イギリス・オカルト復興と黄金の夜明け団 [近代魔術]


19Cのイギリスでは、オカルティズムや魔術の復興があり、それが「英国薔薇十字協会」を経て、「黄金の夜明け団」の結成につながりました。

1888年3月1日にロンドンで設立された「黄金の夜明けヘルメス団(The Hermetic Order Of The Golden Dawn、「黄金の暁団」、「ゴールデン・ドーン」とも訳される)」は、西欧に伝わる伝統的な教義・象徴体系に基づいて、集団による儀式魔術を行う秘密結社です。

おそらくは、西欧において、初めて本格的な儀式魔術、高等魔術の実践を行った結社であり、その後の魔術や魔女術の歴史に大きな影響を与えました。

同団にはノーベル賞文学作家、有名舞台女優、オカルティズム系の著作家や作家、三流新聞を騒がせた魔術師など、多くの有名人が在籍していました。
そして、団が関係する新聞沙汰の事件などによって、その醜聞が世間レベルにまで流れて、多くの人間の知るところとなりました。

オリジナルの「黄金の夜明け団」は、すぐに分裂し、教義・実践法の暴露的な公開を経て、消滅しましたが、その後も、新たな世代によって、その伝統が復活・継承されています。

「黄金の夜明け団」の教義は伝統的の総合でしたが、実践には、新しい創造もあったと思われます。 
一言で言えば、それは、ヘルメス主義をカバラで統合し、実践においては、さらにそれを、エノク魔術で統合したものでした。

ですが、「黄金の夜明け団」は、教義にかかわる本質的な部分においては、現代的な側面がほとんどありませんでした。
そのため、「黄金の夜明け団」の影響を受けつつも、それを現代的なものに変革しようとする潮流も生まれました。


このページでは、「黄金の夜明け団(以下GD)」設立の前史としての、19Cイギリスのオカルティズムの潮流と、GDの概略の歴史について紹介します。


<イギリス魔術復興>

19Cイギリスの魔術復興は、フランシス・バレット(1770–80頃生まれる)に始まります。
1801年に彼は「魔術師」という魔術の研究書を出版し、後世に大きな影響を与えました。
この書は、玉石混交ではありましたが、アグリッパの「オカルト哲学」を継承する内容で、フランスのエリファス・レヴィ「高等魔術の教理と祭儀」にも影響を与えました。

また、バレットは、メリルボーンの自宅にて儀式魔術学校を開き、上記の書でメンバーを募集しました。
その中にはブルワー・リットンやフレッド・ホックリー等がいたとされています。

エドワード・ブルワー・リットン(1803-1873)は、政治家であり、小説家であり、オカルト研究家です。
オカルトの世界では、彼が1842年に発表した、薔薇十字をテーマとした小説「ザノーニ」で有名です。
ブラヴァツキー夫人がこの書に影響を受けたことも知られています。

リットンは、1853年に、ロンドンを訪問したエリファス・レヴィと会い、彼に降霊術の実験の場を提供しました。
また、1871年には、「英国薔薇十字協会(以下SRIA、後述)」から一方的に、名誉会員とされました。

フレッド・ホックリー(1809-1885)は、バレットの弟子であり、水晶球を使った霊視、霊との交流を得意としていました。
オカルト文献の蒐集家でもあり、多数の著作もなしています。
1870年代にSRIAに入会しました。
「黄金の夜明け」団創立の土台になった「暗号文書」は、彼の私文書の中から見付かったという説もあります。

ケネス・マッケンジー(1833-1886)は、若い頃、エリファス・レヴィに傾倒して、フランスに彼を訪問しました。
彼はジョン・ディーのエノク魔術の研究家としても知られています。
また、彼はホックリーの友人であり、ドイツ人の薔薇十字団から位階を受けたと主張していました。

リットンマッケンジー.jpg
*リットン、マッケンジー

SRIAは、1867年に、ロバート・ウェントワース・リトル(1840-1878)によって設立されました。
彼は、エジンバラにあった薔薇十字協会に入会した後、SRIAを設立しました。
エジンバラの協会はスコティッシュ儀礼のメイソンだったのですが、SRIAの位階の作成にあたって、マッケンジーの助けを借りました。
SRIA は、10段階の位階を持っていましたが、これはドイツの「黄金薔薇十字団」の影響を受けたものであり、GDにも継承されました。

マッケンジーも1872年にSRIAに入会しましたが、リトルとの方向性の違いから、75年には脱会しました。
彼は、GDの創設者となるウィリアム・ウィン・ウェストコット(1828-1891)に、リトルを批判し、自分こそは本当の薔薇十字位階を持っているという手紙を書いています。

マッケンジーは、1874年にフリーメイソンの辞典「ロイヤル・メイソニック・サイクロペディア」を発表したことでも知られています。
この辞典は、様々な傍流の結社についても紹介しています。
また、彼の死後、夫人のアレクサンドリナは、GDに入会しています。

SRIAの「至高術士(最高マグス)」は、1878年にリトルからウィリアム・ロバート・ウッドマンに、そして、1891年には、ウェストコットに引き継がれました。
マッケンジーの遺稿の多くは、ウェストコットに引き継がれたと思われます。

アンナ・キングスフォード(1846-1888)は、医学博士の学位を持ち、女権論と動物実験反対の運動家としても活躍していました。
ですが、彼女は、天使や聖人の訪問を頻繁に体験するような幻視家でもあり、1882年には、神秘的キリスト教の重要人物として注目を集めるようになりました。
1883年、彼女は神智学協会のロンドン・ロッジの会長になりました。
ですが、ブラヴァツキー夫人と不仲となり、1884年には独立して「ヘルメス協会」を結成しました。

GDの創設者のウェストコットとS・L・マグレガー・マサース(1854-1918)は、「ヘルメス協会」の名誉会員であり、そこで講演を行っていました。
「ヘルメス協会」は、神智学協会と同様に、男女が平等に参加する団体でした。

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<黄金の夜明け団の歴史的概要>

GDは、高位のメイソンリーであり、SRIAに所属する3人によって、ロンドンで、1888年3月に設立されました。
主体になったのは、ウィリアム・ウィン・ウェストコットで、彼がウィリアム・ロバート・ウッドマン、S・L・マグレガー・マサースの2人を誘いました。

ウェストコットマサース.jpg
*ウェストコットとマサース

当時、ウッドマンは、SRIAの会長で至高術師であり、優れたカバラ研究家だったため、団の権威付けのために担がれた、飾り的存在でした。

フリーメイソンやSRIAは男性のみの結社だったため、ウェストコットは、アンナ・キングスフォードの「ヘルメス協会」同様に、男女平等主義の結社を作ろうとしたのでしょう。

ウェストコットは、ある暗合文書を入手したのですが、それがトリテミウス式の暗合であることを見抜いて、それが魔術結社の儀式の骨格を書いたものであることを解読しました。

後に、ウェストコットは、この結社がフランクフルトの古い薔薇十字のロッジであり、ブルワー・リットンがそこで「ザノーニ」を書いた、と書いています。
そして、この結社は、ヨハン・F・フォークが率いるロンドン・ロッジを持っていたと。

先に書いたように、暗合文書に書かれた儀式の位階は、ドイツにあった「黄金薔薇十字団」、及び、SRIAの位階をほぼ継承しています。

この暗合文書の作者や結社に関しては、確かなことは分からず、様々な推測がなされていて、
リットンやホックニー、マッケンジーが関わったという説もあります。

*詳細は、次のページを参照。

この暗合文書にはメモがついており、そのメモには、この文書の暗合を解読した者は、「黄金の夜明け団」の代理人フロイライン・シュプレンゲル(魔法名サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス)に連絡をするようにと書かれていました。
ウェストコットは、彼女と手紙でやり取りを行って、「黄金の夜明け団」の外陣の結成の許可を得ました。

このメモの作者、代理人、代理人との書簡についても、確かなことは分からず、様々な推測がなされています。

ですが、エリック・ハウが「黄金の夜明けの魔術師たち」(1972)で行った論証が、定説のようになっています。
それによれば、このメモと書簡、そして、シュプレンゲル嬢は、ウェストコットが、GDを結成(復活)するために行った捏造です。

GDが設立されたのは、キングスフォードが亡くなった一週間後です。
R・A・ギルバートは、シュプレンゲル嬢の魔術師名「サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス」が、キングスフォードの魔法名と同じだと指摘しています。
つまり、キングスフォードがモデルだったのでしょう。


ウェストコットは、GDを魔術を愛好する男女参加の社交クラブとして設立しました。
ですが、1891年には、マサースがGDの主導権を奪い、本格的な魔術結社に改革しました。

GDの規模は、設立数年後の最盛期には、複数の支部に、団員を350人ほどかかけるまでになり、多くの有名人も参加しました。
その内、女性は1/3ほど、内陣にまで昇格したメンバーも1/3ほどでした。

有名人には、GDの主要メンバーの中だけでも、ノーベル賞文学作家のW・B・イェイツ、有名舞台女優のフロレンス・ファー、哲学者アンリ・ベルクソンの妹ミナ・ベルクソン、そして、世紀の悪徳魔術師として三流新聞を騒がせたアリウスター・クロウリーらがいました。
ウェストコットとマサースも、神秘主義文献の翻訳、著作で知られていました。

メンバーは、若い中産階級が主体で、多くのメンバーは社交クラブ以上のものを望んでいませんでした。

実際、本格的な魔術師として知られるメンバーは、マサースの他、J・W・ブロディ=イネスとその弟子のW・E・カーネギー・ディックソン、そして、早期に離脱したアラン・ベネットとその弟子で独自の体系を築いたアレイスター・クロウリーくらいです。


1897年に、ある事件をきっかけにウェストコットは脱退を余儀なくされ、GDの運営が弱体化していきました。
そして、メンバー間の内紛や、1901年の詐欺師が絡んだ醜聞事件などによって、1903年には、GDは「A∴O∴」、「暁の星」、「聖黄金の夜明け」の3つに分裂しました。

また、GDの教義や儀式が、秘密厳守の誓いを破ったメンバーによって、徐々に公開されていきました。
中でも、イスラエル・リガルディーが、1937-40年にかけて、「黄金の夜明け」4刊本で、GDの教義、儀礼体系のほとんどを公開してしまいました。
これによって、GD系の結社は壊滅的な打撃を受けました。

しかし、これによってGDの魔術は、途絶えませんでした。
ダイアン・フォーチュン、ポール・フォスター・ケース、リガルディーといった分裂以降の第2世代のメンバーや、その弟子達によって、継承され、拡大していきました。
ですが、その形は、通信教育や書籍、WEBを通したものに変化していきました。


* 詳細は下記をして参照ください。


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