ルドルフ・シュタイナーの生涯と人智学 [近代神智学・人智学]

ルドルフ・シュタイナー(1861-1925)は、神智学協会のドイツ支部の事務総長を経て、自身の思想「人智学(アントロポゾフィー)」を構築した、近代の神秘思想家を代表する人物です。

シュタイナーは、幅広く高い教養を身につけた思想家で、ゲーテ学者、ニーチェ学者として世に出ましたが、40歳になってから神智学者に転向しました。

シュタイナーは、東洋の秘教に立脚点を置いた神智学に対して、西洋の秘教に立脚点を置きました。
そして、神智学のようにマスターについて語らず、自身の霊視力に基づいて語りました。

また、シュタイナーは、太陽ロゴスであるキリストがイエスに受肉し、ゴルゴダの秘跡によって地球霊になって以降、人間の内に言葉を通して霊的なものを見いだせるようになったと言います。
そして、シュタイナーは、宇宙的法則を反映する生きた思考を通して、超感覚的認識を獲得す「薔薇十字の道」を説きました。

また、シュタイナーは、物質を志向させて霊的認識から遠ざけるアーリマンと、その逆を志向させるルツィフェルの均衡を取るのが「キリストの道」であると説きます。
そして、現代は、個々人の自由な創造が求められる「ミカエルの時代」だとも説きます。

この項では、彼の人生と思想形成を追いながら、「人智学」について紹介します。

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<ウィーン時代とゲーテ>

1861年、シュタイナーは、当時のハンガリー、現クロアチアのクラリエヴェックで、鉄道の通信技師の子として生まれました。

彼は少年の頃から死者の霊を見るなど、彼にとって、霊的な世界、内的な世界の体験はリアルなものでしたが、一般の人がそれを否定することを知り、秘すことにしました。

そのため、彼は幾何学に触れた時、それが内外の世界を同時に体験できるものであると感じて、喜びを感じました。

1879年、彼はウィーン工科大学に進みました。
ですが、彼は、内なる生きた魂の世界と、自然科学で学ぶ死んだ自然の違いに葛藤していました。

一方、森で薬草を採取していた薬売りのフェリックス・コグツキーに出会いました。
彼はオカルティズムに詳しい人物で、シュタイナーは彼を通して、魂の世界に関する学問を知り、その世界に確信を得ました。

フェリックスはシュタイナーに、あるマスターを紹介しました。
彼が誰であるのかは知られていませんが、フリーメーソンや薔薇十字会の高位のマスターだと推測する人が多くいます。
彼はシュタイナーに、フェヒテをテキストにしてオカルティズムを講義しました。
また、ゲーテを学ぶこと、唯物論の克服のためには自然科学を研究すること、そして、40才になるまで霊的な指導者にならないことを勧めました。

シュタイナーは15歳の時に、カントの「純粋理性批判」を読み、それを通して哲学的な思考を学びましたが、カント哲学の「物自体」を認識できないという認識の限界に関する主張に疑問を持っていました。
そして、シュタイナーは、フェヒテの「全知識学の基礎」を読んで、「自我」を認識の基盤に置くことに確信を持ちました。
シュタイナーは、「自我とは霊の世界に生きている霊それ自体であるということが、私にとっての直観であった」と書いています。
また、フェヒテが「新しい内的感覚器官」が必要となる、と考えたことを重視しました。

1882年、シュタイナーは21歳にして、「ドイツ国民文学叢書」の「ゲーテ自然科学論文集」の編纂を担当しました。
そして、1886年に「ゲーテ的世界観の認識論要項」を発表、少し間を置いて1897年に「ゲーテの世界観」を発表し、ゲーテ学者として知られるようになりました。

シュタイナーは、ノヴァーリス同様に、自然を成長する生きた状態として観察するゲーテの自然学に惹かれ、思考もそのように生きたものにすべきたと考えました。
ゲーテは「形象的理念」という考え方で植物の成長を捉えましたが、シュタイナーはこれを思考の瞑想法として捉えました。
シュタイナーにとっては、「自我」が霊的存在であるように、生きた「思考」も霊的存在なのです。

シュタイナーは、自然の中にある創造力と人間の創造力の同一性を、理論的に説明できる認識論的立場が、心物二元論の克服に必要だと考えました。
彼は、思考が理念を把握することで、外に働いているものが人間精神の内に立ち現れて客観と一つになると考えました。

1888年に、シュタイナーは「ドイツ週報」の編集長となり、社会主義の運動家と交流を持ちました。

また、シュタイナーは、ウィーン時代には、当時最高のオカルティズムの知識を持っていたフリードリッヒ・エクスタインと親交を持ち、教わることができました。
またこの頃、彼は、神智学協会のシネットの「エソテリック・ブッディズム」も読みました。


<ワイマール時代と「自由の哲学」>

1890年、シュタイナーは、ゲーテ・シラー文庫で働くために、ワイマールに移住しました。
1891年には、「特にフェヒテの学説に関する認識論の基本問題」で博士号取得しました。
そして、1894年に、彼の哲学における主著となる「自由の哲学」を出版しました。

この書で彼は、知覚内容と概念を思考によって結びつけることで、それらが完全な現実になるとして、カントの「物自体」と認識の限界の主張を否定しました。
そして、倫理的な想像力によって直観された理念を、意志によって動機付け、現実の行為に移すことが、人間の「自由」であり、霊的なものによって行為することになる、と主張しました。
彼は、後に神秘主義者に転身してからも、この「自由」を重視することは、変わりはありません。

同年、ニーチェの妹のエリザべ―トと知り合いになり、ニーチェ文庫で彼の蔵書を整理し、ニーチェが読んだ本に書き込んだメモを読む機会を得ました。
エリザベートはシュタイナーをニーチェ文庫の専任者にして、全集の監修をさせることを希望したのですが、実現しませんでした。

また、シュタイナーは、当時すでに病んでコミュニケーションがほとんどできなくなっていたニーチェと対面しました。
シュタイナーは、「この時、私が霊視したものについて、私の思考はただ口ごもることしかできなかった。」と書いています。
しかし、翌1895年には、それを「フリードリヒ・ニーチェ 反時代的闘志」として発表しました。
シュタイナーは、当時、自分が「無条件なニーチェ主義者」であると思われていたと、後に書いています。


<ベルリン時代と魂の転回>

1897年、シュタイナーはベルリンに移住し、自由文学協会に参加して、「文芸雑誌」の編集などを手がけました。
ベルリンでは、グリム兄弟の息子で文化史家のヘルマン・グリム、生物学者のエルンスト・ヘッケル、哲学者のエドゥアルト・フォン・ハルトマンらとも親交を持ちました。

シュタイナーは、人間の進化について、ヘッケルの系統発生的思考を、「彼の学説より優れたオカルティズムの科学的基礎付けは存在しない」と評価しています。


シュタイナーは、ワイマールにいた最後の頃から、深刻な「魂の転回」を経験しました。
これは、思考と感覚の霊的な融合とでも言うべきものでした。

シュタイナーが言うには、一般の人は幼児期に、霊的世界から感覚世界に移行します。
そして、本来、霊的な体験からきた事物の表象を、感覚的な知覚と区別がつかなくなります。

ですが、シュタイナーは、自分が若い頃から霊的な世界はリアルでしたが、36歳になるまで感覚世界に対しては夢うつつのような状態だったと言います。
ところが、36歳になって初めて、物質の世界に対してはっきりとした意識で観察できるようになったのです。

同時に、シュタイナーの自然や他人に対する観察の方法を変えることになりました。
彼は、あるがままに自然や他人の言動が自分に作用してくるようにしたのです。

そして、シュタイナーは、「このような世界観察が私を本当に霊界の中へ導いてくれるのを知った」と言います。
彼は、「物質界を観察することの中で、まったく自分から抜け出ることができる」ようになり、「高められた霊的観察能力を持って、ふたたび霊界の中へ参入する」ことができるようになりました。
つまり、既存の固定した表象や概念を自分から外界に押し付けて認識するのではなくて、対象(の知覚)から自然に認識が生まれてくるようにしたのです。

シュタイナーは、これを、「人間の認識とは人間だけのものではなく、世界の存在と生成の一部分なのである」と書いています。
彼にとっては、このような創造的な認識は、正に、霊的体験であり、一元論的な認識的立場に当たるものでした。


<神智学協会から人智学協会へ>

1900年に、シュタイナーは、ドイツ神智学協会の主要メンバーであるブロックドルフ伯爵に招かれて、神智学文庫でニーチェ、続いてゲーテに関する講演をしました。

この時点で、シュタイナーは、神智学とブラヴァツキー夫人について、その存在は知っていましたが、ブラヴァツキー夫人の著作は読んでおらず、その秘密主義と心霊主義の側面を批判していました。

ですが、その後、夫人の著作を読んで、感銘を受けました。
シュタイナーは、神智学協会に対して、オカルト結社と違って、公開主義で、位階組織ではなく平等主義であると、評価して語っています。

神智学協会での講演を通して、協会のメンバーは、シュタイナーがオカルティズムの知識を持っていて、それらを語ることができるのではないか、ということを発見しました。
一方、シュタイナーも、自分が語る霊的なものを受け入れる環境があることを発見しました。

こうして、シュタイナーは、霊的なテーマの講演を始めました。
1900年から1902年にかけての、「近代精神生活の黎明期における神秘主義」、そして、「神秘的事実としてのキリスト教と古代秘儀」です。

これは、ちょうど、若い頃にマスターから霊的な指導をそれまでひかえるようにと言われていた40才の境であり、また、1000年期の境でもあり、彼によると「カル・ユガ」の時代が終わった(1899年)タイミングでもありました。

そして、シュタイナーは1902年1月に神智学協会に入会し、10月には、新たにベルリンで設立されたドイツ支部の事務総長に選ばれました。

この時、ロンドンからアニー・ベザントが来訪し、シュタイナーは彼女と対面しました。
ベザントは、シュタイナーに関して、「東方の道」を知らないけれど、彼の「西方の道(キリスト教・薔薇十字の道)」は多くの人に役立つ、と考えていました。
ですが、彼女はシュタイナーに、神智学の教義と齟齬をきたさないようにと注意をしていたようです。

シュタイナーが神智学協会に入会したことは、彼がこれまで築いてきたアカデミックな領域における学者、思想家として地位、評判、人脈を失わせるものでした。

こうしてシュタイナーは、これまで語ることをひかえてきた霊的な事項を語るようになったのですが、彼は、一つのルールを決意しました。
それは、「いかなる党派的ドグマにも囚われず」、「自分自身が霊界で体験したことに従がって語ることができると信じたことだけを話す」でした。
しかし、これは、神智学協会の中に居続けることができないことを示しています。

その後、シュタイナーは、1904年から1908年にかけて、主著となる「神智学」、「いかにして超感覚的世界の認識を獲得するか」、「アカシャ年代記より」などを発表しました。
当時の彼はまだ「神智学」という言葉しか使っていませんが、彼の「人智学」の思想の基礎が、ここに作られました。

シュタイナーの人間本質論は、基本的には神智学のそれを継承していますが、神智学が高級3本質(霊)と低級4本質(魂・体)に分けて考えるのに対して、シュタイナーは霊・魂・体の3分説を基本に、自我を中心に上下対称構造で捉えるのが特徴です。

また、シュタイナーの惑星進化・人類進化論も、神智学のそれを継承していますが、堕天使的存在のルツィフェルに関する説などに特徴があります。
また、修行論は、思考や自我を重視することなどが特徴です。

具体的には、それぞれ別項を参照してください。

ですが、1909年には、神智学協会の主流派のベザント、リードビーターらアディヤール派が、クリシュナムルティにキリストが受肉するとして、その準備を始めました。

シュタイナーはこの頃、前後数年間に渡って、イエスの人生の霊視を行いながら、各福音書の講演を行なっていました。
彼は、イエスが二人いて、ゾロアスターと仏陀がそれぞれにイエスを準備し、「太陽ロゴス」である「キリスト」がイエスに受肉し、ゴルゴダの秘跡で「地球霊」になったとします。
詳細はキリスト論についての別項を参照してください。

シュタイナーにとっては、キリストに関する神智学協会との解釈の違いは、譲れないものでした。
そのため、1912年、シュタイナーは神智学協会から脱会し、多くのドイツ支部、そのメンバーもそれに続きました。
そして、脱会したメンバーらは、「人智学協会」を設立しましたが、シュタイナー自身は形の上ではこの協会には参加しませんでした。


<第一次世界大戦の戦中・戦後>

1909年に、シュタイナーは「芸術の本質」という講演を行いました。
そして、1910年から1913年にかけて、「神秘劇四部作」をミュンヘンで上演しました。
同時に、言葉を動作で表現する言語=舞踏芸術「オイリュトミー」の創作を始めました。

その後、神秘劇の上演用の舞台も備えた人智学の活動の拠点を作る計画が生まれ、1915年に、これがスイスのドルナッハの「ゲーテアヌム」として完成しました。

しかし、その前年の1914年に第一次世界大戦が始まり、ヒトラーのナチス党率いるドイツは敗戦しました。

シュタイナーは、第一次大戦は、西のある秘密結社が準備したと言っています。
彼は、人間理性による社会建設を目指す国境を越えたこの結社が政治を操り、各国の国民意識を操ったと考えました。
そして、ドイツは、その国民性の本質から生まれる任務を果たすことを怠ったと。

シュタイナーは、従来の中央集権的な国家システムに対して、霊・魂・体の三分説に対応するように、精神システム、法・政治システム、経済システムを分離した「社会有機体三分説(社会三層化論)」を提唱しました。

しかし、1919年に、ディートリヒ・エッカルトが、シュタイナーはユダヤ人であり、社会主義者で、ドイツ敗戦の戦犯である、というデマによる批判を始めました。
エッカルトは、トゥーレ協会のメンバーであり、ナチ・オカルトに影響を与えた人物です。

また、1921年には、ヒトラーも機関紙で、「社会有機体三分説」はユダヤ的方法論であり民族の精神を破壊する、そしてこの悪魔的所業のすべてを背後で牛耳る推進役はユダヤ人のシュタイナーだ、と書いて批判しました。

他にも、シュタイナーを敵視する民族主義者やそのグループが多数いました。

アーリア人を人類文化の祖とするアーリアン学説は、神智学を経てオカルト人種論、ゲルマン民族主義的の宗教的潮流となりました。
シュタイナーの人智学もその潮流の一つかもしれませんが、この潮流としては、グイド・フォン・リストの「リスト協会」、ランツ・フォン・リーベンフェルスの「新テンプル騎士団」、ルドルフ・フォン・ゼボッテンドルフの「トゥーレ協会」を経て、ナチ・オカルトに至りました。

そして、1922年、ゲーテアヌムは何者かの放火(証拠はでていませんが)によって焼失しました。


<一般人智学協会と霊学自由大学>

その1年後の1923年、ゲーテアヌムの瓦礫の近くに立てられた小屋で、「クリスマス会議」と呼ばれる会合が行われ、約800名の会員が集まりました。
シュタイナーはここで、自身を長とする「一般人智学協会(普遍人智学協会)」と、協会の核となる「霊学(精神科学)のための自由大学」を設立しました。

「霊学自由大学」は、霊界のミカエルからの要請で作られたものであると、シュタイナーは言っています。
講義の際にも、実際にミカエルが臨席していると、何度かシュタイナーは告げています。
シュタイナーにミカエルが宿った、という人もいます。
そのため、シュタイナーは、「クリスマス会議」以降、「協会内のどんな行為も、直接エソテリックな性格を持つようになった」、と言っています。

人智学、人智学協会は、基本的に、完全な公開主義です。
ですが、「霊学自由大学」に関しては、そこに違うレベルで、オカルト的規則による一種の秘密主義がありました。
公開されてしまうと力が失われるものが重視されたのです。

シュタイナーは、「霊学自由大学」メンバーに、それぞれが人智学の代表となるという覚悟、霊界に対する真剣さを求めました。

また、シュタイナーは、講義の中で、人智学運動とキリスト者共同体を潰そうとしているカトリック勢力がいることを具体的に述べて、妨害と切り崩しの中を通っていくあの困難な道を共に歩むという覚悟が必要だと語りました。

「霊学自由大学」は、シュタイナーのもとに指導部が置かれ、指導部会を形成する指導的人物が各々の部門を指導します。
例えば、最初の人智学協会の立役者でもあったマリー・シュタイナー夫人が言語表現芸術と音楽芸術部門を担当し、スイスの詩人アルベルト・シュテッフェンが純文学部門を担当しました。
自由大学には、協会に2年以上在籍した者が、大学の責任者の面接を受けて合格すれば入学が認められした。

1924年2月に、ドルナッハで、シュタイナーによって第一学級に向けた講義が始まりました。
その内容は、ミカエルから伝えられた「マントラ」の授与と、その解説が中心でした。
このマントラは、各人が実際に霊界へのイニシエーションを体験する時に、ミカエルの代行者である「境域の守護霊」が実際に語る言葉だと言います。
詳細は別項を参照してください。

講義の内容は、非公開が求められ、つい最近まで、大学への入学が認められたメンバー以外は知ることができませんでした。
参加者は、マントラを別にして、講義の内容を記録したノートを、8日間後に破棄しなければなりませんでした。

これらの講義は、長らく非公開でしたが、現在は書籍「秘教講義I、II」として出版されています。

大学のクラスは、通称「ミカエル学級」と呼ばれ、三階級の構成になる予定でしたが、シュタイナーの死によって実現しませんでした。
ですが、シュタイナーは、第2学級の講義の内容は「祭祀」に関わるもの、第3学級は「マトラの解釈」に関わるものであると、予告していました。


また、シュタイナーは、「クリスマス会議」以降、機関誌「ゲーテアヌム」に、協会員に向けた手紙と、自身の伝記の連載を始めました。
前者は「人智学指導原理」として、後者は「自叙伝」として出版されました。

1924年1月、何者かによって、シュタイナーは夕食会で毒を盛られました。
そして9月には病に伏し、翌1925年の3月に亡くなりました。

ですが、彼は1924年の1月から9月までは、338回の講演を行って精力的に活動しました。

その後、シュタイナーが生前に設計した第二のゲーテアヌムが、死後3年半で完成しました。


また、本稿では割愛しましたが、シュタイナーは、教育(自由ヴァルドルフ学校)、農業(バイオダイナミック農法)、医療(人智学医学)の分野でも、人智学的な理論を展開し、また、宗教(キリスト者共同体)の分野でも影響を与えました。

このように、生活に根付いた広い分野での具体的な実践理論がある点は、神智学と異なる人智学の特長です。


<人智学と神智学の対照性>

シュタイナーの人智学は、ブラヴァツキー夫人の神智学のドイツ・ヴァージョンであるとも言えます。
ですが、その一方で、唯一、神智学を本質的な次元で修正、発展させたものだとも言えます。

シュタイナーは、ブラヴァツキー夫人と違って、ヨーロッパを出たことがありません。
ですが、哲学者、思想家としては、トップ・レベルの幅広い教養と能力を持っていて、他の神智学の思想家とはレベルが違いました。

ブラヴァツキー夫人の神智学協会は、「原初の智恵」の伝統を核として、それを伝えるインドの秘教などの東洋の伝統に立脚点を置き、諸民族の宗教・思想を平等に扱いました。
キリスト教に関しては、特別視しせず、どちらかというと、秘教を弾圧してきたという点で、否定的に捉えました。

これに対して、シュタイナーは、西洋の伝統、つまり、キリスト教と薔薇十字主義、そして、エックハルトなどドイツ神秘主義、フェヒテなどのドイツ観念論、そして、ノヴァーリスなどのドイツ・ロマン主義やゲーテに立脚点を置いていました。
そして、「原初の智恵」よりも現代的課題を重視しました。

これらの点で、神智学と人智学には対照的です。

また、神智学協会は、人間の本質を「思考」や「自由意志」、個別化した「自我」と考えてそれを重視しました。
シュタイナーも同様ですが、彼は「自我」や「思考」が本来的には「霊」であるとし、実践や修行法においても、それを厳密に捉えて行おうとしました。

そのため、神智学協会が、最終的に思考を捨てるラージャ・ヨガ(ヨガ・スートラ)を重視するのに対して、シュタイナーは、思考を生きたものにすることを目指します。

シュタイナーは、日常的な思考を死んだ思考と考え、思考を有機的に成長する生きた思考にすべきだと言います。
思考は宇宙的・客観的存在であるため、脱自的・没我的に思考する必要があります。
また、思考そのものを対象とした純粋思考や、感覚世界ではなく霊的世界を対象とした思考を重視します。

この点でも、対照的です。

また、ブラヴァツキー夫人の神智学は、基本的には、インドや他の地域の古い書を元にして「原初の教え」を復元しようとしたものです。
その強引な復元・創作に主観性がありますが、ある程度の客観性もあると言えます。

一方、シュタイナーは、自身で霊視して真実であると確認したものしか書かないと言っています。
人智学は協会員にとっては真実ですが、外の人間から見ればシュタイナーの主観的な思想です。

この点でも、対照的です。

また、ブラヴァツキー夫人やその後継者、分派の創始者は、形式としては、マスターと連絡を取り、彼らの教えであるとして教義を説きました。
神智学では、教義の個人性は消され、代わりにマスター信仰があります。
これは、近代的でも学問的でもありませんが、神秘主義思想に限らず、東西の伝統的な文化における一般的な手法です。

一方、シュタイナーは神智学協会のマスターの存在を否定しませんが、自身は、彼らと連絡を取って教えを受けたと主張したことはありません。
人智学には、マスター信仰はありませんが、シュタイナーが語った(認識した)ものという個人性があり、彼への信仰は避けられません。

また、神智学が(謎のマスターとの)師弟関係を重視したのに対して、シュタイナーは、書物による個人的伝授や社会関係、霊界との関係を重視しました。

これらの点でも、対照的です。

また、ブラヴァツキー夫人は、キリストの再来を語りませんでした。
ですが、神智学協会のアディヤール派は、クリシュナムルティにキリストが宿るという形でメシアニズムを展開し、クリシュナムルティ自身による否定でこの運動は崩壊しました。
また、ベイリー派は、キリストがまもなく出現するという形で、メシアニズムを展開しました。

一方、シュタイナーの場合は、エーテル界にキリストが出現したとし、協会員に、キリストを見るための霊視力の獲得を目指させました。
これは、人智学におけるメシアニズムの一形態であると言えなくはありません。

この点でも、対照的です。

また、神智学、人智学には、アーリアン学説の影響があって、人種差別との批判がされることもあります。
神智学協会では、人によって差別的な観点の程度に差がありますが、スラブ系の文化で育ち、エジプト、アメリカ、インド、イギリスなど、各地で活動したブラヴァツキー夫人にはそれが少なかったように思えます。

一方、シュタイナーは、「人種」という言葉を使うのは、神智学が使っているからでしかない、「人種」が意味を持つのはアトランティス期だけである、民族主義はアーリマンの力によるものでありミカエルに時代にはふさわしくない、などと語り、自覚的、思想的に「人種」を超えようとしています。
ですが、シュタイナーの思想の各所には、視野の狭さに由来する人種差別的な発想を感じてしまいます。

この点でも、対照的です。


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