エラノス会議が目指した東西霊性の統一理解 [近代その他]

20世紀初頭、スイスの小さな村アスコーナに、多くの文化人が集まり、一大カウンター・カルチャーが形成されました。
そして、ここから、20世紀の多くの前衛的な思想が生まれました。

そのアスコーナに生まれた「エラノス会議」は、東西の霊的伝統を研究する世界トップ・クラスの学者の会議体です。
エラノス会議のメンバーは、東西の霊性の統一的な理解を目指して交流を行い、またそれによって、西洋近代の精神的危機を乗り越えようとしました。

19C末から20C初頭の思想潮流には、近代的な合理主義に抗する、新たなルネサンスという傾向がありました。
心霊主義や、それを批判した神智学、人智学、ゴールデン・ドーンの儀式魔術などのオカルティズム系の潮流は、その1つでしたが、これらはアカデミズムとは分離した潮流でした。

それに対して、「エラノス会議」の潮流は、学問的な領域の中における、霊性の新しい形での復活でした。
宗教や神話ではなく宗教学と神話学、神智学ではなく深層心理学や言語哲学、文化人類学などなど。
これらは、現代における神秘主義、神智学の重要な一潮流として捉えることができます。


<アスコーナのカウンター・カルチャー>

アスコーナは、スイス南部のイタリア語文化圏の小さな農村でした。
1900年、その村に「モンタ・ヴェリタ(真理の山)」という名のサナトリウムが作られ、そこで菜食主義などの自然療法が行なわれるようになりました。

そして、この「モンタ・ヴェリタ」は、各分野の新しい知性が交流する場になりました。
また、その影響で、アスコーナは保養地となり、アーティストや自然思想家、自由思想家など、多くの知性が集まってきて、いくつものコミューンが形成されました。

ここに、集まった人物には、カール・ユング、宗教学者のパウル・ティリヒ、作家のD・H・ロレンス、ヘルマン・ヘッセ、詩人グスト・グレーザー、モダン・ダンスの創始者ルドルフ・ラバン、舞踏家のイサドラ・ダンカンなどがいます。

アスコーナには、多くの精神医療家が集まりました。
フロイトの門下に入るも、性愛解放や反精神医学を主張したオットー・グロースもアスコーナを象徴する人物です。

アスコーナには、レーニン、トロツキー、バクーニン、クロポトキンといった革命家、アナーキストもアスコーナを訪れました。
また、神智学者やシュタイナー派の人たちも多く住むようになりました。

アスコーナの多くの人々は、女性原理を重視する傾向があって、バッハオーフェンの「母権論」がアスコーナの一種の宗教になりました。

こうして、アスコーナというカウンター・カルチャーの発生場から、モダン・ダンス、チューリッヒ・ダダ、シュルレアリズム、アナキズム、フェミニズムなど、20Cの前衛的思想・文化の多くが生まれました。

前衛的な思想、カウンター・カルチャーを生み出した場所ということでは、アスコーナと「モンタ・ヴェリタ」は、1960年代のカルフォルニアとエサレン研究所と似ています。


<エラノス会議>

「エラノス会議」は、東西の霊性の統合的理解を目指し、学問領域を越えて世界最高峰の学者が集まる会議でした。
そして、それによって、近代ヨーロッパの精神的危機を乗り越えようとしました。

エラノス会議は、オランダ人女性オルガ・フレーベ・カプテインの人脈と発案から、1933年にスイスのアスコーナ近郊の彼女の屋敷で始まりました。
エラノス会議の創始者は、彼女の他に、宗教学者のルドルフ・オットー、分析心理学者のカール・ユング、中国学のリチャルト・ヴィスヘルムでした。

エラノス会議の2代目の主宰者のルドルフ・リッツェマは、「エラノス会議は、宗教、神話、哲学における人間の心の多様な現れを研究し、それらの元型的領域における相互関連性を探求するために設けられた」と書いています。
また、エラノス会議の主要メンバーだったアンリ・コルバン(イスラム神秘主義研究)は、「広い意味でのグノーシス主義がエラノス運動の基調だった」と書いています。

カプテインは、「モンタ・ヴェリタ」に治療・療養に来た一人でしたが、アスコーナに屋敷を所有しました。
そして、彼女は自宅に多くの文化人を招きました。
その中には、例えば、ドイツの神秘詩人ルートヴィッヒ・ダーレス、宗教学者のマルティン・ブーバーらがいました。
神智学協会のインド・アディヤール派のアニー・ベザントやクリシュナムルティもそこに訪れたようです。

また、彼女は、敷地内に、「永遠の哲学」のためのレクチャー・ホールを建てました。
アメリカの神智学者のアリス・ベイリーと語り合って、心霊究明学校も作りました。

ある時、カプテインは神秘的な体験をしました。
彼女は、いまだ知られざる力のために場を提供するよう召命を受けているのを強く感じました。

そして、1932年に、オットーが訪れた時、カプテインは彼に、彼女の思いを伝えました。
オットーは、会議を行うこと、そして、「エラノス」という名称を提案しました。
「エラノス」というのはギリシャ語で、食事を持ち寄って食卓を囲んで語らい合うことを意味します。
エラノス会議には、「円卓」と呼ばれた食卓がありました。
そして、二人の知り合いだったユングとヴィスヘルムがそこに加わり、エラノス会議の中心メンバー、コンセプトが固まりました。

コルバンは、エラノス会議には正式な名称がなく、団体名もなく、アカデミーでも研究所でもない、と書いています。
そのような会議体でした。

エラノス会議は、毎年開催され、カプテインが大テーマと講師を決めました。
講師は10人で、個々の講師が自由に自分のテーマを決めて、召命的な自覚を持って集まりました。
そして、講師は10日間、寝食を共にして、自由に交流しました。
発表言語は英・独・仏語のいずれかで、聴衆は数百人でした。

ちなみに、1933年に行われた初回のテーマは、「東と西のヨガと瞑想」でした。
この時のユングのテーマは「個性化の過程の敬虔に寄せて」でした。

カプテイン没後は、彼女に代わってルドルフ・リッツェマがホステスの役を継承しましたが、
その後、1988年にエラノス会議は終了しました。

また、カプテインはヴィジュアル素材の収集を熱心に行なっていました。
20世紀のイコノロジーの誕生には、彼女とエラノス会議が大きな役割を果たしました。
彼女が収集した素材、エラノス文庫は、1956年に、ヴァールブルク(ウォーバーグ)研究所に寄贈されました。
この研究所は、イコノロジーのエルヴィン・パノフスキーや、ルネサンス神秘主義・薔薇十字啓蒙運動の研究家のフランシス・イェイツらで有名です。


<エラノス会議のメンバー>

エラノス会議の参加メンバーは、原則として、一分野一学者でした。

創設的な3人のオットー、ユング、ヴィルヘルム(中国学)以外の主な参加メンバーと専門は、
ミルチャ・エリアーデ(宗教学)、カール・ケレーニイ(神話学)、ゲルショム・ショーレム(ユダヤ神秘主義)、アンリ・コルバン(イスラム神秘主義)、マルティン・ブーバー(宗教哲学)、ジョーゼフ・キャンベル(神話学)、エーリヒ・ノイマン(精神医学・神話学)、エルネスト・プオナイウーティ(ヨアキムなど中世神秘主義)、アンリ=シャルル・ピュエシュ(グノーシス主義、マニ教)、ジェイムス・ヒルマン(元型心理学)、ジョゼッペ・トゥッチ(チベット仏教)、デルフ・インゴ・ラウフ(チベット・タントラ)
などです。

また、文系だけではなく、生物学者のアドルフ・ポルトマン、原子物理学者のシュムエル・サンブルスキーなどもメンバーでした。

日本人では、鈴木大拙(禅)が1953-4年に参加し、評判を得ました。

大拙に続いて、井筒俊彦が1967年から82年にかけて15年間、中心的メンバーとして参加しました。
井筒の専門はイスラム哲学が良く知られていましたが、彼を紹介したアンリ・コルバンも同じなので、「哲学的意味論」の専門として招待されました。
井筒は、大拙に続いて禅に関する講演を望まれていましたが、その他に、老荘思想、孔子、ヴェーダーンタ哲学、華厳、唯識、易、宋学、楚辞のシャーマニズムなどについて、幅広く講演しました。

井筒は、後継者として、上田閑照(ドイツ神秘主義・禅)と河合隼雄(分析心理学・箱庭療法)を紹介しました。


<ユング、オットー、井筒らが体現したエラノス精神>

コルバンは、エラノス会議は終わっても、「エラノス精神」は終わらないと書いています。
創設的メンバーのユンクやオットー、そして、中心的メンバーだったアンリ・コルバンや井筒俊彦などには、「エラノス精神」を強く感じます。


カール・グスタフ・ユング(1875-1961)は、エラノス会議の創始者の一人であり、講演者でしたが、その精神や思想においても、エラノス会議の中心的存在でした。

ユングについては別項で取り上げますが、彼は自身の体験、そして患者、そして、東西の秘教を分析対象として、「分析心理学」と呼ばれる深層心理学の思想を形成しました。
「集合的無意識」、「元型」、「個性化の過程」、「能動的想像力」といった彼の基本概念は、東西の霊性の普遍的形式を、心理学の中で、現代的な形で取り出そうとしたものだと言えます。


ルドルフ・オットー(1869-1937)は、プロテスタントの神学者からヴェーダーンタの研究者になった人物です。
彼はエラノス会議のコンセプトを創始した一人ですが、彼自身はすでに病気で、講演者としては参加しませんでした。

オットーは、「ヌミノーゼ」という概念を中心にした宗教学の古典的著書「聖なるもの」で知られています。
「ヌミノーゼ」は畏怖、戦慄を惹き起こす超越者の自己顕現の状態です。
この書では、主にユダヤ・キリスト教を扱い、「ヌミノーゼ」の観点からその宗教現象を捉えました。

宗教学者のエリアーデは、「聖と俗」の序文で、オットーのこの書について、「神とか宗教という概念を使わずに、宗教的経験の様々な形態を分析しようとした」、「神学者、及び宗教学者としての二重の素養を駆使して…理性の届かない宗教の一面を問題にした」、「「生ける神」とは何であるか理解していた」と書いています。

オットーは、もう1つの主著「西と東の神秘主義」で、エックハルトとシャンカラ、つまり、キリスト教神秘主義とインド神秘主義の代表者を取り上げて比較しました。
そして、文化的、時代的に違いのある両者に、共通の宗教感覚があるとして、「並行的」、「同時代的」と表現しました。


アンリ・コルバン(1903-1978)については、別項で扱いますが、彼は、イスラム神秘主義、特にスフラワルディーの研究で知られる人物です。

彼は、エラノス会議や神秘哲学の世界では、「想像的世界」、あるいはそれと関係する「創造的想像力」の概念で知られていて、その思想は、ユング派やエラノス会議のメンバー達の思想にも影響を与えました。

コルバンは、比較哲学を構想していましたが、なすことなく亡くなりました。

その仕事を引き継いだのは、コルバンがエラノス会議に招いた井筒俊彦でした。


井筒俊彦(1914-1993)も、別項で扱いますが、イスラム哲学に詳しい、言語哲学者です。
意識の深層における「意味」の発生を中心的観点として、東西の秘教などを幅広く対象として研究しました。   
そして、「東洋哲学」の名で、その共時的・普遍的な構造を抽出しようとしました。

井筒がエラノス会議に呼ばれる直接のきっかけになったのは、1966年の「スーフィズムとタオイズム」という英文の著作でしょう。
彼はこの書で、イスラム神秘主義者のイブン・アラビーと、老荘思想などを取り上げて比較しました。

この書の構想の背景には、オットーがキリスト教神秘主義のエックハルトとインド神秘主義のシャンカラを比較したことがあるでしょう。



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