神智学の思想の背景と本質 [近代神智学・人智学]

<原初の智慧とインド思想>

ブラヴァツキー夫人は、ルネサンスの「古代神学」やエリファス・レヴィの「隠された伝統」の考え方を継承して、「原初の智恵」を信じ、それがアーリア人によるもの、インドに発しているものと考えました。
そして、このインドに伝わる「原初の智恵」が、イラン、カルデア、ヘブライ(カバラ)、エジプト(ヘルメス文書)に伝わったのだと考えました。
また、インドのヒンドゥー教や仏教は、それをかなりの程度で表現していると。

また、キリスト教やイスラム教は、もともとゾロアスター教などのイラン系宗教の影響を受けたものでしかないだけではなく、伝統的な秘教を否定する、悪魔的な熱狂にとりつかれた宗教であると考えて、評価しませんでした。

以上のように、ブラヴァツキー夫人は、スラブ系の文化で育った人間ですが、当時ヨーロッパで大きな影響を持っていたアーリアン学説の影響を受けています。
そして、「人類発生論」で、現在の人種である第5根幹人種を「アーリア人」としました、
ですが、彼女はこれを白人種の印欧語族のことではなく、現代に存在する人種の総称的な意味で使っています。
ところが、彼女の継承者は、必ずしもそのように理解しなかったようです。
また、「インド」についても、古代のイランからチベットまで含めた広い地域を指しています。

ブラヴァツキー夫人とオルコットが提携した、インドのアーリア・サマージの代表のダヤーナンダ・サラスヴァティも、「原初の永遠の宗教」を信じ、「ヴェーダ」に回帰する思想を持っていました。
この点では、2つのグループは共通していました。

ブラヴァツキー夫人は、インド思想の中でも、「ウパニシャッド」が秘教であり、「ヴェーダ」や「プラーナ文献」は顕教だと考えました。
ヴェーダーンタ哲学、サーンキヤ哲学や「ヨガ・スートラ」のようなバラモン哲学も、秘教を受け継いでいると考えていたのでしょう。
ですが、ヒンドゥー・タントラや後期密教のような、本当のインドの秘教は知らなかったのではないでしょうか。

また、「シークレット・ドクトリン」で述べられた宇宙・人類発生論は、多くをプラーナ文献、中でも最もよく体系化された「ヴィシュヌ・プラーナ」に負っています。
宇宙の多重な周期的創造論、そして、マヌ、クマーラなどの神的存在などです。

もちろん、基本的な思想である転生とカルマ論も、インド思想であり、神智学はそこに進化論的思想を統合しました。


<仏教>

シネットが書いた「エソテリック・ブッディズム」は、ブラヴァツキー夫人と神智学の思想が表現された最初の書籍とも言えます。
ですが、彼女はこの書の「ブッディズム」という言葉について、「仏教」ではなく「ブッディ(ボディ、智恵)」のことだと言っています。

でも、オルコットとブラヴァツキー夫人は、セイロンで仏教に改宗しています。
その後、リードビーターも二人に続きました。
ですから、彼らは仏教を特別視していたハズです。

ブラヴァツキー夫人は、釈迦の教えは、バラモンの秘教を公開するものだと考えました。
ですが、公開した小乗仏教の教えは、倫理と人間に関する顕教の部分だけで、他は阿羅漢のインナーサークルの中に隠して伝えたと。

そして、大乗仏教はその秘教の一部をさらに公開したけれど、本当の秘教を保持しているチベットの仏教の教えはほとんど知られていないと主張しました。

神智学に密教(エソテリック・ブッディズム)の要素がどれだけあるのかというのは、良く問われてきた質問です。
ですが、実際には、密教的要素はほとんどないでしょう。

ブラヴァツキー夫人は、大乗仏教の宇宙大に拡大された仏陀論や弥勒信仰、シャンバラ伝説といった、イラン系思想の影響を受けた部分を「秘教」であると考えていたと思われます。

ブラヴァツキー夫人は、「観音菩薩」を「宇宙霊」、「ロゴス」、「マハット」、「ブラフマー」と同一視しています。
これは、仏教的には理解できませんが、「ミトラ」=「弥勒菩薩」と同一視したのかもしれません。

当時のインドでは仏教は滅びており、シャンバラ伝説を持つ「カーラチャクラ・タントラ」を伝承していたのはチベットだけです。
ですが、「カーラチャクラ・タントラ」自身は、イラン・トルコ系の中央アジアで原型が作られ、シャンバラのモデルもそこにありました。

ですが、ブラヴァツキー夫人は、シャンバラがチベットの向こうのゴビ砂漠にあると考えました。
また、チベットの大師から教えを受けていると主張しました。

ブラヴァツキー夫人は、チベットで修行をしたと主張しましたが、それはありそうになく、先に書いたように、彼女は「カーラチャクラ・タントラ」も含め、密教、後期密教についての知識はあまり持っていなかったと思われます。

ただ、ブラヴァツキー夫人が少女時代に母方の祖父の元で過ごしたのは、カピス海沿岸のアストラハンで、そこの遊牧民カルムイクの人々はチベット仏教徒でした。
そして、夫人の母は、カルムイク人の密教をテーマにした小説を書きました。
そのため、夫人にとってチベット密教が身近な存在であったことは確かです。


<パルシー秘教派経由のイラン・カルデア思想>

ブラヴァツキー夫人は、インドに渡る以前から、イランの宗教を研究していいますが、これは当然、西洋の学者の研究を元にしたものでしょう。
ですが、ボンベイで多数のパルシー教徒が神智学協会に参加したため、彼らから西欧の学者が知らない知識を多く学んだと思われます。
この意味は、大変、大きいと思います。

パルシー教はゾロアスター教ですが、彼らの中には、秘教派、つまり、ミトラ教マニ教ズルワン主義、サビアン教、スーパーシーア派、ヤザダ教(クルドの天使教、ブラヴァツキーは「ゲーベル」と呼びました)、イェジディー派(孔雀派)などの伝統を汲む者がいて、その思想を、神智学の機関誌でも発表しました。

さらに、ブラヴァツキー夫人は、ロンドンに渡ってから、ミトラス教やカルデア神学の専門家で、協会員だったJ・R・S・ミードからも、知識を得たと思われます。

当時、ミトラ教の復興運動が密かに生まれていて、神智学もそれと並行していたのです。
ちなみに、マニ教に関しては、最初の原資料「シャープラカーン」が中央アジアで発見されたのは1904年です。
ですから、ブラヴァツキー夫人はこれを知ることはできませんでした。

ブラヴァツキー夫人は、限られた資料しかなかった当時としては、驚くほどに正しく、イラン系の宗教や神智学を理解していました。
彼女は、イラン古来の伝統宗教としてのミトラ教と、改革されて不完全な形に変形されたマズダ教と、ササン朝期の折衷的なゾロアスター教の違いを認識していました。
また、マギの宗教(カルデア神学)がミトラ教をベースにしていること、クルドのヤザダ教や孔雀派がミトラ教の伝統を受け継いでいることも認識していました。

また、ユダヤ教の秘教であるカバラは、ヘブライ人がバビロン捕囚の時に、カルデア神学(彼女はそれを「カルデアのカバラ」と呼びました)を取り入れてたものであることも知っていました。
ただ、彼女は、ヘブライのカバラ思想や「生命の樹」が、当時から存在したかのように語っていますが。

ブラヴァツキー夫人の神智学が基本とする生滅を繰り返す循環的な宇宙論は、インドのヒンドゥー教のプラーナ文献や仏教のアビダルマ的宇宙論にありますが、おそらくその原型はカルデアから伝わったものです。
また、同じく神智学が基本とする進化論的な発想を持った思想は、インド思想や仏教にはありませんが、ズルワン・ミトラ系神智学にありました。

また、神智学の思想は、7を聖数として体系化されています。
これも、インド発ではなくバビロニア・カルデア発の思想でしょう。

また、シャンバラ・ハイアラーキ―の「世界教師(マイトレーヤ、キリスト)」、「人祖(マヌ)」、「文明の主(マヌ)」の3役職は、「ヴィシュヌ・プラーナ」にもありますが、ヤザダ教の神話にも「マズダ」、「ガヨーマルト」、「ジャムシード」として存在します。

シャンバラ伝説の原型は、おそらくイランの伝承で、中央アジアにあるエメラルドの海の中の白い島があり、そこに時の主マフディーが住むというものです。
ブラヴァツキー夫人は、シャンバラに関して、ゴビ砂漠にはかつて海があり、白い島があったと書いていますので、イランの伝承を継承しています。

そして、ブラヴァツキー夫人は、堕天使や悪魔に関するキリスト教的認識が間違っているということが、「秘密教義」の核心であるといったことを書いています。
つまり、神に敵対する絶対的な堕天使・悪魔や、キリスト教の原罪・贖罪を否定します。
この「秘密教義」の核心は、神的存在が人間の内面へ受肉したという思想です。

ですが、「シークレット・ドクトリン」の一番のネタ元とされる「ヴィシュヌ・プラーナ」には、その傾向が少なく、「ヴィシュヌ・プラーナ」に影響を与えたとおもわれるイラン系神話、グノーシス系神話の方により特徴的です。
サーンキヤ哲学、ヴェーダーンタ哲学、仏教哲学は、類似した思想を哲学的に表現していますが、これら哲学に比べると、神智学の思想(モナド=ロゴスがアートマ、ブッディとしてマナスの中に転生する)の方が神話的です。

このように、神智学のバックボーンは、インド思想と同程度にイラン・カルデア思想、ミトラ教であると言えます。

実際の歴史においては、原インド・イラン文化があり、それがインドとイランに分離し、イランの伝統とカルデアの伝統が習合して、「神智学」の原型が生れました。
それが西方には新プラトン主義やヘルメス主義、カバラなどとして展開し、東方にはインドでヒンドゥー教のプラーナ文献、仏教の弥勒信仰や密教(最終的にはシャンバラ伝説を持つカーラチャクラ・タントラ)として展開しました。

ですが、ブラヴァツキー夫人は、アーリアン学説の影響を受けながら、現在の人類(第5根幹人種)の故郷をインドであると考えていたため、インド思想とその用語を前面に出し、イランン・カルデア色を出さなかったのでしょう。
また、神智学協会がボンベイのパルシー教徒の共同体から離れたことも、一因でしょう。

ブラヴァツキー夫人は、インドに「原初の智慧」の教えがあったと考えていたため、パルシー教徒やミードから得たイラン系の思想を、ヴェーダやプラーナのインド神話と比較しながら、インドにあったはずの原型を推測して構築したのでしょう。

後に、比較神話学者のジョルジュ・デュメジルが、インド・ヨーロッパ語族の原型神話を探求したのと似た試みを、ブラヴァツキー夫人は別の形で行ったとも言えます。
もちろん、それは決して学問的ではありませんが、深さを持っていました。


<真理と学問>

神智学協会の建前では、神智学協会は、宗教、哲学などの研究機関であり、特定の教義や信仰を持たない組織でした。

しかし、「原初の智慧」の教えを源流にして、すべての宗教、哲学が分岐したのであって、神智学の研究の目的は、その真理を復元することです。
「原初の智慧」の教えは、単なる教義や信仰ではなく、真理なのです。

「神智学」という言葉を作った新プラトン主義の創設者のアンモニオス・サッカスも同じ考えを持って活動していたと、ブラヴァツキー夫人は考えました。

初期の神智学協会には、実際に、学問的な研究があり、ミードを筆頭にして、協会のメンバーによって機関誌にも発表されていました。
また、ブラヴァツキー夫人の文章にも、多宗教・思想・神話を併記して比較する傾向を持っていました。

神智学の基本的な教義に関しても、単に空想や霊視で作ったのではなく、多数の文献の研究に基づいて、架空ながらも、「原初の智慧」を現代的な形で復元しようとしたという側面がありました。
もちろん、その手法は学問的ではありませんが、シュタイナーの人智学のように個人の霊視によるものではありません。

ですがこの真理は、「マスター(=マハトマ、大師)」から直接もたらされるものとして、ブラヴァツキー夫人が独占していました。
彼女の亡き後は、リードビーターやレーリヒ、ベイリーらがそれを主張しました。

マスターへの信仰は、神智学協会を、非学究的な信仰やメシアニズムへと導く結果になりました。
また、協会を引き継いだベザントとリードビーターは、学問的な探求を抑圧し、彼らの教義への信仰を求めました。

そして、神智学協会の学究的側面の代表であったミードは1897年に協会を脱退してしまいました。
彼は、1907年に「ミトラス秘儀」、1907年に「ミトラス教の儀式」、1908年に「カルデア人の神託」を出版し、1909年には「クエスト協会」を設立しました。
彼は、オリエント、ヨーロッパ寄りではありますが、神智学協会とは別の形で、学問的にイラン・カルデア系の神智学を復興しようとしました。

その後、アメリカの神智学のキャサリン・ティングレーの後を継いだゴットフリード・ド・プルッカーは、ギリシャ、ラテン、サンスクリット語を使って神智学を学術的に解説した書「オカルティズムの源泉」を、1974年になって出版しました。
神智学にあった学究的側面がこの書には見られます。

日本では、「シークレット・ドクトリンを読む」(2001年)などの著作のある東條真人氏が、ミトラ教の視点から研究を発表しています。

ブラヴァツキー夫人と神智学協会が、マスターや聖典の存在を捏造したことは別にして、「原初の智恵」の復元という形で、近代において普遍的な神智学を構築しようとしたことは、評価すべき点です。

それは、例えば、カール・ユングが多数の秘教の研究を元に、集合的無意識の普遍的な構造を構築しようとしたこと、あるいは、哲学者の井筒俊彦が、様々な神秘主義哲学・思想を元に、普遍的な哲学(東洋哲学)の構造を構築しようとしたことと、似ています。


<教義と放棄>

メシアとされたクリシュナムルティが、「神智学」の教義を学び、成長して、実際に教師となっていった結果、すべての「神智学」の教義を捨て去ったことは、きわめて興味深い出来事です。
これは、単に学究性か信仰か、捏造か真実かといった問題ではありません。

神智学とクリシュナムルティの問題は、複雑な教義体系を構築するか、教義を持たずに内面を洞察するか、そのどちらを選択するかという問題です。

実は、同様な出来事は、過去にインドで何度か繰り返されてきたのではないでしょうか。

例えば、イスマーイール・パミール派は、西方の神智学を持ってインドに来訪し、ヒンドゥーの神智学との統合を行いました。
その一方で、カビールやナーナクのシク教は、イスラム、ヒンドゥー教の教義のほとんどを否定し、内面の神との一体のみを重視することで、両者の統合を果たそうとしました。
この関係は、神智学協会とクリシュナムルティの関係と似ています。

仏教でも、同様です。
もともと、仏教は、教義を否定する釈迦の教えから生まれながら、煩瑣なアビダルマ哲学を構築したため、それを大乗仏教が空思想で否定しました。

ところが、大乗仏教は、空思想を前提にして、また煩瑣な哲学を構築しました。
後期密教やゾクチェン、禅には、それを再度、空じる意味合いを持っていました。

ですが、「カーラチャクラ・タントラ」のように、西方の神智学とインド密教の神智学の複雑高度な一大統合を果たす潮流もありました。

真理をシンプルに洞察することと、方便として複雑化する教義の問題は、常にインド思想が問うてきた問題です。


<神智学の成果と課題>

ルネサンス時代にオリエント、ヨーロッパの秘教、つまり、ヘルメス主義、グノーシス主義、新プラトン主義、カバラ、キリスト教神秘主義などが一定の形で総合されました。

その後、ヨーロッパには、インド思想が知られるようになり、近代神智学は、インド思想、イラン・カルデア思想を含めて、より普遍的な総合を目指しました。
その中で、イラン・カルデア思想とカバラの接点を見つけることにもつながりました。

ですが、ブラヴァツキー夫人が軽視し、パルシー教徒からも伝わらなかったイスラム系神智学、つまりイスラム哲学やイスマーイール西方派の神話思想、さらには、ヒンドゥー・タントラ、後期密教やゾクチェンのような発達した仏教系の神智学は、そこに含まれませんでした。
ブラヴァツキー夫人は、中国思想や記紀神話の神統譜についても語っていますが、決して深く研究していたとは思えません。
これらの思想は、当時の欧米人が知ることは困難だったため、それはしようがありませんが。


神智学協会の目的は、何よりも、唯物論や科学的進化論からは生まれないと思わる、倫理的な同胞意識、同胞的組織を築くことでした。

そのために、神智学協会は、科学と宗教、哲学を統合し、唯物論を乗り越えることを目指しました。
霊的科学に関しては、鍛えられた霊視者の共同作業というのが建前でしたが、これは困難な作業でした。

しかし、神智学の人類発生論の人種に関する解釈には、アーリア人や西洋人を優位に見る種差別があると、批判がなされています。

スラブ系文化をバックボーンにするブラヴァツキー派やレーリヒの派(レーリヒ派にはユダヤ教徒が多いようです)には、その傾向が少なく、リードビーターのアディヤール派、ベイリー派、シュタイナー派にはその傾向が強いのではないかと感じます。
これらは、正しい同胞意識とは矛盾します。


また、シャンバラの同胞団とそのマスター達という架空の権威と、それに基づく特定の協会の特定のリーダーの権威は、組織の体制をまとめる上で、機能する面もありました。
ですが、自由な研究、探求を阻害する結果にもつながりました。


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