ルネサンスと古代神学 [ルネサンス~近世ヨーロッパ]

<ルネサンスとは>

「ルネサンス」は、14Cのフィレンツェを中心に始まり、ヨーロッパ各地に広がった、総合的な文化運動です。
一般に「ルネサンス」は「文芸復興」と訳され、人文諸学を中心とした、ギリシャ、ローマ時代の文化の復興と受け止められています。
そして、ルネサンスの特徴は「ヒューマニズム」と表現されるように、中世キリスト教が抑圧的・禁欲的であるのに対して、生を肯定する開放的・快楽的なものとされます。

ですが、その核心は、新プラトン主義やヘルメス主義、カルデア的宇宙像などの、各種の古代の神智学の復活です。
当然ながら、古代神学と一体である、占星術、魔術、錬金術なども評価されました。
それらの総称として、「古代神学(プリスカ・テオロギア、始源の神学)」という表現も使われました。
当時の人にとって、「古い」、「始源の」ということは、「正しい」ということでした。

古代神学はヘレニズム・ローマ期にそれぞれがシンクレティズム(折衷主義)という形になっていましたが、これを受けたルネサンス思想も同様にシンクレティズムという特徴を持ってます。

「古代神学」の系譜は、ゾロアスター、ヘルメス・トリスメギストスから始まり、オルフェウス、ピタゴラスを経て、プラトンに総合され、さらに、新プラトン主義者達に継承される、といった流れで考えられました。

そして、ここに、ユダヤ、キリスト教の預言者や神学者も混ざります。
カバラ思想も、モーゼに由来する秘伝とされたため、「古代神学」に加えられました。

もちろん、ルネサンスの思想家達がプラトンより古いと考えた、「カルデア人の神託」、ヘルメス文書、オルフェウス文書などは、実際には、ヘレニズム・ローマ期のものです。
ヘルメス文書がキリスト誕生以降に書かれたものであることが考証されたのは、ルネサンス晩期の17Cになってからです。


<古代神学の喪失>

他の項で書いたように、529年に東ローマのユスティニアヌス帝によってキリスト教以外の宗教や哲学が禁止され、ローマ・キリスト教世界では異教の哲学や神秘主義的な古代思想が一旦、終わりを告げたました。
プラトンの創設以来のアカデメイアも閉鎖に追い込まれ、アテナイの哲学者達はペルシャ帝国内のシリアのハッラーンに亡命しました。

そして、イスラム帝国の台頭によって、ローマ世界はオリエントとの貿易行路が遮断され、古代神智学を受け継いだ文化的先進地であるペルシャ・イスラム世界に対して、鎖国的な状態となりました。
それでも、東方のギリシャ=ビザンチン世界では、一定の程度では、ギリシャ語の各種の書籍を保存し、研究がなされていました。

ですが、西方のラテン=カトリック世界では、それがほとんどなく、ビザンチン世界に対しても鎖国的状態となっていました。
 
ですが、東西ローマ世界で、小規模な形では古代神智学の復興はありました。
9Cにフランク王国での「カロリング・ルネサンス」、11Cに東方ビザンチン世界での「ビザンチン・ルネサンス」、12Cに北イタリアでユダヤ人経由の「12Cルネサンス」です。


<古代神学の復興>

ルネサンスの「ヒューマニズム」はペトラルカに始まりますが、それに続いて、プラトン主義とヘルメス主義を核とする思想を担ったのは、第一に、1463年に設立された「アカデミア・プラトニカ(プラトン・アカデミー)」と、その代表者のマルシリオ・フィチーノです。
彼が、ヘルメス主義傾向の強い「ルネサンス・プラトン主義(フィレンツェ・プラトン主義、新々プラトン主義)」の創設者となりました。

そして、そこにカバラ思想を加えたのは、ピコ・デラ・ミランドラです。
彼が「キリスト教カバラ」、「ヘルメス=カバラ主義」の創始者となりました。

ルネサンスの思想には反スコラ学的な傾向はありますが、決して反キリスト教ではなく、フィチーノのように、異教の思想、哲学とキリスト教の一致を主張するものです。
正確に言えば、プラトン主義などの古代神学は、キリスト教と共通する真理を部分的に先取って表現する、というものです。

ですが、思想家によっては、ピコのように、古代神学と統合された新しいキリスト教神学を作ろうとする者、あるいは、プレトンやジョルダーノ・ブルーノのように、キリスト教に代わって新しい神学・哲学を作ろうとする者もいました。

しかし、古代神学は、明らかにキリスト教とは異なる思想であり、一致する部分はあるにしても、それだけなら、古代神学に熱狂する必要はありません。

ルネサンスの思想家たちは、キリスト教にない部分に惹かれたはずです。
キリスト教世界においては、そうは公言できない、あるいは、意識できなかったとしても。
その本質は、単に生の肯定としての「ヒューマニズム」ではなく、神秘主義という点にあったと思います。

それは、人間と万物とのつながりの根拠としての照応的世界観、有機的な生きた宇宙観であり、神と万物のつながりの根拠としての流出的世界観であり、本来的神性を持つ人間観です。
そして、直観的な知恵を通して神への上昇・一体化する神秘主義的救済観であり、あるいは、美やエロス(愛)を通した神への上昇・一体化するプラトン的救済観です。

象徴と想像力を通して神々へと上昇・一体化し、あるいは、人間の側から神々に働きかけそのちからを地上にもたらす、魔術・降神術的世界観です。


<ルネサンスの始まりとヒューマニズム>

14C以降、北イタリアの諸都市は地中海貿易で繁栄し、封建領主から独立した自治都市となりました。
特にフィレンツェは毛織物業と銀行業で栄えました。
ルネサンスが生まれる背景には、交易が発達した自治都市の自由な空気がありました。

元祖「ヒューマニスト」と言われているのは、詩人フランチェスコ・ペトラルカです。
彼はアウグスティヌスの「告白」一節、「(自然を賛嘆するが)自分自身のことをおざなりにしている」に刺激を受け、「人間の本性」について、異教から学ぼうと考えました。
彼に始まるヒューマニストの探求は、「フマニタス研究」と呼ばれます。

当時、ラテン語で読めたプラトンは、「ティマイオス」、「メノン」、「パイドン」のみでしたが、彼はギリシャ語原典を16篇以上収集していました。
ペトラルカは、アリストテレスよりもプラトンを評価しました。
彼にとっては、アリストテレス主義のスコラ学は煩瑣な抽象的議論であり、プラトンの「道徳哲学」の方が、神的な事項については高みに到達していると考えました。

また、トマス・アクィナスに代表されるように、スコラ学は詩を愉楽でしかないとして否定していました。
ですが、ペトラルカは、詩を真理の光を明るみに出すもの、神学は神についての詩であると主張しました。

ペトラルカは、フィレンツェを追放された家庭に育ちましたが、彼の弟子であるボッカッチョやサルターティらによって、「ヒューマニズム」はフィレンツェに導入され、サント・スピリト修道院にサークルが作られます。

ボッカッチョはこのサークルを通して、ギリシャ人からホメロスなどのギリシャ神話を学び、これを紹介する「異教の神々の系譜」を著作しました。
また、小説「デカメロン」では、人間の自然的欲求を肯定しました。
彼は、異教の詩人はキリスト教の真理を部分的に表現していると主張しました。

「ヒューマニズム」運動は、人文関係の人間以上に、行政官が中心的役割を担いました。
書記官には、フィレンツェの自由を守るための外交・折衝文書に、修辞能力が必要とされたのです。
そのため、ペトラルカの弟子で、フィレンツェの書記官長だったコルッチョ・サルターティは、ギリシャの古典を理解するためギリシャ語の学習が必要と訴え、コンスタンチノープル出身のクリュソロラスを招き、修辞学を重視するビザンチンのカリキュラムを伝播させました。
また、同じく書記官長のブルーニはプラトン対話篇、書簡集を多数翻訳しました。

「ヒューマニズム」は、このように行政官のような市民が担うと共に、市民生活を称賛・肯定する思想があり、「市民的ヒューマニズム」と呼ばれます。


<プレトンとアカデミア・プラトニカ>

神性ローマ皇帝やオスマン・トルコへの対抗の必要性から、1438年から1439年にかけて、東西キリスト教会合同会議が、イタリアのフェラーラとフィレンツェで行われました。
この時、コンスタンチノープルの学者によって、各種の思想のギリシャ語の写本がもたらされました。
その後も、オスマン・トルコの攻撃から逃れるために、多くの学者はイタリアに亡命するようになりました。

中でも、合同会議に参加したプレトンことゲミストス・プレトン(1355-1452)は、ゾロアスターからプラトン、イアンブリコスまでを1つの宗教・哲学的伝統として位置づけて、アリストテレス主義のスコラ学一色だったカトリック世界の人間に大きな刺激を与えました。

フィレンツェの最高実力者になった富豪であり、ルネサンスの後ろ盾になったコジモ・デ・メディチもその一人でした。
プレトンは、プラトンなどの古代神学の研究機関を設立することをコジモに勧めました。

コジモはなかなかこれを実行に移すことができませんでしたが、フィチーノという才能と出会うことで、1463年、とうとう「アカデミア・プラトニカ」を設立しました。
「アカデミア・プラトニカ」は、教育機関というよりサークルでしたが、ここで、フィチーノらが多数の翻訳や著作を行ない、ルネサンスの思想運動の発信地となりました。

しかし、ルネサンスの神秘主義思想は、ユダヤ人がユダヤ教独自の形のカバラとして創造的な総合を行ったようには、キリスト教独自の形で創造的な総合や、精密な体系化は行わず、折衷主義的な傾向を残しました。


<ルネサンスの盛衰と対抗運動>

ルネサンス運動は、魔女狩りが吹き荒れた時期と大体重なっています。
また、反宗教改革の高まりとともに、ルネサンスが衰退していったという側面があります。
そして、1450年のグーテンベルグの活版印刷の発明という、印刷革命とも歩みを共にしています。

教皇インノケンティウス8世は、フィチーノとピコに圧力を加えました人物です。
彼が出した1484年の勅令、「熱望もて求むるものら」、1487年の「魔術への鉄槌」は、魔術師、魔女を糾弾して、魔女狩りのきっかけにもなりました。

それにもかかわらず、フィレンツェのルネサンス運動は大きくなり、1492年には、ルネサンス的な異教趣味のアレクサンデル6世が教皇になりました。
バチカンのフレスコ画にヘルメスやシビュラを描かせるほどのエジプト趣味で、自身の家の紋章をオシリスの化身であり太陽神であるアピス神にしたほどです。
ピコを無罪放免としたのも彼です。

しかし、この同年に、大きなマイナスの出来事が起こりました。

フィレンツェのルネサンス運動の後ろ盾だった、メディチ家のロレンツォ・イル・マニフィコが死亡し、その2年後にはメディチ家がフィレンツェから追放されます。
そして、異教の批判者サヴォナローラの神政政治が始まります。
1499年にはフィチーノが亡くなり、「アカデミア・プラトニカ」の重要な関係者全員が亡くなってしまいます。
こうして、フィレンツェのルネサンス運動は急速に衰退しました。

その後も16Cから17C初頭まで、ヨーロッパ各地にはルネサンス運動は広がっていき、各地でルネサンス的な多数の思想家、宗教家、哲学者、人文学者、芸術家、自然科学者、医者、社会運動家などを輩出します。


<ルネサンスと文献批判、秘密結社>

しかし、1614年、イザーク・カゾボンがヘルメス文書の年代同定を行って、それが言われているような古いものではなく、キリスト誕生以降の時代に書かれたと発表し、ルネサンス思想に大きな打撃を与えました。
ロバート・フラッドやカンパネッラら、晩期のルネサンスの思想家は、これを無視しました。

しかし、ケンブリッジ・プラトン学派のヘンリー・モア、ラルフ・カドワースは、ヘルメス文書、カルデア人の神託、オルフェウス文書、シビュアの神託などの時代の考証、文献批判を受け入れつつも、それらの思想を単純には否定しませんでした。
ヘルメス文書にある真にエジプトの伝統的的要素を見極めつつ、キリスト教との総合を目指したのです。

そして、この同年に、象徴的な出来事が起こります。

ルネサンス思想を体現する薔薇十字団の宣言書が出されたのです。
これは、ルネサンスの神秘主義運動が、秘密結社化するきっかけとなりました。


<ルネサンスと科学>

ルネサンス思想は、科学の母胎として、科学を生み出しつつ、衰退していったという側面もあります。
キリスト教では自然にはほとんど意味が与えられていませんが、ルネサンス魔術は、万物照応の世界観のもと、自然に働きかけようとします。
そのため、自然の法則を理解しようとする姿勢がありました。
これが、自然を対象とした科学の発展を生むことにつながりました。

錬金術が、化学、医化学に各種の発見と技術を寄与したことは間違いありません。
「錬金術」と「化学」が概念として別れたのは17C後半頃からで、一流の化学者でも18Cの中頃までは錬金術を試していました。

近代科学の祖とされるロバート・ボイルは、錬金術を信じる錬金術師でした。
彼は、その知識を得るために秘密結社に入ろうとしましたし、錬金過程に立ち会って、金の生成を確認したと主張しています。

宇宙論においても、寄与がありました。

例えば、地動説の発見には、太陽を第二の神として重視する、ヘルメス主義やプラトン主義が影響を与えました。
フィチーノがあげる古代神学者の系譜には、地動説を説くピタゴラス、フィロラオスがいます。
コペルニクスは「天球の回転について」(1543)の中で、地動説の発見を「瞑想の帰結」と表現し、ピタゴラス、フィロラオスの名も上げ、ヘルメス・トリスメギストスを地動説の発見を祝福する保証人としています。

古代神学の多くはプトレマイオス的な天動説をとっているため、コペルニクスの地動説は異質なものと思われましたが、必ずしも天動説は魔術的世界観の必要条件ではありません。
ジョルダーノ・ブルーノのような魔術的ヘルメス主義者は、生きた地球が動くのは当然として地動説を歓迎しました。
彼はコペルニクスを数学者でしかないとして、その神智学的意味を求めました。

太陽系外の恒星系の発見による無限宇宙論も、伝統的宇宙論を破壊しましたが、これを、内面の無限へとつなげる思想家もいました。

また、ヨハネス・ケプラーによる惑星楕円軌道の発見(1609-19)は、ピタゴラス的な天球の音楽を実証する考えの中で行われました。
彼は、ヘルメス主義を勉強しており、アニミズム的世界観を持っていました。

しかし、ケプラーは、ロバート・フラッドとの論争の中で、フラッドが純粋数学と数秘術的・象徴的数学を区別しないことを批判しました。
まさに、科学がルネサンス的思想を母胎として生まれながら、違うものとして育ったことを示しています。


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