悪と堕落の捉え方 [通論]

古今東西の神秘主義思想、秘教が、悪と堕落についてどのように捉えてきたかについて、列記するような形で簡単にまとめます。


<部族文化の悪と堕落>

世界の多くの部族文化の神話には、「失楽園(堕落)」の神話があります。
それらの中には、人間が「言葉」や「社会・文化秩序」を獲得することよって、自然な状態が失われたことを表現しているものが多くあります。

神話では、これと同時に、「死」や「仕事」が発生したとされることもあります。

神話が語るその原因は多様です。

例えば、女が杵や機織りの仕事をしていると、天を突いてしまったので天が上昇して遠ざかった、という神話がアフリカをはじめ世界の諸地方に多く存在します。
これは、「文化」的作業(繰り返しの要素のある)が原因による「失楽園」を表現しているのでしょう。

他にも、神からのメッセージの伝達ミス、聞き間違え、死ぬという思い違い、などの原因で死が発生したという神話も多くみられます。
これらはどれも「言語」や「観念」が関係しています。

「旧約聖書」の「失楽園」の神話は、人間が善悪を知る「智恵」の実を食べたことが原因です。
これも、「言語」、「文化秩序」による「堕落」と同様です。


部族文化では、この「文化秩序」を作っている規則(タブー)を犯すことが「悪」です。
タブーを守ることは人間社会だけの問題ではなくて、自然の秩序・豊穣を保証するのです。

ですから、部族文化の神話における、この意味での「失楽園」と「悪」は、「文化秩序」の獲得という同じ事態に対する反対の価値観(両義性)を表現しています。


<ヘレニズム的な無知として堕落>

エジプトのオシリス神話では、オシリスはセトに騙されて、「等身大の棺」に入ってナイルに流され、体を分割されて死にます。
「等身大の棺」は、「言語」や「イメージ」、あるいは、それらによって構成される「自我像」などの「表象」の象徴でしょう。
つまり、真実とその「表象」を取り違えたことが死の原因なのです。

ヘレニズム時代にエジプトのアレキサンドリアで書かれたヘルメス文書「ポイマンドーレス」にも、似たような神話的思想が継承されています。
神的な原人間である「アントロポス」が、地上の水面に写った自分の像に囚われて地上に「堕落」するのです。
「鏡像」も、「等身大の棺」と同様に「表象」(イメージや言語、自我像)の象徴です。

これらの神話は、旧約や部族文化の「言葉」や「智恵」が「堕落」の原因であるという思想を継承しています。
ですが、これは、「表象」と真実を捉え違うことであり、「智恵」ではなく「無知」であることを表現しています。

ですが、「ポイマンドーレス」は、アントロポス自身も神ヌースの「似像」であると考えます。
そして、アントロポスには「ロゴス」があるのに対して、地上の水面に写った「似像」にはロゴスが存在しないと語ります。
つまり、真実性のある像とない像を区別しています。

ヘルメス主義と同時期のアレキサンドリアでも盛んだったグノーシス主義は、より明確に、「鏡像」と「知(グノーシス)」を欠いた「無知」による「堕落」に関して語ります。

まず、「ヨハネのアポクリュフォン」は、至高神が自分を「取り巻く光の水」の中に自身の「似像」を見て認識したことで、最初の流出による「バルベーロー」を創造します。
つまり、最初の像が、神の自己認識によって生まれたことを表現しています。

また、プトレマイオス派グノーシス主義では、霊的智恵の女性原理である「ソフィア」が、認識できない「深淵」である「原父」を認識しようとして堕落の危機を生みました。
「原父」はロゴスで認識できない存在であるのですが、その認識できないという認識の欠如(無知)によって、像を形成できず、自分自身を形成できなかったのです。
「ソフィア」は、像として認識できない根源的存在を像として認識しようとした「無知」によって堕落したのでしょう。

つまり、ヘルメス主義やグノーシス主義は、「ロゴスを超えた像なき存在」が「ロゴスのある像」を生み出す自己合一=自己対象的な認識段階と、自他分離した自他を対象とした認識で生み出される「ロゴスのない像」の違いを述べているのでしょう。


また、グノーシス主義は、「堕落」が原因になって「悪」が生まれ、宇宙はこの「悪」なる創造主によって作られたと語られます。

つまり、部族文化とは違って、「堕落」と「悪」は同一の原理で捉えられます。
そのため、グノーシス主義は現世否定の思想になってしまいます。


<インド的な無知の堕落>

ヴェーダーンタやサーンキヤといったインド哲学や仏教などでも、「無知」が「堕落(輪廻)」の原因とされます。

やはり、「言語」、「イメージ」、「自我像」を真実と取り違える「無知」であり、それによって執着、渇愛といった煩悩が生まれます。
こいった真実でない「表象」は、「幻影」と表現されます。

そして、「悪」とは、このような認識やそれを説く者に対する敵対者です。

つまり、ここでも、部族文化とは違って、「堕落」と「悪」は同一の原理で捉えられます。
そして、やはり、現世否定の思想になってしまいます。

これらのインド古代期の思想では、宇宙創造や現世、言語的認識を否定的に捉えます。
宇宙創造は「幻影」であり「悪」なのです。
ですから、その宇宙の素材である「根源物質(プラクリティ)」も、宇宙創造の根本原因である「幻影(マーヤー)」も、「悪」です。


ですが、インドでは徐々に現世肯定的な思想への転換が行われ、中世に起こった超宗教・宗派的運動のタントリズムでは、それがはっきりとした形になりました。

宇宙創造は肯定的に捉えられるようになり、否定的存在だったプラクリティに対して、動的な女性原理のシャクティが肯定的存在として重視されるようになりました。

また、タントリズムでは通常の言語とは異なるマントラが重視されました。
これは、単なる静的な表象ではない、動的な象徴的言語で、上記の「ロゴスある像」と「ロゴスのない像」の違いと似ています。

このようにタントリズムでは、固着・凝縮された創造が「悪」となり、それを活性化し、自由な創造が「善」となりました。


<形相の有無、産出力としての善悪>

別項でも書いたように、プラトン、アリストテレス哲学では、「素材的なもの(質料、コーラ)」に対して、「形態的なもの(形相、イデア)」に価値を置き、存在の階層における基準としました。
これは、「質料的なもの」を「悪」としているといっても過言ではありません。

プラトン主義、新プラトン主義では、形相を「光」、質料を「闇」とも表現します。
そして、下位の存在を上位の存在の「影」、「映像」とも表現します。

プラトンにおいては、地上へと輪廻することは、魂の「堕落」であり、イデア界の記憶を忘却することで起こります。

「表象」も「形相」ですが、単純に「形相」の欠如や不正確さを「悪」とすることは、一種の合理主義です。

それに対して、上に紹介したように、グノーシス主義やタントリズムのような神秘主義的思想は少し違った考え方をします。
つまり、「形相」を生む力能、つまり、動的、直観的であることを階層の基準とし、この力能が欠如した固着した形相を悪と考える傾向があります。
上記した、「ロゴスのある像」と「ロゴスのない像」の違いも、力能の有無が本質であると考えることもできます。

プラトンの「イデア」の捉え方にも、この2つの思想への揺れがあります。

「緊張」の度合いを階層の基準とするストア派哲学も、後者の考え方に近いものでしょう。
これは、現代哲学のドゥルーズにまでつながります。


<啓示宗教の悪と堕落>

イラン系の啓示・救済宗教は、「善と悪の戦い」を強調します。
その影響は、ユダヤ教、キリスト教、イスラム教の根本的な世界観に、さらには、ヒンドゥー教や仏教、道教などの終末論に及びます。


マズダ教(ゾロアスター教)や初期ズルワン主義では、悪神アーリマンは、原初神が生む二神の一柱です。
ミトラス教では、三世代目の三神の一柱です。
マニ教では、善と悪の原初の二神の一柱です。

悪神の本質は、明確ではありませんが、「光」に対する「闇」として表現されます。
マニ教では、これは「物質性」でもあります。

マズダ教やマニ教では、物質世界は、悪神を閉じ込めるために作られた、「善悪の戦い」の場です。
マニ教は現世否定的ですが、ミトラ教は進化論的で物質世界に積極的な意味を見出します。


イラン系宗教では、細かく見れば、「堕落(堕天)」は3段階で考えられます。
「神(天使)」の堕天(悪神化)、「神的な(天上の)原人間」の堕落(堕天)、「最初の(地上の)人間」の堕落です。

初期ズルワン主義では、悪神アフリマンは原初神ズルワンの「疑惑」により生まれます。

「原人間」の堕落の原因は、マズダ教、ミトラ教では、悪の攻撃や誘惑です。
マニ教では、「原人間」的存在であるアフラ・マズダは、作戦で自分から悪神に食べられます。

「最初の人間」の堕落は、マズダ教では、悪神が創造主であると嘘をつくこと、ミトラ教では誘惑が原因です。


旧約聖書の失楽園は、蛇の誘惑によって善悪を知る「智恵」の実を食べたことが原因です。
キリスト教は、この失楽園の本質を、明確に「罪」とし、蛇を「悪」としました。

ですが、部族文化や神秘主義の伝統では、蛇は無意識的な「智恵」をもたらす不死の存在です。
グノーシス主義のオフィス派は、旧約聖書の蛇を神の使者であり、人間に「智恵」と共に「自由意志」をもたらしたとして、崇拝します。

また、キリスト教圏でも、アダムを礼拝することを拒否して「堕天」したとされるルシファーを、「自由意志」と結び付けて評価する思想が生まれました。
「失楽園」のミルトンやヤコブ・ベーメもその立場です。
人間の「堕落」はその再現となります。

ルネサンス思想家のパラケルススでは、物質世界(地上)は、「堕落」した人間を復帰させるために作られた場です。
これは、イスラム教イスマーイール派でも、シヴァ教カシミール派でも同じです。


<カバラ、魔術の不均衡としての悪>

中世カバラの代表的思想家であるイサク・ルーリアは、創造を、「裁き」という性質を持つ「残光」と、能動的な「直線の光」の2つの原理の光の戦いと考えました。
これは、イラン系宗教の善と悪(光と闇)の戦いのカバラ的再解釈です。

そして、「裁き」の光が凝縮した第5セフィラのゲブラー(厳格)が、第4セフィラのヘセド(慈悲)を拒否します。
それによって、セフィロートである光の容器が破壊され、バラバラになって物質的なアッシャー界に落ちました。
これが「悪」、「堕落」の発生です。

つまり、「厳格」、「裁き」が「悪」と「堕落」の原因であり、これは同時に、「慈悲」との間の「不均衡」が原因なのです。

近代における西洋魔術の初の実践的な結社ゴールデン・ドーンにおいても、セフィロートの力の「不均衡」を「悪」と考えます。


<神智学、人智学>

近代神智学は、東西の過去の神秘主義哲学、秘教的宗教の統合を目指しました。

神智学協会のブラヴァツキー夫人は、諸宗教で語られる「天使の反乱」を、自身の宇宙進化論に基づいて、霊的存在(アグニシュバッタ)が「自由意志」によって人間に受肉することを拒否したことの神話的反映だと解釈しました。

また、「堕天」は、人間に「自由意志」をもたらし、進化させるために人間に受肉した霊的存在(モナド、高級自我)が、一時的に低次の要素に結びついてメンタル体(低位マナス)となってしまったことの神話的反映だとしました。

ルシファー、アザゼル、アグニシュバッタ(アスラ)、アフラ・マズダは、この受肉した霊的存在の各民族での表現であり、「堕天使(悪魔)」であるアーリマン、サタンは、それがメンタル体となったものであると。

近代神智学の特徴は、「悪」や「堕落」の解釈に、進化論に結びつけた受肉の観点を持ち込んだことです。

この神智学の宇宙進化論を再解釈すると、やはり、人間が自我や言語的な「知性」を持ったことの否定的側面であり、それは同時に「自由意志」の発生でもあると言えます。


神智学協会から独立して人智学協会のリーダーとなったルドルフ・シュタイナーも、自身の宇宙進化論に基づいて類似した解釈を行っています。

シュタイナーは「悪」に2つの原理、ルシファーとアーリマンがあると説きます。

天使の「堕天」は、ルシファーが進化から取り残される代わりに自由な存在になったことを反映しています。
そして、「原罪」は、ルシファーが人間のアストラル体の中に住み着いて、自由と感覚的欲望を与え、感覚的世界へと引きずり下したことを反映しています。

ルシファー(デーヴァ)は、人間の魂を幻想に閉じこめますが、その力によって人間は物質界から自由でいられます。
一方、アーリマン(サタン、アスラ)は、人間に物質界を志向させ唯物論を信じ込ませますが、これによって自然観察(科学)が可能となります。

シュタイナーは、この二つの力の均衡を取ることで、人間が進化できると考えます。
大雑把に言えば、非物質的な想像力と物質世界の分析力の均衡が必要ということでしょうか。
彼にとって「悪」は「不均衡」から生じる相対的な存在です。

(2021-01-19)


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