パタンジャリの「ヨガ・スートラ」 [古代インド]

バラモン系の「六派哲学」の一派である「ヨガ派」の聖典として、2-4世紀頃に編纂された「ヨガ・スートラ」の修行体系を紹介します。
これは心身の止滅による解脱のための実践論です。
しかし、そこには意識の階層性に関する理論があります。

「ヨガ・スートラ」はパタンジャリ作とされますが、彼は伝説的人物であり、実際の「ヨガ・スートラ」は長い時期に作られた複数の文書を編集したものです。

「ヨガ・スートラ」のヨガは、精神のコントロールを行う瞑想法を中心にしていて、「古典ヨガ」と呼ばれます。
現代では、「ラージャ・ヨガ」と呼ばれることもあります。

 後にタントリズムの影響で生まれる「ハタ・ヨガ」のような、様々な座法(アーサナ)、プラーナの本格的な操作は見られません。

「ヨガ・スートラ」はヨガを8段階からなる階梯に体系化しています。
そのため「八支ヨガ(アシュタンガ・ヨガ)」とも呼ばれます。

この「古典ヨガ」の方法は、ウパニシャッドや沙門が活躍した頃にはすでにある程度、形成されていたものと思われます。

ヨガ派はサーンキヤ哲学と関係が深く、ヨガ派が行う「古典ヨガ」の体験をもとにサーンキヤ哲学が生まれたと共に、サーンキヤ哲学によって「古典ヨガ」が体系化されてきました。
ちなみに、「ハタ・ヨガ」はヴェーダーンタ哲学やシヴァ派、シャークタ派と関係が深いのです。

また、先に、仏教(アビダルマ仏教)が修行体系を宇宙論と結びつけて体系化していたので、その影響も受けています。

まず、その8段階の階梯を簡単に紹介しましょう。

①禁戒(ヤマ)=すべきでないこと:不殺生、不淫などの倫理的戒律
②勧戒(ニヤマ)=すべきこと:苦行や祈祷などによる浄化
③座法(アーサナ):安定した快適な座り方

座法は、「安定した、快適なものでなければならない」と書かれているのみです。
座法にはそれ以上の意味はなく、ハタ・ヨガのように多数の座法を説くことはありません。

④呼吸法(プラーナーヤーマ)

ハタ・ヨガのような多種の複雑な方法は説かれず、プラーナのコントロール(調気法)という意味合いは明瞭ではありません。
呼息・吸息よりも「クンバカ(止息)」を重視します。
また、おそらく最終目標と思われる、呼吸をしていないような僅かな呼吸を指す「第四の呼吸」につても言及されます。

⑤制感(プラティヤーハーラ):感覚を外部の対象から分離して意識を内部に向ける

そして、最後の3つの段階は、総合的な精神コントロールとして結びついていて、「綜制(サンマヤ)」と呼ばれます。
仏教では「止(シャマタ)」と呼ばれます。

⑥凝念(ダラーナ、英語で「コンセントレーション」):意識を外界や身体の一点、あるいは特定のイメージや観念に集中して、他の心の動きを消す。一つの対象に対して多面的から集中することはある

⑦静慮(ディヤーナ、音訳して「禅」、英語で「メディテーション」):その一つの対象に対して、一面的、かつ持続的に集中する

⑧等持(サマディー、音訳して「三昧」、英語で「コンテンプレーション」):対象と完全に一体化する

「三昧(サマディー)」とほぼ同義語として「等至(サンスクリット語で「サマーパッティー」)」という言葉が使われることもあります。
これは直観的な知とも言えます。
「サンマヤ」は開眼でも閉眼でも行われますが、開眼で行う場合は外界の視覚を無視します。
以上の8段階のうちの「サンマヤ」の3段階は、対象に対する意識、心のあり方によって分類されていますが、さらに、対象の微細さの差による分類も生まれました。
これを見ると、瞑想によって順にどのような意識の状態が生まれてくるのかが良く理解できます。

8段階の実践体系の⑧「三昧」は、主客の意識が消えた対象との一体化を意味しました。
ですが、仏教が瞑想の高い段階を詳細に分類した体系を作ったために、ヨガ行派もこの影響を受けて、「三昧」の段階を、その対象によって更に細かく分類しました。

それらは、対象の有無や、対象の微細さのレベル、潜在印象の有無で段階化されています。
その段階を進むには、心の働きを止める「修習」と「離欲」が必要とされます。

まず、「三昧」はそれがイメージのような形のある心の働きを残したものであるかどうかで、「有想三昧(有種子三昧)」と「無想三昧(無種子三昧)」に分かれます。

さらに「有想三昧」は、次の4つ段階に分かれます。
物質的なものを対象にする粗大な心の働きがある「有尋三昧」です。
それがなくなり、非物質的なものを対象とする微細な心の働きだけがあるのが「有伺三昧」です。
さらにそれもなくなり、対象が消滅して穏やかな心地良さだけにあるのが「有楽三昧」です。
そして、心地良さも消滅して自分の存在感覚だけになるが「有我想三昧」です。

ここには、仏教の「四禅」「四無色界定」の体系の影響を感じます。
仏教と違うのは、サーンキヤ哲学を基にしていて、「尋」の対象を「粗大な五大」と「11根」、 「伺」の対象を「微細な五大」、「アハンカーラ」、「ブッディ」と考えるところです。
また、「有我想」は、プルシャではなく、ブッディに自己同一化する煩悩の働きとします。

また、「有種子三昧」と表現される場合は、「有尋定」、「無尋定」、「有伺定」、「無伺定」という4分類がなされます。

「無想三昧」では、内面が清澄になり、「直観知(プラジュニャー)」が発現します。
そして、表面的な心の働きが停止し、無意識的な「潜在印象(行、サンスカーラ)」のみが残ります。

最終段階の「無種子三昧」では、「直観知」も「潜在印象」もなくなり、心が完全に止滅します。
これは、心が完全に「プラクリティ(根本物質)」に戻り、「プルシャ(純粋意識)」がそれから分離した「解脱」した状態です。

(ヨガの実践体系)

⑧三昧・等持(サマディー)=等至(サマーパッティー)
 ・無種子三昧:心の止滅
 ・無想三昧:直観知の発現
 ・有想三昧:有形対象への一体化
   無伺定(有我想三昧・有楽三昧)
   有伺三昧:微細な対象に一体化
   有尋三昧:粗大な対象に一体化

⑦静慮=禅(ディヤーナ):一面的集中の持続
⑥凝念(ダラーナ):一つの対象に集中
⑤感覚の外部対象からの分離
④呼吸法
③座法
②苦行や祈祷などの浄化法
①倫理的禁戒

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