インドと中国の霊的身体論の比較 [通論]

 

MORFO HUB」で書いた記事ですが、当サイトのテーマに合っているので転載します。

 

インドのタントラ(ヒンドゥー・タントラ、後期密教)には、霊的身体論と、それに基づく瞑想法(ハタ・ヨガ、究竟次第)があります。

プラーナ、ナーディー、チャクラなどを含む霊的身体論と、クンダリニー・ヨガやピンダグラーハなどの行法です。

一方、中国の道教の仙道にも、それに似たものがあります。

気、経絡、丹田などを含む気の身体論と、周天法などの内丹法の行法です。

両者の間の共通点と相違点を簡単にまとめて、見てみましょう。

 

プラーナ/気の階層

 

インドでも中国でも、物質より微細な次元の存在として「プラーナ(ヴァーユ)」と「気」、そして、それらの次元の身体を語ります。

タントラでは、プラーナは、3段階の階層で語られます。
下から「粗大なプラーナ」、「微細なプラーナ」、「極微の(原因的)プラーナ」です。
「微細なプラーナ」は、中央管の中を流れ、「極微なプラーナ」な不滅の心滴(胸のビンドゥ)の中にあります。

仙道では、気はまず、「後天の気」と「先天の気(元気・炁)」に分けられます。
さらに、「先天の気」は、下から「精」、「炁(気)」、「神」の3段階(3形態)に分かれます。
「先天の気」は腎臓(命門)あるいは、脾臓(黄庭)にあります。

両理論間の対応付けは、すっきりとはできません。

ですが、両理論ともに、プラーナ/気にレベルの違いがあり、それと精神のレベルが対応すると考える点は同じです。

 

プラーナ/気の場所

 

タントラでは、プラーナには主に5つあって、それが流れる場所、働きが異なります。

心臓周辺の「プラーナ」、臍周辺の「サマーナ」、肛門周辺の「アパーナ」、頭部・手足の「ウダーナ」、全身の「ヴァーナ」です。

一方、仙道では、気は主に3つに分かれます。
表面全体をめぐる「衛気」、胸部を中心に巡って呼吸や飲食に関わる「宗気」、そして、身体の経絡に沿って流れる「営気」です。

流れる場所や働き、分類数は異なりますが、気の分析に対する発想は似ています。

 

プラーナ/気の二元性と統一

 

中国では気は、その本質から「陰気」と「陽気」に分けられます。
陰陽は、基本的な二元論となります。

陰陽二気は、身体上では、腎/心臓に対応し、それが脾臓の黄庭で統一されます。
また、性別では女/男に対応し、両者が気を交換することで統一されます。

タントラの二元論は、頭部の「チャンドラ(月)」と腹部の「スーリア(太陽)」です。
密教では、「白い心滴」と「赤い心滴」と表現されます。
性別では、男/女に対応します。

両者は胸の「不滅の心滴」で統合されます。
ここは、ヒンドゥー・タントラではアートマンの場です。

この心滴(ビンドゥ)の二元論は、プラーナが流れる左右管の「イダ」、「ピンガラ」としても表現され、両者は中央管「スシュムナー」で統一されます。

 

霊的器官

 

タントラでは、プラーナの流れる流路は「ナーディー(脈管)」、一方、中国では、気の流路は「経絡」と呼ばれます。

インドではプラーナのスポットは、重要なものから「ビンドゥ」、「チャクラ」、「マルマ」などがあります。
一方、中国では、「丹田」、「精宮」、「経穴」です。

タントラでは、主要なナーディーは、中央管「スシュムナー(密教ではアヴァドゥーティー)」、左右管の「イダ(密教ではララナー)」、「ピンガラ(密教ではラサナー)」です。

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インド・カーングラ派のチャクラ、ナーディ図 1820年頃

それに対して、中国では、主要な経絡は、中央の「衝脈」と、体の前後の「任脈」、「督脈」とされます。

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監脈循行図 「医宗金鑑」より

インドと中国では、左右と前後の違いがあります。

インドでは、中央管に沿った7つほどの「チャクラ」が有名で、中国では、7つの「精宮」がほぼこれに相当します。

インドでは、チャクラ以上にプラーナの根源となる3つの「ビンドゥ(心滴)」が重視されます。
頭部の「チャンドラ(白い心滴)」、胸部の「アナハタ(不滅の心滴)」、「腹部のスーリア(赤い心滴)」です。

概念は異なりますが、中国の、頭頂、胸、腹部の3つの「丹田」とほぼ位置は一致します。

また、プラーナ/気の流れを止める3つの障害が、インドでも中国でも語られます。
タントラにおいては、「グランディ」と呼ばれ、眉間、胸、会陰にあります。
中国においては、「関」と呼ばれ、三丹田の場所である頭頂、胸、腹部にあります。

 

体内神

 

タントラや密教では、ヤントラやマンダラの諸尊を身体各部に観想して、その照応関係を築きます。

また、タントラではクンダリニーを女神シャクティ、頭頂のチャクラ部をシヴァ神と考えます。
密教では、頭頂から垂れる甘露をヘールカとし、これが各所に回って、各チャクラにいるダキニと交わると考え、腹部にいるクンダリニーをヴァジラヴァーラーとします。

このように、体内には、神々、諸尊が存在すると考えます。

仙道では、このような神々を「体内神」と表現し、やはり、存思(観想)をします。
例えば、眉間と両目に太極と陰陽に相当する神々、五臓には五臓の神々、三丹田には三天の神々、といった具体です。

 

生命力の消費と滋養

 

タントラでは、根本的な生命力は、頭部の軟口蓋の上部あたりにある「チャンドラ(月、シヴァ、ヘールカ)」にあり、そこから「アムリタ(甘露・菩提心)」として垂れ、腹部、もしくは、会陰にある「スーリア(太陽)」で消費され、やがて死に至ると考えます。

生命力は、性活動や消化で消費され、全身にも回ります。

仙道でもほぼ同様に考えますが、それは「先天の気(元気)」とされ、それがあるのは腎臓間の「命門」、もしくは脾臓の「黄庭」、女性の場合は子宮とされます。

そのため、ハタ・ヨガの「ケーチャリー・ムドラー」では、軟口蓋の上方に舌をつけアムリタを飲み、喉のヴィシュダ・チャクラに貯め、それを消費せずに全身を滋養します。

一方、仙道の「嚥津法」では、「玉液」と呼ばれる唾液は「精」が液体化したものと考え、これを飲みますが、これは「ケーチャリー・ムドラー」に類似したものでしょう。

 

逆行の行法

 

仙道では、霊的身体が胎児の状態を理想とし、瞑想(気の制御や観想)によってこの胎児の状態に戻そうとします。
呼吸で言えば、「胎息」と呼ばれる先天的な「内気」の呼吸システムのみが働く状態です。

そのためには、まず、後天的な「気」を練り、その後、先天的な「精」を目醒せ、それを「炁」に戻し、さらに「神(陽神)」に戻します。
そして、最終的には、身体を「道(無、虚)」に戻します。

このように、生命力を逆行させることを「逆修返源」と呼びます。

密教でも、父タントラ(マハーヨガ・タントラ)の究竟次第の「風のヨガ」や「聚執(塊取、ピンダグラーハ)」では、全身の「粗大なプラーナ」を中央管に戻して「微細なプラーナ」にし、さらに不滅の心滴に戻して「極微なプラーナ」にします。

ハタ・ヨガでも、呼吸を止める「クンバカ」には、「胎息」と同様の意味があるのかもしれません。
特にケーヴァラ・クンバカは、自然に通常の呼吸がなくなり、クンダリニーの覚醒につながります。

そして、「クンダリニー・ヨガ」では、基底部のクンダリニーを頭頂にまで戻します。

また、両脚を上げる姿勢で行う「ヴィパリータ・カラニ(逆行のヨガ)」では、腹部や性器にある性的エネルギーをチャンドラまで逆流させます。

 

結合の行法

 

仙道の内丹法では、男女による陰陽二気の交わりによって胎児が生まれることを再現して、自分の体内で新しく「胎」を作ります。
具体的には、腎/心臓の陰陽二気を混ぜるのですが、これを「竜虎の交わり」と呼びます。

ハタ・ヨガの「ヴィパリータ・カラニ」でも、チャンドラとスーリアのエネルギーを結合させる方法があります。

母タントラ(ヨーギニー・タントラ)の究竟次第の「チャンダリーの火」などでも、「白い心滴」を融解して甘露を垂らし、「赤い心滴」を発火させて上昇させ、両者を結合して、全身を滋養します。

 

性の行法

 

仙道の「房中術」は、性行為を通して男女の間で相手の「先天の陰/陽気」を交換します。
これを「陰陽服気」、「男女煉鼎」などと表現します。

男性は女性から陰気をもらうと思いがちですが、「先天の陰気」は男性の中でも成長後に発生します。

そうではなく、男性の中で減少した「先天の陽気」を、女性に発生した「先天の陽気」で補うのです。

さらに続いて行う「環精補脳」では、男女煉鼎で練られた精を頭頂(黄宮)にまで上げます。
これは、「後天の精」を「先天の精」に戻し、上丹田の「先天の神」と合体させるものです。
そして、その後、息を吐きながら腹部に落とします。

ハタ・ヨガでも、性ヨガ(ヴァジローリー・ムドラー)では、男性の精液の中にある「ビンドゥ」のエネルギーと女性の経血の中にある「ラジャス」のエネルギーを結合して、身体を浄化・滋養します。

母タントラ(ヨーギニー・タントラ)の究竟次第でも、性ヨガは重視されます。

 

作られる霊的身体

 

仙道の内丹法では、「陽神」と呼ばれる陽気でできた霊的身体を作ります。これには自分の意識も入っていて、体外に出して周りを歩かせることも行います。

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丹田中の陽神(右)とそれを頭から出す出神(左)「太乙金華宗旨」より

一方、父タントラ(マハーヨガ・タントラ)の究竟次第では、もともとある自分の霊的身体(意成身)とは別に、微細なプラーナと魂できた「幻身」を、不滅の心滴から作り出します。

両者は似ていますが、「陽神」の方が密度が高くてより物質に近い存在のようです。

ゾクチェンの最終段階に到達した修行者は、「大いなる転移」によって自身の肉体を「虹身」に変えます。
これは、元素のエッセンスである光でできた身体で、「報身」とは違って一般の人間に働きかけることができるされます。

ゾクチェンの「虹身」は、母タントラ(ヨーギニー・タントラ)の「虹身(虹身光身)」、カーラチャクラ・タントラの「空色身」と同種のものかもしれません。
これらは、「心滴」が尽きた時に現れる「極微のプラーナ」を越えた次元の身体でしょう。

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虹の身体になるパドマサンバヴァのタンカ

「大いなる転移」では、生きながら、もしくは、死後に、肉体が小さく収縮し、人によっては最終的に消えてなくなります。

これは、現象としては、仙道の、死体が消えてなく「尸解」に似ています。

内丹法では、「陽神」を虚に戻すために煉っていると、光が放射するようになります。
さらに肉体を「陽神」の中に溶け込ませることで、肉体は消失しますが、これを「虚空粉砕」と呼びます。

「大いなる転移」も「尸解」、「虚空粉砕」も、死はなく不死の獲得とされます。

仙道では、肉体のまま虚空?に昇る「白日昇天」が伝説的に語られますが、密教にはこの種のものはないようです。

 

*今回は触れませんでしたが、インドでも中国でも、霊的身体論やその行法は、医学や錬金術(煉丹術)とも深く関係しています。


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象徴体系のシステム比較 [通論]

 

MORFO HUB」で書いた記事ですが、当サイトにテーマに合っているので転載します。

 

「象徴」は非常に抽象的で未知の何ものか、言葉にできない力のようなものを指し示し、それを意識の中に働かせることができます。
それは自然の諸力と意識・無意識の諸作用の両方を同時に指し示し、動かします。

伝統文化や神秘主義思想は、宇宙の構造を「象徴体系」という形で捉えることが多くあります。
概念による論理的な記述ではなく、神話のような神格的存在の物語でもなく、象徴間の直接的な関係性のみで示すのです。

象徴体系は、宇宙の原型でもあり、パンテオンでもあり、暦や方位を現わすためにも使われます。
それは、古代の一種の自然科学であり、占術であり、修行においてはマップであり、ハシゴであり、魔術においては操作板であり、夢や神託においては解釈学です。

例えば、ある象徴体系が、春夏秋冬の季節循環と深く関係していて、それらから発生したとしても、各象徴が表現するものは、具体的な現象を越えて抽象的なものとなります。

その象徴体系は、季節以外のものにも重ねられるようになり、抽象度が増します。
そして、その象徴体系が示す原理から、様々な領域における具体的な現象が生み出されたと考えるようになります。

 

以下、東西の伝統文化、神秘主義思想の象徴体系のシステムを大きく分類して整理します。

水平型、循環型、垂直型、方形型、放射型、準放射型、垂直二極-統合型に分類しましたが、この類型はこの文章を書く際に、私が考えたものです。

 

水平型

 

象徴間の関係に、垂直的な価値観の違いがない体系が「水平型」です。

具体例は、例えば、空間的な方向に関わる体系です。

東西南北の「四方神」の体系は、世界中に存在しますが、中国の

・東=青龍
・南=朱雀
・西=白虎
・北=玄武

が有名です。

中国では、8方向の「八門」、12方向の「十二支」など多数の方向体系があります。

 

循環型

 

水平型と同様に垂直的な価値観の違いはないのですが、循環する時間と関係している体系が「循環型」です。

代表的なのは、例えば、季節循環の体系です。
季節は「季節神」と関係します。
季節の体系は4分割が代表的ですが、地域によって4とは限りません。

1年の循環の体系には、他にも、占星学のカルデアの「12宮(12星座、12ヶ月)」や、エジプトの「36デカン」、インド・中国の「二十八宿」、中国の「二十四節気」、サビアンの「365シンボル」などの体系があります。

中国の「十干」や「十二支」のように、複数年の循環の体系もあります。
ただ、どちらにも季節循環の植物の成長の意味がありますが。

時間循環と空間方向の体系は、重ねられることもあり、その場合は「水平循環」という性質を持ちます。

例えば、東南西北の象徴は、春夏秋冬の象徴とよく重ねられます。

・東=春
・南=夏
・西=秋
・北=冬

中国の「五行」も、季節や方向と重ねられて循環型の体系にもなっています。
また、「十干」や「十二支」も、方向に対応させられました。

「七曜」の体系は週を表現するものとしては循環的なものですが、本来は、惑星の体系として、垂直型の性質も持っています。

 

中国の占術は、主に、天や地、人を表現する循環型体系の組み合わせで行われます。

「断易(五行易)」は八卦、十二支、五行、「六壬神課」は十干、十二支、二十四節季、十二天将、十二月将、「奇門遁甲」は十干、八門、九星、八神、九宮、といった具合です。

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六壬栻盤(出典:WIKPEDIA

 

垂直型

 

象徴間の関係が、価値観の違いとなっているのが「垂直型」です。

多くの場合、価値観の高低は、空間的な上下や、光の明暗などと結びついています。

最も古く、かつ、世界的に普遍的な体系の一つは、天上、地上、地下という「3世界」の体系でしょう。

また、バビロニア発の「7惑星(天)」の天球の体系も垂直型です。

7天の体系は、「10天」の体系に拡張されがちです。
「10天」の場合、「7惑星天」の上につけ足されるのは、宇宙が生まれる元になる宇宙卵や、宇宙の外郭や、北極星、沈まない星座、恒星天などです。

また、元素も垂直的な体系となりました。
「5元素」の場合、アイテール(霊、虚空)・火・空気・水・土という順になります。

「惑星天」と「元素」の体系を結びつける場合は、「惑星天」を「元素」の上に置き、「元素」は月下世界の中の階層とされます。

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ルネサンス時代のロバート・フラッドによる宇宙の階層(出典:WIKIPEDIA)

 

「10天」の体系が生まれたのは、自然数の「10」の体系と重ねられたからでしょう。

ピタゴラス派が1-から10までの数の象徴的意味を基にした数秘術を行っていたという伝説があります。
ですが、少なくとも、ピタゴラスや初期のピタゴラス派にはそれはなかったハズです。

数の体系としては、12進数や60進数を生み出したシュメールに、非常に古く、かつ独自的な、数=神々の体系があります。
これは60=天神アンを最高として、50=嵐神エンリル、40=水神エンキ…と下り、4=牡牛神ハル、3=その妻神、といった垂直体系です。

その後、バビロニアでは、天球を含む宇宙像とパンテオンの対応づけもさなれました。

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身体上のスポットの体系である「チャクラ」の体系も垂直型です。
チャクラの数は様々だったのですが、近代になって欧米で7チャクラ説が有名になったのは、バビロニア系の聖数である7の体系に合わせたためです。

 

また、文字(アルファベット)も垂直型の性質を持つ象徴体系の場合があります。
ユダヤのカバラの22文字の体系が有名ですが、多くの民族に文字の象徴体系があります。

多くの場合、文字は宇宙創造と結びつけられ、すべての文字が平等ではなく、最初の文字や、いくつかの特権的な文字が考えられました。
また、すべての文字に順番がある場合もあります。

文字が数字を表すこともあるので、その場合は数の体系とも結び付けられます。

 

方形型

 

垂直と水平を掛け合わせた形の体系が「方形型」です。

例えば、日本語の文字や音韻は、言霊学として、50音、あるいは75音がこのように体系化されています。
子音には水平的性質、母音には垂直的性質が付与されます。

ですから、全体としては、水平*垂直(10*5、あるいは、15*5)の積算による方形型の体系です。

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15*5の言霊体系(大石凝真素美全集より)

 

放射型

 

垂直性と水平性が組み合わされていて、下方に至るほど分岐してべき算で多数化する体系が「放射型」です。

もっとも代表的なのは、「易経」でしょう。

「易経」の体系は、「陰/陽」の爻をいくつも組み合わされることで、放射的に多数化していきます。
ただ、「周易」の段階での爻の意味は「柔/剛」でした。

3つ組み合わせて(三爻)できたものが八卦で、八卦を2つ組み合わせたものが六十四卦です。

つまり、64の体系は(2*2*2)*(2*2*2)のべき乗放射で表現され、1(太極)-2(両儀)-4(四象)-8(八卦)-64(六十四卦)の垂直体系となります。

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ですが、八卦だけを見ると、水平型の体系となります。

易経の体系は、方向や五行など多くの体系とも重ねられました。

 

「エノキアン・タブレット(エノク魔術)」の体系も放射形です。

全体としては、5元素を4重にかけ合わせたシステムです。

ただし、5元素の内、アイテールだけが、他の四大元素より上位の別扱いになっています。

つまり、(1+4)*(1+4)*(1+4)*(1+4)のべき乗放射体系です。

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エノキアン・タブレット(goldendawnshop.comより)

そして、この中に、ケルビム、セフィロート、12宮、36デカン、22大アルカナ、7惑星、地占記号などの象徴体系が含有されています。

 

準放射型

 

密教のマンダラやヒンドゥー・タントラのヤントラの体系は、「準放射型」と言えます。
下降するほど数が増えますが、放射形のようにべき乗では増えません。
つまり、放射型と方形型の中間のような体系です。

例えば、1-4-16-64…なら放射形で、1-4-4-4…なら方形型ですが、1-4-8-16-16…といった形です。

後期密教の場合、マンダラのもととなる尊格の垂直階層は、

1 本初仏-本初仏母(守護尊-守護女尊)
2 仏-仏母
3 菩薩-女菩薩、忿怒尊-忿怒女尊、女尊、祖師
4 天部(護法尊)
5 葉女神

などとなります。

ちなみに、「時輪経」の場合、1は智恵-大楽、2は五蘊-四大、3は五根-五境、行動器官-行動、プラーナ、4は12ヶ月、5は28日と重ねられます。

また、仏の部族の水平体系は、最初に体系化された五部の体系を持つ「金剛頂経」の場合、

  部  位置 色  仏名     智恵  手印   象徴
・如来部:中央:白:大日如来  :法界性智:智拳印 :仏塔
・金剛部:東 :青:阿閦如来  :大円鏡智:触地印 :金剛杵
・宝部 :南 :黄:宝生如来  :平等性智:与願印 :宝珠
・蓮華部:西 :赤:阿弥陀如来 :妙観察智:禅定印 :蓮華
・羯磨部:北 :緑:不空成就如来:成所作智:施無畏印:羯磨金剛

となります。
ちなみに、「時輪経」ではこれが六部の体系になります。

さて、マンダラは、「金剛頂経」の場合は、

・5(1+4)仏
・16菩薩+4波羅蜜菩薩
・8(4+4)供養菩薩
・4摂菩薩

というシステムです。

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金剛界曼荼羅37尊「曼荼羅イコノロジー」田中公明より

5、あるいは、4のべき乗的部分が1度ありますが、それ以下は増加しません。

その後の経典も、システムは類似しています。

ですが、後期のマンダラの特徴は、尊格が父母仏、つまり、合体孫として、対で表現されるようになることです。

ヒンドゥー・タントラのシュリー・ヤントラの場合も同種のシステムです。

シュリー・クラ派の場合、下記のような尊格が中心から周辺に向かって配置されます。

9 最高女神トリプラスンダリー
8 3聖地女神
7 8守護女神
6 10女神
5 10女神
4 14女神
3 8女神
2 16女神
1 8母神+10シディ女神

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シュリーヤントラ(「インド密教」(春秋社)より)

 

ちなみに、マンダヤやヤントラは地面に描かれて儀礼が行われますが、その原初的な形態は、インディアンの砂絵に見られるような四方の精霊の体系でしょう。

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インディアンの砂絵の儀礼を紹介した本の表紙

 

垂直二極-統合型

 

カバラのセフィロートの体系は独特です。
ここでは便宜的に「垂直二極-統合型」と名付けます。

セフィロートは、もともと1-10の数字の垂直型体系でしたが、それに6方向+4元素の性質が重ねられて立体的体系にもなりました。

その後中世に、「生命の樹」として知られる体系になりました。
これは、垂直型でありつつも、左右の二極(峻厳/慈悲)と中央の均衡・統合という性質を持つ樹状の体系です。

上から見ると稲妻型とも、下から見ると蛇行型とも表現できます。

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「ゾーハル」の写本の生命の樹

10のセフィロートは、以下のような象徴的意味を持ちます。

1 ケテル(王冠)
2 ホクマー(知恵)
3 ビナー(知性)
( ダート(理性))
4 ヘセド(慈愛・恩寵)、ケデュラー(偉大)
5 ゲブラー(権力)、ディン(判断・厳格)
6 ティフェレト(美)、ラハミーム(慈悲)
7 ネツァハ(持続・永遠・勝利・忍耐)
8 ホド(威厳・栄光)
9 イエソド(基礎)
10 マルクト(王国)、シェキナー(光輝・住居・臨在)

セフィロートの体系には、10天、10身体部位や、4世界、3霊魂などが配当されました。

また、「生命の樹」の体系には、セフィロート間をつなぐ22の径には、22のユダヤ文字が重ねられ、さらにこれに7惑星+12宮+3元素が重ねられるなどしました。


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神秘主義哲学の階層論 [通論]


神秘主義思想にとって、存在や意識の「階層」は、基本となるテーマです。
古今東西の神秘主義哲学の階層に関する思想を大雑把に紹介しつつ、大胆に解釈します。


<形相的な階層論>

ギリシャ哲学を代表するプラトン、アリストテレスらの階層論の特徴は、「形相性(形・本質)」を基準にすることです。
それは、現代人から見れば、人間に至る進化論的な階層とも一致し、また、人間の成長(個体発生)の階層とも一致します。

プラトンがピタゴラス主義から継承した奥義思想である不文の教説によれば、根源的な2原理は、「一/不定の二」、つまり、「限定/無限」です。
この「無限」とは「形相」を持たないものであり、「限定」とは「形相」を作るものです。

プラトンにあっては、階層の最上位の「限定」する存在は「善そのもの」と呼ばれ、最下位の「無限」な存在は神話的に「コーラ(場所、受容器)」と表現されました。

一方、アリストテレスは、階層の最上位の存在は形相が完全に実現した「純粋形相」、最下位は形相を持たない「第一質料」としました。

このように、彼らの階層論は、「形相性」を基準にし、下位はそれを欠いた「質料(素材・無本質)」と考えます。


プラトンは世界を、原型的な、不変の世界である「イデア界」と、それを受け入れて生成する世界である「現象界(感覚界)」、そして、両世界にまたがってこの2つを媒介する「魂」の3つに分けました。

プラトンの「イデア界/魂/現象界」の3段階の階層論は、後世、神秘主義思想の基本である「霊/魂/体」の3分説となります。

プラトンは、さらに、「魂」を、上下の世界との関係から、「知性的/気概的/情念的」という3段階の部分に分けました。

一方、アリストテレスでは、この3段階は、自然学的に「天体・神々/人間/動物」の3階層に対応します。
ただ、彼はその下にも、「植物」、「無生物」を置いて5階層で考えましたが。

先に書いたように、これらの階層論は、進化や個人の成長(個体発生)の方向を、階層の上位と考えることができるものです。
ただ、進化論では動物と植物は分離したもので、植物から動物に進化したわけではありませんが。

また、古代的な「動物」の概念は、感情やイメージなどの内面世界を持つ生物です。


彼らの階層論は、上位の存在を「原型的」、「原因的」、「創造的」なものと考えます。
これは、地上世界は霊的世界を写した世界であると考える、歴史以前の部族文化の世界観を、ある程度、継承しています。

ですが、彼らの「形相」的な階層論の特徴は、最上位の存在が下位の形(本質)の根拠となり、それを秩序づけるものである点です。
そして、実践・修道は、上位存在を認識することで、正しい秩序(形相)を得ることです。

これらは必ずしも普遍的な思想ではなく、彼らに特徴的な部分です。


<上下対称の階層論>

プラトン、アリストテレスの階層論では、上位と下位は形相性の有・無で正反対の性質を持ちます。
ですが、究極的な神秘体験は、実体験からすれば「形」を感じないことが一般的です。

そのような実体験を持っていた新プラトン主義のプロティノスは、プラトン哲学を継承しながらも、最上位の存在(一者)を「無相(無形相)」であるとしました。
ですが、「一者」が下位の秩序の根拠となり、固定する性質を持つ点は変わりません。


プラトン以降のアカデメイアでは、様々な階層論がありましたが、クセノクラテスは「イデア」を「ヌース(霊的知性)」として捉えていました。
それを受けつつ、プロティノスは、「一者/ヌース/魂」という階層を考え、定着させました。

プロティノスは、「一者」から生み出された「ヌース」は、最初は「形相」を欠いた暗い素材的存在ですが、「形相」を超えた「一者」を振り返って認識することで、光として「形相」を受け取り、形付けられると考えました。

プロティノスの最上位の「一者」が「無相」であるなら、その点では、最下位の純粋な「質料」と同じです。
つまり、この上下の極が同じで、この点で階層が対称となっています。

ですが、最上位が「形相」の創造者、根拠であるのに対して、最下位は「形相」を受容者である点で、両者は異なります。


新プラトン主義のイアンブリコスは、「ヌース」を、「存在/生命/知性」という3段階に階層化しました。

これは、プロティノスが考えた、「認識対象/認識作用/認識主体(内容)」を捉えなおしたものです。
ですが、ここには、階層の上下対称性の考え方が潜在しています。

新プラトン主義の大成者であるプロクロスは、それを理論化して、階層の上下対称性を、極だけではなく全体に広げました。

プロクロスは、魂(限定すれば、人間の魂、中でもプラトン言う魂の気概的部分)を階層の中心にします。

そして、アリストテレスの「動物/植物/無生物」の本質を、「知性/生命/存在」として捉えます。
これは、イアンブリコスの「ヌース」の3階層の本質を、下位に折り返した形になっています。

プロクロスの上下対象の階層論は、近代の神秘主義者であるシュタイナーの階層論にも見られます。

シュタイナーにおいては、人間の本質の階層は、「悟性魂(自我)」を中心にします。
そして、上位の「霊人/生命霊/霊我(意識魂)」と、下位の「感覚魂(アストラル体)/エーテル体(生命体)/肉体(物質体)」が対称的な本質を持っています。

シュタイナーにおける実践・修道は、下位の上位への「折返し」です。
下位の存在を意識化することで、順次、上位の存在が生まれます。

グルジェフやケン・ウィルバーにも、これに似た上下の対称性の考え方があります。


<創造的想像力の中間的世界>

プラトン、アリストテレスの階層論は、概念的(理念的)な知性を重視するものであるため、イメージや想像力、象徴をあまり評価しません。
ですが、多くの神秘主義思想、特に魔術的な思想においては象徴的なイメージが重視されますし、啓示的な宗教でも、それらはヴィジョン(幻視)として与えられるものなので重視します。

そのため、神秘プラトン主義でも、魔術に傾倒したポリピュリオスは、予言に関わる神的な想像力を重視しました。
また、啓示宗教であるイスラム教の神秘主義哲学者も、それを重要しました。

ペルシャ人のスフラワルディーは、イデア界に相当する恒星天と、動・植物魂に当たる惑星天の間に、神的・象徴的イメージの世界である「中間世界」を置きます。

つまり、この象徴的なイメージ、創造的想像力の「中間世界」は、通常のイメージや想像力とは別のものなのです。
そして、この位置は、「霊的知性(直観的知性)」の世界の下ではありますが、日常的な概念的思考やイメージの世界の上なのです。

井筒俊彦の意識の階層論でも、「中間世界」は「根源的イメージ」の段階に当たり、これは「言語アラヤ識」と「日常的意識(分節世界)」の間に位置します。


象徴的なイメージ、創造的想像力の段階を、上下対象の階層論に当てはめると、概念的意識の段階を中心にして、その下位のイメージの段階を、上に折り返した場所として考えることができます。
これにぴったりと当てはまるのは、シュタイナーの「アストラル体」を折り返した「生命霊」でしょう。

シュタイナーの階層論では、この段階は「霊視的」認識とも表現され、さらにその上は「霊聴的」、その上は「合一的」認識とされます。

象徴やイメージ(心像)は視覚に限定されませんが、「中間世界」に対応するのは「霊視的」段階でしょう。

視覚的なものより聴覚的なものを上にするのは、密教も同じです。
密教では、聴覚的なマントラも視覚的な尊格の姿形(イメージ)も象徴性を持ちますが、マントラをより根源的なものとします。
これは、マントラの方が視覚的イメージより形相性を脱しているからでしょう。

例えば、密教の代表的な行法の「五現等覚」では、「虚空」から「光源(月輪)」→「放射光(日輪)」→「象徴的な音(種字)」→「象徴的な意味(三摩耶)」→「象徴的な視覚イメージ(仏身)」の順に観想して尊格を現します。
つまり、形象的視覚よりも象徴的意味の直観、さらに聴覚、光の感覚をより根源的と考えます。

もちろん、霊的感覚は、通常の日常的対象の感覚とは違うものなので、ここに書いたのは共感覚的な表現です。


<複数系列の階層論>

階層に複数の系列を立てる階層論があります。

プロクロスは、各階層に「第一者(へー・モナス)」を立て、それが「限定/無限」を生み、その混合で「多者」が生まれると考えました。
これは、各階層に次元の異なる「質料」を認めるもので、各階層に「形相」と「質料」の2系列がある階層論であると考えることができます。

これは、神話的には、各階層に神のカップルを立て、その女神が各階層の素材原理に当たると考えることに対応します。


ペルシャ人のイブン・スィーナー(アヴィセンナ)は、天上に「認識/想像力/素材」の3系列を考えました。
「認識」は「形相」や「霊的知性(知性体)」に、「素材」は「質料」に対応するものであり、「想像力」は彼が独自に新しく天使の系列と解釈して付け加えたものです。
彼は、これによって宗教(天使論)と哲学(知性論)を統合しました。

スフラワルディーやイブン・アラビーが、階層における「中間世界」として考えたものを、イブン・スィーナーは系列として考えて、「知性」と対等なものにしたのです。

この「想像力」の系列の下位の段階は、通常のイメージや想像力、上位の段階は象徴的イメージ(創造的想像力)であると考えることができます。

ちなみに、スフラワルディーは、天上に「認識」と「素材」の2系列を考えました。
それぞれは、別の系列の天使でもあって、後者は「母達の大天使」と呼ばれます。


また、近代の神智学(アディーヤール派神智学協会)は、3つの系列を考えました。
「3重のロゴス」と呼ばれる、「霊我(モナド、意識、神性)/形相(モナド・エッセンス、生命)/質料(力)」の3系列です。
これは、ズルワン=ミトラ神智学系の「アフラ・マズダ/ミトラ/アナーヒター」に相当し、それを継承するものでしょう。


<強度的な階層論>

上下対象の階層論は、「形相性」の点では対称的ですが、「創造性」、「原因性」という点では、これらは上位の特徴であり、上下非対称的です。

これに対して、ストア派による階層論は、「形相性」とは全く異なる、内的な「緊張」を基準とした階層論です。
「緊張」は「力」、「強度」とも表現できます。

ストア派は、各階層の本質である、鉱物の構造、植物の成長、動物の霊魂、人間の知性などを、「形相性」ではなく「緊張」の度合いの違いであると考えました。

「強度」のある上位存在は、「形相」を生み出しますが、ストア派はこれを「種子的ロゴス」と表現しました。

これはプラトンの「イデア」のように超越的な存在ではなく、内在的な存在です。
そして、「ロゴス」という原型は、静的な枠ではなく、多様性を発現させるものです。

密教などのタントリズムや一部のヴェーダーンタ哲学といった、非実体主義、幻影主義的なインド系の思想にも同様の考え方があります。
また、シュタイナーの思想もこれに似ています。


「強度」の階層論は、近現代の哲学では、ベルグソンやドゥルーズに見られます。
ドゥルーズは、ストア派を評価し、プラトンの思想を強度的階層論から解釈しました。
この「強度」の階層を、ベルグソンは「深み」、ドゥルーズは「奥行き」と表現しました。


<微細さの階層論>

「霊/魂/体」の3分説は、インドでは、ヒンドゥー教神智学では、「原因身(コーザル・シャリーラ)/微細身(リンガ・シャリーラ)/粗大身(ストゥーラ・シャリーラ)」の3シャリーラ説が対応します。

仏教では、「法身(ダルマカーヤ)/報身(サンボガカーヤ)/応身(ニルマナカーヤ)」の三身説です。
この3段階は、「極微/微細/粗大」とも表現されます。

このようにインドでは、「微細さ」を基準とした階層論が語られます。

ヒンドゥー教や仏教の哲学の階層論も、上位存在が「原型的」、「原因的」、「創造的」な点ではギリシャ哲学の階層論と同じです。
「微細さ」は、「原型的」、「原因的」、「創造的」なのです。
数学的に言えば、「微分的」です。

ですが、仏教、ヴェーダーンタ哲学、サーンキヤ哲学などでは、最上位の存在は、「形相」を生みはしても、根拠とならず、固定しない性質を持つ傾向があります。
つまり、「形相」を幻影的、非実体的、非本質的に捉える点では、ギリシャ的な形相の階層論と異なります。


<無根拠の階層論と解放論>

上にも少し書いたように、仏教やヴェーダーンタやサーンキヤのようなインド哲学は、最上位の存在(空、ブラフマン、プルシャ)を、生み出された「形相」の「根拠」としませんし、生み出すことに対しても否定的です。

階層の最上位存在を、「無」のような否定的表現にするかどうかでは、重要な問題ではありません。
生み出される「形相」に対して根拠となるか、無根拠なものかが重要です。

キリスト教の否定神学は、神を「無」として表現しますが、被造物を秩序づけるロゴスの根拠となります。
それに対して、神を「無底」と表現したベーメやシェリングの場合には、「無根拠」に近い意味を表現します。


密教はヒンドゥー・タントリズムの場合は、「無根拠」であることを「自由」として捉え、創造を積極的に評価します。

そして、「涅槃性(非煩悩性)」の創造と、「煩悩性」の創造を区別します。
実践・修道としては、「形相性」に対するこだわりを捨てることで、活性化した前者の創造を目指します。
これは、階層論ではなく解放論、救済論です。


<各解放論の関係の解釈>

インドのタントリズムの解放論における「涅槃性」の創造と「煩悩性」の創造の差異は、「強度」を日常的な次元にまでもたらした動的な創造であるかないかの違いです。
つまり、タントリズムでは、「強度」は解放論に関わります。

ですから、タントリズム的な解放の度合いは、単純には、ドゥルーズ的な強度的階層の「奥行き」に関わるものとして解釈することもできるのではないでしょうか。


「強度」の「奥行き」は、上下対象の階層論では、下位の上位への「折返し」に関わると考えられます。
「奥行き」の距離は、階層の高所に見つけることができるでしょう。

下位存在を意識化して「折り返す」ことは、「強度化(動態化)」と関わり、それは、タントリズム的な「解放」にもつながるでしょう。

(2020-12-18)

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悪と堕落の捉え方 [通論]

古今東西の神秘主義思想、秘教が、悪と堕落についてどのように捉えてきたかについて、列記するような形で簡単にまとめます。


<部族文化の悪と堕落>

世界の多くの部族文化の神話には、「失楽園(堕落)」の神話があります。
それらの中には、人間が「言葉」や「社会・文化秩序」を獲得することよって、自然な状態が失われたことを表現しているものが多くあります。

神話では、これと同時に、「死」や「仕事」が発生したとされることもあります。

神話が語るその原因は多様です。

例えば、女が杵や機織りの仕事をしていると、天を突いてしまったので天が上昇して遠ざかった、という神話がアフリカをはじめ世界の諸地方に多く存在します。
これは、「文化」的作業(繰り返しの要素のある)が原因による「失楽園」を表現しているのでしょう。

他にも、神からのメッセージの伝達ミス、聞き間違え、死ぬという思い違い、などの原因で死が発生したという神話も多くみられます。
これらはどれも「言語」や「観念」が関係しています。

「旧約聖書」の「失楽園」の神話は、人間が善悪を知る「智恵」の実を食べたことが原因です。
これも、「言語」、「文化秩序」による「堕落」と同様です。


部族文化では、この「文化秩序」を作っている規則(タブー)を犯すことが「悪」です。
タブーを守ることは人間社会だけの問題ではなくて、自然の秩序・豊穣を保証するのです。

ですから、部族文化の神話における、この意味での「失楽園」と「悪」は、「文化秩序」の獲得という同じ事態に対する反対の価値観(両義性)を表現しています。


<ヘレニズム的な無知として堕落>

エジプトのオシリス神話では、オシリスはセトに騙されて、「等身大の棺」に入ってナイルに流され、体を分割されて死にます。
「等身大の棺」は、「言語」や「イメージ」、あるいは、それらによって構成される「自我像」などの「表象」の象徴でしょう。
つまり、真実とその「表象」を取り違えたことが死の原因なのです。

ヘレニズム時代にエジプトのアレキサンドリアで書かれたヘルメス文書「ポイマンドーレス」にも、似たような神話的思想が継承されています。
神的な原人間である「アントロポス」が、地上の水面に写った自分の像に囚われて地上に「堕落」するのです。
「鏡像」も、「等身大の棺」と同様に「表象」(イメージや言語、自我像)の象徴です。

これらの神話は、旧約や部族文化の「言葉」や「智恵」が「堕落」の原因であるという思想を継承しています。
ですが、これは、「表象」と真実を捉え違うことであり、「智恵」ではなく「無知」であることを表現しています。

ですが、「ポイマンドーレス」は、アントロポス自身も神ヌースの「似像」であると考えます。
そして、アントロポスには「ロゴス」があるのに対して、地上の水面に写った「似像」にはロゴスが存在しないと語ります。
つまり、真実性のある像とない像を区別しています。

ヘルメス主義と同時期のアレキサンドリアでも盛んだったグノーシス主義は、より明確に、「鏡像」と「知(グノーシス)」を欠いた「無知」による「堕落」に関して語ります。

まず、「ヨハネのアポクリュフォン」は、至高神が自分を「取り巻く光の水」の中に自身の「似像」を見て認識したことで、最初の流出による「バルベーロー」を創造します。
つまり、最初の像が、神の自己認識によって生まれたことを表現しています。

また、プトレマイオス派グノーシス主義では、霊的智恵の女性原理である「ソフィア」が、認識できない「深淵」である「原父」を認識しようとして堕落の危機を生みました。
「原父」はロゴスで認識できない存在であるのですが、その認識できないという認識の欠如(無知)によって、像を形成できず、自分自身を形成できなかったのです。
「ソフィア」は、像として認識できない根源的存在を像として認識しようとした「無知」によって堕落したのでしょう。

つまり、ヘルメス主義やグノーシス主義は、「ロゴスを超えた像なき存在」が「ロゴスのある像」を生み出す自己合一=自己対象的な認識段階と、自他分離した自他を対象とした認識で生み出される「ロゴスのない像」の違いを述べているのでしょう。


また、グノーシス主義は、「堕落」が原因になって「悪」が生まれ、宇宙はこの「悪」なる創造主によって作られたと語られます。

つまり、部族文化とは違って、「堕落」と「悪」は同一の原理で捉えられます。
そのため、グノーシス主義は現世否定の思想になってしまいます。


<インド的な無知の堕落>

ヴェーダーンタやサーンキヤといったインド哲学や仏教などでも、「無知」が「堕落(輪廻)」の原因とされます。

やはり、「言語」、「イメージ」、「自我像」を真実と取り違える「無知」であり、それによって執着、渇愛といった煩悩が生まれます。
こいった真実でない「表象」は、「幻影」と表現されます。

そして、「悪」とは、このような認識やそれを説く者に対する敵対者です。

つまり、ここでも、部族文化とは違って、「堕落」と「悪」は同一の原理で捉えられます。
そして、やはり、現世否定の思想になってしまいます。

これらのインド古代期の思想では、宇宙創造や現世、言語的認識を否定的に捉えます。
宇宙創造は「幻影」であり「悪」なのです。
ですから、その宇宙の素材である「根源物質(プラクリティ)」も、宇宙創造の根本原因である「幻影(マーヤー)」も、「悪」です。


ですが、インドでは徐々に現世肯定的な思想への転換が行われ、中世に起こった超宗教・宗派的運動のタントリズムでは、それがはっきりとした形になりました。

宇宙創造は肯定的に捉えられるようになり、否定的存在だったプラクリティに対して、動的な女性原理のシャクティが肯定的存在として重視されるようになりました。

また、タントリズムでは通常の言語とは異なるマントラが重視されました。
これは、単なる静的な表象ではない、動的な象徴的言語で、上記の「ロゴスある像」と「ロゴスのない像」の違いと似ています。

このようにタントリズムでは、固着・凝縮された創造が「悪」となり、それを活性化し、自由な創造が「善」となりました。


<形相の有無、産出力としての善悪>

別項でも書いたように、プラトン、アリストテレス哲学では、「素材的なもの(質料、コーラ)」に対して、「形態的なもの(形相、イデア)」に価値を置き、存在の階層における基準としました。
これは、「質料的なもの」を「悪」としているといっても過言ではありません。

プラトン主義、新プラトン主義では、形相を「光」、質料を「闇」とも表現します。
そして、下位の存在を上位の存在の「影」、「映像」とも表現します。

プラトンにおいては、地上へと輪廻することは、魂の「堕落」であり、イデア界の記憶を忘却することで起こります。

「表象」も「形相」ですが、単純に「形相」の欠如や不正確さを「悪」とすることは、一種の合理主義です。

それに対して、上に紹介したように、グノーシス主義やタントリズムのような神秘主義的思想は少し違った考え方をします。
つまり、「形相」を生む力能、つまり、動的、直観的であることを階層の基準とし、この力能が欠如した固着した形相を悪と考える傾向があります。
上記した、「ロゴスのある像」と「ロゴスのない像」の違いも、力能の有無が本質であると考えることもできます。

プラトンの「イデア」の捉え方にも、この2つの思想への揺れがあります。

「緊張」の度合いを階層の基準とするストア派哲学も、後者の考え方に近いものでしょう。
これは、現代哲学のドゥルーズにまでつながります。


<啓示宗教の悪と堕落>

イラン系の啓示・救済宗教は、「善と悪の戦い」を強調します。
その影響は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の根本的な世界観に、さらには、ヒンドゥー教や仏教、道教などの終末論に及びます。


マズダ教(ゾロアスター教)や初期ズルワン主義では、悪神アーリマンは、原初神が生む二神の一柱です。
ミトラス教では、三世代目の三神の一柱です。
マニ教では、善と悪の原初の二神の一柱です。

悪神の本質は、明確ではありませんが、「光」に対する「闇」として表現されます。
マニ教では、これは「物質性」でもあります。

マズダ教やマニ教では、物質世界は、悪神を閉じ込めるために作られた、「善悪の戦い」の場です。
マニ教は現世否定的ですが、ミトラ教は進化論的で物質世界に積極的な意味を見出します。


イラン系宗教では、細かく見れば、「堕落(堕天)」は3段階で考えられます。
「神(天使)」の堕天(悪神化)、「神的な(天上の)原人間」の堕落(堕天)、「最初の(地上の)人間」の堕落です。

初期ズルワン主義では、悪神アフリマンは原初神ズルワンの「疑惑」により生まれます。

「原人間」の堕落の原因は、マズダ教、ミトラ教では、悪の攻撃や誘惑です。
マニ教では、「原人間」的存在であるアフラ・マズダは、作戦で自分から悪神に食べられます。

「最初の人間」の堕落は、マズダ教では、悪神が創造主であると嘘をつくこと、ミトラ教では誘惑が原因です。


旧約聖書の失楽園は、蛇の誘惑によって善悪を知る「智恵」の実を食べたことが原因です。
キリスト教は、この失楽園の本質を、明確に「罪」とし、蛇を「悪」としました。

ですが、部族文化や神秘主義の伝統では、蛇は無意識的な「智恵」をもたらす不死の存在です。
グノーシス主義のオフィス派は、旧約聖書の蛇を神の使者であり、人間に「智恵」と共に「自由意志」をもたらしたとして、崇拝します。

また、キリスト教圏でも、アダムを礼拝することを拒否して「堕天」したとされるルシファーを、「自由意志」と結び付けて評価する思想が生まれました。
「失楽園」のミルトンやヤコブ・ベーメもその立場です。
人間の「堕落」はその再現となります。

ルネサンス思想家のパラケルススでは、物質世界(地上)は、「堕落」した人間を復帰させるために作られた場です。
これは、イスラム教イスマーイール派でも、シヴァ教カシミール派でも同じです。


<カバラ、魔術の不均衡としての悪>

中世カバラの代表的思想家であるイサク・ルーリアは、創造を、「裁き」という性質を持つ「残光」と、能動的な「直線の光」の2つの原理の光の戦いと考えました。
これは、イラン系宗教の善と悪(光と闇)の戦いのカバラ的再解釈です。

そして、「裁き」の光が凝縮した第5セフィラのゲブラー(厳格)が、第4セフィラのヘセド(慈悲)を拒否します。
それによって、セフィロートである光の容器が破壊され、バラバラになって物質的なアッシャー界に落ちました。
これが「悪」、「堕落」の発生です。

つまり、「厳格」、「裁き」が「悪」と「堕落」の原因であり、これは同時に、「慈悲」との間の「不均衡」が原因なのです。

近代における西洋魔術の初の実践的な結社ゴールデン・ドーンにおいても、セフィロートの力の「不均衡」を「悪」と考えます。


<神智学、人智学>

近代神智学は、東西の過去の神秘主義哲学、秘教的宗教の統合を目指しました。

神智学協会のブラヴァツキー夫人は、諸宗教で語られる「天使の反乱」を、自身の宇宙進化論に基づいて、霊的存在(アグニシュバッタ)が「自由意志」によって人間に受肉することを拒否したことの神話的反映だと解釈しました。

また、「堕天」は、人間に「自由意志」をもたらし、進化させるために人間に受肉した霊的存在(モナド、高級自我)が、一時的に低次の要素に結びついてメンタル体(低位マナス)となってしまったことの神話的反映だとしました。

ルシファー、アザゼル、アグニシュバッタ(アスラ)、アフラ・マズダは、この受肉した霊的存在の各民族での表現であり、「堕天使(悪魔)」であるアーリマン、サタンは、それがメンタル体となったものであると。

近代神智学の特徴は、「悪」や「堕落」の解釈に、進化論に結びつけた受肉の観点を持ち込んだことです。

この神智学の宇宙進化論を再解釈すると、やはり、人間が自我や言語的な「知性」を持ったことの否定的側面であり、それは同時に「自由意志」の発生でもあると言えます。


神智学協会から独立して人智学協会のリーダーとなったルドルフ・シュタイナーも、自身の宇宙進化論に基づいて類似した解釈を行っています。

シュタイナーは「悪」に2つの原理、ルシファーとアーリマンがあると説きます。

天使の「堕天」は、ルシファーが進化から取り残される代わりに自由な存在になったことを反映しています。
そして、「原罪」は、ルシファーが人間のアストラル体の中に住み着いて、自由と感覚的欲望を与え、感覚的世界へと引きずり下したことを反映しています。

ルシファー(デーヴァ)は、人間の魂を幻想に閉じこめますが、その力によって人間は物質界から自由でいられます。
一方、アーリマン(サタン、アスラ)は、人間に物質界を志向させ唯物論を信じ込ませますが、これによって自然観察(科学)が可能となります。

シュタイナーは、この二つの力の均衡を取ることで、人間が進化できると考えます。
大雑把に言えば、非物質的な想像力と物質世界の分析力の均衡が必要ということでしょうか。
彼にとって「悪」は「不均衡」から生じる相対的な存在です。

(2021-01-19)


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創造と進化と帰還 [通論]


宇宙の「創造」と「進化」、原初の神的存在への「帰一」に関して、神秘主義思想は様々な宇宙論的時間論(宇宙の始まりから終わりまで)として語ってきました。

このプロセスは、「下降」と「上昇」、あるいは、「流出」と「帰還」、「内化」と「進化」など、様々な表現で語られてきました。

また、このプロセスは、一回限りとされる場合もあれば、周期的に繰り返す場合もあり、また、入れ子状の構造になっている場合もあります。

そして、このプロセスは、「質料(素材)」と「形相(形態)」という観点から語られる場合もあれば、「意識原理」と「物質原理」という観点からの場合、あるいは、両者を統合した3つの観点から語られる場合もあります。


<オリエント、ギリシャ、インド>

ゾロアスター教にも見られるように、イラン系宗教の救済神話の宇宙論的時間は、善神が悪神を滅ぼす「直線的」な大時間と、その中で人間が「周期的な堕落と救済」を繰り返す「周期的」な小時間を語ります。
この宇宙観は、東西、後世に大きな影響を与えました。

物質的な宇宙の「創造」は、悪神を閉じ込めるために作られましたが、この「創造」は、先に霊的世界が作られるので、「下降」のプロセスです。
物質的宇宙の「創造」は、天空、水、大地、植物、動物、人間という順で作られました。
この順は、現代の「進化論」に類した価値観と似ています。


バビロニア(カルデア)系のズルワン主義の宇宙的時間は「周期的生滅」を繰り返します。
至高神であるズルワンは、生滅する宇宙と時間を生み出す無限時間神です。

この「周期的」な時間の中にイラン的な救済神話が取り込まれています。
このバビロニアの「周期的生滅」の宇宙観も、東西、後世に大きな影響を与えました。


初期ギリシャ哲学のアナクシマンドロス、ヘラクレイトス、エンペドクレスらの宇宙的時間は、4大元素によって作られた宇宙が「周期的生滅」を繰り返します。
この周期的宇宙論は、バビロニアの影響を受けたものでしょう。

中でもエンペドクレスの宇宙論は、宇宙は悪の原理によって「堕落」=「創造」され、やがて原初の状態に「復帰」することを繰り返すもので、イランとバビロニアの宇宙論の哲学的統合が見られます。


サーンキヤ哲学、ヴェーダーンタ哲学などのインド・バラモン哲学の初期の宇宙論では、宇宙の「創造」は、「ブラフマン」、「プラクリティ(根本物質・自性)」といった原初存在の「開展」過程です。
そしてこれが、「プルシャ(純粋意識・最高我)」や「アートマン(個我)」の「輪廻(堕落)」の原因であり、その状態からの「解脱」が目指されます。
ですが、ここには、宇宙の終焉といった大時間の観念は希薄です。

一方、その後の「ヴィシュヌ・プラーナ」などのヒンドゥー教、及び、「倶舎論」などの部派仏教の宇宙的時間は、そこに、おそらくバビロニア、イランの両方の宇宙論を取り入れました。
インド的な堕落論に「周期的な堕落と救済」、宇宙の「周期的生滅」が組み合わされて、入れ子の「多重周期」になっています。
ヴィシュヌのスケールである大時間においても、ヴィシュヌの睡眠と覚醒に従って宇宙が生滅を繰り返します。


インド密教の最終形である「カーラチャクラ・タントラ」は、ズルワン=ミトラ系の終末論を仏教化した最後の形であり、そこにタントラ的な意識論、霊的身体論、修道論も統合しました。
そのカーラ・チャクラ(時輪)尊は、無限時間神ズルワンの仏教における最終形態です。


<キリスト教、イスラム教>

新プラトン主義哲学は、「一者」からの「流出」とそこへの「帰還」を宇宙論的に語ります。
ですが、これは常に起こっていることであり、大時間での話(宇宙の時間的な始りや終わり)ではありません。

キリスト教の宇宙論的時間は、基本的にはイランの救済神話の大枠を継承した「直線的」な大時間です。
「無」から創造された宇宙の中で、一回かぎりの「堕落」と「復帰」があります。
ですが、受肉した神であるイエス・キリストによる贖罪が、その「折り返し点」になる点が特徴です。

このキリスト教的な救済神話の大時間と新プラトン主義的な哲学を統合したのが、中世のケルト人のスコトス・エリウゲナです。
彼は、存在を超えたという点で「無」である神が、神自身である世界を「創造」し、キリストを「折り返し点」として、最終的に全自然が神に「帰一」する、「下降/上昇」の宇宙的時間を描きました。


イスラム教は、キリスト教を継承しながらも、イエスの神性を否定して、複数の預言者やイマームを立てます。

高度な救済神話を創造した、イスマーイール・タイイブ派では、「復帰」のプロセスを預言者ごとの「段階的な周期」とします。
1つの周期が終わるごとに、「堕落したアダム」が、1段1段と位階を上昇して「復帰」します。
宇宙創造の目的は、人類の天使であるこの堕落した「天上のアダム」の「復帰」であり、人類の「復帰」もこれに連動します。

複数の預言者の周期という点では、ゾロアスター教の影響があるかもしれませんが、順次上昇するという点では異なります。


<進化論以降の近現代>

ブラヴァツキー夫人の神智学の宇宙的時間は、「ヴィシュヌ・プラーナ」の「多重周期」とイラン系救済神話、そして、進化論の発想を組み合わせた複雑なものです。

宇宙は、原初存在(神)から生まれ、最終的にそこに「帰一」します。
大時間では「下降/上昇」から構成される「直線的時間」があり、それぞれの中に入れ子状の「多重周期」の「下降/上昇」の小時間があります。
この「下降/上昇」を、「逆進化/進化」とも表現します。

近代神智学の「進化」は、科学的な進化論を取り入れて霊的に拡張したものです。
人間が物質の体を持つ以前から、それを捨てた以降までを語ります。

ルドルフ・シュタイナーは、ブラヴァツキー夫人の神智学の宇宙論を修正しましたが、その特徴は、意識的な自我(悟性魂)を中心にした階層的な上下の対称性を、歴史的な前後の対称性にまで反映させている点です。


インドのオーロビンド・ゴーシュは、伝統的なインドの宇宙論に進化論を取り込み、絶対者の展開・下降である「内化」と、その内在化した絶対者の発現・解放・上昇としての「進化」の2局面を語りました。
そして、彼はそれを、自身の総合的なヨガ観と結びつけました。

ニュー・エイジ最大の論客であるケン・ウィルバーも、オーロビンドの「内化/進化」と同様の宇宙観を語ります。
そして、彼はそれを、ホロン的なシステム論と統合して表現し、それを東洋的修道論とトランス・パーソナルな心理学に結びつけました。


<質料、形相、意識の下降/上昇>

宇宙論的時間の「創造(下降)/復帰(上昇)」は、ギリシャ系の神秘哲学では、「質料」と「形相」の観点から語られました。

「下降(流出)」は「質料」→「形相」の順でなされ、認識が両者の間を媒介します。
ただ、新プラトン主義では、これは時間的というより、論理的な順かもしれません。

新プラトン主義では、「流出」した下位の「質料」が上位存在を振り返って見ることで「形相」を受け取り、自身をその「似像」として形つくります。

そして、魂の「帰還」も、ヌース(霊的直観)による上位の「形相」の認識を経て、最終的には「形相」を超えたもの(一者)の顕現によって果たされます。


インド・バラモンのサーンキヤ哲学は、「プルシャ(純粋意識・最高我)」と「プラクリティ(根本物質・自性)」の二元論です。
物質原理の「プラクリティ」は「質料」、「形相」の両方の原因となります。
つまり、ギリシャ哲学の「質料」、「形相」の2観点とは違って、「意識」を別に立てます。

重要なのは、一般に言う「精神(認識)」はすべて物質原理「プラクリティ」から生まれることです。
「プルシャ」の働きは、認識者ではなく、純粋な「観察」、「自覚」、「意識」です。
これは、新プラトン主義の「一者」が認識(ヌース)を超えていることと似ています。

ヴェーダーンタ哲学は、本来「ブラフマン」=「アートマン(個我)」の一元論ですが、これは「ブラフマン」の中に、世界とは別に「アートマン」という「意識原理」が立てられているとも言えます。

「意識原理」は、「創造(開展)」された物質原理に自己同一化することで「堕落(輪廻)」します。
ですが、自己自身を見出すことで「解脱」します。

実は、サーンキヤ哲学の「プルシャ」は、インド神話の「プルシャ」(解体死した原人間)を哲学化したものです。
このイラン版が「アパム・ナパート」であり、それを継承したのがミトラ教神話の「アフラマズダ」(光のかけらとして地上に堕ちた原人間)です。

つまり、イランの宗教的救済神話とインド哲学は、同じ「意識原理」の「下降」を異なる表現方法で語っています。


後のタントリズム(密教)では、「意識原理」がシヴァ(仏)、物質原理がシャクティ(仏母・明妃)となります。
タントリズムの場合、物質原理が「意識原理」に復帰・合一させ、活性化させる点で、インドの古典哲学と異なります。

また、ゾクチェンでは、「意識原理」が「心そのもの」と呼ばれ、「心」はそこから生まれたもの(精神)です。
ゾクチェンでは、精神のその活動を、自然に、自由に、「意識原理」の中に終え(自己解脱)させる点で古典哲学やタントリズムとは異なります。


近代の神智学のアディヤール派は、「下降/上昇」を「質料」、「生命(モナド・エッセンス)」、「意識(モナド)」の3つの観点から語ります。
「生命」は「形相」的な原理です。
これは、ギリシャ系哲学とインド系哲学、イラン系神話を統合した形です。

「意識原理」のモナドは、ギリシャ哲学由来の言葉ですが、その本質は、プルシャであり、アフラマズダ(堕ちた光のかけら)です。

科学的には、「意識」は神経系・思考の発達と共に自然に創発する「形相」的存在ですが、神秘主義思想(インド哲学、密教、近代神智学など)では、原初から存在する至高の存在です。
近代神智学では、この「モナド」が人間に下ったことが、「下降」から「上昇」への「折り返し点」となります。


<6側面のモデル化>

以上のような3つの観点から「下降/上昇」を語ると、次のような6つの側面で考えることになります。

1:質料の下降:創造
2:形相の下降:進化
3:意識の下降:受肉
4:意識の上昇:解脱(意識進化)
5:形相の上昇:離脱
6:質料の上昇:吸収

これは、単純に1から6に進む段階ではありません。
また、多段階の階層に由来する多重周期を考えると、全体のプロセスは複雑です。

「質料」の「下降/上昇」は、その「粗大化/微細化」とも表現できます。
「形相」の「下降/上昇」は、認識(反映)の「対象化/合一化」とも表現できます。
「意識」の「下降/上昇」は、その「個体化/脱個体化」とも表現できます。

近代神智学は主に7階層説で考えますが、単純にすると「霊・魂・体」の3階層で考えられます。
これはインドでは「原因・微細・粗大」と表現されます。

以下、近代神智学の6つの観点から見た宇宙論的時間論を、他の神秘主義思想と結びつけながら、当ブログなりに、解釈・モデル化してみましょう。


1の「質料の下降」は、原初の絶対存在から宇宙の素材が生まれる「創造」の第一の側面です。
質料は、「硬い」、「粗大」、「暗い」などと表現される方向に順次作られ、最終的に物質化します。
3階層では、「霊」の質料、「魂」の質料、「体」の質料の「創造」です。


2の「形相の下降」は、「創造」の第2の側面です。
質料の側から見れば、質料が構造化、組織化されるプロセスで、「進化」とも表現できます。

「形相の下降」は、「霊」の質料の形相化、「魂」の質料の形相化、「体」の質料の形相化と進みます。
さらに、例えば、物質世界では、「体」の質料の形相化は、「体」の形相の形相化(物質の構造化、生命の発生)、「魂」の形相の形相化(内面を持つ動物の発生・進化)、「霊」の形相の形相化(霊的認識を持つ存在への成長・進化)と進みます。

一般に、科学では、物質が創発的に自己組織化すると考えますが、神秘主義思想では、上位存在が下位存在の形相の原因になると考えます。
その「形相の下降」には、2種類のあり方があります。

一つは、上位存在が下位存在に「形相」を与えることです。
思考が直接的に物質に影響を与える(偶然性に働きかける)というような、魔術的な方法です。

もう一つは、下位存在が上位存在を認識して受け取る場合です。
この場合、下位存在が上位存在の「似像」になるとも表現されます。


3の「意識の下降」は、近代神智学の言う「モナド」の下降である「受肉」です。
これは、物質世界においては人間における「意識」の発生です。

肉体に受肉したばかりの「意識」は、意識できる範囲が少ないのですが、意識できる範囲を順に下位へ、そして、上位へと広げていきます。
「意識の下降」は「意識化の下降」に続き、そして、「意識化の上昇」が「意識の上昇」を引き起こします。
詳細は、後述します。


4の「意識の上昇」は、3の逆のプロセスで、「解脱」とも表現できます。
これは「意識化」を上位存在へ広げることから始まります。

霊的・直観的なものを「意識化」すると、その「形相(形相の力能)」を物質世界に現実化(下降)することができるようになります。
これは、最初は肉体を通して行います。

ですが、人間が霊的に進化した将来では、直接的に、魔術的に、つまり、考えることでそれを物質界に起こすことができるようになるとされます。
シュタイナーは、これを被造物から創造者になることであると言います。

そして、「意識」は、「体」から、「魂」から、「霊」から解脱していきます。

インド思想の「解脱」による輪廻の終了は、宇宙論的に解釈すれば、この「解脱」段階の進化の個的な先取りとなります。


また、3、4の「意識」の成長の中で、「自由意志」や「個的意識」が育ちます。
キリスト教圏(ミルトン、ベーメなど)や近代神智学は、堕天使ルシファーがこれをもたらしたと考えます。

「意識化」が「上昇」する過程で、この「個的意識」は、「超個的意識」に変容します。


5の「形相の上昇」は、2の「進化」の逆のプロセスで、例えば、「離脱」などと表現できます。

「体」の質料から、「魂」の質料から、「霊」の質料からの離脱と進みます。
言い換えれば、肉体、アストラル体、霊体が順に「完成」し、それを「放棄」することです。

さらに、「体」の質料からの離脱は、「霊」の形相、「魂」の形相、「体」の形相の離脱と進みます。
言い換えれば、肉体からの「霊」の離脱、「魂」の離脱、エーテル体の離脱…です。

密教で仏の三身を獲得することは、従来の仏教の単なる解脱とは違って、「体」や「魂」の段階の「完成」を意味し、宇宙論的に解釈すれば、この「形相の上昇」段階の進化の個的な先取りとなるでしょう。


6の「素材の上昇」は、1の「創造」の逆のプロセスで、例えば、「吸収」などと表現できます。

「体」の質料、「魂」の質料、「霊」の質料の「吸収」と進みます。
つまり、順に下位の質料が上位の質料に微細化、昇華、解消されます。
そして、最終的には、すべてが原初の絶対存在に「帰一」します。

ゾクチェンが「虹の身体」を作って、肉体を昇華・解消させるというのは、単なる肉体の放棄ではなく物質の消滅なので、宇宙論的に解釈すれば、この「素材の上昇」段階の進化の個的な先取りとなります。


<精神の進化>

上記したように、一般に言う「生命」や「認識」、「心」、「精神」などの活動は「形相」に属します。

神秘主義思想では、すべての物質に「精神」を見ます。
鉱物的な「精神(認識)」は暗く、広い、漠然としたものであり、植物、動物、人間と進化するにつれて、それは明るく、狭く、明瞭になります。

動物においては、形象的で、夢のようになります。
人間においては、概念的、対象的な、昼の覚醒した状態のようになります。
ですが、人間は、言語的な認識・行動であっても無意識でできます。

このように、「形相の下降」は、人間の物質界に対する「対象的」な認識に至り、そこで「形相の上昇」へと反転して、霊的・直観的な「合一」的認識に進みます。


<意識の進化>

上記したように、「意識」の働きは、純粋な「観察」、「自覚」です。
「認識」や「思考」などの「精神(心)」の働きに対する「気づき」なので、それを変容させることができます。

上記したように、3の「意識の下降」によって「体」の物質世界に生まれたばかりの「意識」は、「観察」、「意識化」できる範囲が少なく、意識できないものにコントロールされる部分が多くあります。
「意識」は、その範囲を広げることで成長します。

シュタイナーは、この「意識化」の拡張は、順に「覚醒(昼の意識)」、「夢」、「夢のない睡眠」、「昏睡状態」と進みます。
「意識化」を「魂」から「体」へと、より下位へと、下降させるのです。
つまり、下降した「意識」は、その働きである「意識化」を下降させます。

タントリズムにも類似した意識論があり、「覚醒/夢/睡眠」を「生/死後生(中有)/死の瞬間」に対応させて、それらの「意識化」を行います。
また、「昏睡」の代わりに「性的絶頂」を考えることもあります。

ちなみに、プロセス志向心理学では、「夢」や「睡眠」の働きは、「覚醒」している昼にも存在しているとしてその意識化を行いますし、「昏睡」状態に人間とのコミュニケーションも行います。

この意識化によって、下位存在を制御するだけではなく、それを創造的に、自由に活性化させることにもなります。

下位の存在の「意識化」は、下位存在を上位存在に反映することであって、一種の学習です。
これは、下位存在に内在した眠れる上位存在を、覚醒させ、上位のものに再変換することでもあります。

「意識の下降」は、「意識」の肉体や個的精神に対する同一化によって、「個体化」します。
ですが、次の「意識の上昇」では、その同一化を拡張・放棄して「脱個体化」していきます。


4の「意識の上昇」は、まず、「意識化」の拡張を、今後は上位へと行います。

上位領域を「意識化」することで、そこから創造性やインスピレーションを得ることがきるようになります。
神秘主義思想では、物質世界に降りた霊魂が、霊的世界を思い出すことと表現されます。

「意識」や「意識化」の上昇が行われる条件は、思想によって、下位存在の「意識化」であったり「制御」、「放棄」、「活性化」、「調和」、「完成」などであったり様々です。

シュタイナーは、「意識化」の「下降」と「上昇」は、同時に行われるものであると考えました。
つまり、「意識化の下降」に応じて「意識化の上昇」が可能になるのです。
これは、下位のものが上位のものに変容するように体験されます。
そのため、シュタイナーの思想では、上下の存在が対象的な性質を持っています。
これは、新プラトン主義のプロクロスと同じです。

また、密教でも同様に、「覚醒/夢/睡眠」の「意識化」が、仏の三身の獲得につながります。

ゴールデン・ドーンなどの魔術思想では、ある次元における全体的な働きを活性化させ、「調和」を達成することで、上の次元に上昇できると考えました。
タントリズム(密教)のマンダラ的行法においても、類似した考えがあります。

ゾクチェンでは、「意識」が自己自身の「自覚」を持った状態で、様々な「精神」の働きを「意識化」することで、それらの働きを浄化し、消滅させます。
これは、「精神(形相)」の働きをその都度に「完成」させることでしょう。

(2021-03-11)


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瞑想修行法と実践 [通論]

古今東西の神秘主義思想の瞑想修行法を中心にした実践について、簡単に分類して紹介します。


<瞑想法、夢見の技術の種類>

当ブログ主は、精神技術を大きく「瞑想」と「夢見」に分けて考えています。

簡単に定義すれば、「瞑想」は、心身を意識的にコントロールする精神技術です。

それに対して、「夢見」は、心身のイメージ的な働きを、自然になりゆかせる精神技術です。
「夢見」は夜に見る夢の見方のことだけではありません。


姉妹サイト「世界の瞑想法」では、瞑想法を大きく5つに分けて紹介しています。

「集中する瞑想」、「観察する瞑想」、「イメージする瞑想(観想)」、「気をコントロールする瞑想」、「あるがままの瞑想」です。

「集中する瞑想」は、何らかの対象に集中する瞑想で、仏教の「止(サマタ)」、「ヨガ・スートラ」の第6支以降の「ダラーナ/ディヤーナ/サマディ」などがこれに当たります。

「観察する瞑想」は、対象を正しく観察する瞑想で、仏教の「観(ヴィパッサナー)」、「ジュニャーナ・ヨガ」などがこれに当たります。
ギリシャ哲学のイデアを対象とする「観照(テオリア)」、カバラの数や文字を対象とする瞑想もこれに入れることができます。

「イメージする瞑想」は、イメージをありありと思い描く瞑想で、仏教などでは「観想」と呼ばれます。
密教の「生起次第」、仙道の「存思法」などがこれに当たります。

「気をコントロールする瞑想」は、密教の「究竟次第」、「ハタ・ヨガ」、仙道の「命功」などがこれに当たります。
西洋魔術やカバラでも使います。

「あるがままの瞑想」は、ゾクチェンがこれに当たりますが、ラマナ・マハルシの瞑想なども似ているかもしれません。
現れた心の働きを意識しますが、認識もコントロールも否定もせず、自由にし、最終的には消えるに任せます。

また、この4種とは別に、「気づき」、「完了」というテーマから、各種の瞑想法などを比較した記事も書いています。


また、姉妹サイト「夢見の技術」では、夢見の技術を大きく4つに分けて紹介しています。
「明晰夢」、「白昼明晰夢」、「ドリームワーク」、「演劇夢」です。
いずれも、夢見は、一定の方向性やテーマを設定して、後は心の夢的働きが自然に進行するに任せます。

「明晰夢」は、夜に見る夢を、夢であることを自覚しながら見る方法です。

「白昼明晰夢」は、昼に空想する白昼夢から意識的なコントロールをなくした方法です。
西洋魔術の「アストラル・プロジェクション」のように完全に夢に入り込む形と、「スクライング」のように動画を見るような形があります。
ですが、神秘主義では、見る内容にある種の客観性が求められます。

「ドリームワーク」は、心理療法の様々な方法で、「白昼明晰夢」の一種ですが、そのテーマ設定が自分の内面からの合図に従って行い自身を変えることなどが特徴です。
「フォーカシング」のように漠然とした感覚を対象にしたり、一瞬ふっと通り過ぎる感覚を対象にした「フラート・ワーク」など、様々な方法があります。

「演劇夢」は、数人で役割を分担して即興的に演劇を演じるように夢を実演する方法です。
本来の憑依的な宗教儀式や集団魔術、参入者にとっての秘儀宗教の体験はこれに近いものでしょう。


<現世肯定と現世否定>

神秘主義思想によって、その思想、方法論には大きく2種類のタイプ、傾向があります。
「現世肯定的」なものか、「現世否定的」なものかです。

「現世肯定的」な思想は、心身の活動を活性化し、伸ばし、完成させることを目指します。
一方、「現世否定的」な思想は、それらを抑制し、停止、消滅させることを目指します。
もちろん、様々な中間形態があります。

具体的には、グノーシス主義、マニ教、初期仏教や古典インド哲学などは(これらはどれも時代的に近いのですが)、「現世否定」的です。
一方、ゾクチェン、タンリズムやシャーマニズム系、魔術系思想は、「現世肯定」的です。


大まかに言って、神秘主義思想は、低いレベルの意識状態、肉体的な心身の働きを否定して、高いレベルの意識状態、精神的・霊的な状態を目指します。
あるいは、錯誤や執着、利己的な状態を否定して、それらのない状態を目指します。

その方法として、日常的な、低い、執着のある働きを停止、消滅させる場合と、それらを手がかりにして上昇していく場合があります。
前者は「現世否定的」な方法で、後者は「現世肯定的」な方法です。

これは非日常的な意識状態に上昇する方法の違いであり、その後の日常への戻り方によって、「現世否定的」な思想か「現世肯定的」な思想かの違いが生まれます。


<西方の3つの道>

プラトンからキリスト教神秘主義にかけての西洋系の神秘主義思想には、「3つの道」の系譜があります。
プラトンの「3つの道」を、中期プラトン主義者のアルビノスが継承して少し変更し、さらに、偽ディオニュシオスがそれをキリスト教化しました。

           (現世肯定的 ⇔ 現世否定的)
・プラトン     :愛の道 :弁証法の道:死の道
・アルビノス    :類比の道:上昇の道 :否定の道
・偽ディオニュシオス:象徴神学:肯定神学 :否定神学


プラトンの「3つの道」は、『饗宴篇』などで語られる「愛の道」、『国家篇』などで語られる「弁証法の道」、『ファイドン篇』などで語られる「死の道」です。

「愛の道」は、地上の具体的なもの、例えば、身体の美を見ることから始めて、最終的に美のイデアを認識する道です。

「弁証法の道」は、地上の具体的なものの中のイデアを見ることから始めて、最終的には「善のイデア」を認識する道です。
この2つの道は、具体から抽象へと至る道です。

「死の道」は、禁欲によって肉体性を否定して霊魂を浄化する方法で、オルペウス教団やピタゴラス教団から継承した道です。

後者ほど、現世否定的です。


アルビノスの「3つの道」は、「類比の道」、「上昇の道」、プラトンの『パルメニデス篇』に基づく「否定の道」で、プラトンの「3つの道」に似ています。

「類比の道」は、「太陽」や「光」といったイメージ、象徴を通して、高い存在を目指す道で、感性的なものを利用する点で「愛の道」に似ています。
新プラトン主義のイアンブリコスが傾倒したテウルギー(降神術・神働術)もこれに当たります。

「上昇の道」は、抽象性、普遍性の高い概念、例えば、「善」、「完全性」、「不動」などを瞑想しながら、より高い存在を目指す道です。

「否定の道」は、「善でもなく」、「無性質でもなく」…と否定表現を瞑想しながら、より高い存在を目指す道です。
否定を利用する点で「死の道」と似ています。


偽ディオニュシオスは「3つの道」は、「象徴神学」、「肯定神学」、「否定神学」の道です。

これらは、アルビノスの3つの道とほぼ同じですが、キリスト教的に有神論的に捉え直されます。
ですから、「肯定」される概念も、「否定」される概念も、象徴も、神の属性として考えられます。

「肯定神学」では、例えば、「存在」という属性に関して言えば、「存在するもの」、「存在そのもの」、「存在以前の存在」というように3段階で高めていくのが特徴です。
これは、具体から抽象、そして無形なものへ至る道です。


<東方の4つの道>

仏教やヒンドゥー教などのインド系の実践には4つの道があります。

インドでは、伝統的なバラモンの方法を「寂静の道(ニヴリッティ・マールガ・マールガ)」、密教的なタントリズムの方法を「増進の道(プラヴリッティ・マールガ)」と表現します。
前者は「現世否定的」で、後者は「現世肯定的」です。

また、ラマナ・マハルシは、自身の真我探求(アートマ・ヴィチャーラ)の方法を、「探求の道(ヴィチャーラ・マールガ)」と表現します。

チベットのニンマ派では、部派仏教(声聞乗)を「放棄の道」、大乗顕教(菩薩乗)を「浄化の道」、密教(金剛乗)を「変容の道」、密教のゾクチェンを(任運乗)を「自然解脱の道」と表現します。
後者ほど「現世肯定的」です。

この4つの分類は、インド思想に関する本質的な分類として、仏教にかぎらず適応でき、大まかには時代の進展にも対応します。

 (時代)  (道)   (ヒンドゥー系)  (ヨガ)    (仏教系)
・紀元前 :放棄・寂静の道:バラモン哲学 :ラージャ・ヨガ:部派仏教
・紀元前後:浄化の道   :ヒンドゥー教 :バクティ・ヨガ:大乗顕教
・中世  :変容・増進の道:タントリズム :ハタ・ヨガ  :密教
・中世後期:自然・探求の道:ヴィチャーラ :ニサルガ・ヨガ:ゾクチェン

「放棄の道」、「寂静の道」は、心身の働きを否定的に捉えて抑制し、最終的にその止滅を目指す道です。
バラモン系では、古典的なサーンキヤ派、ヴェーダーンタ派、古典ヨガ派はこれに当たります。
ヨガではラージャ・ヨガが典型的で、仏教の瞑想法では部派仏教的な止観です。

「浄化の道」は、神仏に帰依し、その姿を観想するなどして、自身を浄化する道です。
タントリズムではないヒンドゥー系がこれに当たり、ヨガではバクティ・ヨガが典型的です。

「変容の道」、「増進の道」は、欲望やイメージ、言語の働きを単に否定せず、神仏の次元のそれに変えていく道です。
タントリズムがこれに当たり、ヨガではハタ・ヨガ、密教の瞑想法は二次第(生起次第、究竟次第)として体系化されています。

「自然解脱の道」、「探求の道」は、根源的な意識の自覚を保った状態を保持し続ける道です。
心身の現れに対しては、自然に任せることで、それらが働きを完遂し、消滅するままにする道です。
ヒンドゥー系では、ラマナ・マハルシやナート派系列のニサルガダッタ・マハラジ、仏教系ではゾクチェンやマハームドラー、南宋禅や修験道の一部がこれに当たるのではないでしょうか。
ヨガや瞑想法では、マハラジの言うニサルガ・ヨガやゾクチェンのテクチューが典型的です。


<密教、魔術、カバラの方法>

密教や西洋魔術が行うような魔術的な方法論は、世界的にほぼ共通します。

西方の「3つの道」で当てはめれば「類比の道」、「象徴神学」、東方の「4つの道」に当てはめれば「変容の道」、「増進の道」に当たるでしょう。

これらの実践には、霊的な成長のための修行という側面と、イニシエーション的側面と、除災・増益的な具体的な実利の実現に関わる側面があります。

ユダヤ系神秘主義のカバラは、多様な瞑想を行い、西洋魔術に影響を与えましたが、実利的な実践はほとんど行いません。

道教の場合は、瞑想的な修行法も実利的な魔術もありますが、同じ一つの実践体系を共有していないように思えます。


修行、実利のどちらの実践においても、象徴体系が方法論の基盤となります。
つまり、象徴を心の中に根付かせる修行が基本であり、それを前提として、象徴を利用した実利的実践を行います。

象徴体系は、マクロコスモとミクロコスモス、霊的世界と自然と人間の照応の原理であり、各種の操作の鍵となるものです。
密教の場合は、経典ごとのマンダラが、西洋魔術やカバラの場合は生命の樹(セフィロート)などが、それを表現します。

具体的な行法は、密教では身体、聴覚、視覚に当たる「身口意(身語心)」の「三密」として3つに分類され、これらを組み合わせて象徴を操作します。
「身」は手印、あるいは、坐法、「口」はマントラ、「意」は観想です。
「気のコントロール」や「行為」を「三密」とは別に数えることもあります。

西洋魔術でも、これらに対応するもの(合図、呪文・神名、視覚化など)があります。


修行的な実践において、象徴を根付かせるための方法は、象徴の意味と照応する諸物の瞑想です。
「イメージする瞑想」や「白昼明晰夢」の夢見(アストラル・プロジェクション、パス・ワーキングなど)が中心ですが、「集中」や「観察」の瞑想も必要です。

修行的な実践においては、密教では「空」である諸仏との一体化(自己想起)、西洋魔術では守護霊との一体化が目標となります。

密教では、仏を観想する場合、最後は意図的な操作を捨てます。
「イメージする瞑想」から「白昼明晰夢」に移行すると言っても間違いではないでしょう。

ですが、仏教の基本は「観察する瞑想」なので、これを同時に行って「空」の認識を得る必要があります。

実利的の実践においても、上記の同様の方法による象徴の操作が基本となります。
これによって、内面に対しては意識状態を変容させたり、無意識に司令を送ったりします。
外面に対しては、霊的存在を呼び出し(勧請・喚起)たりします。
また、アストラル光や気をコントロールする技術も必須となります。


<有形と無形、対象化と一体化>

瞑想で集中する、あるいは、認識する場合に、「有形」のものを対象とする場合と、「無形」のものを対象とする場合があります。

「有形」なものには、概念的なものと、イメージ的なものがあります。
「無形」なものは、それらがない、それら以外の場合ですが、「無形」なものがある場合と、何もない場合があります。

また、「有形」のものでも「無形」のものでも、それを「対象化」するだけではなく、「一体化(あるいは、継続的な一点集中)」する場合もあります。


ギリシャ哲学の「テオリア」は、イデアという「有形」なものを対象とします。
ですが、新プラトン主義のプロティノスの語る「一者」は、その先に顕現する「無形」なものであり、最終的にはそれと「一体化」することになります。


古典ヨガの経典「ヨガ・スートラ」では、第6・7支の「ダラーナ/ディヤーナ」で「有形」なものを対象化しながら、第8支の「サマディ」でそれと一体化します。
さらにその後、「有形」なものと一体化する「有想三昧」から、「無形」なものと一体化する「無想三昧」に進めますが、後者は「無形」なものというより、何もない状態に至ります。

ラマナ・マハルシやマハラジ、クリシュナムルティといった現代のインドの聖者達は、古典ヨガが行う「集中する瞑想」を否定します。
「有形」であれ「無形」であれ、対象を持つ瞑想を否定し、純粋な主体を見出そうとしたり、一切の方法や思考を否定します。
前二者は、あえて言えば、「あるがままの瞑想」に近いでしょう。


部派仏教の「集中する瞑想(止、サマタ)」では、まず、「有形」な具体的な事物を対象にし、次に抽象的な内的対象(取相)に移し、それを純化していき(似相)、それと一体化します。
次に、「無形」な対象、対象のない瞑想に至ります(四無色界定)。
「観察する瞑想(観、ヴィパッサナー)」では、「有形」、「無形」の両方の無常性などを対象にして、最終的に、「無形」の涅槃を対象にします。

大乗では、「無形」なもの(空、空虚)に集中、認識、一体化する瞑想を重視しますが、最終的には、それと「有形」なもの(無概念な等引智と概念的な後得智)との一体化を目指します。

密教でも、「有形」なものを観想する「有相瑜伽」と、「無形」なもの(空)を認識する「無相瑜伽」を行います。
そして、「有形」なものを「無形」なものに溶け込ませたり、そこから生み出したりし、最終的に両者を同時に行う「深明不二」に至ります。

ゾクチェンでは、純粋な主体である「無形」なものを自覚したまま、様々な「有形」なものがそこから現れては、そこに消えていくことを観察します。


道教、仙道では、神の姿などを瞑想する「存思」が「有形」な瞑想、タオと一体化する「守一(抱一、坐忘)」が「無形」な瞑想です。


キリスト教の教父哲学の神秘体験は、「魂(花嫁)」が「ロゴス・キリスト(花婿)」を受け入れる(結婚)と表現されますが、これは「有形」なものと「有形」なものの関係です。
ちなみに、教父哲学では、神は認識できないとして、それを「神の闇」とも表現しますが、これは「無形」なものを対象にできないということでしょう。

それに対して、アビラのテレサや十字架のヨハネは、言葉もイメージもない「無形」の「黙想(今テンプテーション)」を行って、「無形」なる神との「結合」(合一と表現すれば異端になるので)を体験します。

また、エックハルトの神秘体験は、「父」として「ロゴス(子)」を生むと表現されますが、これは「無形」なものから「有形」なものが生み出される体験でしょう。

(2021-03-24)


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