ジル・ドゥルーズと神秘主義 [現代]

ジル・ドゥルーズ(1925-1995)は、20Cの哲学、現代哲学を代表するフランスの哲学者であり、フェリックス・ガタリとの共著でも知られています。

ドゥルーズの哲学は、「差異の哲学」、「生成の哲学」、「多様体の哲学」、「流動の哲学」、「ポスト構造主義」、「ポストモダン哲学」などと称されます。

また、ドゥルーズは、ベルグソン主義者でもあり、自身の哲学の主要な概念として、ベルグソンが使った概念を多用しました。
ベルグソンは神秘主義者を持ち上げましたが、ドゥルーズはそのようなことは行っていません。
彼は、神秘主義者とは言われませんし、本人も否定するでしょう。

ですが、ベルグソン同様に、ドゥルーズは直観(直感)するしかないものを重視しますので、その点では、彼の哲学を神秘主義的と言えなくはありません。
でも、そう言ってしまえば、「差異」を重視する現代的哲学の多くが神秘主義になってしまいます。

このページでは、現代哲学を代表する一人であるドゥルーズの哲学が、神秘主義の現代性を考える上で重要であると考え、ベルグソンを仲立ちにしながら、両者の接点となりうるテーマを取り上げます。
具体的に言えば、神秘主義の「下降道(向下道)」、つまり、絶対者との一体化や神秘的な体験、あるいは空観からの日常への戻り方について、ドゥルーズ哲学が参考になるだろうこと、そして、その点が神秘主義に求められる現代性であろうと思っています。

ちなみに、ドゥルーズの概念を神秘主義思想や東洋思想、仏教と結びつけて論じることは、哲学者の井筒俊彦や宗教学者の中沢新一も行っています。

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<ドゥルーズと下降道>

ドゥルーズは、ベルグソンを継承して、存在・精神を、「持続」=「強度」=「差異」=「多様体」の一元論で捉えます。
これは、多様なものが互いに結びついて多様な生成を行っている状態です。

そして、その度合いである「強度」の違いを、本質的な違いとして問題としました。
この度合いの違いは、「深さ」と表現されることもあります。

ベルグソンは、その様子を逆円錐の図形で示しました。

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逆円錐の底面ABが「強度」が最も高い「精神(霊)」的な状態で、「純粋持続(純粋記憶)」と呼ばれ、頂点Sが「強度」の最も低い「物質」的な状態で、「純粋知覚」と呼ばれました。

そして、ベルグソンは、神秘家の神秘体験、直観の状態を、「強度」の高い状態と解釈しました。

ですから、神秘主義の「上昇道」、つまり、神=一者へと至る道は、ベルグソンにとっては、最も「強度」を高めることであり、これは、あるものが他のものと結びつき生成関係になることです。
一方、「下降」は、「強度」が低くなり、錯綜した生成関係が分離、取り消され、固定されることです。

ベルグソン自身は、「上昇」を「弛緩」、「膨張」と呼び、「下降」を「収縮(収約)」と呼びました。

・上昇:純粋記憶へ、弛緩・膨張
・下降:純粋知覚へ、収縮

ドゥルーズは、神秘主義についてはほとんど語りませんが、ベルグソンを仲立ちとすることによって、強引ではありますが、ドゥルーズの哲学を、神秘主義の「上昇」、「下降」の問題として考えてみます。

神秘的意識である「強度」の高い状態には、天に向かう「上昇」の方向とは逆に、大地的、身体的な方向に向かう場合もあります。
そして、ドゥルーズは、非身体的なもの(観念的なもの)と身体的なもの(感じられるもの)を区別して論じることもあります。

ですから、分かりやすく天への「上昇」と、そこから地上へ戻る「下降」の2つと区別して、大地的、身体的な方向に向かう場合を「潜行」、そこから日常へ戻ることを「浮上」と表現して、ドゥルーズの哲学を解釈します。

・上昇:観念的なものの高い強度へ
・下降:観念的なものの低い強度へ
・潜行:身体的なものの高い強度へ
・不浄:身体的なものの低い強度へ

神秘体験には、体験をした後、結局はもと通りの日常に戻るだけになってしまうとか、逆に、まともに日常を営めなくなってしまうことがある、といった問題があります。
そうならないためには、自由で創造的になりながら日常に戻る必要があります。

ベルグソンも同様に考えて、「真の神秘主義」の条件として創造的であることをあげ、それに対して、ギリシャの神秘主義を観照主義、仏教を生命否定的、現世否定的と批判しました。

ドゥルーズが戻り道で重視するのも、この創造性(差異の産出)であり、この点でベルグソンを継承しています。 

また、ドゥルーズは、「内在の哲学」であることを重視し、徹底的に「超越」を否定しました。
彼が神秘主義や東洋思想にあまり触れないのは、そこに潜む「超越性」を警戒していたからかもしれません。
神秘主義的な流出論が垂直軸で語ったことを、ドゥルーズは内在論的な奥行き(深さ)の軸で考えたのですが、この点も重要です。

以上の観点から、ドゥルーズが出版した著作から順にいくつか取り上げて、以下に簡単にまとめます。
ただし、本ブログは哲学がテーマではないので、ドゥルーズ哲学の解釈に際して、正確性を保つことを気にせず、なるだけ分かりやすく比喩的に解釈します。


<ベルグソニズム>

1966年に出版された「ベルグソニズム」は、ベルグソン哲学をテーマにした書です。

ドゥルーズは、この書で、「下降」に当たる「収縮」の2つの様相を区別して、「収縮-並進運動」と「方向付け-回転運動」と表現しています。
そして、後者を目指すべきと主張しています。

「並進運動」は、下降するに従って、「現実化」、つまり、自己同一性を持ったものとして、分離、固定化してしまう運動です。
これは、もと通りの日常に戻ってしまう道です。

これに対して、「回転運動」は、「上昇」と「下降」の回路を持ち、「下降」しても一定の「強度」を保って、内面の深層的存在の様々な変様を生み出す運動です。
これは、「下降道」において創造性を保つ道です。


<スピノザと表現の問題>

1968年出版の「スピノザと表現の問題」は、スピノザ哲学の表現をテーマにした書です。

ドゥルーズは、この書で、アカデメイア最後の哲学者、新プラトン主義のダマスキオスが使った概念、「繰り広げ(展開、エクスプリケーション)」と「包み込み(コンプリケーション)」を取り上げました。
これらの概念は、「差異と反復」でも使われます。

「繰り広げ」は、神が世界を創造する、つまり、「下降」における概念です。
ですが、ドゥルーズは、これらの概念の背景にある思想について、新プラトン主義における汎神論的表現であると解釈しました。
そして、これが中世・ルネサンスのキリスト教新プラトン主義を経て、スピノザにも影響を与えたのです。
つまり、彼らの世界観では、一者は、世界を流出するだけでなく、そこに「内在」します。

その時、重要なのは、結果(世界)が原因(一者)とは異なる、という点です。
強度的な多様体を「繰り広げる」と、同じものにはならない、似たものにはならない、ということです。
こう考えることによって、「下降道」が創造的となるように担保されるのです。


<差異と反復>

1968年出版の「差異と反復」は、ドゥルーズの最初の主著とされます。

ドゥルーズは、この書で、現代哲学=「差異の哲学」(本質を認めない立場)の側から、「同一性の哲学」(本質を認める立場)とされるプラトン哲学を転倒しています。
つまり、プラトンをベルグソン的に読み直します。

プラトンは「同一性(表象=再現前)」の哲学の方向性を示したのですが、それを完成させたのはアリストテレスであり、プラトン哲学の中にはこれに抗する側面もあったと、ドゥルーズは言います。
そして、プラトン哲学をその抗した方向に転倒します。

ドゥルーズは、「イデア(理念)」を「強度多様体」と捉え直して、多様体からの、個別的なものの分化、発生を論じます。

「理念」は、実在的、潜在的、観念的、差異的ですが、可能的、現実的、抽象的、本質ではありません。

・差異の哲学 :実在的、潜在的、観念的、微分的
・同一性の哲学:可能的、現実的、抽象的、本質的

そして、思考されるものの「理念」への「上昇」は、「差異化(微分-差異化、ディフェレンティエイション)」と表現されます。

一方、「下降」は、「理念」が個別的で「現実的」、固定的な「表象(概念、イメージ)」になることですが、これは、「異化(異化-分化、ディフェレンシエイション)」とも表現されます。

ですが、「上昇」と「下降」が、結局、もと通りの日常へ、「習慣」へと戻ってしまい、「理念」が「習慣」の「根拠」になってしまってはいけません。
このような「下降」を「時間の第1の総合」、「上昇」を「時間の第2の総合」と表現します。

この「下降」は、「多様体」としての「理念」が「差異」、「強度」を失って固定的な「表象」となり、「同一性」に限定されて「現実化」することです。

ですが、「下降」が「強度」を保ちつつ、個別化することも可能です。
この道は、「時間の第3の総合」と表現されます。
これは、ニーチェ的な永劫回帰する時間であるとも言われます。

・下降  :時間の第1の総合:異化-分化、収縮
・上昇  :時間の第2の時間:微分-差異、膨張
・永劫回帰:時間の第3の総合:強度を保った個別化

「時間の第3の総合」では、プラトン主義が転倒され、個物は「コピー」ではなく、「シミュラークル」になります。

つまり、個物(概念、イメージ)は、「イデア」という「モデル」に対する似像、模像(コピー)であれば、「同一性」に限定されます。
ですが、「モデル」を目指さない多様な変様体である「シミュラークル」になれば、純粋な創造、差異の産出が可能になります。

「差異と反復」では、言語やイメージの次元と、感じられるものの次元を分けます。

言語的な次元では、「理念」という多様体、差異が、「微分的」、「潜在的」という表現で語られます。
一方、感じられるものの次元では、「強度」という錯綜体が、「深さ」という表現で語られます。

言語的な「理念」への道が「上昇道」、感じられるものの「強度」への道が「潜行道」であるとも言えます。

この書では、「強度ゼロ」のことを、ベーメ、シェリング由来の「無底」とか、「密儀」、「ディオニュソス」とも表現しました。

「強度」に関しては、ダマスキオスの使った、「繰り広げ(展開、エクスプリケーション)」と「包み込み(合わせ含み、交錯、コンプリケーション)」、及び、「巻き込み(折り込み、インプリケーション)」という3点セットの概念で語られます。

「巻き込み」は「潜行道」を、「繰り広げ」は「浮上道」を意味します。
そして、「含み込み」は様々な「巻き込み」の総体的なつながりを意味します。

「浮上道」、つまり、「繰り広げ」という個別化においても、強度を失う道ではなく、強度を保つ道が目指されます。

・上昇:理念へ、微分化、潜在化
・下降:表象へ、分化、現実化
・潜行:強度へ、繰り広げ
・浮上:延長へ、巻き込み


<意味の論理学>

1969年に出版された「意味の論理学」は、「差異と反復」を受けて発生を論じますが、非身体的な「表層」からの発生と、身体的な「深層」からの発生を区別し、その関係を語ります。

「表層」からの発生では、ルイス・キャロル的なパラドクス、ナンセンスや、ストア派が参照されます。
また、禅にも「表層」のナンセンスがあると書いています。
ちょっと意味合いが違うと思いますが。

一方、「深層」からの発生では、現代演劇の創始者とされるアントナント・アルトー的な分裂症的言葉や、前ソクラテス派が参照されます。
ちなみに、アルトーは、ルイス・キャロルは深層を持たないと批判しました。
また、「深層」の身体に関しては、「細分化された身体」と「器官なき身体」があるとします。

・下降:非身体的な表層からの発生:キャロル的パラドクス、ストア派、禅
・浮上:身体的な深層からの発生 :アルトー的分裂症、前ソクラテス派


<ミル・プラトー>

1980年に、ガタリと共著で出版した「ミル・プラトー(千の高原)」に、「いかにして器官なき身体を獲得するか」という章があります。

「器官なき身体(以下、CSO)」というのは、アルトーに由来する言葉で、「意味の論理学」でも論じられ、「アンチ・オイディプス」では重要な概念として扱われました。

「CSO」は、器官=構造を持たないのではなく、多様な構造が関係し、生成、変様、消滅している動的な多様体を意味します。
「CSO」は、強度の極限としての「強度ゼロ」とも表現されます。

また、「強度ゼロ」を、「タントラ的な卵」とか「タオ」とも表現しています。
「CSO」の構築について、カルロス・カスタネダが使うメキシコのシャーマニズムの言葉で「ナワール」とも表現しています。

また、「器官なき身体」を「大地」とも表現して地質学的な比喩表現も行います。
そして、「強度」を安定したシステムのうちに閉じ込めてしまうものを「地層」と表現します。

ドゥルーズは、「CSO」に関して、「タイプ」と「様態」、「総体」の3つを区別しています。

「CSO」の「タイプ」は、「CSO」の作り方、「強度ゼロ」の作り方のことです。
つまり、「潜行道」、「巻き込み」の種類のことでしょう。

「CSO」の「様態」は、作られた「CSO」の上に起こることです。
ベルグソンの三角錐と同じく、「CSO」は、様々な強度の違う領域を生み出すのです。
つまり、その「浮上道」で起こること、「繰り広げ」の種類のことでしょう。
これを、「強度の産出、流通、循環」と表現しています。

CSOの「総体」は、「CSO」の様々なタイプ、様々な様態をつなげたものです。
これは、「包み込み」のことでしょう。
これを「強度の連続体」とも表現し、この様々な「CSO」の「強度」がつなげられ、「強度ゼロ」という頂点に向かわない状態を「ミル・プラトー」と表現します。

・CSOのタイプ:作り方  、強度ゼロ  、巻き込み
・CSOの様態 :起こること、強度の産出 、繰り広げ
・CSOの総体 :つなげる 、強度の連続体、包み込み

そして、「諸強度の領域」と「強度の連続体」を持つような「CSO」を目指すべきとして、この「CSO」を「充実したCSO」と表現します。

これに対して、2種類の否定すべき「CSO」として、「空虚なCSO」と「癌のようなCSO」をあげます。
それらの「CSO」を持つ例として、それぞれ、麻薬中毒者とファシストがあげられます。

「空虚なCSO」は、「地層」を粗野に破壊してしまうために、諸強度を産出しません。
その結果として、「地層」が、日常の秩序が、再びより重くのしかかります。
強烈な神秘体験が、日常を否定し、日常と結び付けられないような状態はこれに当たるのでしょう。

「癌のようなCSO」は、「地層」の中に形成されて増殖します。
神秘体験でカルト宗教にハマってドグマチックに閉じこもるような状態は、これに当たるのでしょう。

これらを避けて、「充実したCSO」を獲得するためには、まず、一つの「地層」に落ちつき、そこから脱出することを試みて、新しい「大地」の小さな断片を手に入れることが必要だと言います。

また、カスタネダの言葉で、「トナール(日常意識の世界)」を一気に破壊するのではなく、「ナワール(変性意識の世界)」の攻撃をかわすために「トナール」を確保しつつ、時を良く選んでそれを縮小していく、とも書きます。

・空虚なCSO  :地層を破壊 、麻薬中毒者
・癌のようなCSO:地層内で増殖、ファシスト
・充実したCSO :地層から逃走、生成変化

このように、「いかにして器官なき身体を獲得するか」は、神秘主義の問題として考えれば、様々な「潜行」、「浮上」をつなげること、そして、神秘体験の後に、今まで通りの、あるいは、今まで以上に抑圧的な日常に戻ってしまうことを避けて、日常を創造的な状態に変えることをテーマとしている、と読み変えることができます。


(試論・初稿)


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