井筒俊彦の東洋哲学1(コトバと言語アラヤ識) [近代その他]

井筒俊彦は、近代日本の最大の思想家であり、世界で最も有名な日本の哲学者の一人であり、現代的な意味で、プロティノス、イブン・アラビーらを継承する神秘哲学者であると言っても過言ではありません。

一般に、井筒は、イスラム哲学の専門家として知られていますが、彼は、言語哲学者として、「意味」が消滅し、「意味」が生まれる深層意識における神秘体験を焦点にして、哲学、宗教、言語学、詩学、文学、文化人類学などの領域を越えた研究を行いました。

そして、神秘哲学、東洋哲学の共時的構造、もっと言えば、人間の意識の普遍的構造を、「東洋哲学」として抽出、構築しようとしました。

井筒俊彦.jpg


<井筒俊彦の生涯>

井筒俊彦(1914-1993)は、東京の四谷に生まれました。
父は、石油会社に務めていましたが、禅に親しみ、幼い頃から俊彦に、座禅と、禅書の読書を強いました。
また、最初に書かれた「心」という文字を凝視し、次に心中の「心」という文字を凝視し、最後に、無に帰没する、という独自の内観法を教えて、実践させました。

1931年、慶應大学経済学部に入学するも、3年後に英文科に移動、シュルレアリスティックな詩人の西脇順三郎に従事しました。
折口信夫にも魅力を感じたけれど、「曳きずりこまれたら、もう二度と出られなくなってしまう」と思ったと、井筒は書いています。
その後、ヘブライ語、アラビア語、ロシア後、ギリシャ後、ラテン後など、次々に諸言語を習得しました。
井筒本人によれば、50ほどの言語を習得したと言います。

1937年には、文学部助手になり、「ギリシャ神秘思想史」の講義を行いました。
井筒は、禅の「不立文字」、つまり、言語を否定した体験に親しんで育ったのですが、ギリシャ哲学という、神秘体験から語り、それを哲学化する思想に出会って、衝撃を受けました。

その後、井筒はイスラム研究に傾倒し、1941年に「アラビア思想史」を発表します。
1942年には、語学研究所の研究員になり、また、戦時中は、大川周明の依頼を受けてイスラム研究に専念しました。

1949年には、井筒の最初の主著「神秘哲学」を発表します。
この書は、プラトン、アリストテレス、プロティノスを中心に、ギリシャ哲学の本質を、東方から到来したディオニュソス秘儀の影響を受けた、神秘哲学として捉えるものです。

井筒は新版のまえがきで、「形而上学的思惟の根源に伏在する一種独特の実在体験を、ギリシャ哲学という一つの特殊な場で取り出して見ようとした」と書いています。
また、この書には、ニーチェ、ハイデッガー、西田幾多郎らのギリシャ哲学観を意識しつつ、その乗り越えを意図したという側面もあるでしょう。

ちなみに、「神秘哲学」は、当初は3部構成で、第1部がギリシャ、第2部がヘブライ、第3部キリスト教神秘主義を扱う予定でしたが、第1部のみで終了しました。
当時の井筒は、「ギリシャ神秘主義は、それ自体では完結せず、…キリスト教に入って本当の展開を示し、…十字架のヨハネにおいて発展の絶頂に達する」と考えていのですが、新版のまでがきでは、それを「きわめて偏頗な想念に憑かれていた」と振り返っています。

この書で、井筒は、ディオニュソス秘儀の本質に関して、「エクスタシス(脱魂)」と「エントゥーシアシス(神充)」の2語で捉えています。
また、ヘラクレイトスの「動的な一者」を、アンリ・ベルクソンの概念の「持続」であると表現しています。
そして、プロティノス哲学は、プラトンとアリストテレスの総合、密儀宗教的霊魂神秘主義とイオニア的自然神秘主義の総合と捉えています。

井筒は、1949年から西脇の後任として、「言語学概論」の講義を行い、56年には、英文で「言語と呪術(Language and Magic)」を発表しました。
この時期の井筒は、言語学者です。
この講義・著作では、フレイザー、マリノフスキー、タイラー、モース、デュルケムなどの文化人類学、折口、柳田の民俗学、リルケ、クローデルを対象にした詩学、哲学アナクシメスの霊魂観、発生心理学を元にした言語観、デノテーションとコノテーションによる意味論、などを元にして、呪術的な言語論、言語発生論を展開しました。

1957年には、「コーラン」の初の邦訳を行います。
そして、1959-60年には、ロックフェラー財団研究員となり、レバノン、エジプト、シリア、ドイツ、パリで研究活動を行いました。
1961年には、イスラム研究のメッカだったカナダのマギル大学の客員教授となり、イブン・アラビー、モッラー・サドラーを継承するサブザワーリーなど、イスラム哲学の研究を行いました。

1966年に、英文の「スーフィズムとタオイズム(Sufism and Taoism、改題後のタイトル)」を発表。
この書により、井筒は、世界から哲学者として認知されました。

そして、翌年には、イスラム神秘哲学の専門家、アンリ・コルバンの紹介で、「エラノス会議」(東西の霊的伝統の統一的理解を目指す学者の会議体)に参加しました。
エラノス会議には、アンリ・コルバンがイスラム哲学の枠で参加していたので、井筒は「哲学的意味論」の専門家として参加になりました。

井筒の「エラノス会議」への参加は、1982年までの15年間に及び、正に中心メンバーでした。
彼が講演したテーマは、禅の他に、老荘思想、孔子、ヴェーダーンタ哲学、華厳、唯識、易、宋学、楚辞のシャーマニズムなど、幅広いものでした。

1975年には、イラン王立研究所教授になりますが、イラン革命により、帰国を余儀なくされます。
これを期に、井筒は、東洋哲学の共時的構造を身近な日本語に移す、という目標を抱くようになりました。

1980年には、「イスラム哲学の原像」を岩波新書で発表。
これは講演をもとにした書で、神秘主義思想の基本、そして、イスラム神秘主義哲学を分かりやすく紹介するものです。

1980年6月に、井筒は、彼の主著となる「意識と本質」の連載を、雑誌「思想」で開始しました。
当初の予定では、2回ほどの予定でしたが、8回の連載になり、1983年には、書籍として出版されました。

この書は、「東洋哲学」の共時的構造をテーマにしたものです(詳細は別項を参照)。
ですが、基本概念の定義はなく、目次も章タイトルも註もありません。
井筒は、この書を「東洋哲学」の「序論にすぎない」と考えていました。
「意識と本質」を見れば、「エラノス会議」での15年の研究が「意識と本質」につながったことが分かります。

その後、1985年に「意味の深みへ」、1989年に「コスモスとアンチコスモス」、1991年に「超越のことば」を発表。
91年には、中央公論で「井筒俊彦著作集」の刊行が始まりました。

しかし、1993年1月、井筒は亡くなります。

そして、死後、3月には、遺稿として「東洋哲学覚書その一」という位置づけの、「意識の形而上学―「大乗起信論」の哲学」が発表されました。
ちなみに、「その二」以降の予定は、言語阿頼耶識、華厳哲学、天台哲学、イスラムの照明哲学、プラトニズム、老荘・儒教、真言哲学でした。
つまり、これらは、いつか書かれるべき「東洋哲学」の「本論」に向けた、準備的なシリーズだったのでしょう。

2008年には、マレーシアのクアラルンプールで、井筒俊彦のイスラム学をテーマにした国際会議が開催されました。
また、2011年には、慶應義塾大学出版局で「井筒俊彦英文著作集」の刊行が始まりました。


<神秘主義の世界観>

「イスラム哲学の原像」は、イスラム神秘哲学の紹介をテーマにした書ですが、井筒はその導入として、神秘主義の世界観の基本的な構造を説明しています。
これは、井筒の世界観、「東洋哲学」を理解するための第一歩となります。

井筒が語る神秘主義の世界観の特徴は、まず、存在世界のリアリティが多層構造であるということです。
そして、意識も同様に多層構造です。

両者は対応していて、特定の意識の階層からは、それに対応する階層の世界が見えるのです。
また、意識と存在、主体と客体の区別は、深層に至るほどなくなります。

つまり、意識が深層化すれば、自我意識や世界の意味の分節が消滅するのです。
井筒は、意識の深層・表層という深度と、世界の「意味」の「分節」の有無、そのあり方の違いが対応しているという観点で、神秘主義の世界観を捉えています。

そして、神秘主義には、意識のあり方を変えるための、方法的・組織的な修行法、瞑想法が存在します。
また、この修業には、「上昇道」と「下降道」があります。
「上昇道」は、意識の深層へ向かう道であり、「下降道」は表層へ戻る道です。

「神秘哲学」のプロティノス論でも、「上昇」と「下降」が、一者への「帰還」と「流出」・「浄化」という2つの方向が語られました。
ですが、プロティノスにおいては「上昇」に重点がありました。

「イスラーム哲学の原像」では、これがスーフィズムの言葉で「ファナー(消滅)」と「バカー(存続)」、あるいは「スウード(上り)」と「ヌズール(下り)」として語りなおされます。

イスラム教は人格神の宗教なので、「上昇道」の「ファナー」は、自我意識が消滅して神に向かうプロセスです。

意識の深層に向かうと、カール・ユングが集合的無意識と呼んだ、「根源的イメージ」の世界が現れます。
さらに進むと、光の世界、「照明」の体験に至り、その頂点では、すべてが消滅して、「絶対的一者」となります。

そして、「下降道」である「バカー」に向かう時点で、「神的我」の一人称の「酔言(シャタハート)」、つまり、「我は神なり」が現れます。

さらに下降すると、「汝(神的我=神)」と「我(神現的我)」の二人称の「対話(ムナージャート)」が現れます。

哲学的には、「絶対的な一者」から、「多を統一する総合的一者」を経て、「多」の世界が顕現します。

「上昇道」と「下降道」は、単に、意識の深度の移動と、意味分節の消滅・発生を辿ることではありません。
その体験によって、分節の様態に変化が生じます。
ただ、「イスラーム哲学の原像」では、まだ、この点はほとんど語られません。


<コトバと言語アラヤ識>

井筒は、宗教、神秘主義、哲学、詩などの幅広い領域において、根源的な意識から生まれる言葉に興味を持っていました。
その言葉は、「神懸かりの言語」とでも表現すべきものでした。
彼の専門が、「言語哲学」とか、「哲学的意味論」となったのは、そのためです。

井筒は、「意識と本質」の頃から「コトバ」と表現される概念を使うようになりました。
これは、概念やイメージだけでなく、生物学的な次元も含めて、あらゆる「意味」を担う存在でしょう。
仏教、仏教学で使われる「分節」とほぼ同じ意味であり、井筒もこの2つの概念を同様に使っているようです。

井筒は、「ヨハネ福音書」の「初めに言葉があった…言葉は神であった」という言語観、あるいは、空海の「五大に皆響き有り、十界に言語を具す。六塵悉く文字なり」という言語観に出会って衝撃を受けたようです。
こういった神秘主義的な言語観や文字神秘主義は、世界的に存在します。

井筒の「コトバ」には、言語が即存在、世界であるといった言語観が背景にあります。

「言語アラヤ識」という概念も、井筒独特のものです。
この概念は、もちろん仏教の唯識思想の「阿頼耶識」から来たものです。

「言語アラヤ識」は、「コトバ」が、種子レベルで存在する深層意識です。
つまり、世界と存在を生む種子が存在する意識です。

井筒が、唯識派の「阿頼耶識」をそのまま使わないのは、「阿頼耶識」が煩悩を生む意識として、否定的に捉えられることが多いからでしょう。

遺稿となった「意識の形而上学」では、「大乗起信論」を素材として、否定的側面の「(狭義の)阿頼耶識」と、肯定的・創造的側面の「如来蔵」が、一体のものであると説いています。


nice!(0)  コメント(0) 

nice! 0

コメント 0

コメントを書く

お名前:
URL:
コメント:
画像認証:
下の画像に表示されている文字を入力してください。

※ブログオーナーが承認したコメントのみ表示されます。

この広告は前回の更新から一定期間経過したブログに表示されています。更新すると自動で解除されます。