瑜伽行唯識派 [古代インド]

「瑜伽行唯識派(ヨガ・チャーラ)」は、「中観派」と並ぶインド大乗仏教の2大学派の一つです。

「唯識派」の思想は、説一切有部の教団の中の「瑜伽師(ヨガ・チャーラ)」と呼ばれる瞑想修行を行っている僧達が、その体験を元にしつつ、アビダルマや「空」思想を取り入れて作りました。
厳密に言えば、「唯識派」は学派名で、それをになったのが「瑜伽師」です。
両者の関係は、サーンキア派とヨガ派の関係と同じでしょう。

唯識派は、無常・無我である人がどのように輪廻し、業の因果法則を引き受けるのかを、唯心論的な世界観と、無意識的な心の分析を通して理論化しました。

唯識派は、マイトレーヤ(弥勒、2-3C)に始まり、アサンガ(無著、4C)、ヴァスバンドゥ(世親、4C)の兄弟が教学を大成しました。
しかし、弥勒は、実在人物ではなく、本尊としての弥勒菩薩だと推測されます。

その後、論理学を完成したディグナーガ(陳那)、『成唯識論』の元となる思想を展開したダルマパーラ(護法)などが出ました。

主な経典は、『解深密経』、論書は、『瑜伽師地論』、『現観荘厳論』、『摂大乗論』、『唯識三十頌』、『成唯識論』などです。

唯識派は、「三時教判(三転法輪説)」といって、仏の思想は、「小乗」(初転法輪)、「中観派」(第二転法輪)、「唯識派」(第三転法輪)と3段階で、順に、より深い教えが説かれたと主張します。
その3段階の思想はそれぞれ「有」→「無」→「中道」を本質とし、最後の唯識説が仏の密意であるとします。
つまり、中観派が真理についてただ「空」と否定的に表現しただけであるのに対して、唯識派は肯定的にその構造を示そうとしました。


<教義>

仏教では瞑想において、主客未分、無概念(無分別)の状態を体験します。
中観派が「空」と表現したこの状態の対象を、唯識派は「識(ヴィジュニャプティ)」と表現します。
この言葉は、本来は「表象(作用)」という意味ですが、この主客未分の状態から、分別する作用、分別された世界まで、すべてを含んだ概念です。

唯識派は、日常的な認識世界、心身内外の世界はすべて、「識」の作用によって表象されたものにすぎない、と考えます。
このことを「唯識性」と言い、「心の法性」とも言います。
この認識を理解している状態を「住唯識」と言います。
ですから、「法」も「我」も「識」によって仮設されたものにすぎません。

アビダルマ(説一切有部)では、実在である「法」を大きく「色」、「心(王)」、「心所」、「不相応行」、「無為」の五位に分類します。
唯識派では、「識」のみが実在なので、以上の「法」はすべて二次的な存在でしかありません。

もう少し厳密に言えば、「心(王)」と「心所」が「識(ヴィジュニャーナ)」であり、「色」、「不相応行」は仮の「法」、「無為」は「識」の本性です。
説一切有部では「心王」に「識」がありますが、唯識派では、「心王」に八識(後述)があるとします。
そして、「不相応」に「名身」「句身」「文身」などの言語に関するもの、「無為」に「真如」があります。
「色」、「心所」、「不相応行」、「無為」は、本質的には「心(王)」に、つまり、「識」に帰属します。

唯識派では、説一切有部と同様、「涅槃」は無為法、「識(心)」は有為法として区別しますが、「涅槃」を「識の本性」と表現することで、両者が連続的なものとなりました。

唯識派では、未分化な状態から分別された世界が生まれる過程を、「転変(パリナーマ)」と呼びます。
これは、サーンキヤ哲学がプラクリティから世界が生まれる過程を表現した「展開(パリナーマ)」と同じです。

唯識派では「識」に8種類の階層(八識)を考えます。

・「前六識」(識) :5感に対応する「眼識」「耳識」「鼻識」「舌識」「身識」と「意識」
・「末那識」(意) :自我の執着を生み出す無意識的な意識
・「阿頼耶識」(心):一切を生み出す根源的な意識。「阿陀那識」、「一切種子識」、「異熟」とも呼ばれる

アビダルマでは「識(ヴィジュニャーナ)」、「意(マナス)」、「心(チッタ)」はほぼ同じ意味で使います。
しかし、唯識派では、一般に「識」は前六識、「意」は「末那識」、「心」は「阿頼耶識」を指します。

「阿頼耶識」は根源にある「識」で、他の七識を生み出します。
「阿頼耶識」は輪廻の主体であり、それ自体は善でも悪でもありません。

「阿頼耶識」は「種子(習気)」を蔵しています。
「種子」は、人が無常であるのに業がどう引き継がれるかを説明する概念で、部派の「経量部」より取り入れました。
ちなみに『倶舎論』では、種子は五蘊に溜ります。

行為(業)は、臭いが移るように、その影響・結果を「阿頼耶識」に「習気=種子」として植え付け(薫習)ます。
この行為の結果という側面が「習気」と表現されます。

「習気=種子」が原因となって、成長して、行為を生み出します。
この行為の原因としての側面が「種子」と表現されます。

七識が「阿頼耶識」に「種子」を植え付け、「阿頼耶識」の「種子」が七識を生み出すという、相互関係が唯識派の考える「縁起」であり、「阿頼耶識縁起」と呼ばれます。
「識」はこのように、相互関係によって、また、個々の「識」自身として、常に変化しつづけます。

ですから、唯識派の「(識)転変」は、サーンキヤ哲学の「展開」のように深層から一方向的に創造されるわけではありません。
唯識派では「識」は「転変」するから無常なのであり、一方、サーンキヤ哲学では「転変」するので常住とされます。

「阿頼耶識」の別名の「阿陀那識」は、肉体を形成する潜在的な力として『解深密経』で説かれました。
「阿頼耶識」が完全に清浄になって仏になった場合は、「阿頼耶識」という名は使えません。
しかし、「阿陀那識」は無始より仏になった後でも呼ぶことができる名前です。
「阿陀那識」には、「如来蔵」という概念を取り込んでいると考えることもできます。

「意識」の原義は「意(マナス)に依る識」、「末那識」の原義は「意(マナス)という名の識」です。
「末那識」は「阿頼耶識」を自我であると思い誤って執着する「識」です。
サーンキヤ哲学の「マナス」は唯識派の「意識」、「アハンカーラ」が「末那識」に対応します。

「末那識」は執着の根源ですが、それ自体は善でも悪でもないとされます。
具体的に善悪と伴う業を生み出すのは「意識」であり、それによって「業種子」が生まれます。

中観派までの仏教は「世俗諦」、「勝義諦」という2つの世界を考えたのに対して、唯識派では「三性説」といって認識世界を3つで考えます。

「世俗諦」・「有」に相当するのが、分別された執着のある対象としての世界である「遍計所執性」です。
「縁起」に相当するのが、相互依存する実在としての「識」の活動である「依他起性」です。
「勝義諦」・「空」に相当するのが、執着をなくした「識」である「円成実性」です。

理論的には「円成実性」は無始なるものですが、現実的には、その名の通り目標として目指されるものです。
この主観的側面は「無分別智」であり、客観的側面は「真如」です。

「阿頼耶識」には煩悩によって汚染された部分と清浄な部分があります。
修行によって「阿頼耶識」を清浄なものにしていくことを「転依(パラヴルティ)」と言います。
「阿頼耶識」の中にある「有漏の種子」をなくし、「無漏の種子」を成長されることで「智」が生まれます。

この過程は、「転識得智」とも言い、「識」が「智」に変化します。
具体的には下記のように変化します。

1. 前五識  → 成所作智
2. 意識   → 妙観察智
3. 末那識  → 平等性智
4. 阿頼耶識 → 大円鏡智

「意識」が変化した「妙観察智」は「後得智」の正体です。

「四智」を獲得すると仏になるので、「仏の三身」が獲得されます。
真理そのものである「法身(自性身)」は「真如」とも呼ばれます。
霊的な体である「報身」は「平等性智」と共に生まれます。
肉体である「変化身」は、「成所作智」と共に生まれます。
また、環境としての器世間は仏国土となります。

如来蔵思想の影響を強く受ける前の唯識思想には、「智」の原因になる「無漏種子」があるかないか(受け入れることができるかで、きないか)は、人によって異なるとする説があります。
「菩薩」になれる種子のある人、「縁覚」になれる種子のある人、「声聞」になれる種子のある人、一切種子のない人、といった区別が生まれながらにしてある、ということです。

この「四智」に「法界清浄」という考えを合わせた「五法」は、密教の「五智」へとつながります。
また、唯識派は、「識」が究極的には「光」として体験されると考える場合もあるので、これも密教につながる考えです。


<歴史>

唯識派は、その当初から、先行していた如来蔵思想の影響を受けていました。
徐々にその影響は強くなり、「阿頼耶識」と「如来蔵」の結合・同一視を生み出しました。

後期の唯識派は、「無相唯識派」と「有相唯識派」に分かれ、論争があったとされます。
この二派に関する最初の記述は、シャーンタラクシタの『中観荘厳論』(8C)です。
しかし、この当時でさえ、はっきりと二派が存在したかどうかも不明です。

「有相唯識派」は、認識は対象の形相を有していると考えます。
分別以前に感覚像としての直感があり、これは真理であるとします。

ディグナーガ(陳那、5-6C)、ダルマパーラ(護法、6C):『成唯識論』、ダルマキールティ(法称、7C)らが主な論者です。
玄奘以降の中国・日本の法相宗は、この系統です。

一方、「無相唯識派」は、認識は対象の形相を有していないと考えます。
感覚像も含めて主客の構造があり虚偽であるが、それを生み出す働きの「心の輝き」は真実であるとします。
これが、密教の「光明」につながるのかもしれません。

スティラマティ(安慧、5-6C)が主な論者です。
彼は、アサンガ、ヴァスバンドゥ兄弟が究極的には「識」の実体性を否定したことを受け継ぎ、かつ、如来蔵思想の影響を強く受けました。

また、その後、「無相唯識派」は「中観自立論証派」の影響を受け、シャーンタラクシタが「瑜伽行中観派」を形成し、カマラシーラらに受け継がれます。
この二人はチベットでも活躍します。


<実践>

唯識派の観法は「唯識観」と呼ばれますが、それでは、認識そのものを対象にした認識が重視されます。

「成唯識論」の修行体系を紹介しましょう。
これは、中観派(般若学、「現観荘厳論」)と同じく、「五位(五道)」と「菩薩の十地」を基礎としています。
「五位(五道)」は、「資糧位(資糧道)」、「加行位(加行道)」、「通達位(見道)」、「修習位(修道)」、「究極位(無学道)」の5段階です。

1「資糧位」の段階では、教説を学び、利他を行いながら、「四無量」などの「止」と初歩の「観」を行います。

2「加行位」では、唯識派独特の観法(唯識観)によって、後天的な煩悩障と所知障(法我執)を抑えます。
具体的には、「倶舎論」、「現観荘厳論」と同じく、「四善根」の瞑想ですが、その特徴は「唯識観」と呼ばれる唯識派の教学に沿った観法を行う点です。

「四善根」の最初の2段階は「四尋思観」と呼ばれ、認識の対象である言葉・概念・主語性・述語性の4つは仮の存在であり、実在しないと観察・思索します。
後半の2段階は「四如実智観」と呼ばれ、先の認識の4つの対象を作り出した主体も存在しないと観察・思索します。

ここまでが凡夫の段階で、次からが聖者の段階(菩薩十地)です。

3「通達位(見道)」は、無漏で無概念の「無分別智」によってあるがままの真如を見る段階です。
また、それを基にした概念的な「後得智」を得ます。
これによって、後天的な煩悩障と所知障の種子と習気を断じます。
菩薩の初地に入り、「妙観察智(後得智)」と「平等智」が「意識」と「末那識」から生じます。

「無分別智」の瞑想は「真見道」と呼ばれ、「住唯識」の状態になります。
「後得智」の瞑想は、「相見道」と呼ばれ、主客の空を対象にした「三心相見道」と、四諦を対象にした「十六心相見道」の2つの観法があります。

4「修習位(修道)」では、波羅蜜を行じながら十地まで進み、先天的な煩悩と所知障の種子と習気を断じます。

5「究極位」では、「四智」を得て、仏に到達します。
「大円鏡智」と「成所作智」が生まれ、「妙観察智」と「平等智」が完成します。

修行道について詳しくは、姉妹サイト「仏教の瞑想法と修行体系」の「倶舎論」(説一切有部系):各論をご参照ください。

唯識派は、無意識にある「種子」に業の結果と原因を求め、また、智の原因をも求めました。
しかし、純然たる神秘主義思想である密教のように、もともと無意識に清浄な智が存在すると考え、「種子」を創造の原型と考えるには至りませんでした。
  


nice!(1)  コメント(1) 

nice! 1

コメント 1

ぽめきち

マナ識=アハンカーラの説明のところ、すごく分り易かったです。
唯識三十頌のなかで、マナ識がアラヤ識の何に対して執着して自己と思っているか、
諸説あって、アラヤ識全体だとする説明が定説的なようですが、これでは全く意味が分かりません。
マナ識の執着の対象はアラヤ識の作り出した身体であって、マナ識=アハンカーラという説明はすごく納得ができました。
ありがとうございます。
by ぽめきち (2015-12-27 10:06) 

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。
中観派と般若学如来蔵思想 ブログトップ

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。