ラヒリ・マハサヤのクリヤ・ヨガ [近・現代インド]
また、これとは異なる方法を説くパラマハンサ・ハリハラナンダの方法についても付加します。
<クリヤ・ヨガとは>
そして、クリヤ・ヨガを行うことによって、過去のカルマに影響されず、死を克服することができるようになります。
<クリヤ・ヨガの準備とチャクラ>
*参照 http://www.kriyayogainfo.net/
一般的に知られているハタ・ヨガのムドラーなどの言葉については、説明しません。
また、脊髄(スシュムナー)に沿った経路以外の様々な経路(体外の経路、トリバンガムラリなど)を使うことです。
まず、クリヤ・ヨガの前に、次のような準備的な運動、瞑想を行います。
Ennio Nimisは、この前行は説明していませんが。
・ホーン・ソー・テクニック
・オーム・テクニック
>https://www.youtube.com/watch?v=W4iu8MB2Qeo
一般に、「ソー・ハム」瞑想といわれる方法と、唱え方が逆です。
「ソー・ハム」は、「私はそれ(ブラフマン)」という意味です。
呼吸に合わせて、ムーラダーラから上昇、下降するのでしょう。
頭頂のサハスラーラ(フォンタネル)は、チャクラと見なさないことが多いようです。
ですが、ハリハラナンダのクリヤ・ヨガでは、約30㎝頭上の第8チャクラ(ブラフマロカ)も重視します。
クリヤ・ヨガでは、霊視を重視しますが、例えば、眉間のチャクラのキリスト意識に集中すると、金色の光の環に囲まれた、青い円形の空間の中心で脈動する、五つの閃光を放つ白い星が視えます。
これは、心臓のチャクラを中心に、各チャクラにプラーナを送ってマントラを唱えつつ、チャクラを活性化(解く)し、その内なる光と音を感じる方法です。
チャクラを解くというのは密教と共通する考え方です。
第1段階の「クリヤ・プラーナヤーマ」は、眉間に意識を置き(シャンバヴィ・ムドラー)、入息時には、ムーラダーラから延髄(あるいは、ビンドウ・ヴィサルガ)までの各チャクラで、順次に上昇して、オームを内的に唱え、出息時には、逆にムーラダーラに下降します。
これによって、脊髄に沿ったエネルギーの移動を感じるようにします。
第2段階では、マハー・ムドラ―(トリバンダを含む)、ヨーニ・ムドラー(ジョティ・ムドラー)、ケーチャリー・ムドラー(その前段階としての「タラビヤ・クリヤ」)、「ナヴィ・クリヤ」を行います。
そして、ムーラダーラに降ろして、マハーヴェーダ・ムドラーを行います。
この時、ウディヤーナ・バンダを伴います。
そして、右肺上部、左肺上部、心臓と順に意識を移動させてマントラを唱え、心臓のチャクラを刺激します。
第3クリヤは高度なソカーで、上記の右肺上部、左肺上部、心臓部でマントラと唱えることを、頭を傾ける動きを伴って行います。
保息状態でこれを続けて、光の輝きが増すのを視ます。
第4クリヤは完成のソカーで、第3クリヤで心臓のチャクラでマントラと唱えた後、順にムーラダーラまで下って、各チャクラでマントラを唱えます。
次に、出息して、再入息時に、意識を脊髄に入れて、頭部まで上昇させます。
これは、ムーラダーラを意識してマントラを唱え、眉間に移動し、ケーチャリー・ムドラーで眉間に満月のような光を視ます。
順に各チャクラでマントラ(OM+それぞれの語)を唱え、各チャクラが5元素に対応すること意識しながら、それぞれの内的な色を霊視します。
第5-6クリヤでは、「トリバンガムラリ」という経路を使います。
これは、サハスラーラからムーラダーラまでを左右に曲がる3つの曲線でつなぐ経路(サハスラーラから左側を通って中央を交差し、右肩で反転し、心臓のチャクラを通って、左乳首下で反転してムーラダーラへ)です。
まず、入息とともに、意識(エネルギー)をムーラダーラからビンドゥ・ヴィサルガまで上昇させます。
出息と共に、トリバンガムラリに沿って意識(エネルギー)をムーラダーラまで降ろします。
上昇時に各チャクラで、下降時にトリバンガムラリの各ポイントでマントラを唱えます。
下降時に、トリバンガムラリがある方向に頭を傾けます。
第6クリヤは、「マイクロ・ムーブメント・トリバンガムラリ」と表現され、ミクロなレベルでの運動を感じます。
プラーナを眉間にまで上昇させた後、ムーラダーラに見下ろして、そこに水平の円盤を視覚化して、そこに小さなトリバンガムラリの運動を感じます。
<ハリハラナンダのクリヤ・ヨガ>
それが誰に起因するものか分かりませんが。
「クリヤ・プラーナヤーマ」は、入息時に頭頂に吸い入れ、出息時に、順次、各チャクラに移動していきます。
最初に、ムーラダーラに移動させることから初めて、順次、第2、第3チャクラと上のチャクラに移動先を変えていきます。
この時、各チャクラの音を聞き、光を霊視します。
そして、ケーチャリー・ムドラーで、順に頭を傾けて、傾けた反対側(後→右→前→左)で光の下降を感じます。
最後に、出息と共に、エネルギーをムーラダーラまで下げます。
同様に、順次、上の各チャクラのエネルギーを上昇させます。
これによって、クンダリニーの目覚めを引き起こします。
スリ・ユクテスワとパラマハンサ・ヨガナンダの思想 [近・現代インド]
<ユクテスワの宇宙論>
冒頭で、「あらゆる宗教の間には、本質的な一致点があり、種々の信仰が説く心理も、帰するところは一つである」と書いています。
ですが、この書はほとんどバラモン哲学的な宇宙論を説いていて、そのほんの一部に対して、キリスト教との対応付けを行っているだけです。
この15の電気属性と、「マナス」、「ブッディ」の磁極によって、「リンガ・シャリーラ(幽体)」が作られます。
これらは、「アヴィドヤー(無明)」から作られたものなので、実体のない幻であって、父なる神の観念による遊戯にすぎません。
そして、そこにキリスト教や現代科学の言葉が結び付けられています。
また、このようにして作られた世界は、14の「ブーヴァナ―(創造の次元)」から構成されています。
7つの「ローカ」と7つの「パーターラ」です。
・サティヤ・ローカ :父なる神(知・愛)
・タポ・ローカ :聖霊(光・生命)
・ジャナ・ローカ :神の子
・マハー・ローカ :宇宙原子
・スワー・ローカ(根源界):宇宙磁気
・ブーヴァ・ローカ(幽界):宇宙電気
・ブー・ローカ :物質
ちなみに、アジニャー・チャクラは延髄にあります。
<ユクテスワの占星学的ユガ論>
その軌道は、「ヴィシュナビー」との距離が1万2千年ごとに近くなったり遠くなったりしていて、それに従って、人間の徳性が高まったり、低くなったりします。
彼によれば、現在のヒンドゥー暦は正しくありません。
・マハー・ローカ :サティヤ・ユガ
・スワー・ローカ :トレータ・ユガ
・ブーヴァ・ローカ:ドワパラ・ユガ
・ブー・ローカ :カリ・ユガ
<ユクテスワの修道論>
少し目覚めた者は「クシャトリヤ(苦闘する者)」と呼びます。
グルを常に思っていると、堅固な求道心が起き、ヤマ(禁戒)・ニヤマ(勧戒)の「入門者」、「真の弟子」となります。
そして、8種の心のゆがみが取り除かれて、大らかな心が現れます。
「ストゥーラ・シャリーラ(物質体)」は、正しい食物・環境によって純化します。
プラーナヤーマは、「大いなる眠り」による再生を引き起こし、活力を補給します。
また、プラティヤハーラは、随意神経のエネルギーを内に振り向けます。
ユクテスワは、「プラナヴァの瞑想」(ブラフマニダーナ)は、ブラフマンに至る唯一の道であるとも言います。
そして、これは「バクティ・ヨガ」だとも言います。
「プラナヴァ」の洗礼を受けると、精妙な素材でできている「ブーヴァ・ローカ」に入ることができ、「ヴィブラ(完成に近づいた者)」と呼ばれる階級になります。
この世界に入った者は、「ヴィブラ(完成に近づいた者)」と呼ばれます。
この世界の「磁気的な体(=心、コーザル体)」は、七色の虹(5タットワ+2磁極からなる)のように見えます。
この体をマントラによって浄化します。
この世界に入った者は、「ブラフマナ(霊性を達成した者)」と呼ばれます。
マーヤーは消滅し、聖霊の光や聖なる実体を理解するようになります。
この世界は、4つの観念(=4人のマヌ)の世界です。
聖霊による洗礼を受けると、マーヤーを脱し、神通力を得ることができます。
「人の子(アハンカーラ・自我)」が洗礼を受けて「神の子(プルシャ)」になるのです。
・サティヤ・ローカ:カイヴァリア(父なる神との一体化)
・タポ・ローカ :聖霊に溶け入る
・ジャナ・ローカ :サンニャシ=キリスト
・マハー・ローカ :ブラフマナ(霊性を達成した者)
・スワー・ローカ :ヴィブラ(完成に近づいた者)
・ブーヴァ・ローカ:ドヴィシャ(第二の誕生)
・ブー・ローカ :シュードラ→クシャトリヤ→入門者
<ヨガナンダの思想>
以下、「パラマハンサ・ヨガナンダとの対話」で語った彼の言葉を中心にして、彼の思想を紹介します。
「これは永遠なる真理の、新しい表現なのです」
彼にとっては、神の子として、クリシュナ=キリストです。
また、「キリスト意識」について、それが万物の内に偏在する聖なる意識であるとし、実践的には眉間のチャクラに感じられるといいます。
ここは上述した「クタスタ」の場であり、集中によって光を霊視します。
「夜中に床を転げ回り、神に現れてくれるように願い、泣き叫びなさい。人は神を求めて恋いこがれなければなりません。そうでなければ神は決して姿を現すことはありません」
洗礼者ヨハネとイエスの関係もグルと弟子の関係だと言います。
「善き想念を抱く時はいつも、クンダリニーが上昇を始めます」
そして、「魂を肉体に縛り付けている呼吸という絆を解き放つことによって、ヨギの肉体寿命を伸ばしたり、意識を無限に拡大することを可能にする」のです。
また、「真のヨギは…心を常に脊髄中枢の超意識のレベルに置いて、神の意図されたとおりの人間としてこの世を生きている」のです。
*「ラヒリ・マハサヤのクリヤ・ヨガ」に続きます。
マハー・アヴァター・ババジの弟子達 [近・現代インド]
これはテクニカルなハタ・ヨガであり、近現代におけるハタ・ヨガの新しい運動であると言っても間違いないでしょう。
そして、続くページでは、スリ・ユクテスワとパラマハンサ・ヨガナンダの思想について、最後のページでは、ラヒリ・マハサヤの「クリヤ・ヨガ」の具体的な方法について紹介します。
<ババジと弟子達>
ババジ →ラヒリ・マハサヤ →ユクテスワ →ヨガナンダ
という継承経路で伝わりました。
ですが、他にも多くのヨギ、組織がクリヤ・ヨガを伝えています。
また、ラヒリ以外に、ババジから教えを受けたと主張する人も多くいます。
それぞれが説く「クリヤ・ヨガ」には、違いがあります。
彼は、数々のマスターや預言者を助け、使命を遂行させる役目を負っています。
そして、バドリナヤンに近い北部ヒマラヤの断崖に住んでいますが、少数の弟子たちとあちこちを移動しています。
また、神智学が言う「サナート・クマラ」でもあります。
そして、「18人のシッダ」に当たるアガスティアとボーガナタルを師としました。
また、師としては、現在までの長い活動の中で、シャンカラやカビールにも教えました。
<ラヒリ・マハサヤと弟子達>
*パンチャナン・バッタチャリヤ
彼がラヒリに弟子入りを許可された条件は、家庭を持つということでした。
彼は、アーリヤ・ミッション・インスティテュートを設立しました。
これは「聖なる科学」として出版されました。
この考え方はヨガナンダにも継承されています。
また、彼は、2つのアシュラムを持っていました。
ハリハラナンダの弟子のパラマハンサ・プラジュナナンダも含めて、彼らもクリヤ・ヨガの重要な師とされます。
<パラマハンサ・ヨガナンダ>
ですが、ヨガナンダは、師の写真から不思議な力を感じながら育ちました。
ですが、ベナレスの街で、偶然のように出会ったユクテスワに、特別なつながりを感じ、その場で弟子になることを申し出ました。
また、ユクテスワはラヒリ・マハサヤの弟子だったのですが、ヨガナンダはそれを知りませんでした。
ユクテスワが後に語ったところでは、ババジが彼に、西洋の布教のために弟子を送ると語っていたのです。
そして、1920年に渡米し、「セルフ・リアライゼーション・フェローシップ」(SRF)を設立し、クリヤ・ヨガを広めることに尽くしました。
*「スリ・ユクテスワとパラマハンサ・ヨガナンダの思想」に続きます。
ラマナ・マハルシの真我探求 [近・現代インド]
そのため、インド的ではありますが、宗教的な教育を受けたり、勉強を行っていなかったため、彼の教えは極めてシンプルです。
バラモンとしての宗教的教育を受けず、キリスト教の学校に通いました。
その後、親戚の死を期に、死の恐怖に襲われ、それを解決するために、時分が死んでいると想像すると、突如、「真我」に目覚めました。
その気づきは、一時的なものに終わらず、起きている時も寝ている時も継続しました。
彼は、そこで長期に渡って三昧に入り続けました。
そして、ラマナは、回りに人間の期待に応えて、山麓まで降りることになり、彼の噂が広まりました。
やがて母がなくなると、ラマナは彼女の墓の近くに住むようになり、そこに彼を慕う者達によるアシュラムが生まれました。
また彼の回りには、多くの者がいましたが、彼は、「真我(アートマン)」のみがグルであるとして、誰も弟子とは認めませんでした。
ですが、哲学の込み入った迷路は必要ないと説きました。
<真我>
それに対して、自我(自己)は、対象となりうる想念です。
「真我」は、常に存在し、それに気づくには、想念を持たず、主客を持たないことが必要です。
ですが、人格神や創造神(イーシュワラ)などについては、「消え去るべき最後の非実在の姿」とも語りました。
<サマディ>
そして、「ヴァーサナー(潜在印象、カルマの種子)」から解放されていません。
その状態は、原初の、生得の、自然なものであり、「実在に溶け込み」、「世界に気づかずにとどまっている」状態です。
また、ラマナは、「真我」を発見した人(ジュニャーニ)の意識状態について、次のように説きました。
<真我探求の方法>
ですが、「探求」は、唯一直接的な道であり、それを「ジュニャーナ・ヨガ」と表現することもありました。
「瞑想」は対象に集中する方法であり、対象と共に自我があります。
それに対して、「探求」の特徴は、どちらもなく、「主体」だけになることです。
なぜなら、「私」というのは第一の想念、第一の対象だからです。
「心はただ、「私は誰か?」という探求によってのみ沈黙する。「私は誰か?」という想念は、他のすべての想念を破壊し、最後には、萌えている薪の山をかき混ぜる棒のように、「私は誰か?」想念自体もほろぼされてしまう」(以上「あるがままに」)
「私という想念が湧き上がってくるところを発見しなさい」(以上「不滅の意識」)
<フリダヤムとハタ・ヨガ>
また、右胸に集中する瞑想を勧めることもありませんでした。
「フリダヤムの中の小さな穴はいつも閉じられたままですが、それは探求によって開かれます」(「不滅の意識)」
ラマナは、ハタ・ヨガや、意図的にクンダリニーを上昇させることについては、それを勧めません
ですが、「真我」を見出すことによって、クンダリニーの上昇は自然になされると言います。
「クンダリニーとはアートマ、真我あるいはシャクティのもう一つの名前にすぎない。…実際、クンダリニーは真我と異ならず、内側にも外側にも存在しているのである」(以上「あるがままに」)
「ジーヴァ・ナーディ」は「アムリタ・ナーディ」あるいは、「パラ・ナーディ」とも呼ばれるようです。
クリシュナムルティの反伝統主義 [近・現代インド]
ですが、彼の思想は、原始仏教や近年のヴィパッサナー瞑想、禅、ゾクチェンなどのシンプルな仏教に近いものです。
ですが、自身の神秘体験に基づき、自らそれを否定しました。
それは、一切の伝統や権威、信仰、形而上学を否定し、また、あらゆる思考、意志的行為を否定するものでした。
父は、役人を退職した後、神智学協会で働いていました。
クリシュナムルティのオーラの美しさと、利己性のなさから、彼を「世界教師(ロード・マイトレーヤ、キリスト)」が受肉する器であると認めたのです。
そして、クリシュナムルティは、きたるべき救世主として、神智学協会によって育てられることになりました。
1910年、クリシュナムルティが、リードビーターに霊体離脱で連れられて、不可視のマスター達に会い、その時に伝えられたことを著したのが、「マスターの御足のもとで」とされています。
イギリスでは、有名なオカルト系作家ブルワー・リットンの孫娘のもとで生活し、主に家庭教師の元で学びました。
ですが、クリシュナムルティは、オックスフォードなどの大学を受験して、2年続けて失敗しました。
ですが、1922年には、弟のニティーヤナンダの病気治療のために、カルフォルニアのオーハイバレーに移住しました。
そして17日から20日にかけて、神秘体験を体験します。
霊体離脱して、ブッダの存在を感じ、弥勒、クートフーミの姿を見ました。
そして、回りのすべてのものになる体験をしました。
この時の体験に関して、クリシュナムルティは、「真理の泉が私に開示された」と書いています。
そして、この神秘体験の前に、後頭部などの肉体に強烈な痛みを感じる体験は、後に「プロセス」と呼ばれるようになり、少なくとも1962年まで続きました。
このことから、ベザントらは、クリシュナムルティがマイトレーヤに認められたことを確信しました。
これは、当たり前のことなのですが、クリシュナムルティを救世主と見る人々からすると、救世主の意味を否定することにつながる発言でもあり、不安を生むことになりました。
「少年の頃…クリシュナ神をよく見た…神智学協会と出会ってから、私は、マスター・クートフーミを見るようになって…それからしばらく経つと、今度はロード・マイトレーヤを見るようになった。…そして最近、私が見ているのは仏陀であり…私は「最愛の方」が誰を意味しているのか尋ねられた…それはこれらすべての形姿を超越したものである…大空であり、花々であり、そしてあらゆる人間のことである」
「諸君は私に頼ることなく、自ら解放をとげなければならない。…諸君は私を権威にしてはならない」
信念は純粋に個人的なことがらであって、それを組織化することはできないし、またそうすべきではないのだ。…
私はたったひとつの目的を持っている。人間を自由とし、自由へと促し、一切の制約を脱するのを助けることである。…
組織は諸君を自由にすることはできない。いかなる人も外側から自由にすることはできない。…」
神智学だけでなく、インドあるいは西洋の聖典を一切読んだことがない、とも書いていますが。
また、クリシュナムルティは、ベザントの死後に起こった何らかの出来事によって、神智学協会時代の記憶を失ったと述べています。
<一人の人間として>
神智学協会脱会後の講演は、より宗教色が薄れたものになりました。
また、クリシュナムルティ・スクールで生徒や教師と話し合い、個人面談にも応じました。
この時には、フリッチョ・カプラやケン・ウィルバーら、ニュー・エイジの論客も聴講しました。
クリシュナムルティは、ニュー・エイジ運動において、高く評価されました。
ちなみに、鈴木大拙とも2度ほど会っていますが、互いにそれほど興味を持たなかったようです。
弟のニティーヤナンダが亡くなった後、ラージャゴパルがクリシュナムルティに関わる事業のマネージャーを務めていました。
そして、クリシュナムルティは、オーハイで、彼とその妻のロザリンド、その娘の4人で共同生活をしていました。
ですが、クリシュナムルティは、ロザリンドに子を孕ませ、堕胎させました。
クリシュナムルティには、きわめて多数の著作(インタビュー集、講演集など)がありますが、以下、「自我の終焉(以下「終焉」)」、「自己の変容(以下「変容」)」、「クリシュナムルティの瞑想録(以下「瞑想録」)」の3書から引用しながら、彼の思想を紹介します。
<伝統と権威の否定>
彼は、どのような信仰も、宗教・宗派も、組織も否定します。
「信仰というものは真理の否定であり、真理を妨げるものです」(「終焉」)
「導師と弟子のような上下の関係では協力は生まれない。導師と弟子とはお互いの依存を通じて無明に落ち込んでしまうのである」(以上「瞑想録」)
…(しかし)その下にはインドの真の遺産、生きた部分、過去からの真の遺産が埋まっている。…そこに深い無執着と真実なるものへの深い感性が依然として力強く生きていることを見出すであろう。」(「終焉」)
<あるがまま>
「あるがままのものを認識し、自覚し、理解することで、心の戦い――葛藤は終わってしまうはずです」(以上「終焉」)
<問題>
「変革というものは、この今にのみ起こるものであり、しかもそれは、一瞬ごとに起こるのです」(以上「終焉」)
<思考が生み出すもの>
「「私」がなければ、あなたは条件づけられていません。…「私」が行っていることのすべてを見る時にだけ、それは止まります。」(「変容」)
それらは、習慣的な「反応」であり、蓄積された「過去」であり、それは「選択」を導き、「闘争」や「恐怖」に至るからです。
ですが、「感情」としての「愛」は否定すべきものであって、「思考」が「感情」や「快楽」を生み出すのです。
「愛は感情ではありません。感傷的になったり、感情的に走ることは愛ではありません。…感情は思考のプロセスであり、思考は愛ではありません。」(以上「終焉」)
ですが、思考・言語を創造的にする可能性については語りませんでした。
<瞑想と瞑想法>
「「自我」を滅する方法を求めていては、他なる「自我」の滅却過程であなたは別の自我を作り上げてしまう」(「瞑想録」)
特に、古典ヨガのような、集中を伴う「瞑想法」を否定します。
もちろん、それは「思考」を否定し、「あるがまま」を見ることです。
「瞑想とは、過去に捕らわれることなくあるがままの現実を見るような精神から生まれる」
そして、「分離の空間は終焉」し、「生の全体」となります。(以上「瞑想録」)
ですが、それは一種の理想主義であり、現実的ではないのではないでしょうか。
<受動的な注意力>
「あなたが受動的に凝視している時、…いかなる判断も行われないのです。…絶え間なく継続して凝視することができるなら、あらゆる問題は表面的にではなく、根本的に解決されてしまうのです」(以上「終焉」)
「この浪費が完全になくなった時、「気づき」と呼べる、あるエネルギーの質があります。」(「変容」)
オーロビンド・ゴーシュのインテグラル・ヨガ [近・現代インド]
そして、彼が提唱した「インテグラル・ヨガ(統合的ヨガ)」は、人間の全能力を変革し、それを生活の中で活かすためのものでした。
<人生>
父はブラフマ・サマージの指導者でした。
1890年には、ケンブリッジのキングス・カレッジに入学し、主席で卒業しました。
彼は、サンスクリット語を勉強して、マハーバーラタなどの古典、インド哲学、ヴィヴェーカーナンダなどを読んで学びました。
ですが、彼が一番興味を持っていたのは、詩作でした。
1906年には、カルカッタの公民専門学校の校長に就任した後、日刊紙に執筆するなど、インド独立の政治活動に熱中しました。
その一方で、別の師からヨガを学び、サマディを体験したようです。
また、瞑想中に疑問を持った時、ヴィヴェーカーナンダの声が聞こえて、アドバイスをしてくれたそうです。
この時、ヴィヴェーカーナンダは、すでに亡くなっていましたが。
1914年には、哲学雑誌「アーリア」を発行し、執筆に務めました。
「神聖な生活」、「ヨガの総合」などの彼の主要な著作は、ここで6年半の間に掲載したものです。
<内化と進化>
ですが、オーロビンドは、西洋の進化論の影響を受けて、東西の思想を統合して「内化(インヴォリューション)」と「進化(エヴォリューション)」で考えました。
「「進化」という言葉は…先行する「内化」の必然性を示唆するもの」(以上、「スピリチュアル・エボリューション」)
「人間は…進化の意味そのもの、自然の主人公である」(「スピリチュアル・エボリューション」)
「精神の進化は…内在するものの発現…」(「スピリチュアル・エボリューション」)
<8つの存在要素>
存在 - 物質
意識-力 - 生命
至福 - 霊魂
超心 - 心
「チット」を、オーロビンドは「意識-力(コンシャスネス-フォース)」と表現します。
また、これは、「最高の真理意識」とも表現され、それは「主観的知識」であもり「客観的認識力」でもあります。
「心と超心がベール越しに出会う。このベールを取り払うことが、人間が神聖な生活の条件になる」(スピリチュアル・エボリューション)
これらは、階層をなしていると言えます。
「心」は「生命」の中だけではなく、偏在する存在であるとも書いています。
「魂」と「心」の進化、階層の関係ははっきりしません。
ですが、金属→植物→動物→人間という進化の階層と、8要素の対応関係を見ると、
「物質」→「生命」→「霊魂」→「心」という階層を考えたくなります。
絶対者に関しては、「存在・意識・至福」とは別に、「プルシャ(純粋意識)」、「アートマン(真我)」、「イーシュヴァラ(自在神)」という3つの側面を持ちます。
彼は、「プラクリティ(純粋物質)」を、「プルシャ」の「マーヤー」、「シャクティ」としての一側面であると考えます。
また、「プルシャ」を「存在(サット)」、「プラクリティ」を「意識(チット)」であると考えます。
<進化とヨガ>
ですから、生命とは、精神とは、人間とは、進化する存在なのです。
つまり、オーロビンドは、クンダリニーを上昇させることが、世界に内化して眠れる絶対者を顕在化して上昇させることの象徴のように見なしました。
人間のすべての能力を伸ばすこと、それらを生活の中で活かすことです。
「ヨーギのトランス状態は…目標では決してなく…見る、生きる、活動する意識すべての拡大と向上のための手段だ」(以上「インテグラル・ヨガ」)
この、現世肯定的で、総合的なヨガであり、オーロビンドは、それを「インテグラル・ヨガ」と呼びました。
<5つのヨガの弱点>
ヴィヴェーカーナンダは、人の性格によって「バクティ・ヨガ」、「カルマ・ヨガ」、「ラージャ・ヨガ」、「ジュニャーナ・ヨガ」の4つから選択するという形で、ヨガを紹介しました。
「ラージャ・ヨガ」は古典ヨガ(8支ヨガ)ことで、「ハタ・ヨガ」はそのプラーナヤーマの支則として少しだけ紹介されました。
ですが、「ハタ・ヨガ」は人間生活から完全な断絶を強いるのだと言います。
オーロビンドは、「ラージャ・ヨガ」を基本的には古典ヨガ(8支ヨガ)として捉えていますが、「ハタ・ヨガ」の手法も利用し、クンダリニーを上昇させるものと考えています。
ですが、「ラージャ・ヨガ」の特徴を、集中とトランスとして捉えていて、トランスという例外的な状態に依存しすぎると言います。
・バクティ・ヨガ :感情:愛
・カルマ・ヨガ :意志:労働
・ジュニャーナ・ヨガ:知性:知識
・ラージャ・ヨガ :心→精神
・ハタ・ヨガ :肉体・生命→精神
<タントラの道>
彼は、「タントラの道」は、総合的ですが、独特で、他のヨガと違ってヴェーダ的手法と区別していると書きます。
逆に、「ハタ・ヨガ」に関しては、ヴェーダ的・バラモン的なものとして解釈しているのでしょう。
「プルシャ(絶対者)がエネルギー(シャクティ)エネルギーの活動に熱中している時、そこには活動、創造、生成の愉楽、つまり、アーナンダがある」(以上「インテグラル・ヨガ」)
<インテグラル・ヨガ>
いくつかの法則、特徴がありますが、限定された方法ではありません。
その後で、絶対者(精神)を、すべての能力に反映させることで、それらを伸ばし、統合するのです。
オーロビンドは次のように書いています。
オーロビンドは、この3者について、次のように書きます。
「愛が成就さらえると…知識をもたらし、知識が完全であるほど愛の可能性はいっそう豊かになる」
「3つの道のいずれも、一定の広さとともに追求されたなら、その高みで、他の力を取り入れて、その成就にいたりうる…その一つから出発すれば十分であり…」(以上「インテグラル・ヨガ」)
オーロビンドは次のように書いています。
ヴィヴェーカーナンダと普遍宗教 [近・現代インド]
1880年、キリスト教系大学に入り、独学も含めて西洋の思想・歴史・哲学を学びました。
ですが、ヴィヴェーカーナンダは、神の姿を見たいと望みました。
寺院での最初、ラーマクリシュナは、ヴィヴェーカーナンダをナーラーヤナと見なして、泣いて崇拝しました。
ヴィヴェーカーナンダは、ラーマクリシュナをおかしな人間と思いましが、ラーマクリシュナが神を具体的に見ていると聞いて心を動かされました。
三昧に留まり続けたいと思っていたヴィヴェーカーナンダに対して、ラーマクリシュナはこれを引き止めて、自分の喜びに浸らず、世の中で偉大な仕事をする使命があることを説きました。
これは、ラーマクリシュナ自身が、カーリー女神から説かれたことでした。
ですが、1888年、彼は、放浪に旅に出ました。
彼は、その旅の途中で、今後に進むべき道に迷いましたが、夢にラーマクリシュナが現れ、人の中の神に奉仕することを選びました。
シカゴで行われる世界宗教会議に出席するという具体的な目的もありました。
ですが、すでに出席者の締め切りは終わっており、何のつてもありませんでした。
それでも、関係者に彼の人格が認められて、講演者として認められました。
彼一人が、自分の宗教ではなく、普遍宗教の可能性について語り、それがこの会議の意味だと主張しました
彼は、各宗教が、他の宗教を吸収して個性を伸ばす形で、普遍性へと至るべきだと説きました。
彼がアメリカやロンドンで行った講演は、「ラージャ・ヨガ」、「バクティ・ヨガ」、「ジュニャーナ・ヨガ」などとして出版されました。
彼は、カースト廃止を訴え、他者への奉仕としてのカルマ・ヨガを主張し、弟子の教育にも尽くしました。
これは大乗仏教の精神ですが、彼は、ブッダを最も偉大な人物とも評していて、ブッダガヤで瞑想したこともありました。
体調を理由に、日本への講演の依頼は断りましたが、一緒にブッダガヤへ同行しました。
医者による死因は卒中か心臓麻痺となっていますが。
<普遍宗教>
彼は、ヒンドゥー教やヴェーダーンタ哲学が「普遍宗教」である、という説き方はしませんでした。
彼は「普遍宗教」は、以下のように説きました。
そして、次のように語ります。
「…それぞれの宗教を説く…人々が…説教するのをやめさえすれば、普遍的宗教がそこにあるのを見出すだろう。」(以上、1900.1.28 カルフォルニアでの講演「普遍宗教」)
「宗教の場合も…われわれの精神は容器のようなものであり、…神はこれら異なる容器を満たす水のようなものであり…けれども神は一つである、…これが、われわれが得ることができる普遍性の唯一の認識である。」
「四つの方向に調和よくバランスが取れることが、私の宗教の理想である。」(以上「普遍宗教の理想」)
<4つのヨガ>
ヴィヴェーカーナンダは、在家の無名のカルマ・ヨギに比べると、イエスやブッダも二流の英雄だと語っていて、これを重視しています。
自分を放棄し、「神のもの」と感じます。
ラーマクリシュナは「バクティ・ヨガ」が現代人に一番適した方法として特別視しましたが、ヴィヴェーカーナンダはそうは述べません。
心に浮かんでくるものを否定し、ヴェーダーンタの不二一元論の見解に立って、究極の自分を「サット・チット・アーナンダ」と考え、そして、すべてに偏在すると瞑想します。
ラーマクリシュナは、これを「カルマ・ヨガ」の中に含めていましたが、ヴィヴェーカーナンダは別のものとして分けました。
・性的エネルギーを制御して、最高のエネルギーのオージャスに変えて、頭部に蓄える
ラーマクリシュナのカーリー女神信仰 [近・現代インド]
ですが、彼にとってそれは姿なき絶対者への三昧に至るものであり、ヴェーダーンタ哲学の不二一元論とも矛盾するものとは考えていませんでした。
ですが、歴代の会長の中には、キリスト教も評価して、普遍志向を示す者もいました。
ですが、ラーマクリシュナは、カーリー信仰(シャクティ教)だけではなく、ヴィシュヌ教、さらには、キリスト教、イスラム教の神性を内側から理解しようとしました。
彼の中に普遍宗教への志向があったと言っても良いでしょう。
その傾向は、弟子のヴィヴェーカーナンダによって新たに展開されることになりました。
そして、兄が急死しすると、ラーマクリシュナがカーリー寺院の寺院僧になりました。
すると突然カーリー女神が現われて、気を失う体験をしました。
そして、姿を持ったカーリー女神を越えて、無分別の三昧として経験しました。
つまり、有形の神を対象とするバクティの延長で、無形の絶対者に至ったのです。
ですが、三昧の中にカーリー女神が現れて、三昧に留まることをやめるように命令され、人々に奉仕することを目指すようになりました。
彼の中に普遍宗教への志向があったと言っても良いでしょう。
もちろん、これは近代固有のことではなく、シーク教などにもあったことですし、神秘主義思想に広く特徴的なことでもあります。
1875年には、瞑想中に、インド・ブラフマ・サマージのケーシャブ・チャンドラ・セーンを見て、彼と交流を持つようになりました。
ケーシャブのおかげで、ラーマクリシュナはカルカッタで知られるようになり、ヴィヴェーカーナンダとも出会いました。
多くの場合は、開眼で、立ったままで、通常の意識を失う状態になりました。
やがてその神の意識が遠ざかると、半分神の意識の半意識状態になって、人と語ることができるようになりました。
ラーマクリシュナによれば、神を見た人は、子供のようになるのです。
彼の前にカーリー女神が現れて、多くの悪業を持った人と関わったために、そのカルマを引き受けたのだと言われましたが、彼は、人に奉仕してきたことを後悔していないと答えました。
また、自分が神の化身であると告げました。
「もし、この体が後数日間この世に留まることを許されるなら、大勢の人の魂が目覚めさせられるであろうに」
「私は私と母なる神がはっきりと一つになっているのを見ている…私は見る、私には分かる、すべてのもの、考えられるかぎりあらゆるものは、これから出ているということが」
と語りました。
このページの彼の発言の出典はこの書です。
ただ、この書では、ラーマクリシュナが持っていたタントラ的側面や性的側面を書かなかったのではないか、という疑惑をかけられています。
ですが、女神信仰の風狂な行者にとっては珍しいことではありません。
男性の弟子ばかりに囲まれていたこともあって、ラーマクリシュナの性的志向を疑う人もいます。
ですが、女神信仰の集団が閉鎖的な男性結社となることは、世界的に良くあることです。
<ラーマクリシュナの宗教観>
つまり、ブラフマンやアートマンは、姿を持つシャクティであり、カーリー女神なのです。
カーリー女神は、姿を持つ存在でもあり、姿を越えた絶対者(シャカラ・ルパ)でもあるのです。
「しばしば、彼女は、その個我を彼女の信者たちの内部に残しておき、人格として彼らの前に現れて、彼らの話し合うことをお楽しみになります。」
「カーリーは遠くから見ると、褐色の肌の色の人格神で、近くから見ると属性を持たぬ絶対者です。」
ラーマクリシュナは、すべての人を神であると見なし、「人間に奉仕することは神に奉仕することに他ならない」と考えていました。
ラーマクリシュナは、「この世に執着のない「解脱をとげた人(ムクタ)」に対して、「永遠に自由な人(ニティヤ・ムクタ)」は、他者のためにこの世に住んでいる人々である」と語っています。
そして、他者のために生きることは、カーリー女神の望むところなのです。
ラーマクリシュナは、カーリー女神を「母」と呼びましたが、時には、「婆さん」と呼ぶこともありました。
彼は、「(カーリ-女神は)一方ではヴィディヤー・シャクティとして現し、他方ではアヴィディヤー・シャクティとして現していらっしゃいます」とも語ります。
創造神であるカーリーは、智恵でもあり、マーヤーでもあるのです。
そして、人間が世界の中で無知に縛られた状態にいる理由について聞かれて、カーリー女神が「隠れん坊遊び」をしていて、人間は彼女を探して走り回らなければいけないのだと答えました。
「遊び相手としては、お前たち(在家)の方がずっとりこうだ。…遊びはなお続けられる。」
と語りました。
「絶え間なく、「私は束縛されている」と言っている馬鹿者(ブラフマ・サマージなど)は、ついに本当に束縛されるのだ。
いつまでも「私は罪人です。私は罪人です」と言い続ける哀れな人(キリスト教徒)は、罪人になってしまうのだ」
とも語りました。
<実践>
ラーマクリシュナの分類では、「カルマ・ヨガ」には3つあって、在家が執着なしに努めを果たすこと以外に、「アシュタンガ・ヨガ」も、礼拝的儀礼やジャパ(マントラ念誦)の行為も「カルマ・ヨガ」です。
現代人には、執着なしに行為を行うことも、儀礼などの勤行の時間もないからです。
また、「母のところまで行くとバクティだけでなくジュニャーナも手に入る」とも語ります。
<ヴィヴェーカーナンダ>
ですが、その現われ方には差があるのです。
ラーマクリシュナは、「ナレンドラを見ると、私は絶対者の中に没入してしまう」と語りました。
ナレンドラをじっと見て「これが二者の中の一つ(人間)で、これがもう一つ(神?)だ」と語ったこともありました。
また、ラーマクリシュナはヴィヴェーカーナンダに神通力を与えようと申し出ましたが、ヴィヴェーカーナンダは断りました。
ラーマクリシュナは、死ぬ直前には、自分が持っているパワーを彼に渡したそうです。
ヴェーダーンタのその後の活躍を考えると、ラーマクリシュナの見立ては正しかったのでしょう。
*ヴィヴェーカーナンダについては「ヴィヴェーカーナンダと普遍宗教」をお読みください。
現代ヨガ(アイアンガーとパタビ・ジョイス) [近・現代インド]
近現代の「ハタ・ヨガ」は、シュリマン・T・クリシュナマチャリアの弟子だった、B・K・S・アイアンガーとパタビ・ジョイスによって広められました。
アイアンガーが広めたのは、今日一般的に知られる「ハタ・ヨガ」で、パタビ・ジョイスが広めたのは、動きがあって様々な修練を一度に行う「ヴィンヤサ・ヨガ(アシュタンガ・ヨガ)」です。
しかし、両者の「ハタ・ヨガ」は、タントラ色の濃いものではありません。
彼らはバラモン階級に属するので、古典ヨガやヴェーダーンタ、サーンキヤなどのバラモン哲学の伝統に、「ハタ・ヨガ」を一体化したものとなっています。
つまり、『ヨガ・スートラ』の8支をベースにしていて、観想・マントラを重視しない、あまり語らないのが特徴です。
両者ともに基本的には「ヨガ・スートラ」の8支則の順に修練すべきものであると考えます。
しかし、「アーサナ(体位)」や「プラーナーヤーマ(調気法)」の修練においても、それ以降の「プラティヤーハーラ(制感)」、「ダラーナ(凝念)」、「ディヤーナ(静慮)」、「サマディ(三昧)」の修練を同時に行うことを重視します。
この点では、「ハタ・ヨガ」的であると言えます。
また、ヨガの最終的な目的を、心身(プラクリティ)の「止滅」や、真我との「分離」ではなく、創造的な「自由」として捉え、ヨガが否定するのは楽しみではなく束縛であるとする点でも、「ハタ・ヨガ」的です。
<アイアンガー>
アイアンガーの8支についてピックアップして説明します。
アーサナの目的は、心身の浄化、保護、癒しだけでなく、精神的な目覚め、自我を弱くすることにもつながるとします。
また、アーサナによって、身体の各部分・動作に知性・気づきを吹き込み、包み込むことを目的とします。
アーサナでは、身体を外に伸ばすことを意識し、次に、さらにその外まで心を伸ばすと考えます。
伸ばし、広がることによって空間が生まれ、自由をもたらします。
身体の自由は心の自由をもたらし、究極の自由に到達します。
また、皮膚を伸ばすことは、神経の末端を伸ばすことで、そこに蓄積していた不純物が取り除かれます。
アーサナで身体を精一杯伸ばしていても、正しく行われていれば、内なる核(真我)にとどまっていられるので、くつろぎを感じます。
日常の身体感覚や動作は、習慣化された自我や言葉と結びついて、無意識のうちに限定されています。
また、精神的なコンプレックスは、何らかの身体症状として身体と一体化しています。
ですから、アーサナによって、日常とは無関係なポーズをとり、普段以上に筋肉を伸ばしたり曲げたりすることで、日常の身体感覚・動作を自由にする、つまり、意識化し、相対化し、変容可能な動的なものとすることができるのでしょう。
それは同時に、習慣化された自我や言葉、コンプレックスから自由になることでもあります。
次に、プラーナーヤーマとは、表面的には呼吸と止息の時間を伸ばすことです。
一瞬一瞬の座り方と呼吸の流れを観察し、正していきます。
プラーナーヤーマは、「生命に捧げる祈り」であり「献身・愛・自己放棄の行為」であると言います。
まず、吸気では、無限なる神・宇宙の生命エネルギーを取り入れ、その後の止息では、吸収したエネルギーを全身に行きわたらせ、外なる神と内なる神が融合した状態となりつつ、自分は真我であるという確認をもとに心を安定させます。
呼気では、心からすべての妄想を取り除きつつ、宇宙エネルギーと融合します、その後の止息では、残っている記憶とエゴの汚れを取り除き、ストレスが流れ出して、自己を放棄し、外なる宇宙に溶け込みます。
最も基本的なプラーナーヤーマは、「ウジャーイー」です。
ただし、アイアンガーの言う「ウジャーイー」は、3つの「バンダ」(喉、腹、肛門の締め付け)と呼吸・止息を組み合わせたものです。
バンダはプラーナを分散させずに、サマーナとプラーナを上昇させ、スシュムナーにプラーナを入れやすくします。
アイアンガーは、「ダラーナ」について、「アーサナ」への集中を勧めます。
アーサナの実習の最中に、身体の各部分への注意力の波を送ると、それが全身に広がり、一つになります。
「ディヤーナ」は、基本的に、閉眼で、対象を持たず、思考しないというスタイルです。
そして、アイアンガーは「プラーナーヤーマ」、特に止息(クンバカ)の状態への集中を勧めます。
「サマディ」については、これをアートマン=ブラフマンの体験、存在の大海へ融合した状態とします。
「サマディ」は、瞑想の結果として訪れる、神の恩寵によって到達するものだと言います。
アイアンガーは、「クンダリニー・ヨガ」については多くを語りませんが、「サマディ」の体験と同じ性質のもの、つまり、自分から起こそうとして起きることではない、近道ではない、と言います。
これは、タントラの考え方とは異なります。
<パタビ・ジョイス>
パタビ・ジョイスのヨガの特徴は、「ヴィンヤサ」と呼ばれる一連のセットとなったポーズを、呼吸などと連動させながら連続的に行うことです。
一般に「アシュタンガ・ヨガ」という名前で呼ばれていますが、「アシュタンガ」というのは古典ヨガの「八支」を意味しますので、本ブログでは「ヴィンヤサ・ヨガ」と呼びます。
「ヴィンヤサ・ヨガ」は、古代の聖者ヴァーマナ作の経典「ヨガ・コーンルタ」を元にしたヨガとされます。
しかし、「ヴィンヤサ・ヨガ」がいつ頃にどういう影響で生まれたものか、詳しいことは分かりません。
「ヴィンヤサ・ヨガ」は、多数の「アーサナ」と、プラーナのコントロール、「バンダ(締め付け)」、「ドリシュティ(視線の固定)」を重視する点で「ハタ・ヨガ」的です。
「ヴィンヤサ・ヨガ」は、在家の修行者が、短い時間の練習によって、古典ヨガの八支を習得できるようにするために、作られたとされています。
2時間程度の練習の中で、8支を同時に行います。
「ヴィンヤサ・ヨガ」の8支についてピックアップして説明します。
第3支の「アーサナ」は、一連の動きの全体を指します。
第4支の「プラーナーヤーマ」では、「ウジャーイー」という喉頭部を細く締める呼吸法を重視します。
そして、動きを呼吸に合わせ、プラーナによって体を動かすようにします。
第5支の「プラティヤーハーラ」は、「ドリシュティ」を通して練習します。
視線を特定の場所に固定し、聴覚的には呼吸の音に集中することで心を内に向けます。
先ほどの「ウジャーイー」を行うと、シューという微かな音がするので、これを聴きます。
第6支の「凝念(ダラーナ)」については、3つの「バンダ」に集中することで練習します。
これによって、動きと呼吸と気づきを結びつけます。
「バンダ」はプラーナのコントロールが目的ですが、「ヴィンヤサ・ヨガ」では、気づきを重視します。
第7支の「静慮(ディヤーナ)」については、瞑想において、対象に集中することを解いた後、意識的なコントロールを捨てることを重視することもあるようです。
作為なしの瞑想は、ヒンドゥー系では、ラマナ・マハリシやニサルガダッタ・マハラジに近いと思います。
第8支の「三昧(サマディー)」については、特別な解釈はないようですが、タントラ的な「ハタ・ヨガ」同様、プラーナが中央管に入った時に起こるとされます。
以上のように、「ヴィンヤサ・ヨガ」ではポーズ(動き)と「ウジャーイー」、「バンダ」、「ドリスティ」の3つを結びつけることを重視し、これを「トリスターナ」といいます。
「ヴィンヤサ・ヨガ」には、初級(プライマリー・シリーズ)、中級(インターミディエート・シリーズ)、上級(アドヴァンスト・シリーズ)の3つのシリーズがあります。
プライマリー・シリーズは、肉体的な病気の根本原因を取り除くこと(ヨガ・チキツァ)を目的とします。
ポーズとしては、前屈や股関節の回転を中心にしています。
これを終えるには、毎日行って1年ほどかかると言われています。
インターミディエート・シリーズは、プラーナの脈管の浄化(ナーディ・ショーダナ)を目的とします。
ポーズとしては、後屈や、脚を頭の後ろにもって来る姿勢、アームバランスを中心にします。
いずれのポーズも中央管のプラーナの上昇をしやすくしますが、後屈は中間部、脚を頭の後ろにもって来る姿勢は下部、アームバランスは胸から上部を浄化・刺激します。
アドヴァンスト・シリーズ(A、B)は、最終的にはクンダリニーの上昇を目的とし、「スティラ・バーガ(神の忍耐)」と呼ばれます。
ポーズは、インターミディエート・シリーズと似ていますが、各ポーズの効果を中和する統合セクションがないのが特徴です。
3つのシリーズは、グナで言えば、タマス、ラジャス、サットヴァに、ポーズの種類で言えば無生物、動物、神聖なもの(神)のポーズに対応します。
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