薔薇十字啓蒙運動 [ルネサンス~近世ヨーロッパ]

薔薇十字宣言とアンドレーエ」で書いたように、薔薇十字宣言が出された時、薔薇十字団は架空の存在であり、宣言書の制作メンバーだったヴァレンチン・アンドレーエにとっては、それは改革理念の演劇的・喜劇的表現でした。

ですが、宣言書に表現された思想は、時代が生んだ必然でした。
そして、宣言をきっかけにして起こった運動は、17世紀を特徴づける啓蒙運動となり、その後の啓蒙思想や、神秘主義思想に大きな影響を与えました。


<時代背景と著者グループ>

薔薇十字宣言の著者は、チュービンゲンの理想主義者のグループであると推測されています。
そこにはアンドレーエが含まれますが、彼の役割が中心的存在であったか、そうでなかったか、あるいは、ほとんど関わっていなかったかは、分かりません。


薔薇十字の最初の宣言書、「友愛団の名声」が出版されたのは、30年戦争の4年前です。
当時、ヨーロッパでは、カトリックとプロテスタントとの争いが激しく、各国の思惑が複雑にからむ状況がありました。
別項で書いたように、ドイツのプロテスタント勢力は、ファルツ選帝候フリードリヒ5世を支持し、イギリスとのプロテスタント同盟にも期待をしていました。

また、ルネサンス以来の新しい知が発展し、それらによる改革を期待する声が増えていました。
ですが、当時、科学と魔術は一体であり、数学や天文学(地動説)、化学は、魔術の同類と考えられ、特にカトリックからは異端視される危険がありました。 

また、ヨアキム・デ・フィオレが予言した終末と「聖霊の時代」、そして千年王国の到来が迫っていると信じる人が多くいました。


薔薇十字文書が生まれたチュービンゲンは、ルター派神学の中心地で、アンドレーエの親交範囲には、様々な人物がいて、様々なサークルがありました。

ヴァレンティン・アンドレーエ(1586-1654)は、ルター派の牧師・神学者です。
祖父のヤコブはルター派の最高位の神学者で、ルター派の分裂の回避に尽くした人物です。
また、父のヨーハンは、錬金術にも興味を持つ牧師でした。

アンドレーエは、チュービンゲン大学で神学を学び、イギリスの演劇の影響を受けて喜劇を中心にして作家活動を始めました。
薔薇十字文書の「化学の結婚」は、そんな彼が10代に書いた初期の作品です。
しかし、おそらくシュトゥットガルトの宮廷批判が原因のスキャンダル大学から追放され、ヨーロッパ各地を遍歴しました。
しかしその後、「友愛団の名声」が出た1614年には、ファイヒンゲンの副牧師になっています。

1619年には、カンパネッラの「太陽の都」やジョン・ディーの思想の影響を受けた、ユートピア的キリスト教国家を描く「クリスティアノポリス」を出版します。
1620年には、それを実現するために「キリスト者協会」を設立しました。

次に、アンドレーエと親交のあった人物やサークルなどです。

クリストフ・べゾルトは、カバラに詳しく、ケプラーの友人でもあり、カンパネッラの影響を受けた理想主義的な人物でした。
幅広い教養を持った万能人であり、4000冊弱の蔵書を持ち、アンドレーエはそれを閲覧でき、アンドレーエに大きな影響を与えた人物です。

トビアス・ヘス(1568-1614)は、パラケルススに影響を受けた錬金術師的な医師で、ヨアキムの終末論にも傾倒していました。
彼の周りには人が集まり、サークルが生まれていました。
彼は宣言書作成の主要人物であったのではないかと推測されています。

ベネディクト・フィグルスは、パラケルスス主義者で、「新たなる祝福された哲学の薔薇園」を1608年に出版し、彼の周りにもサークルができていました。
この書は「名声」のネタの一つかもしれません。

ヴィルヘルム・ヴェンセは、イタリアのカンパネッラの弟子であり、カンパネッラの「太陽の都」の独訳者であり、アンドレーエの友人でもありました。
彼は、アンドレーエやべゾルトに、カンパネッラ風の学者結社「太陽協会」の設立を持ちかけていました。
後に、アンドレーエの「キリスト者協会」にも参加しました。

他に、アンドレーエの重要な友人に、アブラハム・ヘルツェル、トビアス・アダミらがいました。
アダミは「キリスト者協会」に参加しました。
ヘルツェルは、宣言書作成の主要人物であったのではないかと推測されています。

また、当時、新興のドイツ民族主義の結社が複数存在していて、ドイツ語普及運動を行っていた「豊穣協会」には、アンドレーエが関わっていました。
その「豊穣協会」が関係していた「親友協会」は、錬金術に興味を持った結社で、アンドレーエも会員であったかもしれません。

このように、終末的、改革的な時代のムードの中、チュービンゲンには、理想主義的、神秘主義的な思想を持つ人物、グループが多数ありました。
その中から薔薇十字思想・運動が生まれるのは、自然なことでした。


<薔薇十字の思想のモデル>

薔薇十字文書の思想は、終末論と、科学と魔術が一体となった普遍的な知による、啓蒙的・進歩主義的な社会改革、そして、聖職者、科学者、賢者が治める理想社会です。
それは、反カトリック的なプロテスタントの宗教改革を、ルネサンスのヘルメス・カバラ+錬金術の知によって高めることです。

薔薇十字思想の主なバックボーンは、ジョン・ディー、パラケルスス、カンパネッラでしょう。

ディーは、イギリス・ルネサンスを代表する人物であり、科学技術=魔術の啓蒙者です。
彼はドイツを旅行しており、その際に様々な交流を行っています。
パラケルススは、ローゼンクロイツのモデルの一人かもしれず、パラケルスス派には、キリスト教化された錬金術と、「普遍的知(パンソフィ)」という理念があります。
友愛団のモデルとしては、カンパネッラのユートピア小説「太陽の都」が描く学者の組織があります。

また、友愛団は、カトリックのイエズス会をモデルに、プロテスタントの同様の組織として考えられたという説もあります。
「化学の結婚」では、ローゼンクロイツは白地に赤い十字の旗をかかげて「石の騎士団」となっていますが、これは、ガーター騎士団がモデルでしょう。
また、設立者の神秘的性質から、友愛団は聖杯を守る騎士がモデルになっているという説もあります。

「薔薇十字」という名称に関しては、アンドレーエとルターとパラケルススの紋章に、その両方が含まれているところからつけられたという単純で説得力ある説があります。
また、「薔薇十字宣言とアンドレーエ」に書いたように、ガーター騎士団の紋章に由来するという説、ジョン・ディーの「象形文字のモナド」に由来するという説もあります。
あるいは、シモン・シュトゥディオンが「ナオメトリア」で主張した「福音主義同盟」に由来するという説もあります。

一般に、「十字」は「キリスト」の象徴であり、対する「薔薇」は「聖処女マリア」の象徴とされます。
「薔薇」は、キリスト教以前では、「ヴィーナス」やその「聖娼」の象徴でもありました。
ですから、「マグダラのマリア」の象徴でもあるでしょう。

錬金術でも、「薔薇」という言葉はよく使われ、「聖処女」の象徴として使われます。
「薔薇の花園」としては、「子宮」の象徴となり、「薔薇」に降りる「露(=十字)」は女神の中で再生する精子の象徴です。
また、「薔薇」の赤は、錬金術の「大作業」、「赤化」、「赤色の賢者の石」の象徴にもなります。

一方、スーフィーの象徴では、「薔薇」=「行」、「十字」=「本質を抽出する」です。
これが伝わっているとすれば、「薔薇十字」は霊的な本質を顕現させる方法という意味になります。


<影響>

薔薇十字文書は当時としてはベストセラーになり、中北部ヨーロッパに広がり、多くの賛同と批判を集めました。

賛同者には、ジョン・ディーを継承するイギリス・ルネサンスの最後の大物、ロバート・フラッド(1574-1637)がいます。
彼は、1616年の「薔薇十字の友愛団に対する簡単な弁明」、1617年の「薔薇十字の結社のための弁論的論考」でいち早く友愛団に対する批判から団の擁護をし、自身の団への参加を求めました。
彼は友愛団が実在すると信じていましたが、接触がなかったため、自分にはその資格がないのだろうと思っていたようです。

フラッドの主著「両宇宙誌」(1617-19)は、ディーのウィトルウィウス主義を継承し、ルネサンスの万物照応思想の最後の総合を示す書です。
この書は、30年戦争の足音が近づく中、薔薇十字団の聖典として急いで書かれた、とも言われています。

神聖ローマ帝国のルドフル2世の侍医であり、私的秘書であったミハエル・マイヤー(1566-)も賛同者でした。
彼は、皇帝の死後に反宗教改革派に追われてイギリスに1612年に逃亡し、ロバート・フラッドと知り合いになりました。
彼の「逃げるアタランタ」は、錬金術的な寓意書で、美しい寓意画で有名です。
マイヤーも友愛団の実在を信じていましたが、近づくことは僭越と考えていたようです。
また、彼は錬金術師でもあり、友愛団の錬金術が精神的なものであり、その秘密を知っていると信じました。

オックスフォード大学のアシュモール博物館の創設者であり、古物研究家、錬金術師のエリアス・アシュモール(1617-)も賛同者です。
彼の「英国の化学の劇場」は、イギリスにおける錬金術文書の選集であり、マイヤーを継承
するものですが、この書は「名声」の引用から始めています。
彼は友愛団への加入希望の手紙を書きましたが、これは、勤行として行ったのであって、実際に連絡を取ろうとしたのではない、との解釈もあります。

フランシス・ベーコンも影響を受けています。
彼の著作「ニュー・アトランティス」(1626)は、「太陽の都」のベーコン版です。
この書が描く島の役人は赤い十字を身につけるなど、薔薇十字文書の影響が見られます。

また、ライプニッツも薔薇十字団に接触しようとした人物です。
彼は、1666年に薔薇十字を名乗る何らかの団に加入したようですし、アンドレーエのキリスト者協会にも興味を持っていました。
そして、彼が提案している慈悲の結社の規則は、ほとんど「名声」の引用です。

また、薔薇思想の影響を受けて誕生した学者の組織もいくつかあります。

1622年に、植物学者、医学者、論理学者のヨアヒム・ユンギウスが設立した、「エレウニス協会」もそうです。
この協会は、大学から独立したヨーロッパで最初の学者集団で、ユンギウスはチュービンゲン・グループと接触もあり、薔薇十字思想やフィチーノの「アカデミア・プラトニカ」の影響を受けています。

ドイツのファルツ出身のテオドーア・ハークがオックスフォード内に設立した「見えない学院」も、薔薇十字文書の影響を受けています。
この学院は、王直属の科学アカデミー兼文化人交流会である「ロイヤル・ソサエティ(王立協会)」の前身となりました。

「ロイヤル・ソサエティ」のメンバーには、近代化学者の父ロバート・ボイルやニュートンがいますが、2人とも錬金術に興味を持っていました。
ニュートンはアシュモールの「英国の化学の劇場」を研究しています。

先に書いたアシュモールは、「見えない学院」にも「ロイヤル・ソサエティ」にも参加してます。
また、「ロイヤル・ソサエティ」設立の立役者にロバート・マリはがいます。
この2人はどちらも薔薇十字思想に興味を持つ人物であり、また、マリは1641年にエジンバラの、アシュモールは1646年にロンドンの、フリーメイソンリーに入会しています。

この2人が入会しているのなら、これらのフリーメイソンのロッジは、単なる石工組合の結社ではなく、思想的な興味を持つ「思弁的メイソン」のロッジでしょう
薔薇十字思想の影響を受けて、「思弁的メイソン」が誕生した可能性もありますが、少なくとも影響は与えたのでしょう。
アンドレーエの弟子的存在であったヨハネス・コメニウスは1641年以降にイギリスに滞在しており、彼がなんらかの役割を果たしたようです。

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*「薔薇十字の見えない学院」テオフィルス・シュヴァイクハルト

薔薇十字運動は、18世紀以降の欧米の神秘主義思想の本流にも大きな影響を与えました。
ドイツの黄金薔薇十字団、思弁的メイソン、フランスの薔薇十字カバラ団、ブラヴァツキーの神智学協会、ルドルフ・シュタイナーの人智学協会、黄金の夜明け団などです。
そして、多数の組織が、「薔薇十字」という名称を使用しました。


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