黄金の夜明け団の歴史1(設立と改革) [近代魔術]

このページでは、「黄金の夜明け団(以下GD)」の歴史を、その設立から改革まで、簡単にまとめます。

その前史も参考にしてください。


<設立>

GDの創設者のウィリアム・ウィン・ウェストコット(1828-1891)は、ロンドンの検死官として働き、切り裂きジャック事件などを担当した人物です。
彼の性格は、温厚で信頼されるタイプだったようです。

その一方で、彼は高位のフリーメイソンリーであり、英国薔薇十字協会(以下SRIA)の会員としてはウッドマンから会長の座を引き継ぎました。
また、神智学協会の会員、「ヘルメス協会」の名誉会員でもありました。

また、彼は、カバラの「形成の書」(1987)やエリファス・レヴィのタロット論「至聖所の魔術儀式」(1896)の翻訳、「ヘルメス文書集成」の刊行、「カバラ入門」(1910)などの著作も行うなど、オカルトの知識は一級でした。

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*ウェストコット

先に書いたように、ウェストコットが入手した暗合文書がGD結成のきっかけです。
この暗合文書にはメモがついており、そのメモには、この文書の暗合を解読した者は、「黄金の夜明け団」の代理人フロイライン・シュプレンゲル(魔法名サピエンス・ドミナビトゥル・アストリス)に連絡をするようにと書かれていました。

ウェストコットは、彼女と手紙でやり取りを行って、「黄金の夜明け団」の外陣の結成の許可を得たと言います。
また、この暗合文書について、ウェストコットは、知り合いの牧師でメイソンリーのA・F・Aウッドフォードが古物商から入手したなどと語っています。

この暗号文書の正体については諸説がありますが、最も興味深いのは、ラファル・T・プリンクが「黄金の夜明け団の追跡」(1987)で行った、以下のような推測です。

元になった結社は、18C初頭のフランクフルトにはあったユダヤ系メイソンのロッジ「黄金の夜明け団(Chabrath Zeher Boquer Aour)」であろう。

暗合文書には、ドイツ人ではなく、イギリス人が書いたと思われる部分があるため、この文書の作成者は、ブルワー・リットンであり、それを暗号化したのは、リットンの知人で、魔術界の有名人であったフレッド・ホックリーであろう。

別の説としては、フランシス・キング(「近代オカルト魔術の儀式」、「魔術の再生」など)による次のような推測があります。

この文書の儀式は、ドイツの「黄金薔薇十字団」関係のものであり、作者はケネス・マッケンジーであろう。
彼が、友人のホックリーが準備する結社「八人の会」のためにこの文書を作成したけれど、活動に至らなかった。
そして、それがSRIAの蔵書となり、ウェストコットがそれを発見したのであろう。

先のページに書いたように、暗合文書に付いていたメモと、シュプレンゲル嬢との書簡は、ウェストコットによる捏造である、というエリック・ハウの説が、定説のようになっています。

ですが、ジェラルド・サスターによって、ハウの論拠は弱く、確証に至らないという反論もなされています(イスラエル・リガルディー「黄金の夜明けについて何を知るべきか」に掲載、1982)。

ウェストコットがこれらを捏造したとしても、他の2人の設立メンバーには、このことを明かさなかったようです。
マサースは、後年、ウェストコットの捏造を告発していますが、シュプレンゲル嬢の存在自体は信じていたようです。


マサースは、この文書に記された儀式の内容をヴァージョンアップして、GDの外陣の儀式を作成しました。

そして、ウェストコットらが開設したロンドンのイギリス支部は、ドイツ本部と、かつてあったイギリスの支部に続く、3番目の支部神殿「イシス・ウラニア・テンプルNo.3」であるとされました。

「イシス・ウラニア・テンプルNo.3」は、「生命の樹」のセフィロートに対応する10の位階、3つのオーダーからなります。
外陣がファースト・オーダーで、これが狭義の「黄金の夜明け」であり、内陣のセカンド・オーダーは「ルビーの薔薇と金の十字架」という名称でした。
ですが、当初、内陣は名だけのものでした。

そして、サード・オーダーはドイツの「秘密の首領」で構成され、彼らはアストラル・プロジェクション(霊体離脱)によって、アストラル界で活動するとされました。


S・L・マグレガー・マサースことサミュエル・リデル・マサース(メイザースとも表記される、1854-1918)は、不動産屋の事務員として働いていましたが、GD結成当時は、無職になり、ウェストコットの元に身を寄せていました。

その後は、団員のアニー・ホーニマンに生活を支援してもらいながら、大英博物館の図書室などでオカルトの研究に励みました。
彼の性格は、かなりの変人で社会性が欠如し、また、強権的だったようです。

ですが、魔術の知識の探求とその創造力には天才的な才能があり、ウェストコットの団の運営の才能と相まって、GDを成功に導きました。

マサースも、高位メイソンリーであり、SRIA会員であり、「ヘルメス協会」の名誉会員でした。
また、17Cカバラ文献「ヴェールを脱いだカバラ」(1887)の翻訳や、中世魔術書「ソロモン王の鍵」(1889)、「術士アブラメリンの聖なる魔術の書」(1898)、「ソロモン王の小鍵」(1903)、「アルマデル奥義書」(私家版)の翻訳なども行いました。

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*マサース

また彼は、ケルト、スコットランドの伝統を志向し、スコットランドの首長の血筋を表す「マグレガー」は自称していました。

彼は大英博物館の図書室で団員の勧誘を行いましたが、そこでアンリ・ベルグソンの妹、ミナ・ベルクソン(モイナ・マサース、1865ー1928)と出会い、結婚しました。
彼女は画家であり、GDの神殿などの美術を担当して、その才能を発揮しました。

儀式魔術では、美術的要素や演劇的要素も重要ですが、美術はモイナが、演劇は舞台女優だったフロレンス・ファーがいたことが、GDにとって大きな意味を持ちました。


<マサースによる改革>

1890年、ウェストコットは、シュプレンゲル嬢が亡くなったこと、そして、すでに独自で秘密の首領とのつながりを作るための知識は提供したため、今後はドイツの結社から連絡をしないという通達の手紙を作成して、「秘密の首領」に関する問題を終わらせようとしました。

ところが、翌年、マサースが、「秘密の首領」と接触を取ったことを宣言しました。

そして、彼は、実体のなかったセカンド・オーダーの改革を始めて、GDを本格的な魔術結社に変身させました。

彼は単独の責任者となり、セカンド・オーダーの入門儀式(5=6アデプタス・マイナー儀式)を創作し、カリキュラム(知識講義文書)と8種の厳格な試験制度を導入しました。

この入門儀式は、クリスチャン・ローゼンクロイツの墓廟をモデルとした「地下納骨所」の舞台装置を使用するもので、薔薇十字思想を継承するものでした。

マサースによれば、魔術の技法は、「秘密の首領」から、アストラル・プロジェクションや霊視などの超感覚的方法で教授されました。
そして、マサースが「秘密の首領」の唯一の代理人とされました。

ウェストコットによれば、マサースにセカンド・オーダーの儀式の知識を伝えたのはヨーロッパの達人ルクス・エ・テネブリスです。

この人物が実在するかどうかについても、諸説があります。
フランシス・キングは、ベルギーのマルティニストのディエッセン(ドクター・ティルソン)だと書いています。

ウェストコットは、「秘密の首領」が彼の創作であることを明かせないため、マサースの主張を否定することができなかったようです。


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