神智学協会アディヤール派と分派の歴史 [近代神智学・人智学]

ブラヴァツキー夫人と神智学協会の歴史」に続く後編、ブラヴァツキー夫人亡き後の神智学協会、及び、その分派の歴史です。


<アメリカのポイント・ローマ派>

ブラヴァツキー夫人とオルコットがニューヨークを離れた後、アメリカの神智学協会はジャッジが率いていました。
夫人亡き後、彼女の「エソテリック・セクション(ES)」の外部長でもあり、ブラヴァツキー夫人派だったジャッジは、ロンドンで夫人の後を継いだベザントと組んで、インド・アディヤールにいる会長のオルコットを追い落とそうとする内紛を起こしました。

ですが、ベザントがオルコット側に寝返った結果、1895年に、ジャッジは「米国神智学協会」を設立して分離しました。
また、ジャッジは、自身がクート・フーミ大師である宣言するようになります。
これによってヨーロッパ、アメリカの各支部は、両派に分裂しました。

1896年、ジャッジは亡くなり、彼の側近だったハーグローヴを経て、無名だったキャサリン・ティングリー(1847-1929)が、ジャッジ派の主導権を握りました。

キャサリンは、協会の名称を「普遍的同胞団と神智学協会」に改名します。
その後、1898年には、カルフォルニアが人類進化の新しい中心地になるという神智学の教説に基づき、カルフォルニアのポイント=ローマに本部を移転して、ここにユートピアの建設を始めました。

キャサリンは、ポイント=ローマに、世界各地の宗教建築様式で施設を建築し、儀式的な劇を上演しました。
また、子供たちのための学校の設立し、考古学の研究を行う遺跡研究室も設立しました。

ですが、キャサリンの権威主義的姿勢への反発もあり、ロバート・クロスビーの「神智学徒ロッジ連合」、J・D・バックの「人民寺院」、クレーサーの「ブラヴァツキー連盟」、そして、やや後の1907年にはマックス・ハインデルの「アメリカ薔薇十字会」などが、ポイント=ローマ派から分離独立しました。

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*ジャッジ、ティングレー、ハインデル


<アディヤール派>

インドのアディヤールの神智学協会の本部では、アニー・ベザントが主導権を握りました。
彼女は、チャールズ・W・リードビーター(1854-1934)を気に入り、二人はタッグを組むようになります。

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*ベザント・リードビーター

リードビーターは、元イギリス国教会の牧師であり、シネットの著作をきっかけに1883に協会に入会しました。
クートフーミ大師に弟子入りの手書きを書いたことをきっかけに、インドに渡ってブラヴァツキー夫人の秘書の仕事を行いました。
1995年には、ロンドンでアニー・ベザントの信頼を得て、ヨーロッパ支部の副幹事長、副書記になりました。
彼は、古代史や原子構造、協会員の過去生などを霊視によって解明して発表するなど、透視をもとにした教義の整備に取り組みました。

ですが、ベザント、リードビーターの二人が主導するアディヤール派は、協会メンバーに自身らの教義への信奉を義務付けるようになります。
そして、1897年には、ブラヴァツキー夫人の教義のネタ元だった学者のミードも脱退します(後に「クエスト協会」設立)。
こうして、神智学協会に存在した学究サロン的側面は、なくなっていきました。

ですが、1906年に、リードビーターは、協会の少年を指導する際に、マスターベーションを強要したという告発を受けて、一時脱退します。
翌1907年には、会長職にあったオルコットが死亡し、ベザントが会長を引き継ぎました。
そして、これを機に、リードビーターは協会に復帰しました。

リードビーターは、メーソン的な儀式や位階、式服に興味を持つ人物だったため、神智学協会においても、そういった側面が膨らんでいきました。

リードビーターに反発して、1909年にイギリス支部からは、シネットが脱退して「エレウシス協会」を設立しました。


<クリシュナムルティとメシアニズム>

ブラヴァツキー夫人は、1975年までは、大師は姿を表さないし、誰も遣わさないと表明していました。
ですが、リードビーターはこれを翻し、「世界教師(キリスト)」のマイトレーヤが、20C初めに姿を現すと信じ、その器の発見と教育を始めました。
メシアニズムの背景には秘教的キリスト教、アンナ・キングススフォードの影響を指摘する人もいます。

リードビーターは、最初、ヒューバート・フォン・フークを候補者としましたが、1909年、より優秀な候補として、ジッドゥー・クリシュナムルティ(1895?-1986)を見出しました。

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*クリシュナムルティ、リードビーター、ベザント

もともと神智学協会の中では、メシアは北米の西洋人が想定されていたのですが、クリシュナムルティは、貧しいバラモンの少年でした。

1910年からは、リードビーターがクリシュナムルティをアストラル体でクート・フーミ大師の元に連れていき、イニシエーションを行うようになったとされます。
そして、ES(エソテリック・セクション)はクリシュナムルティの準備のための組織のようになり、また、細かい位階制度が作られました。
そして、1911年には、クリシュナムルティのための世界的組織として「東方の星教団」が設立されました。


<反発と分派>

ですが、これらの運動に対して、インドのヒンドゥー教徒やパルシー教徒からも反発がありましたし、世界中の神智学協会の中にも反発がありました。

1912年にはドイツの支部の事務総長だったルドルフ・シュタイナーが、これに反対して脱退しました。
1913年には彼の弟子達が「人智学協会」を設立し、1923年にはシュタイナーが代表となる新たな組織「普遍人智学協会」が設立されました。
ドイツの神智学協会の69の支部の内、55がシュタイナー派となりました。

シュタイナーはブラヴァツキー夫人の著書に感銘を受けた後、1902年にドイツ支部に入会しました。
彼は、ブラヴァツキー夫人は、彼女の書の内的価値で評価されるべきだと考えていました。
また、彼は自身の霊視能力も使いながら、「神智学」、「アカシャ年代記」、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」などの書を出版して、神智学思想を独自に解釈、アレンジしていました。

ベザントは、シュタイナーに関して、「東方の道」を知らないけれど、彼の「西方の道(キリスト教・薔薇十字の道)」は多くの人に役立つ、と考えていました。
ですが、彼女はシュタイナーに、神智学の教義と齟齬をきたさないようにと注意をしていたようです。

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*シュタイナー、ベザント


クリシュナムルティはその後、教育のためにロンドンに留学し、ブルワー・リットンの孫娘のもとで生活することになりました。

また、ベザントは、もともと社会活動家であり、インドの社会活動、教育活動に熱中しており、1898年にはセントラル・ヒンドゥー・カレッジを創設していました。
第一次大戦後には、インドの霊的守護者アガスティヤに会い、「世界の王」からの指令を受けたとして、インド自治運動に参加し、穏健派と急進独立派の間を取り持ち、1918年には国民議会議長に選出されるまでになりました。

ベザントはガンジーと政敵の関係になりましたが、もともとガンジーは神智学協会のメンバーに「パヴァガット・ギータ」を教えられ、また、ブラヴァツキー夫人の著作を読んでヒンドゥー文化の素晴らしさに目覚めたようです。

リードビーターは少年への悪戯のうわさが絶えず、1916年頃、オーストラリアに移住しました。
彼はそこで、「薔薇十字社」、「フリーメーソン共同団」、「自由カトリック協会」などの団体を次々作っていたウェッジウッドと親交を持ちました。

ですが、リードビーターは影響力を持ち続け、「シークレッド・ドクトリン」の第3版では、彼らの教義に反する箇所を数千箇所編集し、協会の目的もリードビーターの教義を信奉するものに変更しました。
1925年から30年にかけて出版されたA・E・パウエルの「神智学大要」は、アディヤール派(新神智学)の思想を体系的に記述したものです。

しかし、リードビーター、ベザント路線に反発する協会員は多く、ブラヴァツキーに戻ることを主張する運動もありました。
ポイント・ローマ派のティングレーも、アディヤール派を攻撃しました。
そして、反対派は、アディヤール派を「新神智学」と呼ぶようになりました。


1917年、ブラヴァツキー夫人の著作に触れたアリス・ベイリー(1880-1949)が、神智学協会に入会し、翌年には「ES」に入会します。
彼女は、1919年に、ジュワル・クール大師から教えを受け始めたと公言し、機関紙に発表しましたが、圧力を受けて連載は中止になりました。
それでも彼女は、1922年に、シャンバラの同胞団の組織とイニシエーションを、カルデア・ミトラ教系神智学の7光線理論と関係付けながら体系的に説く「イニシエーション」を発表しました。
そして、翌1923年には神智学協会を離れて「アーケイン・スクール」を設立し、通信教育に努めました。
さらにベイリーは、1925年には「シークレット・ドクトリン」の続編として「宇宙の火」を発表、その後も、7光線理論を基にした著作を多数出版しました。

また、1920年、ロシア出身のニコライ、エレナのレーリヒ夫婦らがモリヤ大師に教えを受け始めたと公言し、NYに「アグニ・ヨガ協会」を設立しました。
翌年には、レーリヒ夫婦はアディヤール系神智学協会に入会、「モリヤの花」を出版します。
1923年には、シャンバラを捜索するため、中央アジアに出発しました。
二人は、ゴビ砂漠ではなくアルタイ山脈にシャンバラがあると主張しました。

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*アリス・ベイリー、レーリッヒ夫妻


<クリシュナムルティの覚醒と否定>

1922年、クリシュナムルティは、カルフォルニアで瞑想していた時、意識喪失と身体的な激痛、痙攣と神秘的体験を経て、マイトレーヤと会う体験をしました。
そして、彼は初めて神智学のメシアニズムを信じるようになりました。
この時の彼の体験は「覚醒」、それ以降も継続される類似した体験は「進行」と呼ばれます。

1925年、クリシュナムルティは公演中、マイトレーヤの霊が彼に憑依し、クリシュナムルティはマイトレーヤのことを、「彼」でなく、「私」と話しました。
ところが、この頃からクリシュナムルティは、神智学の教義に捉われずに、自身の考えで、内面の道を説き始めます。

同年、リードビーターは「大師とその道」を出版します。
これはシャンバラ同胞団の位階組織とイニシエーションを述べた書で、アリス・ベイリーの理論を取り入れながらも、ブラヴァツキー夫人を継承してイニシエーションをアビダルマ仏教の修行体系で基礎付けている点が特徴です。

1927年には、クリシュナムルティの神智学の教義からの離脱は明らかになっていきます。
クリシュナムルティはメシアを内面化し、キリストからブッダ的存在として捉え直したようです。
さらには、それを突き抜けて、彼が見る霊的存在を「親愛なる汝」と表現し、それを「空であり花であり、すべての人間」とも表現するようになります。

ベザントの信任は下降し、オーストラリアのウェッジウッドは、クリシュナムルティに邪悪な霊が憑依したと批判しました。
それでも、この頃、神智学協会の会員は増加して、45000人に到達していました。

1929年8月、とうとうクリシュナムルティは、教団の解散を宣言し、弟子も崇拝者も受け入れないと表明しました。
この時の彼の言葉は、次のような感動的なものでした。
「真理はそこに至る道なき土地である…いかなる宗教・宗派によってもそれには到達できない…信仰は純粋に個人的な問題であり、組織はそれに関与できない…私の惟一の関心は、人々を絶対的無条件的に自由にすることである」

クリシュナムルティによると、この宣言の前にベザントに相談した時、彼女は、「私にとってあなたは世界教師です。例え、あなたがどんな決心をしようとも。私にはあなたの決心が理解できませんが、尊重しなければならなくなるでしょう」と答えたそうです。


ベザントはその後もクリシュナムルティを支えましたが、1933年亡くなりました。
その翌年にはリードビーターが、翌々年にはティングリーも亡くなりました。
こうして、神智学協会の運動を築いた大物は、次々と亡くなり、一つの時代の終焉を感じさせました。

一方、第二次大戦後、ベイリーは、キリストが自分自身で肉体で再臨することを終戦の年の1945年に決定したと表明しました。
ベイリーは、「天秤座の時代」、「ニューエイジ」という言葉を使って新しい時代が始まっているとも主張し、これは70年代西海岸のニューエイジ運動にも影響を与えました。

ベイリーは1949年に亡くなりましたが、彼女のメシアニズムは、ベンジャミン・クレームに受け継がれました。
しかし、彼も2016年に亡くなり、神智学のメシアニズムは、とうとう一つの終焉を迎えたのかもしれません。


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