黄金の夜明け団の歴史2(分裂と公開) [近代魔術]

このページでは、「黄金の夜明け団の歴史1(設立と改革)」に続いて、「黄金の夜明け団(以下GD)」の歴史の後編を簡単にまとめます。


<衰退と分裂>

1894年、マグレガーとモイナのマサース夫妻は、パリに移住し、支部としてアハトゥール・テンプルNo.7を設立しました。
ここには、フランス・オカルト界の大物、パピュスが名誉会員として参加しています。
ですが、マサースが関係を持ったフランス・オカルト界の大物は、彼以外に確認されていません。

マサースは強権的な運営を行う一方、スコットランド独立闘争にも傾倒しました。
そのため、ホーニマンや他のロンドンのメンバーとの間に、衝突が生じました。

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*モイナ、ホーニマン

ロンドンのメンバーでは、アイルランドの詩人・作家でノーベル文学書作家のW・B・イェイツ、富豪家のアニー・ホーニマン、有名舞台女優のフロレンス・ファーらが反マサースとなり、ブロディ=イネス、アラン・ベネットら魔術の本格派は親マサースの立場を取りました。
ホーニマンはマサースへの資金援助を打ち切り、マサースはホーニマンを強制退団させました。

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*イェイツ、ファー

J・W・ブロディ=イネス(1848-1923)は、ケンブリッジで法学を学んだ弁護士です。
神智学協会のスコットランド支部の実質的な指導者でもありました。
また、彼は、タットワなどの東洋思想をGDに持ち込んだ人物でもありました。
実力派の魔術師と言われていて、魔術関係の研究書は残していませんが、何冊も小説を発表しています。

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*イネス

1897年には、「黄金の夜明け団(以下GD)」の文書が馬車の中に置き忘れられる事件が起きました。
これによって、検死官をしていたウェストコットとGDの関わりが警察当局にバレてしまい、ウェストコットは退団を余儀なくされました。
マサースがウェストコットを退団に追い込んだと推測する人もいます。

ウェストコットは、団の書記、会計、認定監督など、団の運営の事務的な要を一手に引き受けていたため、彼の退団によって、GDは弱体化していきました。
ウェストコットの後任はファーでしたが、昇進試験もいい加減に運営されるようになりました。

また、ファーはGD内に秘密グループ「スフィア」を結成し、アストラル・プロジェクションを用いて「秘密の首領」と接触しようと企てました。

一方、パリのマサースは金銭に困り、位階を金で売ることになったようです。
こうしてアメリカにも、次々と支部が設立されました。

そんな中の1898年、問題児のアレイスター・クロウリー(1875-1947)がロンドンの「イシス・ウラニア」に加入しました。
彼は、団の堕落した状態に失望しましたが、魔術の実力者だったアラン・ベネット(1872-1923)の生活を支援して、彼の弟子になりました。
そして、ベネットを通してマサースを信奉するようになりました。

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*クロウリー、ベネット

「イシス・ウラニア」のメンバーは、クロウリーの性格に難があるとして、内陣への昇格を拒否しました。
ですが、クロウリーはパリのマサースを頼って、昇格を承認されました。

1899年、マサースは、「秘密の首領」のシュプレンゲルを名乗る(シュプレンゲルのメッセージを霊媒として伝えた?)詐欺師のホロス夫妻を信用して、だまされてしまいます。
そして、1900年、ホロス夫妻の言葉を信じてか、マサースはウェストコットの書簡が捏造であると告発しました。

これは団を揺るがす問題であり、ロンドンのファーらは真相調査に乗り出しました。
ですが、マサースはホロス夫妻に騙されたことに気づき、証拠を出せず、強気でつっぱねるしかありませんでした。
一方のウェストコットも、黙秘を続けて、この件は、うやむやに終わります。

マサースは、クロウリーを使って、反マサースとなった「イシス・ウラニア」の神殿を奪回しようとしましたが、失敗します。
これによって、ファー、イェイツらはマサースを除名にしました。

マサース派のクロウリーはアメリカに旅立ち、ベネットは療養のためにセイロンに行って仏教に改宗、その後ビルマで僧院生活に入りました。

また、マサースと共に除名にされたエドワード・ベリッジが、「新イシス・ウラニア」を設立し、これが後にマサース派の「A∴O∴No.1」となります。
そして、ウェストコットもなぜか、このマサース派の「新イシス・ウラニア」に参加します。

一方、「イシス・ウラニア」のメンバー達は、方向性の違いから混乱に陥ります。

そんな中、1901年9月、ホロス夫妻が少女暴行、金銭詐欺で警察に逮捕されてしまいます。
そして、彼らは勝手にGDの首領であると名乗り、この事件が新聞を騒がせました。

この事件をきっかけに、ファーを含め、多数の退団者が出てしまいます。

ホーニマンは一時復帰するも、堕落した体制を批判して、それが受け入れられず、1903年に退団しました。

1902年、残ったメンバーのイネス、R・W・フェルキン(1858-1922)らは、「黄金の夜明け」の名称はもう使えないと判断して、「暁の星(ステラ・マテューティナ)」と改名しました。

フェルキンは、医学博士でもあり、神智学協会スコットランド支部のメンバーでもありました。
フェルキンは、「秘密の首領」に連絡を取ったと宣言しており、イネスもこれを認めて、フェルキンがトップになりました。

一方、オカルト著作家のA・E・ウェイト(1857-1942)が、1903年に、GDの神殿の用具などを所持するに至り、多くのメンバーと共に「聖黄金の夜明け(独立改定儀礼)」を独立させました。

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*フェルキン、ウェイト

こうして、GDは、マサース夫妻の「A∴O∴(アルファ・オメガ)」、フェルキンの「暁の星」、ウェイトの「聖黄金の夜明け」に分裂しました。
あえて正当な後継団体を一つ選ぶとすれば、「A∴O∴」になるでしょう。

一方、クロウリーはセイロンでベネットにヨガなどを教わり、1902年、パリでこれをマサースに伝えますが、マサースは評価しませんでした。

その後、クロウリーは妻のケリーを霊媒として、守護霊エイワスから「法の書」となる教えを受けます。
そして、マサースに「A∴O∴」の首領の地位を要求するという暴挙に出ますが、もちろん、相手にされませんでした。

1907年、クロウリーは、自身の結社「A∴A∴No.1(銀の星)」を設立し、機関誌「春秋分点」を発行して団員を公募します。
そして、この機関誌で、GDの儀礼の要約を、一部改竄して公開してしまいます。

これに対して、マサースは著作権と発行差し止めを求めて告訴しました。

*クロウリーに関して別ページを参照

また、ベネットはイギリスに帰国しましたが、すでに魔術は捨てており、神智学協会の支部として仏教ロッジを創立し、これは後に独立して英国仏教協会となりました。

ちなみに、ファーも尼僧になりました。


<終焉と公開>

「暁の星」のフェルキンは、「秘密の首領」探しを継続し、1910年、ドイツでルドルフ・
シュタイナーが「秘密の首領」だと確信し、彼の思想に傾倒しました。
ちょうど、シュタイナーの秘書にA・シュプレンゲルという人物もいたのです。

こうして、「暁の星」は、フェルキン=シュタイナー派と反シュタイナー派に分裂しました。

フェルキンは、その後、セカンド・オーダーの真の首領はローゼンクロイツであり、彼が近年中に再誕すると予言するに至ります。
ですが、ドイツのシュタイナー派が、フェルキンの権威が否定したため、彼の面目は潰れてしまいました。

イネスはフェルキンに愛想をつかしてか、1908年にマサースと面会して「A∴O∴」に移籍し、イネスがエジンバラで設立していた支部「アメン・ラーテンプルNo.6」も、「A∴O∴No.2」に改名しました。

イネスの弟子で本格派だったW・E・カーネギー・ディックソンは、最初、「アメン・ラーテンプル」に加入したのですが、その後、ロンドンの「イシス・ウラニア」を経て、「暁の星」のブリストル支部「ヘルメス・ロッジ」に至りました。
そのため、「ヘルメス・ロッジ」は比較的まともなGD系魔術を継承していました。

「聖黄金の夜明け」のウェイトは、儀式魔術に興味がなく、キリスト教の儀礼を導入しました。
そして、その後、彼もシュタイナーに傾倒し、団は1914年に消滅してしまいます。

1918年、マサースが亡くなり、翌年、モイナはロンドンに戻って「A∴O∴No.3」を設立しました。
ですが、モイナの元からは、2人の重要な人物、ダイアン・フォーチュンとポール・フォスター・ケースが独立しました。

ダイアン・フォーチュンことヴァイオレット・メアリー・フォース(1891-1946)は、最初、イネスの「A∴O∴No.2」に加入して、モイナの「A∴O∴No.3」に移籍しました。
フォーチュンは、「オカルト・レビュー」誌などに「A∴O∴」の秘密にふれる内容に公開してしまいました。

そして、モイナと決別し、1922年に「内光協会(当初は、内光の友愛)」を設立しました。
「内光協会」は魔術結社として初めて、通信教育制度を取り入れて、魔術の新しい時代を切り開きました。

また、「A∴O∴」のNY支部「トート・ヘルメス・テンプルNo.9」からは、同年に、ポール・フォスター・ケース(1884-1954)が脱退し、「神殿の建築者(B.O.T.A.)」を設立しました。
彼は、パリの「アハトゥール・テンプル」やイギリスの「A∴O∴」にも顔を出していた、タロットの一級の研究者です。
「B.O.T.A.」も通信教育制度を取り入れて、多数の会員を獲得しました。

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*フォーチュン、リガルディー

イスラエル・リガルディー(1907-1985)は、1928年にパリでクロウリーの秘書になり、彼のもとで魔術の勉強を行いました。

リガルディーは、「柘榴の園」(1932)、続いて、魔術の技法の紹介を含む「生命の樹」(1932)を出版しましたが、この書の件でクロウリーと喧嘩別れすることになりました。

ですが、フォーチュンはリガルディーを擁護しました。
そして、1934年に、リガルディーは、フォーチュンの紹介で「暁の星」の支部「ヘルメス・ロッジ」に招待されて加入し、ここでGD流の魔術を学びました。

その後、「我が薔薇十字団の冒険」(1936)を出版すると、秘密を漏らしたとしてクロウリーや「A∴O∴」から攻撃を受けました。

ですが、1937-40年にかけて、リガルディーは、「ヘルメス・ロッジ」で入手した文書などを元に、「黄金の夜明け」4巻本をシカゴ・アリーズ・プレスから出版し、GDの教義、儀礼体系を公開してしまいました。
これによって、GD系の結社は壊滅的な打撃を受けました。

彼は、公開に際して、「体系全体を世間一般に公表し、人類がこれを失うという事態を回避することが重要だった…またすでに団の教義は部分的かつ無責任な状態で公開されてきたという経緯もある」と書いています。

その後、リガルディーは、GDの文書の蒐集を続け、上記「全書」の増補改訂版を、69年、86年にルロウリン社から、84年にファルコンプレス社から出版し続けました。

また、1987年には、「全書」に収録されなかった、セカンド・オーダーの準公式文書の「飛翔する巻物」が、フランシス・キングによって出版されました。

また、1989年には、「暁の星」系で正当なGD系魔術を継承していた、ニュージーランドのパット・ザレウスキー夫妻が、リガルディーの勧めによって、高位位階(6=5アデプタス・メジャー以降)の文書を、「黄金の夜明け団の内陣秘密教義」として公開しました。

こうして、GD系の魔術は公開され、通信教育や書籍を通した教育によって、継承される時代になりました。
それらを担ったのは、一つには、フォーチュン、ケース、リガルディーや、その弟子たちです。
中でも、リガルディーの系統は、チック・キケロ夫妻の「黄金の夜明けヘルメス団(The Hermetic Order of the Golden Dawn)」、クリス・モナスター、デヴィッド・ジョン・グリフィンらの「黄金の夜明けヘルメス団(Hermetic Order of the Golden Dawn、「The」なし)」などが、「黄金の夜明け団」という名前を継承しています。

*フォーチュン、リガルディーとその弟子たちについては別ページを参照

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