個」です。

西田は、ヘーゲルの弁証法を「過程的弁証法」、「思惟的弁証法」と呼び、これに対して、自分の弁証法を「場所的弁証法」、「行為の弁証法」と呼びます。
つまり、西田は、ヘーゲルの対象論理的な弁証法を、場所の論理の弁証法に変えたのです。

西田は、「述語」を、「主語」を包括する「述語面」として捉え、すべての「述語」を包括する「述語」として「超越的述語面」を考えました。
これが「絶対無の場所」であり、そこでこそ個体が成立するのです。

概念の包括関係で考えるということは、集合の階層を考えることになります。
「述語面」は、主語をすべて含む無限集合であり、「超越的述語面」は、すべての述語を含む、より大きな無限集合です。
つまり、「述語面」の集合の階層は、無限集合の階層です。

西田は、これをデデギントの無限論で考えようとしましたが、実際には、カントールの無限論の方が適していたはずです。


<前期の哲学3:一般者の自覚>

西田は、意識がより広い「場所」へと拡張する運動を、諸々の「一般者の自覚」の体系として語ります。
そして、3段階の「場所」は、下記のように、3段階の「一般者」の展開として考えます。

1 有の場所  :判断的一般者:知的自己 
2 意識の野  :自覚的一般者:意志的自己
3 絶対無の場所:叡智的一般者:叡智的自己→道徳的自己
→ 宗教的意識  :無の一般者 :真の自己

「判断的一般者」は主語と述語の世界、物と物の世界ですが、その限界である「述語面」の底を超越することによって「自覚的一般者」となります。

「自覚的一般者」は意識と対象の世界ですが、意識する意識へと至り、意識的自己の底を超越することで「叡智的一般者」となります。

「叡智的一般者」は、芸術的直観、つまり、創造的で実践的で自由な世界で、その極限は「無の一般者」と呼ばれます。

西田は、「叡智的一般者」が深まる中で、「道徳的自己」が現れると言います。
「道徳的自己」は善の意志を持つと同時に悪の意志も持つ矛盾的存在です。
そして、その矛盾が極まるところで自己が否定され、その底で「真の自己」が見出され、「宗教的意識」となります。


<後期の哲学:絶対矛盾的自己同一>

西田の初期・前期の哲学は、「絶対無の場所」へと至る「往相」の哲学でした。
それに対して、著「無の自覚的限定」(1932)、論文「絶対矛盾的自己同一」(1939)などの後期の哲学は、歴史的現実へ至る「還相」の哲学です。
これは、観想から実践へ、抽象から現実へ、一般から個へ、という移行でもあります。

その歴史的現実への還相は、「絶対無の自覚的限定」として生まれます。
これは、主体的に見れば、「行為的直観」によって自己形成する過程です。
そして、その時の論理構造は、「絶対矛盾的自己同一」となります。

「行為的直観」とは、「行為(作ること)」と「直観(見ること)」が同時で、例えば、画家が創造的に描く時、同時に、創造的に見ているということです。
これは、常に既存の自己の否定を通して、「行為」と「直観」が、弁証法的に互いに自己否定的に相手を創造します。

西田は、概念的な把握も、「行為的直観」的に行うべきとします。
つまり、「行為的直観」による創造が形式論理を含むことで、知識が「具体的一般者」の自己限定として生まれるのです。


西田は、このような「行為的直観」的な創造を、人間的で「歴史社会的」な生産として考えます。
そして、これを、「生物的生命的」な生産と対比します。

ですが、「行為的直観」的な創造について、西田は「でなければならない」といった表現を多用します。
ですから、これが人間の世界の現実という側面と、目指すべき状態という側面があります。


「絶対無の自覚的限定」の論理構造は、矛盾・対立・相互否定を含んだままに自己同一性を持った状態であり、これが「絶対矛盾的自己同一」と表現されます。
これは、統一されることのない動的な運動です。

「絶対矛盾的自己同一」は、「一(絶対無)」と「多(限定)」の関係でもあり、「個人」と「個人」、「個人」と「物」の関係でもあり、「行為」と「直観」、「一般」と「特殊」、「超越」と「内在」、「外」と「内」、「過去」と「未来」などの関係でもあります。
つまり、「一即多・多即一」、「超越即内在・内在即超越」…です。


<鈴木大拙と西田哲学>

西田は、郷土の同級生だった鈴木大拙と、生涯に渡って思想的な影響を与え合いました。

西田は、仏教の論理を西洋の対象論理に対抗できるような普遍的な論理として体系化しなければいけない、という考えを持っていました。
鈴木も西田の影響を受けてか、同じ問題意識を共有していました。

西田が「矛盾的自己同一」を打ち出した2年後の1941(昭和16)年に、大拙は、「禅への道」で禅の認識を論理化した「即非の論理」を打ち出しました。
そして、1944(昭和19)年の「日本的霊性」で、その詳細を論じました。

「即非の論理」は、「AはAだと云うのは、AはAではない、故にAはAである」という、「否定を媒介にして、始めて肯定に入る」禅の論理です。

西田は、自分の「矛盾的自己同一」の論理と、大拙の「即非の論理」が、ほとんど同じものであると考えていました。
そして、西田は、大拙宛の書簡で、次のように書いています。

「私は即非の般若的立場から人といふもの即ち人格を出したいとおもふのです。そしてそれを現実の歴史的世界と結合したいとおもふのです」

ですが、西田が、「絶対無の自覚的限定」を「行為的直観」と「絶対矛盾的自己同一」で考えたことは、すでに、個人を重視し(人格を出す)、社会的行為を重視する(歴史的世界と結合する)試みでした。
これは、晩年の哲学にも受け継がれます。


鈴木は、「即非の論理」を作り出すのと平行して、真宗論を書きました。
1942(昭和16)年に「浄土系思想論」を出版し、主著の「日本的霊性」でも真宗を大きく扱っています。

鈴木の真宗観は、「往生」ではなく、禅的な解釈によって、「他力」や「自然法爾」、「名号(念仏)」を評価するものです。
この鈴木の真宗観は、西田の晩年の宗教哲学に大きな影響を与えました。

西田、鈴木は真宗王国と呼ばれる北陸の地域ですから、二人の根底には、その影響があるのでしょう。


<晩年の哲学:逆対応>

西田は、1945年、亡くなる前に「場所的論理と宗教的世界観」を脱稿しました。

この書は、自身の「絶対矛盾的自己同一」の立場から、浄土教、禅、キリスト教を統一的に把握しようとしたものです。

西田は、宗教心を、対象的論理ではなく、「場所的論理」、「絶対矛盾的自己同一」の論理によってしか理解できないものであるとします。
ですから、この書は、西田哲学の「場所の論理」の最終的な形を示すものでもあります。

西田は、自己の根底において、絶対者(キリスト教と仏教の両方を扱うのでこの言葉を使います)と自己が、相互否定的に生まれる「絶対矛盾的自己同一」体験によって、宗教的回心が起こるとしました。

西田は、このあり方を「逆対応の論理」と表現します。
これは、絶対者と自己などが、互いに自己否定的に対応しあっている状態を表現します。

つまり、個人が個人として限定される極限において、個が否定、超越され、絶対者と対面します。

「個なれば個なるほど、絶対的一者に対する、即ち神に対するということができる。我々の自己が神に対するというのは、個の極限としてである」

例えば、道徳的意志は自己矛盾を含むので、その極致において道徳を否定するに至り、絶対者に対して、自己の死を自覚し、始めて自己を自覚するのです。

この時、絶対者の側から見れば、絶対者が自己を限定して個として現れるのですが、これが「逆対応(逆限定)」です。

「逆対応」は、述語主義の点からも「主語的方向と述語的方向の矛盾的自己同一」、「個物的限定即一般的限定」と説かれます。

西田は、キリスト教における「啓示」も「絶対矛盾的自己同一」、「逆対応」として理解しました。
また、禅の「見性」も同様です。

「我々の自己は、何処までも自己の底に自己を越えたものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。かゝる矛盾的自己同一の根柢に徹することを、見性と云ふのである」

西田の真宗における阿弥陀仏(他力、自然法爾)と個人との関係も同様に解釈されます。

「親鸞聖人の義なきを義とするとか、自然法爾とかいう所に、日本精神的に現実即絶対として、絶対の否定即肯定なるものがあると思うが…」

また、西田は、鈴木の「名号の論理」も同様のものとして評価しました。
これは、念仏を唱えることは阿弥陀仏と一体になることで、それは個的主体を超えていると共に主体であり、受動的であるとともに能動的であると考えるものです。
この時、阿弥陀仏からの呼声と、阿弥陀仏への呼びかけが、同時となります。

「矛盾的自己同一的媒介は、表現による外ない。言葉による外ない。仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にないのである」


<仏教教学、特に華厳思想との比較>

西田の述語主義的な「場所」の理論は、どこから来たのでしょうか?

西田は、プラトンが述語主義であり、「場所」という概念がプラトンの「コーラ(受容器)」とつながりがあると書いているので、それが一つの源泉かもしれません。

仏教には、「場所」と同様に空間的イメージの概念として、「法界」があります。
華厳経学の「四種法界説」は、複数の段階の「場所」を設定した西田の発想と似ています。
ただ、四法界説では、後の二法界は、還相に当たりますが。

また、仏教の修行では、外界(客観)を空じ(法無我)、内面(主観)を空じ(人無我)ます。
これらは、段階的に述語面を超越していく西田の発想と似ています。

西田は、言及していないと思いますが、仏教の「空」や「無」は、本来、述語の位置にあって、主語の実体性を否定する言葉です。
そういう意味では、絶対の述語であるとも言えます。
主語になるべきではない言葉という意味で、「場所」と「空」、「無」は同じです。

仏教における「一般」と「特殊」をめぐる論理学に相当するものは、華厳教学の「理」と「事」の理論でしょう。

また、「絶対矛盾的自己同一」は、華厳の「一即多・多即一」などと似ている部分があります。
ただ、華厳の言う「一」は「個(一部分)」ですが、西田の言う「一」は「全体(一切)」のことです。

また、西田は「大乗起信論」を読んで、「中々分らない」と日記に書いています。
ですが、「大乗起信論」の「真如」の概念は、「そのまま」の体験である「純粋経験」と似ています。

また、「本覚」の概念は、「純粋経験」の最初に存在する統一という側面と似ています。
統一が分裂し再統一に至るという流れは、「大乗起信論」では、「本覚」→「無覚」→「究竟覚」となります。


西田哲学の仏教から見た問題点としては、次のような点があります。

部派仏教や大乗の中観、唯識には、詳細な煩悩論とそれと対応する修道論がありますが、西田哲学には、哲学なので当然かもしれませんが、それらはありません。

ですが、実は、禅宗は如来蔵思想的であるため、煩悩論が欠如しています。
一方、真宗は、末法思想として、皆が平等に悪人であり、煩悩をなくすことなど不可能との立場に立つため、逆の理由で、同様の結果となります。

禅宗と真宗は、正当なインド仏教からすれば、煩悩論が欠如した致命的な仏教であり、西田哲学はそれらの影響を受けています。

そのため、還相的側面においても、煩悩のない後得的な分別と、煩悩のある妄分別の区別を明確化しません。
ですから、後期の哲学が還相的だとは言え、それは、人が「絶対無の場所」へ至った往相からのあるべき展開としての還相ではなく、単なる人間世界の現実である、往相の裏側としての還相として読めてしまいます。

これは、禅の修行で言えば、西田が往相に当たる「見性」は通りましたが、還相に当たる「仏向上」の修行に至っていないことと対応しています。


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出口王仁三郎の思想と大本霊学 [日本]


出口王仁三郎、そして、大本の宇宙論、人間論は、神秘主義的な思想を表現しています。
特に、神人合一を旨とする大本の教旨には明らかです。

王仁三郎は、本田親徳の「霊学」と「鎮魂帰神法」、そして、中村孝道、山口志道、大石凝真素美の「言霊学」を継承、取捨選択して、大本、そして、自身の宗教観と整合させながら、「大本霊学」、「大本言霊学」を作り上げました。

王仁三郎によれば、本田親徳の霊から直接、教えを受けたそうですが、現実には、弟子の長沢雄楯から本田霊学を学びました。

また、祖母が中村孝道の妹でしたので、少なくとも、彼女を通して、彼の言霊学を学んだでしょう。
大石凝真素美とは、偶然に出会って知人となっているので、彼を通して、直接、間接に彼の言霊学を学んだでしょう。

このページでは、王仁三郎と大本の神秘主義的世界観、そして、どのように霊学、言霊学を取り入れたのかについてまとめます。


<神秘主義的宇宙論>

王仁三郎の宇宙論は、普遍的な神秘主義哲学と同様、流出論的な宇宙論です。

原初的存在の「大元霊」=「天之御中主神」が、自身と一体の宇宙を生み出します。
つまり、「一即全」です。
王仁三郎は、以下のように「流出」を「放つ」、「帰還」を「巻く」という言葉で表現します。

「一神にして同時に多神、多神にして同時に一神、これを捲けば一神に集まり、これを放てば万神分るのである」(大本略義)

また、以下に書くように、王仁三郎の宇宙論は、華厳的な「部分即全体」の照応的宇宙論でもあります。

「宇宙間に発生する万有一切は、皆、小天之御中主神である」(大本略義)

人間の霊魂も、「天之御中主神」の分霊です。
造化三神の分霊とするのは平田篤胤以来の考え方です。


<霊界の構造>

王仁三郎は、宇宙(天地)創造の過程、記紀神話の神々を「幽の幽/幽の顕/顕の幽/顕の顕」という4段階に分けます。

ここには、本田霊学の影響を見ることができます。
ですが、その区分の内容は、王仁三郎に独自なものです。

・幽の幽:根本造化の経営:伊邪那岐、伊邪那美以前、神世六代まで
・幽の顕:天の神界の経営:伊邪那岐、伊邪那美、三貴神など
・顕の幽:地の神界の経営:天孫降臨から神武天皇以前
・顕の顕:人間界の経営 :神武天皇以降

「皇国伝来の神法」では、この4つを、以下のように、空間的な霊界の構造と結びつけています

・幽の幽:造化三神、時空・現象以前
・幽の顕:天の神界
・顕の幽:地の幽界
・顕の顕:現界

「霊界物語」で語られる、霊界の構造は下記の通りです。

(霊界の構造)
・天界(神界)
>天の神界
>地の神界
・中有界(精霊界、八衢)
・地獄界(幽界)
>根の国:虚偽の世界、兇鬼がいる
>底の国:悪欲の世界、兇霊がいる

2つの「天界」、2つの「幽界」は、それぞれさらに3層で構成されています。
「中有界」は、人間が死後に最初に赴く場所で、ここを経て、人それぞれの霊魂にふさわしい場所に行きます。

また、「天界」の中の2区分は、この「天/地」の神界とは別に、以下の2つで語られることもあります。

>天国(太陽界):愛善の世界、天人がいる
>霊国(太陰界):信真の世界、天使がいる


<相応の理、雛型経綸>

神秘主義の世界観の基本的原理には、階層の上位の世界が原因、モデルとなって、下位の世界にそれが反映されるという法則があります。
これは、何かを念じたら実現する、しやすくなるという、魔術、呪術の論理でもあります。

大本ではこの法則を「相応の理」と呼びます。
霊界のできごとが現界に起こり、また逆も起こるのです。

また、大本では「雛型経綸」と表現される法則があります。
これは、大本で行った、起こった出来事が、日本で起こり、日本で起こった出来事が世界で起こるとされるものです。
この法則に従って、大本を起点にして「立替え立直し」を行おうとしたのです。

日本はもともと世界の雛型とする考えがあるので、大本を日本の雛型にするという仕掛けを行ったのです。

大本が行った「男嶋・女嶋開き」、「弥仙山岩戸開き」、「神島開き」、「元伊勢の御用」、「出雲火の御用」などの神業も、この論理に従ってのものです。

ですが、これは特別なものではなく、多くの宗教儀式の基本法則でもあります。
象徴的に豊穣を示す行為を行って豊穣を招く予祝儀礼も、この法則によっています。


<霊主体従>

王仁三郎によれば、造化三神の段階において、宇宙論的な原理として「霊主体従」、つまり、「霊(高皇産霊尊)」が先、「体(神皇産霊尊)」が後が決まっていました。

王仁三郎は、「霊主体従」について、次のように書いています。

「霊主体従とは、人間の内分が神に向かって開け、惟神を愛し神を理解し善徳を積み、真の智恵を輝かし、信の真徳に居り、外的の事物に些しも拘泥せざる状態を云ふのである」(霊主体従・体主霊従)

「霊主体従」は「霊五体五」とも表現されます。
現界の人間においては、「霊」と「体」の比率は5:5が正しく、「霊」を優先するということです。
また、「進左退右」とも表現されます。

神や霊を優先するとうことは、利他的な「愛善」につながります。
王仁三郎は、「愛」には「愛善」と「愛悪」があると言います。
前者は外に向かう愛であり、後者は利己的な自己愛です。
そして、前者は神の愛であす。

王仁三郎が戦後、大本に変えて作った団体の名前も「愛善会」です。

「愛には、愛の善と愛の悪とがある。此愛の善といふのは、絶対の愛。所謂愛善は、天国即ち神の国より外にはないのであります。…神の方から見ると、世界は一視同仁である」(愛善の真意義)

これに対して、「体主霊従」は、「体」に偏る、あるいは、「体」を優先するであり、利己的な「愛悪」につながります。

逆に、「力主体霊」は、「霊」に偏ることで、これは権威主義的な性質につながります。

王仁三郎は、人間の「精霊(霊魂)」の本質を、正邪の中間にいるものとしました。

そして、人間の心が自然界や世間に向かう指向性を「外分」と呼び、霊界に向かう指向性を「内分」と呼びます。

「内分」は「神界」に向かうべきであって、「幽界(地獄)」に向かうべきではありません。
後者を「外部に向かう内分」と呼びます。

「外分」が「体主霊従」、「神界」に向かう「内分」が「霊主体従」です。


<霊学>

王仁三郎は、本田霊学の多くのそのまま「大本霊学」として継承しています。

理論的概念としては、「一霊四魂」、「三元」、「八力」、「幽/顕」、などです。
実践は、「鎮魂法」、「帰神法」、「太占」からなりますが、王仁三郎は、大本の「天津金木(太占)」は人間の説ではなく神界直授の真理であると主張しました。


王仁三郎が、大本の「三大学則」として採用した以下のものは、本田霊学のそれです。

・天地の真象を観察して真神の体を思考すべし
・万有の運化の毫差なきを見て真神の力を思考すべし
・活物の心性を覚悟して真神の霊魂を思考すべし

「三大学則」にもあるように、王仁三郎は本田霊学を受け継いで、世界を「霊・力・体」の3つから捉えます。
ですが、それぞれの意味は、本田霊学とは少し異なるようです。

本田霊学では、「体」を対応させる神は、伊邪那美神以下ですが、王仁三郎は、神皇産霊尊からです。
つまり、「霊」と「体」は、形相と質料のような概念だと思われます。

また、王仁三郎は、「力」を「霊」と「体」の結びつきとして捉えますが、本田霊学ではそのような見方はありません。
二霊統の統合を重視する王仁三郎の思想でしょうか。


王仁三郎は、「体」としてこの「三元」を、「霊」としては「一霊四魂」を、「力」としては「八力」を説きます。

・体:三元
・霊:一霊四魂
・力:八力

本田霊学では「三元」とは、「流・剛・柔」です。
王仁三郎は、これを「本質」を呼び、以下のような対応関係を持ちますが、これは本田霊学と同じです。

・剛:鉱物:常立神  :玉留魂
・柔:植物:豊雲野神 :足魂
・流:動物:葦芽彦遅神:生魂

また、王仁三郎は、鉱物は霊魂が潜んでいる状態で、目覚めた場合は御神石となり、植物は霊魂が眠っている状態で、目覚めた場合は御神木となり、動物は霊魂が覚めている状態であるとします。

霊魂の働きは、「用」は「四魂」、「体」は「四大」として捉えます。

「天・火・水・地」の「四大」は、大石凝真素美の「天津神算木」の四面であり、同時にこれは「真澄鏡」の縦の5つの内の4つの場所です。

「和・荒・奇・幸」の「四魂」とその性質は、本田霊学の「一霊四魂」説をそのまま継承しています。

   (性質)(曲)(情)
・和魂: 親 : 悪 : 制
・荒魂: 勇 : 争 : 断
・奇魂: 智 : 狂 : 裁
・幸魂: 愛 : 逆 : 割

そして、王仁三郎は、大本の言う「厳の御霊」と「瑞の御霊」との関係を、次ように考えました。

・厳の御霊:荒魂、和魂が主
・瑞の御霊:奇魂、幸魂が主

また、本田霊学では、省、恥、悔、畏、覚の「五情」を、「心」の祓いの働きとしましたが、王仁三郎は、これを「戒律」と捉えます。

「八力」は、本田霊学のそれと同じ「動・静・解・凝・引・弛・合・分」で、神世七代の八神が対応します。

(八力)(神)
・動 :大戸地神
・静 :大戸辺神
・解 :宇比地根神
・凝 :須比地根神
・引 :生杙神
・弛 :角杙神
・合 :面足神
・分 :惶根神


本田霊学も王仁三郎も、「一二三…萬」の数歌に天地創造の過程を対応させています。
ですが、二人が対応させる内容は異なります。
参考に、一から五までの二人の対応は下記の通りです。

(王仁三郎) (本田親徳)
・一:一霊四魂 :天之御中主神
・二:八力   :二産霊神
・三:三元   :三元
・四:世    :八力
・五:出(いつ):一霊四魂


<言霊学>

王仁三郎は、「言霊」を「ことたま」、「言霊学」を「げんれいがく」と読ませます。

王仁三郎の言霊理論は、先に書いたように、中村、山口、大石凝からの影響を受けています。

王仁三郎が、「火/水」二元論、原初存在を「ゝ」と「○」を合わせた記号「⦿」で表現することなどは、山口の影響です。
また、原初存在を「ス」の言霊とすること、75声の「真澄鏡」説などは、中村、大石凝の影響です。

王仁三郎は、「水穂伝」を書いた山口の言霊説を、「火水の体」である「大本(にほん)言霊」、「真寸美鏡」を書いた中村、および大石凝の言霊説を、「火水の用」である「日本(にほん)言霊」であるとします。(言霊の大要)

そして、「火水の体」は「カミ」であり、「火水の用」は「イキ」、あるいは、「シホ」であるとします。(大本言霊解)

・山口志道「水穂伝」 :火水の体:カミ   :大本言霊
・中村孝道「真寸美鏡」:火水の用:イキ、シホ:日本言霊

王仁三郎は、以下のように、宇宙が言葉の法則で作られ、動いていると説いています。

「宇宙は語法、語則によって創造、経営、運転される。従って、語法、語則を調べれば、宇宙の真相が理解される。宇宙は極微の神霊元子の充実する世界であり、この神霊元子は神の言葉によって動かすことができる。かくして、言霊学は、この神霊元子を動かす言葉の力を調べる学…」(言霊の大要)

言霊を原子論的に「神霊元子」として捉えるのは、大石凝真須美の影響です。


王仁三郎は、別のページで紹介したように、「天祥地瑞」で、言霊の生成の過程を宇宙生成の過程と結びつけて、以下のように説いています。

・ス→ウ→ア→オ→5大父音→9大母音→75音

また、「タ・カ・ア・マ・ハ・ラ」の「六言霊」が、(5大父音の前後に?)発生して、高天原(至大天球)が作られます。

これは、大石凝の影響でしょう。
ただ、高天原が言霊として生まれたという説は、吉田兼倶も説いていますが、「高天原(タカ・アマ・ハラ)」の三字が47言(50音)の種子であるとします。

王仁三郎は、綾部が地上の中心(高天原)であり、五大父音「アオウエイ」の言霊の発生源であると主張しました。
王仁三郎は、「五大母音」と書いていたものを、途中から「五大父音」と変えたようですが、これは王仁三郎のオリジナルかもしれません。

王仁三郎は、「五大父音」を「天の柱」、「九大母音」を「国の柱」としました。

75音の各行の意味について、王仁三郎は下記のように対応させていますが、大石凝の説とは異なります。

(王仁三郎)(大石凝)
・ア行: 天 : 地
・オ行: 地 : 水
・ウ行: 結 : 結
・エ行: 水 : 火
・イ行: 火 : 天

(王仁三郎)(大石凝)
・ア行: 天
・ヤ行: 人  :地の座
・ワ行: 地  :地の座

また、王仁三郎は、75音それぞれの神を説いています。
「五大父音」に関しては、以下のように、神世七代の神々です。

あ:宇比地邇神、須比智邇神
お:角杙神、活杙神
う:大戸之道神、大戸之辺神
え:面足神、惶根神
い:伊邪那岐神、伊邪那美神28


また、王仁三郎は、言霊を重視する「霊界物語」では、ヤ行の「エ」、「イ」、ワ行の「ウ」と「五大父音」のそれとを区別するために、「五大父音」を画が離れた活字を特別に作って印刷しました。

また、王仁三郎は、言霊の発生する方向を重視しました。
通常は南に向かって発するのですが、東・西・北方向に発する場合もあります。
そのため、北の発する場合には活字を通常の下向きに、東に発する場合には右倒しに、西に発する場合には左倒しにして印刷しました。

また、「霊界物語」の「幽の幽」の神話である「天祥地瑞」では、会話などのほとんどが和歌(三十一文字)で書かれます。
これは、神は本来、和歌のリズムで会話していたからとされます。

王仁三郎の「天の岩戸開き」の解釈は、言霊と関連して面白いものです。
「古事記」では、天照大御神を、鏡にその姿を映すことで天の岩戸から引き出しました。
王仁三郎によれば、これは75声の言霊(真澄鏡)を奏上して、鎮魂帰神法で天照大御神と神人合一したことを表現しているのです。


王仁三郎は、学者ではなく宗教家(神業の実践家)ですので、言霊に関しても、学よりも、実践としての側面が重要です。

王仁三郎は、綾部の大本本部に「金龍海」と呼ばれる池を作り、そこに「五大父音」を象徴する五大洲を浮かべました。
また、言霊閣(黄金閣)を建て、鈴を用いた75声の言霊を配置しました。
これらは、大本の雛型理論に基づく神業です。

また、言霊隊を組織して各地の山で言霊発生の神業を敢行しました。

kototama.jpg
*言霊閣の鈴と金龍海


<大本の鎮魂帰神法>

大本の最も基本的な教えである「大本教旨」は、以下のものです。

「神は万物普遍の霊にして、人は天地経綸の主体なり、神人合一してここに無限の権力を発揮す」

「神人合一」という表現は、大本の教義が神秘主義思想であることを示します。
そして、その方法論が「鎮魂帰神法」です。

王仁三郎は、長沢雄楯から本田流の鎮魂帰神法を学び、口伝書と石笛を譲り受けました。

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*鎮魂印を組む王仁三郎

本田流では、「鎮魂方」と「帰神法」を分けて考えますが、王仁三郎や大本では、あまり分けて説くことをしないようです。

大本では、浅野和三郎らが、「鎮魂帰神法」を誰もが神人合一を体験できる方法と宣伝しました。
ですが、実際には、憑いている狐や先祖の霊を落とすことで、心身の治療を行うものとして使われていました。
そして、これに対して、大本幹部の中では、「病気鎮魂」という言葉が使われていました。

海軍機関学校の浅野の同僚だったスティーブンソンは神智学会員でしたが、「鎮魂帰神法」のような法は世界中にあると浅野に指摘しましたが、浅野は、大本の「鎮魂帰神法」は神から授けられたものであると反論しました。

また、心理学者の中村古峡は、「鎮魂帰神法」を心理学的に分析して、その心霊主義を否定しましたが、王仁三郎は、科学者の無神論を批判しました。

王仁三郎は、「鎮魂帰神法」は特別な能力・資質を持った人間でないと無意味で危険であると考えて、1923(大正12)年に禁止しました。


大本では、憑霊する神霊、憑依する心霊を、以下のように4種類に分けていました。

・上級神
・聖守護神、副守護神
・動物霊:病気の原因となる
・先祖:病気の原因となる

王仁三郎によれば、高次の神霊の影響を受けた人間の霊魂が「正守護霊」ですが、外部から憑く神霊に対してもこの言葉を使います。

逆に、邪霊の影響を受けた人間の霊魂が「副守護霊」で、外部から憑く邪霊についてもこの言葉を使います。

そして、「正守護霊」が統御するようになって、天人の列に加わった人間の霊魂を「本守護霊」と呼びます。
これは「直霊」であり、大神に帰神した状態の霊魂です。

・本守護霊:天人の列に加わった霊魂:帰神
・正守護霊:神霊の影響を受けた霊魂:神懸
・副守護霊:邪霊の影響を受けた霊魂:神憑


また、王仁三郎は、神とのつながりを、「直接内流」、「間接内流」、「直接外流」、「間接外流」の4種類に分けました。

「直接内流」は、天之御中主神の霊からの影響を直接受けている状態です。
これは、本田流で言う「神感法」による「帰神」状態に当たります。
また、上記の「本守護霊」は、「直接内流」を受けています。

「間接内流」は、天人や天使的存在を介して人間に伝達される状態です。
これを「神懸(しんけん)」と表現します。

「直接外流」は、本田流で言う「他感法」、つまり、「審神者」を介した「帰神」

最後の「間接外流」は、書物などの知識が潜在意識化して、それが第二の人格のようにして現れる場合です。

・直接内流:天之御中主の直接の流入、神感法による帰神、本守護霊
・間接内流:天使的存在を介して人間に伝達、神懸、正守護霊
・直接外流:他感法(による帰神?)
・間接外流:書物などの知識が潜在意識化して現れる


*他の出口王仁三郎と大本のコンテンツ


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大本の隠退・贖罪神話 [日本]


大本の宇宙生成論」から続くページです。

大本の神話、教義の特徴は、隠退させられていた神が復帰して理想の国を作る、という救済神話です。
これは半ば終末論的です。
これを担うのは、「艮の金神」こと「(大)国常立尊」です。

また、これと重なるような、贖罪を負って隠退していた神が救世主として理想の国作りを助けるという神話です。
これを担うのは、「素戔嗚尊(須佐之男尊)」です。

このページでは、これらの神話の要点を中心に簡単に紹介し、分析します。

ですがその前に、歴史編などですでに書きましたが、神話と対応する大本の2つの霊統に関して、復習的にまとめます。


<厳と瑞の霊統>

大本の基本的な霊統は、二人の教祖、出口ナオと王仁三郎のそれぞれが持つ対照的な二つの御霊である「厳の御霊」と「瑞の御霊」の対立で構成されています。

ですが、王仁三郎は、自身を開祖のナオよりも上位と位置づけ、さらに両霊統を統合する御霊を持つ、あるいは、その顕現としました。

ナオ  :厳:変性男子:火:霊:艮の金神:国常立尊:天照大御神:稚姫君命
王仁三郎:瑞:変性女子:水:体:坤の金神:豊雲野神:須佐之男尊
統合  :伊都能姫、弥勒の大神、大国常立神、素戔嗚尊

この二元論は、日本書紀が取り入れた陰陽説、山口志道の「火/水」の二元論、本田霊学の「霊・体・力」説などを結びつけたものです。

ナオは最初、王仁三郎(須佐之男尊)を悪役として必要な存在とみなしていました。
ですが、やがてそれを見直して、「天の祖神」、「弥勒の大神」の現れと見做すようになりました。

王仁三郎は、自身を、2つの霊統の分裂以前、あるいは、統合した「大国常立尊」、「伊都能売」と見做しました。

また、ナオの「大本神諭」では、この2つの御霊に加えて、他にも2つの御霊が語られます。
一つは、ナオの長女の澄が体現する、「大地の金神」である「金勝要神(きんかつかねのかみ)」。
もう一つは、澄と王仁三郎の子である清吉が体現する、救世主である「日之出の神」です。

「霊界物語」では、「大地の金神」は、「櫛名田姫」でもあるとされます。
そして、「日の出神」は、伊邪那岐尊の息子で、ヨモツヒラサカの戦いでは全軍の総司令官として活躍します。

また、王仁三郎は、ナオの御霊を、「国常立尊」や「天照大御神」より下位の存在で、救世主を待つ「稚姫君命」とし、ナオと王仁三郎の関係の主従を逆転させました。

そして、王仁三郎は、自身が持つ「瑞の御霊」である「素戔嗚尊」を、贖い主である救世主とし、それが、「大国常立尊(天之御中主神)」でもあり、「天照大御神」より上位の存在としました。
ですが、地上に降りた「須佐之男尊」は、終末の大救世主たる「伊都能姫」を見出す存在です。


<国祖隠退>

「霊界物語」の4巻で、「国常立命(国祖、国治立命)」の隠退の神話が語られます。

その前段までの物語では、「国祖」が地上霊界の主宰神になり、「稚姫君命(稚桜姫命)」を宰相として神政を司らせました。
そして、地上現界は、「須佐之男命(国大立命)」に主宰させていました。

ですが、三種の邪霊が神々や人に憑依して乗っ取り、地上を混乱させていました。

・八頭八尾の大蛇  :分裂させる
・金毛九尾白面の悪狐:愛欲で操る
・六面八臂の邪鬼  :支配する

そして、彼らの影響で悪神化して、「国祖」、「稚姫君命」ら正神の神政の邪魔をしていたのが、「盤古大神」と「大自在天神大国彦」の勢力です。
それぞれの陣営は、次のような特徴を持ちます。

・正神系  :霊主体従(霊五体五)
・盤古大神 :体主霊従(霊に偏向)
・大自在天神:力主霊従(体に偏向)

まず、「稚姫君尊」が、悪鬼の誘惑で夫婦仲を壊して律法を破ったため、三千年の間、幽界に落ちて罪をつぐなうことになりました。
「稚姫君尊」の生まれ変わりが出口ナオとされます。

「国祖」は、まだ混沌としていた世界を統治するには厳格すぎました。
悪霊の入れ物となった二神の勢力は、「国祖」の神政を糾弾するため、「国祖」を神々による「常世会議」にかけた後、八つ裂きの刑にしました。
そして、「国祖」の隠退を「天の大神(伊邪那美神、伊邪那岐神、天照大御神)」に訴えました。

「天の大神」は、涙を飲んで、時が来たら復権させ、私も地に降りて手伝うと約束して、「国祖」を隠退させました。
王仁三郎が大本に加わってナオを助けたのは、この約束を果たすためだとされます。

「国祖」は、幽界に追放されましたが、霊魂は「地上の高天原」である「聖地エルサレム」から艮の方向にある「秀妻国(日本)」に、妻の「豊雲野神(豊国姫命)」は、坤の方向の島国に留まりました。
そして、邪神達は、「国祖」を祟り神、鬼であると宣伝しました。

これが、この二神が、「艮の金神」、「坤の金神」と呼ばれるようになった理由です。
そして、日本の神事(節分の豆まきなどを含めてすべて)は、「国祖」を調伏するものとなりました。

その後、「盤古大神」の一派が地上の神政を担うも、「大自在天神」一派との間で争いが起き、混乱が続きました。

また、「国祖」が隠退して、大地から「国祖」の精霊が抜け出したため、天変地異が起こり、大洪水と地軸が傾くに到りました。

「国祖」と妻神は、その状態を悲しんで、贖い主として、天教山(富士山)の噴火口に身を投じました。


<須佐之男尊の贖罪>

「霊界物語」の、「国祖(国常立尊)」が地上霊界の神政から隠退し、贖い主になった神話は、次に語られる「素戔嗚尊(須佐之男尊)」が地上現界の神政から隠退し、贖い主にあった神話と、ほとんど同型です。

「霊界物語」だけで語れる須佐之男尊の物語には、古事記に類する部分と、独自の部分があります。
独自の物語では、須佐之男尊は、「三五(あなない)教」(詳細は下記)の指導者となり、宣伝使を世界に派遣しつつ、自身も旅をして、八岐大蛇に象徴される悪を「言向け和する」(言霊の言葉で改心させる)ことで、「国祖」による「五六七(みろく)神政」の成就のために尽くします。

「霊界物語」の中には、ところどころで古事記の神話の解釈が挿入されています。
これは、「言霊解」などと題されていて、王仁三郎が行った講演の記録です。
ここでは、須佐之男尊の物語が、以下のように解釈されています。

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*須佐之男尊に扮した王仁三郎


伊邪那岐大神は、須佐之男尊に、海原(地上現界のこと)を主宰するように命じました。

地上現界にいる神々は、地上で罪穢れを落としてからでないと高天原に昇れないことになっていました。
ですが、神々はそれを理解せず、高天原の天照大神に憧れているばかりで、須佐之男尊の言葉に耳を傾け、自らを省みることがありませんでした。

須佐之男尊は、その有様に、心を痛めて泣きました。
そして、自責の念を感じて、母のいる根の堅州国(月界のこと)に隠退しようと思いました。

伊邪那岐大神も、この須佐之男尊を隠退させることで、神々も改心してくれるだろうと思い、須佐之男尊を地上現界から追放しました。


須佐之男命は、天照大御神に別れを告げるために高天原に登りました。
ところが、天照大御神は猜疑心から須佐之男尊を武力で迎え撃つ準備をしました。

二神の誓約(うけい)の結果、天照大御神の玉からは五男神が、須佐之男命の剣からは三女神が生まれました。
これによって、天照大御神は「変性男子(身体は女性で霊魂は男性)」、須佐之男命は「変性女子(身体は男性で霊魂は女性)」であることが判明しました。

また、天照大御神の御霊は、五男神を生んだこともあって、「厳(五、いつ)の御霊」、須佐之男命の御霊は、三女神を生んだこともあって「瑞(三、みつ)の御霊」と呼ばれます。

そして、五男神と三女神の名前の言霊解釈から、「厳の御霊」は攻撃的で、「瑞の御霊」は慈悲深いことが示されます。

以上は古事記を元にした解釈ですが、「霊界物語」独自の物語では、天照大御神の猜疑心の裏には、彼女が須佐之男尊の領土を侵略しようとしていことがあったと明かされます。

王仁三郎は、この時の二神の関係を、彼が大本に参加した時の、ナオと彼の関係に重ねています。


その後、須佐之男尊の部下が勝手に、天照大御神の田を破壊すなどの乱暴を働きましたが、須佐之男尊はその罪をかぶりました。

記紀神話ではその後、須佐之男命が斎服殿に馬の皮を逆剥ぎにして投げ込んだ時に、天の服織女が梭で女陰を衝いて死んだとされます。
これについては、王仁三郎は明確な解釈を行っていませんが、神衣を織ることは、天照大御神の経綸の行いのことであるとしています。

ところで、ナオのお筆先では、ナオの神が「国常立尊」でもあり、「稚日女尊」でもあると出ています。
「稚日女尊」は、日本書紀の一書でのみと名前が書かれている、この時に亡くなった服織女です。

このことは、ナオと王仁三郎との対立の深さを示しているように思えますが、王仁三郎は、「稚日女尊」と須佐之男尊の間に性的関係があったのだと解釈しました。

こうして、須佐之男尊は、罪をかぶって天上霊界から追放されました。
この須佐之男尊の行為は、キリストの贖罪と同様の行いだとされます。


そして、須佐之男尊が地上(出雲)に下ります。
これは、王仁三郎が大本に入ったことと同じとされます。

そこで出会った老夫と老女はナオであり、その童女は世の人々、「櫛名田姫」は「大地の金神」である澄です。

「八岐大蛇」は邪霊にまどわされている人々で、「十拳剣」でこれを切るのは、破邪顕正の心で人民を改心させることです。
そして、尾から「草薙の剣」を見出すことは、下層の人民の中に潜む大救世主である「伊都能売」の御霊を持つ人を見つけることです。

須佐之男命による八岐大蛇退治は、「霊界物語」では世界を舞台にした「言向け和す」旅になります。

そして、丹波の綾の聖地では、「錦の宮」という三五教の神殿を建てて、須佐之男尊が指導を行い、言依別命が教主として、五六七神政成就のための宣教を行いました。
もちろん、これは大本の開教と重なります。


72巻までの「霊界物語」では、その最後までが描かれませんでしたが、伊邪那美神から受けた須佐之男尊の使命は、「八岐大蛇」が憑依した「大黒主」を言向け和して、「天叢雲の剣(救世主としての伊都売神)」を得て、天照大御神に奉ることでした。


<三五教>

「国祖」が創始し、須佐之男尊が指導したのは、「三五(あなない)教」です。

「三五教」の「宣伝使」が、改心したり悪に落ちたりを繰り返しながら「身魂みがし」をして成長していくのが、「霊界物語」の重要なテーマの一つです。

「三五教」の特徴は、非暴力主義、無抵抗主義、言葉によって改心させる(言向け和す)ことです。

つまり、記紀神話の「天の岩戸開き」のように、天照大御神を騙して引き出すのではなく、その猜疑心をなくすのです。
また、記紀神話の「八岐大蛇退治」のように、武力によって倒すのではなく、言葉によって改心させるのです。

「三五教」に敵対するのは、「大自在天神」系の「バラモン教」と、「盤古大神」系の「ウラル教」、そして、「高姫」系の「ウラナイ教」です。

それぞれは、下記のような特徴があります。

 (宗教)  (主宰神)   (特徴)
・三五教  :正神系   :霊主体従(霊先体後):非暴力主義、説得主義
・バラモン教:大自在天神系:力主霊体(霊に偏向):暴力主義、権威主義
・ウラル教 :盤古大神系 :体主霊従(体に偏向):物質主義、個人主義
・ウラナイ教:高姫系   :インチキ、須佐之男尊に敵対

「三五教」は大本がモデル(あるいは、その逆)です。
「三五教」は、三葉彦神が創始した「三大教」と、埴安彦神が創始した「五大教」を合体させて生まれました。

「三」は天照大御神と須佐之男尊の誓約(うけひ)で生まれた三女神を、三葉彦神は王仁三郎を象徴します。
「五」は、同様に、五男神を、埴安彦神はナオを象徴します。 

「ウラナイ教」の名前は、「ウラル教」の「ウラ」と、「三五(あなない)教」の「五(ない、ナオの方)」を足したものです。
ウラナイ教は、大本の反王仁三郎派がモデルでしょう。
大本では、ナオが「表」、王仁三郎が「裏」とされ、「ウラナイ」とは王仁三郎の排除を意味します。


<大本の隠退・贖罪神話について>

「国祖」の隠退と復活の神話は、世界でも他に類を見ないものです。
ですが、類似した神話は様々なものがありますし、また、これを生み出した背景には様々な事項を考えることができます。

大本神話の特徴をモデル化すると、下記のようになるでしょう。

地上を主宰する天神(国常立尊)が、厳格すぎるゆえに主宰権を失って、さらに地上は乱れたが、復帰して終末後の神の国(みろくの世)を作る。

地上における主宰神(須佐之男尊)が、主宰権を失って堕天するも、贖い主となり堕天し、宗教的指導による救済を行い、終末の救世主(伊都能姫)を育成する。

また、両神の隠退は、単に主宰権の喪失だけではなく、八つ裂きのような肉体への刑罰、悪神の汚名、を伴っています。

これらは、広義では、堕天、終末論を伴う救済神話です。
ですが、その固有の特徴には、厳格さや慈悲深さに由来する贖罪が堕天の理由となって、悪神の汚名を着せられている点や、2霊統の統合がテーマになっている点などがあります。


<大本神話と旧約・新約神話>

須佐之男尊の「贖罪」に関しては、王仁三郎自身がキリスト教について言及しているように、キリスト教の贖罪觀念の影響を受けています。
王仁三郎自身(須佐之男尊)をイエス、ナオ(稚姫君神)を洗礼者ヨハネと比べるような記述もあります。

また、旧約から新約への変化は、「律法」から「愛」へという救済思想の変化ですが、これは、ナオ(国常立大神)の「厳の御霊」から王仁三郎(須佐之男尊)の「瑞の御霊」への変化とも対応します。
国常立神が律法を作った厳格な神であるのに対して、須佐之男尊は「言向け和」する慈悲深い神です。

また、大本の「立替え立直し」、「大峠」の思想は、一種の終末論なので、その点でも、新約との類似があります。
「贖い主」と「教主」としてのイエスが須佐之男尊ならば、「ヨハネ黙示録」の「終末の救世主」に相当するのが「伊都能姫」でしょう。

また、「霊界物語」への旧約の影響もあって、大洪水、アダムとイヴに対応する天足彦と胞場姫、「知恵の樹」の実に対応する「体守霊従」の果実などが明らかにそうです。


<大本神話とイラン系神話>

神道は多神教で、古事記には長い神統譜があります。
それに対して、キリスト教は一神教なので、大本神話との類似には限界があります。

古事記には、造化三神の段階があり、国常立尊の段階があり、伊邪那岐神の段階があり、天照大御神の段階があり、さらに天孫降臨後や国津神の段階などがあります。

こういった多層的な神統譜と、終末論的な救済神話を持つのはイラン系宗教(ゾロアスター教、ミトラ教、マニ教、ミトラス教)です。
これらには、根源神の段階、天体・気象神の段階、地上の救世神の段階、終末の救世神の段階がありますし、隠退と似た堕天の神話があり、世が堕落していく神話があります。

実は、キリスト教の終末論も仏教の弥勒信仰も、イラン系宗教の影響で生まれ、その救済神話を簡略化したものです。
さらに実は、大本が言う「みろくの世」という言葉も、仏教の弥勒信仰ではなく、ミトラ教の中国版である弥勒教が日本に伝来して生まれた、鹿島や富士講の「みろく信仰」に由来するものです。

王仁三郎は、イラン系宗教やその「みろく信仰」への影響については、ほとんど知らなかったでしょう。
ですが、多層的な神統譜と堕天や終末論的な救済神話を合わせ持つ神話は、必然的に似てきます。


ただ、ゾロアスター教と大本との間には、偶然ではない影響があるのかもしれません。

王仁三郎は、人間が、「黄金時代」、「白銀時代」、「赤銅時代」、「黒鉄時代」、「泥土時代」という五時代を経て、徐々に悪化すると考えました。
これに似た神話は、古くはゾロアスター教やギリシャ神話で語られ、仏教では末法思想という形で日本に伝わっています。

また、「艮の金神」が隠退していたのは3000年ですが、この3000年というのは、ゾロアスター教で区切りとされる年数で、アンラ・マンユが深淵に落ちていた期間も3000年です。

そして、大本では、隠退の3000年の後に、復帰のための50年の準備期間が設定されていましたが、ゾロスター教でも、最後のサオシャントが57年の神聖な統治を行った後に、最終戦争を向かえます。


イラン系堕天神話(原人間の殺害を含む)の核心は、堕天した、あるいは、殺害された神(マズダ、アーリマン)や神的な「原人間」が、人間の霊魂の奥底にある神性になったとする点です。
そして、救世主の与える霊的智恵によってその神性を顕在化させるのが救済です。

大本の隠退神話には、直接的にはこの側面がありません。
国常立尊の死せる霊魂が人間の霊魂になったわけではありません。

ですが、人間の霊魂は、天之御中主神の分霊(直霊・本守護霊)であり、国常立大神の隠退によって世が「体主霊従」になり、須佐之男尊の指導によって「霊主体従」に戻ると語ることは、ほとんど同じ思想を表現しています。


イラン系救済神話の現代版と言えるのが、ブラヴァツキー夫人の神智学です。
神智学は、秘教を抑圧したキリスト教に批判的で、その秘教的本源に遡って普遍主義志向で創造されたものです。
ですから、霊学の秘教的志向を持つ王仁三郎が、神智学の神話を知らず、キリスト教しか参照しなかったのは、実に残念なことです。

イラン系救済神話には、堕天したアーリマンの復帰を説くものがありますが、これは自由意志の獲得というテーマを内包し、秘密教義とされました。
神智学はこれを重視して取り込みましたが、大本神話にはこのテーマはないようです。

ちなみに、大本が提携したバハイ教も、イラン系宗教の現代版と言えますが、イスラム教の影響が濃く、神話的側面は希薄です。


<大本神話と日本の宗教・神話>

最後に、日本古来の伝統という点からいくつか述べてみます。

日本書紀は、陰陽思想を取り入れているので、大本の「火/水(厳/瑞)」の二元論による解釈の基盤があります。

そして、記紀神話の須佐之男尊には、すでに、おそらく結果的に、統合神、贖罪神という性質があります。

記紀神話の須佐之男尊の基本性質は、大気・水の循環(海・蒸発・雲・降雨・川・地下水)の神です。
ですから、王仁三郎が、須佐之男尊を「瑞の御霊」としたのは正しいのです。

そのため、昇天して太陽を隠す一方で、地上に下って豊穣をもたらし、穢れを浄化して地下に下る神なのです。
水の神には、天地の媒介神にして、贖罪神、復活神という性質があるのです。

ちなみに、折口信夫は、古代においては、丹波氏が水の神の巫女の家系だったと書いています。


日本には、記紀神話に対する、いわゆる「埋没神」の復活の潮流があります。
これは、天皇家や藤原氏、そして、天孫族の支配に抗する宗教伝統です。

これらの非主流派とされた神々は、記紀神話と律令神道の体制では、抹消されるか、悪神化されるか、矮小化されるか、記紀の神々へ改名をさせられました。

埋没神の復活というテーマは、古くは記紀以外の各氏族の古伝にもあり、三輪流神道や伊勢神道、教派神道にもあります。
また、神仏習合の中で、仏教系の神仏の姿をまとって復活した神々もあります。

歴史編で書いたように、大本の「艮の金神」=「国常立尊」の隠退と復活の神話の背景には、綾部の九鬼家の「鬼」、丹波の元伊勢外宮の「豊受大神」、海部氏の籠神社の元天照「火明命」などの「埋没神」とのつながりを感じます。


また、日本には、古来、荒魂即和魂で、祟る「荒魂」を祀って守護神の「和魂」にするという宗教観があります。

天津神の支配に屈して発現した国津神などの「荒魂」は、中世には「黒い翁」となり、「荒神(こうじん)」となり、「金神(こんじん)」となりました。

宗教観の変化の中で、「和霊」の「荒魂」化は、行き過ぎた厳格さが理由と見なされたり、主宰権の喪失と見なされたりしてもおかしくはありません。
そして、「荒魂」の「和霊」化は、慈悲深さという性質が必要だと見なされたり、主宰権の復活と見なされたりしてもおかしくはありません。

「荒神」は、中世に、一部で根源神にまで格上げされました。
「金神」の根源神化は、近世の金光教に始まり、大本で完全な姿になったと言えます。



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大本の宇宙生成神話 [日本]


王仁三郎が書いた大本の宇宙発生論(天地創造神話)を3種、紹介します。
「大本略儀」、「天祥地瑞」の冒頭、「霊界物語」の冒頭の宇宙生成論です。

「大本略儀」のそれは、古事記の霊学的に解釈といった感じのものです。

「天祥地瑞」の冒頭のそれは、天之御中主神以前(造化三神)の「幽の幽」の段階の天界の生成論で、「富士文献」の言霊学的解釈とされます。

「霊界物語」の冒頭のそれは、その後の話で、「(大)国常立尊」が地上の神政を始めるまでの話です。

これらは、全体としての特徴をまとめれば、大本の二教祖の霊統とその統合を基本テーマとして、古事記を霊学、言霊学によって解釈、拡張したものだと言えるでしょう。


<大本略儀の宇宙生成神話>

まず、大正5年に出口瑞月の口述という形で発表された「大本略儀」の宇宙生成論を紹介します。
ここには、まとまった形で、王仁三郎の思想が表現されています。
「霊界物語」とは違って、基本的には古事記に出てくる神々を、霊学的に解釈したものです。


まず、原初の存在として、「天之御中主神」がいます。
この神は、無限絶対、無始無終であり、「大元霊」、「大国常立尊」とも表現されます。

「大元」という表現は、伊勢神道や吉田神道以来のものです。

また、「天之御中主神」は、言霊としては「ス」です。
言霊学では、音声は言霊であり、神です。

原初の言霊を「ス」とするのは、中村孝道のアイディアに始まり、大石凝真素美が体系化しました。

「天之御中主神」は、「霊・力・体」の三元を配分し、自身と一体である宇宙万有を創造するので、「全一大祖神」とも表現されます。
宇宙も無限絶対、無始無終で、宇宙に発生するすべては、「小天之御中主神」です。

「天之御中主神」と宇宙の関係は、「放てば万有であるが、これを巻き収むれば、天之御中主神に帰一する」のです。
つまり、流出論的宇宙論、神観です。

ですが、「天之御中主」は、活動を開始しているので、静的状態に逆行することはありません。

「天之御中主神」の創造は次の4段階で行われます。

1 幽の幽:根本造化の経営:伊邪那岐、伊邪那美より前、神世六代まで
2 幽の顕:天の神界の経営:伊邪那岐、伊邪那美、三貴神など
3 顕の幽:地の神界の経営:天孫降臨から神武天皇より前
4 顕の顕:人間界の経営 :神武天皇以降

ですが、いずれの段階の創造も、未完成なのです。
ですから、人間の使命は、「天之御中主」が創造する天地経綸に従うことです。


「幽の幽」の段階では、まず、「天之御中主」は、相対的二元として、「霊」と「体」を生み出します。
これは「陽」と「陰」でもあり、「火」と「水」でもあります。

そして、神としては、「高皇産霊神」と「神皇産霊神」です。
この両神の活動によって時空が生まれます。

「天之御中主」は、活動の初めに、「陽」を主として、「陰」を従としました。
「大本霊学」では、これを「霊主体従」と表現します。

また、二元は結びつて「力」となります。

・霊(チ・ヒ):火:陽:高皇産霊神:父:左
・体(カラ) :水:陰:神皇産霊神:母:右
・力(チカラ):霊・体の結合で発生

「幽の幽」の段階の神で、地の創造に関わるのは、「国常立尊」と「豊雲野神」で、次のような特徴を持ちます。

・国常立尊:霊系:縦に大地の修理固定、根本の働きを司る
・豊雲野神:体系:横に天地の修理固定、気候風土など特色の働きを司る

大本によれば、今起こりつつある「立替え立直し」は、この二神が働きによります。
大本には、この二神は「艮の金神(出口ナオ)」、「坤の金神(出口王仁三郎)」として現れました。

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*王仁三郎が描いた国常立尊と豊雲野神


「幽の幽」の段階は、宇宙の内部の動きであって、現象として現れません。
ですが、「幽の顕」の段階の働きは、宇宙に現象として、天地の出現などとして現れます。
この世界は「天の神界」と呼ばれます。

「幽の顕」の経綸を主として担当するのは、体系では「伊邪那美神」、霊系では「伊邪那岐神」です。
言霊では、それぞれ「ア」と「ウ」です。

・伊邪那美大神:体系:ア
・伊邪那岐大神:霊系:ウ

そして、この二大基礎音から五大母音となり、五十声音となり、七十五声音となり、無量無辺の音声が鳴り響き、天津神々が生まれ、森羅万象が生まれました。

この二神から生まれた三貴神は、以下のような性質を持ちます。

・天照大御神:霊系:左:火:天の神界(高天原、至大天球)を主宰
・月読命  :体系:右:水:夜の食国を主宰
・須佐之男尊:両系:中  :地の神界(海原、地球)を主宰

また、この段階での宇宙における霊魂の働きは、「体」から言えば「天・火・水・地」の「四大」となり、「用」から言えば「奇・荒・和・幸」の「四魂」となります。

・用:奇・荒・和・幸の四魂
・体:天・火・水・地の四大

それぞれは次のように対応します。

・奇魂:天:霊の霊
・荒魂:火:霊の体:太陽
・和魂:水:体の霊:太陰
・幸魂:地:体の体


「顕の幽」の段階は、「地の神界」とも表現され、国津神はここに属します。

大地は宇宙の中心にあって、まず、日月星辰が分離した後で、最後に形成されました。
大地には、天津神の分霊が国津神の霊魂として宿っていて、大地の形成は国津神の発生と同時の出来事です。

大地を主宰する「須佐之男尊」は、高天原を主宰する霊系の「天照大御神」との関係では、体系となります。
そして、「須佐之男尊」は、「瑞の御霊」を持つ「変性女神」であり、「天照大御神」は、「厳の御霊」の御霊を持つ「変性男神」です。

「地の神界」の経綸は、この両神の誓約(うけい)によって生まれました。
これによって生まれた三女神は「変性女子」の御霊=「瑞の御霊」を持ち、五男神は「変性男子」の御霊=「厳の御霊」を持ちます。

・須佐之男尊→三女神:変性女子の御霊=瑞の御霊
・天照大御神→五男神:変性男子の御霊=厳の御霊

この両者を統一して完全なものになるのが、「伊都能売の御霊」です。
「伊都能売神」は、古事記に名前のみ登場する神です。
王仁三郎は、ナオが亡くなった後に、自分に「伊都能売」の御霊が降りたとしています。


以上、「須佐之男尊」は、三貴神としては統合の立場で生まれていますが、「天照大御神」と対となった後の統合の立場にあるのは、「伊都能売神」とされます。


<天祥地瑞の言霊宇宙生成神話>

1921(大正10)年に、王仁三郎が口頭著述を始めた「霊界物語」は、81巻まであり、12巻ごとにまとめられてタイトルが付けられています。
73巻以降は「天祥地瑞」と呼ばれ、72巻までとは独立した作品です。
72巻までの「霊界物語」が過去の現界の物語であるのに対して、「天祥地瑞」は大過去の霊国の物語とされます。

「霊界物語」は全体で、120巻を予定していたとされます。
ですが、72巻までの「霊界物語」、「天祥地瑞」ともに、物語が中途半端に終わっていて、未完のようです。

「天祥地瑞」は、天之御中主神以前(造化三神)の「幽の幽」の世界で、「富士文献(宮下文献)」の言霊解釈とされます。
「富士文献」では、天之御中主神以前の7代の神を語り、それを「天の世」とします。
富士の高山や噴火を表現する神々です。
そして、天之御中主神以降が「天之御中の世」とされます。

ですが、「天祥地瑞」には多数の神々が登場しますが、ほとんどは聞いたことのない名前の神々で、「富士文献」の7代の神はごく一部しか含まれません。

ここでは、「天祥地瑞」の冒頭の「紫微天界」の生成に関する部分を紹介します。


原初に、大虚空に極微なる一点「ゝ(ほち)」が顕れ、これが霊気を産出し、円形を作ります。
円形は微細な気を放射して円形の圏を描いて元の円形を包み「⦿(ス)」の形になりました。

原初の音を「ス」とするのは、中村孝道のアイディアをもとにした大石凝真素美の説、それを「ゝ(ほち)」と「○」で表現するのは、山口志道に由来するものです。

言霊学では、音声は言霊であり、神です。

この「ス」の言霊の働きを、「天之峯火夫の神」、「大国常立神」、「主(ス)の大神」と呼びます。
「天之峯火夫」は、「富士文献」の原初神です。
「ス」の言霊宇宙は、極微の神霊分子が動きまわっている状態です。

この「ス」が限りなく膨張して「ウ」=「宇迦須美の神」となりました。
「ウ」は「体」を生み出す根元です。

ちなみに「ウ」を原初の言霊としたのは平田篤胤です。

「ウ」が上昇して「ア」=「天津瑞穂の神」を生みました。
また、「ウ」が下降して「オ」=「大津瑞穂の神」を生みました。
また、「ウ」は神霊の元子と物質の原質を生みました。

そして、「天之峯火夫の神(ス)」と「宇迦須美の神(ウ)」の働きで、大虚空に「天津日鉾の神」が出現しました。
この神は、やがて言霊の原動力となって、75声の神を生んで、至大天球を創造します。

「天津瑞穂の神(ア)」と「大津瑞穂の神(オ)」が結びついて、「タ」の言霊である「高鉾の神」と、「カ」の言霊である「神鉾の神」を生みました。

この両神は左遷・右旋して円形を作りましたが、これが「マ」の言霊である「天津真言の神」です。

「タカアマ」の言霊が、際限なく虚空に拡がって「ハ」の言霊である「速言男の神」が生まれました。

「速言男の神(ハ)」が右に左に廻って螺線形をなして「ラ」の言霊を生みました。
高天原の「六言霊(タカアマハラ)」の活動によって、大宇宙は形成され、霊子の根元と物質の根元、天地の基礎が作られました。

ちなみに、「タカ・アマ・ハラ」という言霊を原初の言霊としたのは吉田兼倶、「タカマガハラ」という6声の言霊で至大天球(高天原)ができるとしたのは大石凝真素美です。

1 ス=天之峯火夫の神(大国常立神、主の大神)
2 ウ=宇迦須美の神
3 原動力=天津日鉾の神
4 ア=天津瑞穂の神
5 オ=大津瑞穂の神
6 タ=高鉾の神
7 カ=神鉾の神
8 マ=天津真言の神
9 ハ=速言男の神
10 タカアマハラ=高天原


次に、「六言霊」は鳴り続けて、「火」、「水」を発し、光を放ち、霊線を放ち、徐々に5層(紫微圏(天極紫微宮界)、蒼明圏、照明圏、水明圏、成生圏)を形成しました。

次に、「主の大神」は、「高鉾の神」、「神鉾の神」に高天原を形成させました。
そして、諸神は「紫微圏」層に住みました。

次に、「タカアマハラ」の言霊から生まれた「天之高火男の神」が「天之高地火の神」と共に、「タカ」の言霊によって天界の諸神を生み、「紫微宮」を作りました。

この両神は「富士文献」に出てくる神です。

「紫微圏」の霊界を「天極紫微宮界」と言い、「タカ」の言霊が鳴り輝き、75声の神々を生みました。


また、「速言男の神(ハ)」は、霊・力・体の「三元」で、七神を祀る大宮を作り、「大太陽」を生みました。

大宮が完成すると、「速言男の神(ハ)」は、「一二三四五六七八九十百千万(ひふみよいむなやここのたりももちよづ)」と祝歌を謡いました。

また、左を守る「言幸比古の神」は、「アオウエイ、カコクケキ…パポプペピ」と言霊を縦に宣り上げました。
そして、右を守る「言幸比女の神」は、「アカサタナハマヤラワガザダバパ…オコソトノホモヨロヲゴゾドボポ」と言霊を横に宣り上げました。

また、宮に仕える「日高見の神」は、祝言の歌を宣り奉りました。
「言幸比女の神」も言霊の幸を歌いました。


次に、「天の道立の神」は、「ウ」の言霊から生まれて、四柱の神に昼と夜を分かち守らせ、神業に活躍し、諸神を安住させました。
ですが、妖邪が発生したので、天の数歌、大祝詞を奏上してこれを消しました。

「天の道立の神」が大幣を振ると、「太元顕津男の神」がやって来ました。
「太元顕津男の神」は、「ア」の言霊から生まれて、西南(坤)の空を修理固定した神です。

「天の道立の神」は、「太元顕津男の神」に、高地秀の峯に降りて、神生み(国魂の神)、国生みを命じられました。

「太元顕津男の神」は、高地秀の峯で言霊を奏上し、大太陰(天界の月)を生み、「高野比女の神」を妻として、高地秀の宮に住みました。

「天の道立の神」は紫天界の西の宮の神司として、神人の教化に専念しました。
一方の「太元顕津男の神」は東の国なる高地秀の宮に神司として、霊界における霊魂、物質両面の守護を行いました。
そして、「太元顕津男の神」は、「みろく(至仁至愛)の神」となって大太陰界に鎮まりました。

・天の道立の神 :厳の御霊:ウ:大太陽
・太元顕津男の神:瑞の御霊:ア:大太陰:みろくの神
・伊都能売神  :厳と瑞の御霊

そして、厳・水の二つの御霊を合わせ持ち、「みろく神政」を樹立する神が、「伊都能売神」です。
現在は、とうとう「伊都能売神」が地球に現身をもって現れて、神業を行う世になりました。


この後は、「太元顕津男の神」の神生み、国生みの旅の物語となります。
「太元顕津男の神」は、八十柱の比女神を授けられて、紫微天界を旅して、比女神と出会い、御子の国魂神を生み、言霊を奏上して国土を修理固成していきます。


<霊界物語の宇宙生成神話>

「霊界物語」は、王仁三郎が明治31年に高熊山の霊的体験で見た幽界・神界の物語とされます。
王仁三郎が主人公で、木花咲耶姫の使者・松岡芙蓉仙人に導かれて、幽界と神界の旅に出るところから始まります。

「霊界物語」は、世界を舞台にした太古の物語で、中心テーマは、国祖とされる「国常立尊」の隠退と復帰、「素戔嗚尊」の贖いと救世、そして、宣伝師の伝道と成長の物語です。

それらは悪との戦いの物語でもありますが、原則として、正神たちは、武力を否定し、「言向け和す」ことによって悪の改心を目指します。

ですが、「すべて宇宙の一切は…善悪一如にして、絶対の善もなければ、絶対の悪もない」と最初に語られるように、勧善懲悪を否定しています。

以下、1巻20章から語られる、宇宙生成の部分を紹介します。


混沌の中に、球体の凝塊が顕れ、目の届かない広がりに至りました。

その球形の真ん中に金色の円柱が立ち上がって左遷し、星々を飛び散らせました。
そして、「金色の竜体」になり、多数の竜体を生み、竜体が通ったところに山脈、海ができました。
「金色の竜体」は、「大国常立尊」と呼ばれます。

一方、海の中から銀色の円柱が立ち上がって右旋し、種々の種物を飛び散らせました。
そして、「銀色の竜体」になりました。
「銀色の竜体」は、「坤の金神(豊雲野神、豊国姫命)」と呼ばれます。

次に、「金色の竜体」の口から太陽、「銀色の竜体」の口から太陰が生まれました。
太陰が地上の水を吸い上げ、地が固まると、二つの竜体は人の形の霊体になりました。

太陽の世界では伊邪那岐命が「撞の大神(天照大御神)」を招いて天上の主宰神にしました。

次に、「白色の竜体」が、一番力のある神の「素戔嗚大神」になりました。
また、この神から白色の光が放たれて「月夜見尊」となって月界の主宰神になりました。

・金色の竜体:大国常立尊(艮の金神)→太陽
・銀色の竜体:豊雲野神 (坤の金神)→太陰
・白色の竜体:素戔嗚大神      →月夜見尊


次に、「大国常立命」は、地上霊界の主宰神「国常立命(国祖、国治立命)」となり、「地の高天原(聖地エルサレム)」で神政の指揮を執りました。

そして、十二の神々を生み、動・植・鉱物を形作って、地上を実りある世界にしました。
また、「日の大神」と「月の大神」の霊魂を授与して、肉体は「国常立尊」の主宰として、人間を作りました。

一方では、天地間に残滓のように残っていた「邪気」は、凝って悪竜、悪蛇、悪狐といった「邪霊・邪鬼」となり、神々に憑依し、世を混乱させようと企てました。

「国祖」は、厳格な「天の律法」を制定しました。

また、太陽の陽気と太陰の陰気を吸って、「稚姫君命(稚桜姫命)」を生み、聖地エルサレムにある「竜宮城」で宰相として神政を担いました。
「稚姫君命」は、生まれ変わって出口ナオになったとされる神です。

そして、地上現界の主宰は、「須佐之男命」に委任しました。
「素戔嗚大神」の地上現界における姿が「須佐之男命」です。

   (霊界の主祭神)   (現界の主祭神)
太陽:伊邪那岐(日の大神):天照大御神(撞きの大神)
太陰:伊邪那美(月の大神):月夜見神
地球:国常立尊      :須佐之男尊



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出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統) [日本]


出口王仁三郎と大本の歴史1(厳/瑞の二霊統)」から続くページです。

前のページは、主に、大本の二大教祖だった出口ナオと出口王仁三郎の二人の霊統(厳の御霊/瑞の御霊)が、結合し、対立していた時代を扱いました。

このページでは、主に、ナオ亡き後、王仁三郎が2つの霊統を統合(伊都能売の御霊)して体現したとする以降の時代を扱います。

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<鎮魂帰神法>

1917(大正6)年に創刊された機関誌「神霊界」では、王仁三郎は、本田霊学や鎮魂帰神法、そして、大石凝真素美らの言霊学、言霊学による記紀解釈などを紹介しながら、大本霊学を構築しました。

鎮魂帰神法は、当時の日本で流行し始めた心霊主義、心霊への興味と合致していたため、多くの人が大本教に足を運んでそれを体験しました。
そして、それが入信者の増加につながりました。

「神霊界」を創刊の前後から、大本には、学者や軍関係者、政治家などの入信者が増え始めていました。
ラフカディオ・ハーンの弟子で、有名な英文学者であり、横須賀の海軍機関学校の英語教官だった浅野和三郎もその一人です。

王仁三郎は、浅野を「神霊界」の編集長に起用しました。
浅野は、大本で審神者の才能も発揮し、「神霊界」でも鎮魂帰神法を宣伝して大本の信者獲得に寄与しました。
他にも、後に王仁三郎とは別の形で霊学を総合し「天行居」を開いた友清歓真や、「生長の家」を開いた谷口雅春、「世界救世教」を開いた岡田茂吉も参加していました。

こうして、大本は、大正10年に弾圧が起こる頃までには、信者が30万人ほどに達しました。

浅野らは、大本の鎮魂帰神法を、誰もが神人合一を体験できる方法と宣伝しました。
ですが、実際には、憑いている狐や先祖の霊を落とすことで、心身の治療を行うものとして使われました。
大本幹部の中では、「病気鎮魂」という言葉が使われていました。

ちなみに、後の1923(大正12)年、王仁三郎は、鎮魂帰神法を原則的廃止し、関東大震災後に、「み手代お取次」を導入しました。
これは、鎮魂瞑想と祝詞によって、取次人が霊界と合一し、病人にしゃもじを当てて霊的エネルギーを丹田から注ぐというものです。

王仁三郎は、鎮魂帰神法は、特別な能力・資質を持った人間でないと、無意味で危険であると考えていました。
ですが、鎮魂帰神法は、大本の信者、信者獲得のための治療方法として機能していましたので、鎮魂帰神法のソフト・ヴァージョンを作った、ということでしょう。

「み手代お取次」は、大本以前の教派神道が使っていた方法を参考にしたものでもありましが、その一方で、大本以降の新興宗教の方法の起原にもなりました。


<霊界物語>

1919(大正8)年、出口ナオが亡くなり、澄が二代教主となりました。
王仁三郎は、ナオに変わってお筆先を書くようになりましたが、これを「いづのめしんゆ(伊都能売神諭)」と呼びます。

これは、王仁三郎の御霊が、自身の「瑞の御霊」に加えて、ナオの「厳の御霊」を兼ね備えた存在である「伊都能売」になったことを示しています。
王仁三郎が「弥勒の神」であれば、「厳の御霊」が降りても不思議はありません。

王仁三郎は、「伊都能売」について、根源神であって、豊受大神、木花姫命、観音菩薩であるとも書いています。

また、同年、大本は丹波の亀山城跡を買い取り、ここに本部を置きました。

そして、1920(大正9)年には、大正日日新聞を買収して、これを使って大本の広報を行うようになりました。


「神霊界」誌上では、1917年頃から、浅野らが、お筆先を解釈して「立替え立直し」の「大峠」が、1920(大正10)年に起きると主張して、「神霊界」でも大きく訴えました。
ですが、王仁三郎は、この是非に関して明言せず、この年に大本にとっての「大峠」が起こると予言していました。
ちなみに、この年は中国で革命の年とされた辛酉の年です。

運命の1921(大正10)年、浅野の予言した「世の大峠」は来ず、王仁三郎の予言した「大本の大峠」が起こりました。

この年、不敬罪、新聞紙法違反を問われた「第一次大本弾圧事件」が起こったのです。
綾部の本宮山神殿は取り壊され、80名が拘束されました。

ですが、王仁三郎は同年に仮保釈され、後の昭和2年に、大正天皇崩御にともなう大赦で無罪となりました。

「大本神諭」が発禁となったため、新たな聖典が必要となったこともあって、王仁三郎は、「霊界物語」の著述を開始しました。

「霊学物語」では、王仁三郎が救世主であり、大本の主体であり、ナオは補助的な役とされます。
また、天照大神をほとんど悪神のように描き、素戔嗚命を善神の救世主として描きます。

この方針展開と共に、浅野、友清らは大本を去りました。
浅野は心霊主義者となり、友清は本田流の鎮魂帰神法の立場から大本を批判し、独自の霊学を追求しました。


<民族主義から普遍主義へ>

1922(大正11)年、王仁三郎は、バハイ教の宣教師アイダ・フィンチと知り合い、ババイ教のエスペラントの導入、世界的人道主義などの普遍主義の影響を受けました。
そして、ババイ教と提携し、万教同根を主張するようになりました。

これを機に、ナオのお筆先が外国排除の思想を持っていたのに対して、王仁三郎は大本を普遍主義へと転向させていきます。
そして、1923(大正12)年、中国の道院(紅卍字会)と提携を行うなど、世界の多数の教団と提携を進めていきました。

1924(大正13)年、王仁三郎は、「五六七神政大国建設」のため、世界の艮である日本から、モンゴルを経て、世界の坤であるエルサレムを目指す旅に出ました。
これには、大本の信者であり、合気道の創始者、植芝守平もSPとして参加しました。
王仁三郎は、この時、ダライ・ラマを名乗り、大本ラマ教を宣言しています。

ですが、ソ連軍に行く先を阻まれ、満州軍につかまって送還されました。
しかし、日本の一般国民には、王仁三郎の試みが肯定的に受け止められたようです。
政治家の鳩山一郎も王仁三郎を称賛したようです。

1925(大正14)年、王仁三郎は、「世界宗教連合会」、「人類愛善会」を設立し、大本を「万教同根」の普遍主義的を掲げる教団へと変容させました。

1928(昭和3)年3月3日、王仁三郎は56歳7ヶ月になりました。
これは、大石凝満素美が、弥勒が下生すると考えた年齢です。
この日、みろく大祭という儀式を行い、大本の役員全員が一旦辞職し、翌日に新人事で再結成されました。
この年も、辰年でした。

1931(昭和6)年、日本の艮と坤に当たる北海道の芦別山と、鹿児島喜界ケ島の宮原山を開く神業を行いました。
これは、大本の艮と坤で行った神業に続いて、日本の艮と坤で行うものでした。

これは、大本の三段の「雛型経綸」の理論、つまり、大本で起こったことは日本で起こり、日本で起こったことは世界で起こる、とする理論に基づくものです。

1933(昭和8)年、「霊界物語」の73巻以降に当たる「天祥地瑞」の口述を始め、翌年まで続けました。
これは、「富士宮下文献」を言霊学によって解釈し、天之御中主神以前の神話を描くものです。


<第二次弾圧>

1934(昭和9)年、大本は、愛国団体「昭和神聖会」設立しました。
会員・賛同者は800万人に達し、創立発表会では内務大臣、衆議院議長らが祝辞を述べました。

1935(昭和10)年、治安維持法、不敬罪違反を問われた「第二次大本弾圧事件」が起こりました。
警察は、内務省より大本のかけらも残すな、との指示を受けていました。
亀岡、綾部のすべての神殿などが徹底的に破壊され、出口ナオの墓は掘り起こされ、信者の納骨堂まで破壊され、1000人以上が尋問・暴行を受けました。
そして、翌年には、大本に解散命令が出されました。

王仁三郎は、警察を意図的に挑発して弾圧事件を導いたと指摘する人もいます。
この見方によれば、大本の雛形経綸によって、大本を一旦潰すことが、日本を潰し、世界を潰すことにつながり、それによって立替えが可能となると考えていたのです。

例えば、王仁三郎は、大本弾圧が、日本の敗戦による武装解除につながり、それが世界の武装解除につながると考えていたようです。
また、大本が潰れることで、従来の世界のすべての(ニセモノの)宗教を潰すことができると。


<愛善苑>

王仁三郎は、1942(昭和17)年になって保釈されました。

王仁三郎は、1943(昭和18)年に大本の雛形の立て替えの地の準備作業が終了した、と宣言しました。

王仁三郎が晩年に読んだ歌によれば、ナオが神懸りになった明治24年に、艮の金神の隠退の3000年が終わり、その50年後の昭和18年に、「地の準備神業」を終えたのです。
つまり、大本の雛型を作る神業が終わり、「艮の金神」が本格的に現れ始めるということでしょう。

1945(昭和20)年、王仁三郎の無罪判決が決まりました。
そして、その翌年の1946(昭和21)年、王仁三郎は大本に代わる「愛善苑」を設立しました。

お筆先によれば、神は立替えについて人民に九分九厘までは伝えるけれど、最後の一厘は伝えられません。
そこでどんでん返しが起こるけれど、それは教えることができない、とされます。
これを「一厘の仕組み」と呼びます。

「霊界物語」では、「稚姫君命」らが、竜宮島と鬼門島(冠島と沓島)に隠した宝珠を、「国常立尊」が体と霊に分けて、その霊をシナイ山の山頂に隠したことを「一厘の仕組(あるいは、一輪の仕組)」と呼びます。

大本が「艮の金神」を世に出すためとして行った「沓島・冠島開き」は、体の方だったということでしょうか。

また、王仁三郎は、「伊都能売神諭」で、自分がその一厘を握っているとほのめかしています。

その一方で、王仁三郎は、「霊界物語」で、「いま大本にあらはれた変性女子はニセモノだ…いづれ現はれ来たるだろ。美濃か尾張の国の中…」と、後に託すようなことを書いています。

そして、1948(昭和23)年、王仁三郎は、亀岡の天恩郷瑞祥館で亡くなりました。


<その後>

王仁三郎が亡くなった後、「愛善苑」の第二代苑主には、王仁三郎の妻で、ナオの娘の澄子が就任しました。
澄子は、お筆先で、地上の金神である「金勝要(きんかつかね)の神」の御霊とされ、継承を指名されていました。
そして、澄子は、翌年の1949(昭和24)年に、「大本愛善苑」と改名しました。

1952(昭和27)年には、澄子が亡くなり、長女の直日が三代教主に就任し、同年に、「大本」に改名しました。

ですが、その後、大本は分裂します。

大本の教主は、国常立尊の御霊を持つ、出口家の娘が継承するルールとなっていました。
そして、直日の次の教主は、王仁三郎がナオの生まれ変わりとして継承指名していた、直日の長女の直美が予定されていました。

ところが、直美とその夫で斎司会を仕切る栄二の勢力と、長男の京太郎が仕切る教団執行部とに争いが生じました。

そして、教団執行部は、1982年に、嫁いでいた三女の聖子(きよこ)を継承者とし、1990(平成2)年に、直日が亡くなると、四代教主に就任させました。

一方、栄二らの勢力は、1981年に「出口栄二を守る会」を結成、後に「出口直美さまを守る会」、「大本信徒連合会」となりました。

また、王仁三郎の孫の和明は、1980(昭和55)年、に「いづとみづの会」を結成し、1986(昭和61)年に、王仁三郎を永久教主とする「愛善苑」を設立しました。

反教団側は、聖子の教祖就任を、王仁三郎が生前に予言していた、内部から起こる3度目の大本事件であると教団を批判しています。
また、「愛善苑」は、「霊界物語」でインチキ教団が「大本」を名乗ると予言していたことが起こっていると批判しています。


*出口王仁三郎と大本のコンテンツ

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出口王仁三郎と大本の歴史1(厳/瑞の二霊統) [日本]


出口王仁三郎は、日本の近代を代表する宗教家であり、各種の霊学を総合しながら、教派神道との合流地点で実践的に活躍した人物です。

彼は、開祖の出口ナオと並んで、大本(大本教、皇道大本)の二大教祖の一人として知られています。
王仁三郎は、民衆的宗教だった大本に、国学、霊学(本田霊学)、言霊学(中村・山口・大石凝言霊学)などに基づく教義・教学を持ち込みました。

ですが、彼は、学者や審神者の資質に加えて、自らシャーマンの資質も合わせ持ちました。
また、マスメディアを利用した広報などの教団の運営や、歌、書画、陶芸などの芸術にも才能を発揮しました。

王仁三郎の生涯は、国家(国家神道)との戦いであると共に、大本主流派(直派)との戦いでもありました。

このページでは、出口王仁三郎と大本の歴史について、王仁三郎の霊学的側面や大本の教義に関わる側面を中心にしてまとめます。

長くなりますので、前後編に分けます。
このページでは、主に、大本の二大教祖だった出口ナオと出口王仁三郎の二人の霊統(厳の御霊/瑞の御霊)が、結合・対立していた時代を扱います。
そして、その後を扱った「出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統)」に続きます。

ただ、以下の事項の中には、王仁三郎や大本自身の資料によってしか確認できないものも多くあります。

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<高熊山での神秘体験>

1871(明治4)年、出口王仁三郎こと上田喜三郎(1871-1948、以下、王仁三郎と表記)は、丹波の貧しい農家の長男として生まれました。
絵師円山応挙を先祖に持つ家系でした。

祖母は、「言霊学」の創始者の中村孝道の妹で、王仁三郎は、少年時代に祖母からそういった知識を教わって育ちました。

1888(明治21)年、王仁三郎は丹波の梨木峠で「霊学」の創始者の本田親徳と偶然出会い、神道家として国のために尽くすようにと諭されたとされます。

1890(明治23)年、王仁三郎は国学者の岡田唯平に師事し、和歌を中心に、音楽、踊りといった芸術・芸能の重要性を学びました。

1892(明治25)年、王仁三郎は、小幡神社に夜ひそかに参籠して神教を請うていると、「異霊彦命(ことたまひこのみこと)」という神霊から「三大学則」などを教えらました。
この「異霊彦命」というのは、本田親徳の神霊であることを、後に知ったとされます。

1898(明治31)年、王仁三郎は、ヤクザに半殺しの目に合わされ、その夜寝ていると、部屋に五色の光の玉が体の中に飛び入りました。
そして、天狗(後に木花咲耶姫命の眷属の芙容仙人とされます)に誘われて肉体が高熊山の洞窟にテレポートし、そこで一週間の神秘体験をしました。

この時、王仁三郎は、霊体離脱して、過去・現在・未来、神界・幽霊の秘密を知りました。
これは、後に「霊界物語」として明かされます。
また、この時、王仁三郎は、異霊彦命から、自分が世の救主となるために降されたのだと、その使命を伝えられたとされます。

王仁三郎は、帰宅後も、身心の硬直状態が数日間続きました。
その後、王仁三郎は、透視能力や病気治療の能力を発揮し、「穴太の喜楽天狗」と呼ばれるようになりました。

王仁三郎の高熊山の洞窟での体験は、当時の神仙道のパタンに沿っていますが、いわゆるシャーマンの召命体験、異界飛翔体験の典型でもあります。

後に王仁三郎は、自分のこの時の体験を、大本の始まりと主張するようになりました。


<本田霊学、大石凝言霊学の伝授>

高熊山で神秘体験をした後、その同じ年に、王仁三郎の元に、本田親徳の弟子の長沢雄楯の稲荷講社の結社員が訪れて、長沢に会いに来るように誘いました。
王仁三郎は、静岡の長沢を訪れ、彼から本田霊学を学びました。

また、長沢の審神によって、王仁三郎に懸かっている神霊は、須佐之男尊の分霊の「小松林命」であるとされました。

さらに、本田の遺言(丹波から訪れる青年によって神の道が開かれる)に従って、長沢の母から、本田の奥義書と鎮魂石、石笛を譲られました。

同年、何度目かの静岡訪問の帰りの汽車の中で、偶然、言霊学の大家である大石凝真素美と出会いました。
その後、彼から言霊学を伝授され、また、一緒に琵琶湖に行き、湖面に現れる水茎文字を見せられました。

おそらく、王仁三郎は、言霊学以外にも、日本に弥勒菩薩が下生するとか、世界の艮である日本(琵琶湖近く)で最初の人間が生まれた、といった大石凝の思想を聞いて、その影響も受けたのではないでしょうか。

後に、王仁三郎は、大本の機関誌「神霊界」に、本田や大石凝の作品を掲載しています。


<出口ナオ>

1892(明治25)年、綾部の出口直(1836-1918、以下、ナオと表記)に、最初の神懸かりが起こり、文盲のはずの彼女の自動筆記(お筆先)が始まりました。
ナオに懸かった神は、「艮の金神」と名乗り、「三千世界の立替え」によって、「艮の金神の世(水晶の世、松の世)」をもたらすと語りました。
これは後に、「みろくの世」と呼ばれるようになります。

ちなみに、この年は辰年でしたが、辰年は古くから革命の年とされていました。

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ナオの父親は大工であって、ナオの家族は、鬼門(艮)の習俗に深く親しんでいたハズです。
一般に、「金神」は陰陽道の方違えの祟り神ですが、巡回して特定の方位を持ちません。
ですが、祇園の祭神である牛頭天王の関連神話にも「金神」がいて、こちらは鬼門の方位が関係します。

大本に先立って金光教が、「金神」を方違えの祟り神から、内面の信を重視する天地の根源神・親神へと、大きく「金神」の性質を変革しました。
ナオは、それに天理教の「立替え」の革命思想を組み合わせながら、「金神」を世直しの神へと変革しました。

つまり、自身が被っている苦難の理由を、金光教は方違えから内面の信の問題へと変革し、大本は世の問題へと変革したのです。

また、綾部の北の大江町には、鬼伝説があります。
これは、大和朝廷が土着の土蜘蛛の「クガミミ」を征伐したことがもとになっているようです。
この「クガミミ」は、綾部の元藩主だった九鬼(クカミ)家につながっているという説もあります。

大本のお筆先にも「九鬼大隅守との因縁」という言葉が出てきます。
九鬼家は、鬼門の神を祀ってきたようです。
また、「九鬼文献」の「鬼門祝詞」は「宇志採羅根真(うしとらこんしん)大神」という神を讃えていますが、これが大本以前に書かれたものであるかどうかは、確認できません。

ナオに現れた「艮の金神」の背景には、土蜘蛛系の綾部における反大和朝廷(反国家神道)的思想があるのかもしれません。

また、「みろくの世」という言葉は、一般には、仏教の弥勒菩薩の下生と結びつけられます。
ですが、「みろくの世」という言葉を広めたのは、鹿島のみろく信仰や富士講であって、これらは系統的には、仏教ではなく、中国の弥勒教や、さらに遡ればイラン系のミトラ教になります。


さて、最初は狂気や狐憑きを疑われたナオですが、病気治療や予言によって、徐々に信者が集まり出しました。
すると、金光教が彼女を取り込もうと近づいてきて、1894(明治27)年には、ナオは金光教会の傘下に入ります。
ですが、金光教がナオの神に興味を持っていなかったため、1897(明治30)年、金光教から独立しました。

こうして、ナオは、自分に懸かった神を理解してくれる人物を求めていました。


<王仁三郎の大本教入り>

1898(明治31)年、王仁三郎は、小松林命から「一日も早く西北の方をさして行け、お前の来るのを待っている人がいる」と告げられ、出口ナオと出会ったとされます。
一方、ナオのお筆先にも、「この神をさばけるお方は東から来るぞよ」と出ていました。

二人の最初の出会いでは、互いに相手を確信することがありませんでした。
ですが、翌年の1899(明治32年)、王仁三郎は大本に参加し、「金明霊学会」を設立、九鬼家の九曜紋家紋を引用して「十曜神紋」を定めました。

そして、王仁三郎は、ナオについた神を審神して、「国武彦命」、後に「国常立尊」としました。
王仁三郎は、後に、「国常立尊(大国常立尊)」=「天之御中主」=「大元霊」=「伊都能売」とします。

これは、「国常立尊」=「天之御中主」=「大元神」=「豊受大神」とする伊勢神道と似ています。
伊勢神道は、外宮の「豊受大神」を祀る度会氏が創造したものですが、度会氏はもともと「豊受大神」ととともに丹波(元伊勢)から伊勢に移住したとされます。

王仁三郎は、「伊都能売」と「豊受大神」を同体視しています。
また、大本は、後に、元伊勢に関わる神業を何度か行っていて、背景に伊勢神道の影響があるかもしれません。


また、お筆先では、ナオと王仁三郎の関係について、ナオが「変性男子(肉体は女性だが魂は男性)」、王仁三郎が「変性女子(肉体は男性だが魂は女性)」とされました。

この言葉は本来、仏教用語ですので、王仁三郎はこれを嫌い、前者を「瑞の御霊」、後者を「厳の御霊」としました。

・ナオ  :変性男子:厳(火)の御霊:艮の金神=国常立尊
・王仁三郎:変性女子:瑞(水)の御霊:小松林命=須佐之男尊

このように、初期の大本教の基本構造は、ナオと王仁三郎が持つ、対照的な二系統の霊統を合体させたものとされました。

「厳/瑞」の二元論は、「火/水」の二元論でもあり、ここには言霊学の創始者の一人、山口志道の説の影響もあるでしょう。
「火水」と書いて「カミ」と読むのも同様です。
また、伊勢神道にも、「天照=火/豊受=水」という二元論がありました。


翌年の1900(明治33)年、王仁三郎は末女のすみこ(澄子)と結婚し、お筆先の指示によって「おにざぶろう(「王仁三郎」表記は本人による)」と改名しました。
先に書いたように、これには綾部・九鬼の「鬼」伝説が背景にあるのでしょう。

大本ではナオと王仁三郎の二人を教祖としましたが、その地位、呼称は、ナオが「教主」、「開祖」であり、王仁三郎は「教主輔」、「聖師」でした。

教団内の多くはナオ派であり、彼らは王仁三郎をあくまでも補佐的役割と考えていました。
王仁三郎は、このナオを主とするナオ派と戦っていくことになります。

王仁三郎は、教団の運営に能力を発揮しましたから、二人の体制は、シャーマン的女性と政治力のある男子という、日本古来のヒメヒコ体制に似ているという側面もありました。


<神業と火水の戦い>

同年、二人は、神業として、大本の艮方向にある舞鶴沖の「男嶋・女嶋開き(沓島・冠島開き)」を行いました。
これは、「艮の金神」を世に出すためのものです。

男嶋・女嶋は、籠神社の海の奥宮で、冠島には天火明神を祀る老人島神社があり、ここから「ミタマ石」を綾部に持ち帰りました。
籠神社は元伊勢で、境外末社には豊受大神を祀る真名井神社があります。

この地方は、もともと海部氏の領域で、その祖神の「天火明神(アメノホアカリノカミ)」は、「天照大御神(アマテラス)」以前の男性の太陽神「アマテル」と同体です。

また、王仁三郎は、「霊界物語」で「天照皇大御神」と「天照大神」を区別して、前者を「大国常立尊」に近い存在としています。

「艮の金神」の背景には、火明、豊受、「元天照」、「元国常立尊」らの記憶があって複雑に結びついているのかもしれません。


1901(明治34)年、ナオと王仁三郎は、4月に「元伊勢の御用」、7月「出雲火の御用」と呼ばれる神事を行いました。

「元伊勢の御用」は、大江町の元伊勢とされる皇大神社から、天照大神の霊としての、清水を綾部に持ち帰るものです。
一方の「出雲火の御用」は、出雲大社から、須佐之男の霊としての神火、土、清水を綾部に持ち帰るものです。

「出雲火の御用」の帰路の時点から、「火水の戦い」と呼ばれる、ナオに懸かった天照大神と王仁三郎に懸かった須佐之男命の戦いが始まりました。

・ナオ  :厳(火)の御霊:元伊勢の御用:天照大神
・王仁三郎:瑞(水)の御霊:出雲火の御用:須佐之男

そして、10月には、ナオが王仁三郎の態度に怒り、天照大神の「天の岩戸籠もり」を再現するように、弥仙山籠もり(神社の社殿に)を行いました。

ナオ(お筆先)の考えでは、王仁三郎(=小松林命=須佐之男尊の分霊)の役割は、立替えのために、まず、天の岩戸を閉める役であり、これは悪役なのです。

1903(明治36)年には、「弥仙山岩戸開き」が行われて、「火水の戦い」が終わりました。
そして、王仁三郎に懸かる神は、「艮の金神」と対になる「坤の金神」に代わりました。
「坤」は裏鬼門です。

そして、後の1916(大正5)年には、大本の坤方向にある播州沖の「神島開き」と呼ばれる、「坤の金神」を世に出すための神事を行いました。
これは「男嶋・女嶋開き」と対になる神業です。

・ナオ  :艮の金神:国常立尊:男嶋・女嶋開き
・王仁三郎:坤の金神:豊雲野尊:神島開き


<弥勒の神>

当時の宗教団体は、教派として国家に公認された団体は、文部省の管理下で、決められたルールに従って運営していました。
ですが、非公認の場合は、警察や内務省から目をつけられて、圧力を受けていました。

1906(明治39)年、王仁三郎は、大本を合法団体にする方法を探るために、一旦、綾部を離れました。
そして、まず、京都で府庁の神職の資格を得て、半年の間、神社の神職を経験しました。

その後、王仁三郎は、御嶽教に入り、1908(明治41)年には、大阪大教会長に抜擢されて、教団運営を学びました。

その後、綾部に戻ると、神道を研究する「大日本修斎会」を設立して、月刊誌「大本講習」などで儀式の講習を行いました。
この時に打ち出した「三大学則」は本田霊学のものでした。(詳細は別ページ参照)

1911(明治44)年、大本教は、出雲大社教の傘下に入りました。
出雲大社教は、出雲大社の国造千家尊福が天津神中心の国家神道に反発して作った教派神道の一派です。

反国家神道という点で大本と共通しますが、出雲は須佐之男系なので、ナオよりも王仁三郎色が強く反映したと言えるのかもしれません。

1916(大正5)年に、大本教は「皇道大本」と改名しました。
この名は、近代日本が政教分離を原則とし、国家神道を宗教ではないとしたのに対して、祭政一致・神政復古を掲げたものだと言えます。

この年は、先に書いたように、「神島開き」によって「坤の金神」を出現させましたが、神島渡島は3度行われました。
この年も辰年です。

10月に行われたその3度目に、ナオが初めて参加したのですが、この時、ナオのお筆先に、王仁三郎に懸かる神が、「弥勒の神」=「天の御先祖さま」の御霊であると出て、ナオは仰天しました。

「弥勒さまの霊はみな神島へ落ちておられて、坤の金神どの、須佐之男命と小松林の霊が弥勒の神の御霊で…弥勒さまが根本の天のご先祖さまであるぞよ。国常立尊は地の先祖であるぞよ」

つまり、王仁三郎に懸かる「須佐之男命」、「坤の金神」は、単に「天照大神」、「艮の金神」と対になる神ではなく、その上の「天の根源神」の現れでもあったということでしょう。
これは、王仁三郎がナオの上位に位置づけられたことになります。

ナオ  :艮の金神:地の先祖=国常立尊
王仁三郎:弥勒の神:天の先祖=大国常立尊

お筆先によれば、ナオに懸かった神は、「国常立尊」であると同時に、「稚姫君命」でもありました。
後に、王仁三郎は、ナオの御霊を「稚姫君命」であるとして、「稚姫君命」を通して「国常立尊」の言葉が伝えられたのだとしました。


<大本神諭>

1917(大正6)年、王仁三郎は、機関誌「神霊界」を創刊しました。

そこで、王仁三郎は、ナオのお筆先を「取捨按配」して、それに漢字をあてて編集し、「おほもとしんゆ(大本神諭)」として公開しました。

例えば、お筆先に現れた「たてかえ」は、「大本神諭」では「立替え立直し」と表現されました。

ちなみに、後の「霊界物語」では「三五(おおもと)神諭」と表記されるものになり、「立替え立直し」は「天の岩戸開き」という表現になります。

「三」は「誓約(うけい)」で生まれた三女神であり、「みつ」=「瑞」です。
一方の「五」は五男神であり、「いつ」=「厳」です。

ずれにせよ、「大本神諭」は、二人の合作と見做すべきものです。


*「出口王仁三郎と大本の歴史2(伊都能売の霊統)」に続きます。


*他の出口王仁三郎と大本のコンテンツ

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川面凡児の禊・鎮魂行法 [日本]


川面凡児の霊魂観」から続くページです。

川面凡児は、「禊行」を復活させたことで知られる古神道の大家です。
その行法は、全国の神社に取り入れられて、神道界に大きな影響を与えました。

このページでは、「禊行」を含む凡児の「鎮魂行法」を紹介します。
この行法は、まったく独特なものであり、神人合一に至る神秘主義的的な行法です。

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<鎮魂行法の祭神>

凡児の実践は、「鎮魂行法」が中心ですが、それには祭祀も伴います。

主要な祭神は、「天之御中主太神」と「大祓戸大神」です。

「天之御中主太神」は、「禊」の神です。
「禊」とは、「霊」の「稜威」を受けるという意味であって、つまり、「霊(み)注ぎ」であり、「水注ぎ」です。

「天之御中主太神」には表裏の神を考えることができます。
分霊である「三霊神(むすひのかみ)」が裏であり、分魂である「三魂神(むすびのかみ)」が表です。

一方、「大祓戸大神」は、罪穢れの元である「禍津毘」を払う「祓」の神です。

凡児は、この神を表裏の16神の総称だと言います。
裏12神は、内から罪穢れを祓い出します。
表4神は、罪穢れを外に祓い去らせます。

表の4神は、「瀬織津比咩神」、「速開津比咩神」、「気吹戸主神」、「速佐須良比咩神」の大祓詞の祓の4神です。

裏の12神は、まず、「生産霊神」、「足産霊神」、「玉留産霊神」の宮中八神殿の3神です。
これは、創造過程を自覚するために祀ります。

次に、「神直霊神」、「大直霊神」、「伊豆能売神」の古事記に記された3神です。
霊魂を根本より自覚、興奮させるために祀ります。

「神直霊神」は、「生霊(いくむすひ)」であり、「大直霊神」は、「三霊神(みむすひのかみ)」の統一体であり、「伊豆能売神」は、その分霊です。
「直霊」が、「八十万魂」を完全に統一すると、「大直霊」になり、「神直霊」となります。

最後に、底・中・上の綿津見の三神、筒之男の三神です。
これらは、伊豆能売の活動の諸相です。


<鎮魂の6行法>

凡児の「鎮魂行法」は、以下のような6段階の行法からなります。
これは「鎮魂の境」に入るための前段階でもあります。
祭神に表裏があったように、行法にも表裏があります。

「鎮魂行法」は、「禍津毘」を排除し、「八十万魂」を完全に主宰統一するために行います。
まずは、「和魂」が「八十万魂」を統一し、やがて、「直霊」が「八十万魂」を統一します。
最終的には、「八十万魂」も含めて、すべてが「神直霊」となります。

1 祓
2 禊
3 振魂
4 雄建(おたけび)
5 雄詰(おころび)
6 息吹(伊吹伊吸)

1の「祓」は、「禍津毘」を振り払って除去するための行法です。

表の意味では、体を振動させて穢れを払い除います。
裏の意味では、「張る霊」と表現され、「直霊」に「息気」を吸い入れて、全身の「八十万魂」を充満させ、全身を膨張・緊張させます。

具体的な方法としては、御幣を振り、大祓戸神の霊威を受けます。
そして、「直霊」に、そして、「八十万魂」に送り、充満させます。

2の「禊」は、1同様の「禍津毘」を払う方法ですが、水を使う点で異なります。

「禊」の前に、体を暖める準備的行として、「鳥船行事」を行う場合もあります。
これは、船を漕ぐ動作を、声を出しながら行うものです。

「禊」は、表の意味では、神の「霊」を自分の「直霊」に注ぎます。
裏の意味では、「祓」によってもまだ残留している穢れ削ぎ(身削ぎ)ます。

具体的な方法としては、身を海川に投じて、「大本体神」の「霊」を受けます。

3の「振魂」は、後で述べる「裏伊吹」と同時に修されるので、「裏伊吹振魂」とも表現されます。

まず、目を閉じて鼻から神の「霊」である「神直霊」を全身の「八十万魂」にまで吸い込み、呼吸を止めます。
続いて、両掌を十字形に組み合わせて、渾身の力を入れて全身を振り動かします。

この時の動作には様々な方法があって、これは初歩的なものです。

4の「雄建(おたけび)」は、姿勢を正して常立神となる行です。

具体的には、「生霊(いくたま)、足霊(たるたま)、玉留霊(ただとどまるたま)、何某常立命」と唱えつつ、天之沼矛(右手の人差し指と中指を伸ばした形)を振り降ろし、直立不動の姿勢を構えます。

5の「雄詰(おころび)」は、「イーエッ」、「エーイッ」の大声(言霊)を発する行ですが、これは、須佐之男命の昇天に備えて天照大神が行った動作とされます。

まず、「イーエッ」とともに、天之沼矛を頭上から左腰に振り下ろして、禍津毘を威伏懲罰します。
続いて、「エーイッ」とともに、天之沼矛を元の位置に上げ戻して、禍津毘を悔悟復活させます。
これを三度行います。

この言霊の発話によって、「八十万魂」の分霊(分派霊:われみ)・分魂(分派魂:われたま)が飛び出します。

裏の方法では、まず、小さい声で「ア・イ・イ・イ」と上に向かって発音し、鼻に息を吸い込みます。
続いて、「ウ・ウ・ウーウッ」と順次発音し、発音ごとに全身に力を込めて、口から徐々に息気を吹き出します。
これを3回繰り返します。

6の「息吹(伊吹伊吸)」は、「息気」を吸収する呼吸法です。

鼻から空気を通して大本体神の「稜威」を吸い込み、全身に充満させ、数分留めてから、口からゆっくり息を吐き出します。
この時、「ウ・ウ・ウ・ウッ」と言いながら全身に力を入れて振動させます。
これを何度も繰り返します。

これは、「魂」全体の「大呼吸」と、「八十万魂」の「少呼吸」を、大から小へ、小から大へ、大だけ、小だけ、それぞれで、両方一体で、の6つの方法で行います。

また、裏の方法は、3の「振魂」のところで「裏伊吹振魂」として記載したものです。

以上の「振魂」から「伊吹」までは、毎朝夕行うべきものとされます。


<鎮魂鳥居の伝>

以上の6つの行法を続けているうちに、徐々に霊魂が浄化、統一されていきます。
この変化は、「鎮魂の境」に入ると表現され、この過程を8段階で捉えます。

そして、この8段階は、順に7つの鳥居をくぐり、本殿に至る過程として表現します。
そのため、これを「鎮魂鳥居の伝」とも呼びます。

この8段階は、長期間の修行の中で、順に達成されるものです。


・第一の鳥居

閉眼で黙想していると、様々な光が現れては消えた後、薄い光明の状態に落ち着きます。
これは「平等一体の境」、「一色一光の鏡」であり、「八十万魂」の不安定な震動が落ち着いた状態です。

この平等の境地は、「荒身魂」の段階のものでしょう。

・第二の鳥居

小豆大の緑の光球が現れて、やがてそれが眼の前で安定するようになります。
次に、そこに鏡に映るように、「奇魂」としての自分の面貌が顕れます。

・第三の鳥居

自分の面貌は、「奇魂」としての自分から、「和魂」としての自分に変わります。
そして、光球は濃い緑になります。

この時、幽界の門に到達し、天狗や仙人と交流することもできるようになります。

・第四の鳥居

濃い緑の光球が、だんだん大きくなって手毬くらいになり、霧のようにぼやけます。
そして、光球には、ランダムに様々な像が映るようになります。

この段階は、「和魂」の記憶が秩序化する過程です。

・第五の鳥居

「和魂」の記憶が秩序化されると、無意識を自在に制御できるようになります。
そして、「和魂」が明鏡のようになり、あらゆるものを写すようになります。
そのため、過去・現在・未来の何でも予知し、透視することができるようになります。

・第六の鳥居

緑の光球が一面に広がり、「奇魂」が光線のようになって、目的地に行き、その光景を持ち帰れるようになります。
そして、「和魂」がそれを客観的に判断できるようになります。

・第七の鳥居

「拝神の鏡」とも表現され、神の御姿を拝し、御声を聞くことができるようになります。

・本殿

全身の「直霊」が目覚めて、天之御中主に達して一体化します。


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