古ウパニシャッド [古代インド]

古ウパニシャッドは、ヴェーダの最後の付随文書であり、奥義書と呼ばれます。
ここにインドで初めて哲学的思想、神智学的思想が表現されました。
古ウパニシャッドに表現された思想は、梵我一如、輪廻と業の思想、解脱などの思想です。


<ヴェーダとウパニシャッド>

インド・バラモンの正統派の聖典は、「天啓聖典(シュルティ)」である「ヴェータ」です。
「ヴェーダ」は、4段階で制作されました。

まず、原典である「サンヒター(本集)」が紀元前1200~1000年頃に作成され、それに付随する文書が順次作られました。
「ブラーフマナ(梵書・祭儀書)」(紀元前1000~600年頃)、次に「アーラヌヤカ(森林書)」、「ウパニシャッド(奥義書)」です。

1 サンヒター(本集)
2 ブラーフマナ(梵書・祭儀書)
3 アーラヌヤカ(森林書)
4 ウパニシャッド(奥義書)
4-1 古ウパニシャッド
4-1-1 初期(-8C~):ブリハッド・アーラヌヤカ、チャーンドーギヤ…
4-1-2 中期(-4C~)
4-1-3 後期(-3~-2C)
4-2 新ウパニシャッド

最古の「サンヒター(本集)」には、神々への讃歌「リグ・ヴェーダ」、祭式における歌詠「サーマ・ヴェーダ」、祭詞「ヤージル・ヴェーダ」、呪句「アタルヴァ・ヴェーダ」の4つがあり、それぞれに付随書が作られました。

4つの中で、「リグ・ヴェーダ」と「アタルヴァ・ヴェーダ」には哲学的要素があります。
「アタルヴァ・ヴェーダ」には、「カーラ(時間)」や「プラーナ」などを最高原理とする哲学もあります。

「ブラーフマナ(梵書)」は、「サンヒター」に述べられている祭祀に対する解説・解釈書です。
祭祀によって得られる力を「ブラフマン」とし、この祭祀の呪力が神を動かすと考える思想が表現されています。
祭祀の次第や詩句を絶対化する傾向があります。

「アーラヌヤカ(森林書)」は、「ブラーフマナ」の末尾に付属した、より哲学的な文書です。

「ウパニシャッド(奥義書)」は、「秘密の教え」という意味で、「ヴェーダ」の最後に位置するので「ヴェーダーンタ」とも呼ばれます。

「ウパニシャッド」は、歴史的な長い期間に渡って作られましたが、紀元前2C頃までに作られたものを「古ウパニシャッド」と呼びます。

その中でも、-8C頃から作られた初期の「古ウパニシャッド」の、「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」や、「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」が、思想史的に最も高い評価を受けています。
前書には、哲学者ヤージニャヴァルキヤが、後書には、哲学者ウッダーラカが登場します。


<ウパニシャッドの思想>

「ウパニシャッド」の思想は、「サンヒター」から「アーラヌヤカ」に流れる思想を継承したものです。

ですが、本来のバラモンの宗教思想である現世利益的な呪術思想とは異なる、現世否定的で神秘主義的、抽象的な哲学的思想が、徐々に表現されるようになりました。
ここには、インド東部の非バラモンや非インド人であった人々の思想の影響があると思われます。

初期の「ウパニシャッド」の中には、バラモンがクシャトリアの王に教えを受けるというシーンが8回出てきます。
「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」では、輪廻思想がクシャトリアの秘伝の思想とされています。

「ウパニシャッド」の思想には、このようにバラモンがクシャトリアの思想を取り入れたものがあります。
ですが、有力な地方の非インド人には、名誉クシャトリアとなる王族が多数いましたので、これらの思想には、非インド人の思想の影響もあるようです。

「ウパニシャッド」の思想は多様ですが、基本的な思想には、下記のようなものがあります。

・梵我一如
・外界の実在性、多様性の否定(マーヤー)
・輪廻と業
・知恵による解脱
・世界の構成要素としての微細、粗大な五大元素

「梵我一如」は、個人の本質である「アートマン」が、宇宙の根源である「ブラフマン」と同じであることを、個人の内面的な神秘体験の中で認識すべし、とする思想です。

「ブラフマン」という概念は、バラモンが祭祀の呪力、言葉に宿る力を思想化し、それを高める中で生まれたものです。
「ブラフマン」という言葉は、「増大」を意味する「ブリフ」が語源とする説があります。

一方、「アートマン」は、特定の階級に関わらず、死後生や個人の魂や生命力の本質を探求する中で生まれたものです。
「アートマン」という言葉は、「呼吸」を語源とするという説があります。

そして、「ブラフマン」や「アートマン」は世界を作り、世界に内制者として内在します。
ですから、世界の多様性は「幻影(マーヤー)」でしかありません。

人間の死に際して、「アートマン」は身体から抜け出て行きます。
死後の道を説いた代表的な輪廻説には、「五火・二道説」(詳細は後述)があります。


<ウパニシャッドの哲学者>

「ウパニシャッド」に登場する主な哲学者には、次の4人がいます。

まず、「アイタレーヤ・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」で「五大」の思想を説くマヒダーサ・アイタレーヤ。

次に、「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」で梵我一如を説くシャーンディリヤ。

彼は、「アートマン」について、
「意(マナス)を本質とし、プラーナを体とし、光輝く様相で、真実の思考をなし、虚空を主体とし、一切の行為をなし、一切の欲望を持ち、一切の味覚と臭覚を備え、この世のすべてを包摂し、言葉なく、執着ないもの、この心臓の中にある私のアートマンである。…それはブラフマンである。この世を去った後、私はこれに合一しよう。」
と述べました。

3番目に、「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」で、一元的原理としての「有(サット)」や、その中の展開の力「カーマ」を説くウッダーラカ・アールニ。
彼について詳細は後述します。

最後に、「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」で、アートマン論を説くヤージニャヴァルキヤ。
彼についても詳細は後述します。


<ウッダーラカ・アールニ>

「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」に登場するウッダーラカ・アールニは、最高原理を「有(サット)」と表現しました。

「リグ・ヴェーダ」や「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」の中には、「非有(混沌)」から「有(秩序)」が生じたとする説が説かれています。
また、「ブラーフマナ」や「ウパニシャッド」では、「真実(サティヤム)」という言葉を分解して解釈し、「有と非有」、「可死と不死」と説くことがあります。

以上に対して、ウッダーラカは、「有」と「非有」の両者を越えた最高概念として、「有」を措定したのです。

また、ウッダーラカは、それを人間の内奥に見出せるとしました。
彼の、「汝はそれである」という言葉は、とても有名です。

また、ウッダーラカは、「熱」、「水」、「食物」の3元素説を支持しました。
そして、「有」→「熱」→「水」→「食物」の順番で生じ、「有」が「アートマン」として3元素に入り込むと説きました。
そして、3元素の組み合わせから、個々の精神と物質にあたる「名称と形態(ナーマ・ルーパ)」(仏教で言う「名色」)が生まれます。

また、人の死に際しては、創造の逆方向に、まず、「食物」からなる思考力が「水」からなるプラーナに溶け入り、プラーナは「熱」に摂取され、最後に「熱」が「有」に合一すると説きました。

また、人は夢のない熟睡時にも、「有」と合一しています。


ウッダーラカがパンチャラート族の王から、王族だけの教えとして教わった「五火・二道説」は、インドの最初のまとまった輪廻説で、その非常に素朴な形態です。

「五火説」は、その名前に反して、水の循環を生命とする世界観を背景にしています。
身体の水が火葬で煙となって、まず、「月」(1)に行き、その後「雨」(2)となって地に降り、「食物」(3)となって、それが食されて「精子」(4)となり、「胎児」(5)となります。
「五火」というのは、それぞれに対する祭火を意味します。

「二道説」は、「神道」と「祖道」の2つの道を意味します。
「神道」は苦行を行った人が赴く道であり、荼毘の「焔」→「太陽」→「月」→「稲妻」→「ブラフマン」という道程です。
「祖道」は祭祀や徳行を行った普通の人が赴く道であり、荼毘の「煙」→「祖霊の世界」→「虚空」→「月」という道程であり、その後は「五火説」の道程へとつながります。


<ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド>

ヤージニャヴァルキヤが登場する「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」では、冒頭に、誰の説とは表記されずに、アートマンとブラフマンに関する思想が書かれています。

それによれば、アートマンは、「天地の初めに、人間の形をしたアートマンだけがあった」と書かれています。
続いて、「アートマンは万物に先んじて、一切の災悪を焼尽したので、彼はプルシャとも呼ばれる」と書かれています。

このように、ウパニシャッドでは、「アートマン」は「プルシャ(原人)」とほぼ同義語のように説かれます。

このように、「ヴェーダ」の「プルシャ(原人)」は、ウパニシャッドやヴェーダーンタ哲学の「アートマン」の概念の発展に影響を与える一方、サーンキヤ哲学の「プルシャ(純粋精神)」に発展していったようです。

次に、「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」では、アートマンは、「自分を二分した。ここに、妻と夫が生まれた」と書かれています。
そして二人は、あらゆる生物、万物を生み出し、アートマンはそこに内在します。

また、ブラフマンについても、「天地の初めに、ブラフマンのみが存在した。…彼は万物になった。」と書かれています。

そして、ブラフマンであることに目覚めた神々は万物になったとして、次のように説きます。

「「我はブラフマンなり」と知る者はあらゆるものになることができる…アートマンにさえなっているのだから。」


<ヤージニャヴァルキヤ:認識主体としてのアートマン>

「ブリハッド・アーラヌヤカ・ウパニシャッド」や「シャタパタ・ブラーフマナ」に登場するヤージニャヴァルキヤは、ウパニシャッドと代表する哲学者です。
ウッダーラカの弟子ですが、ウッダーラカを論破することもありました。

ヤージニャヴァルキヤは、アートマン論を発展されました。
彼は、アートマンの本質が「認識(ヴィジニャーナ)」であり、認識の「対象」ではなく「主体」であると説きました。

彼は、アートマンを、「見ることの背後にある見る主体」、「目に見えない視覚の主体」、「認識されない認識の主体」と表現しています。

「ブラーフマナ」では、アートマンを「思考力」や「意(マナス)」と表現していましたが、ヤージニャヴァルキヤが「認識」としたのは、より本質的なものとして高めたのだと言えます。
そして、認識の「対象」とならない「主体」であるとしたことは、その後の哲学にとって重要な規定でした。

また、ヤージニャヴァルキヤは、アートマンは表現不可能で否定的にしか表現できないと説きました。

「それは粗大でもなく、微細でもなく、短くもなく、長くもなく…」
「非ず、非ずというアートマンは、捉えることができないものである。それは把握できないから不壊である。それは破壊されないから無執着である。汚染されないので、縛ることのできないものである。何者も恐れないので、何者にも害されないのである」

ヤージニャヴァルキヤの「非ず、非ず(ネーティ、ネーティ)」というアートマンの規定はとても有名です。
これは仏教の空観よりも、否定神学に近い思想でしょう。
これは、アートマンが認識の「対象」とならないことという規定ともつながっているのでしょう。


また、ヤージニャヴァルキヤは、アートマンが万物になるとし、また、「名称と形態(ナーマ・ルーパ)」を用いて万物を分化限定すると説きました。

また、アートマンが万物の「自在神(イーシュヴァラ)」であると言います。
つまり、アートマンは、「内制者(アンタルヤーミン)」なのです。

彼は、アートマンを「語の内部にあって制御しているもの」、「不死の内制者」と表現し、感覚などの認識の「内制者」であり、世界の中にある「内制者」でもあるとしました。


<ヤージニャヴァルキヤ:光としてのアートマン>

ヤージニャヴァルキヤは、アートマンを「光」であり、人の心臓の中にあるとも説いています。

この思想の背景には、「火(光)」を生命原理とする世界観があるようです。
「チャーンドーギヤ・ウパニシャッド」には次のように書かれています。

太陽の彼方には、ブラフマンの「光」の世界があります。
太陽の「光」が、褐色・白・青・黄・赤色の微粒子として心臓の脈管に入り、それが脈管を通して全身に至り、また、感覚的認識や消化も司ります。

また、心臓の内部の空間があって、そこにアートマンがいるのですが、その空間は、人間の内部であって、同時に外部であると表現されます。

ヤージニャヴァルキヤによれば、心臓の内部の空間にいるアートマンの光の微粒子が、諸感覚器官などにプラーナ(諸機能)として存在するため、人は外界の認識が可能となります。

太陽にはプルシャがいますが、心臓や諸器官にいるアートマンの光もプルシャです。
右目の中にはインダという名のプルシャが、左目の裏にはその妻でヴィラージという名のプルシャがいて、二人は心臓の中の空間で睦まじく会話します。
心臓の脈管叢とプルシャの脈管叢はつながっていて、また、心臓から上方へつながる脈管は、二人が散歩する道です。

ですが、人の死に際しては、光の微粒子は心臓のアートマンに集まります。
そして、アートマンが身体を抜け出て行くと、プラーナがそれを追い、さらに感官が追います。
そうして、知識も業もアートマンに加わるのです。
ですが、アートマン自身は、善行によっても悪行によって変化しません。

ヤージニャヴァルキヤの輪廻説は、ウッダーラカが聞いた輪廻説から進化しています。
彼は、人は死後、祖霊、ガンダルヴァ、神、造物主、その他の生物に転生するか、ブラフマンに合一するかであると説きました。

ブラフマンと合一する解脱は、欲望を捨てて、梵我一如の認識によってなされます。
ヤージニャヴァルキヤは、次のように説いています。

「欲望をあますところなく捨て去り、アートマンに専念する者は、自他の二元性を離れ、ブラフマンと一体のものとしてもアートマンを自らの内面に直観する」

また、ウッダーラカが「熟睡(夢のない睡眠)」の時にアートマンが「有」と合一すると考えたように、ヤージニャヴァルキヤはそれを「至上界」にいる状態であると表現しました。

ヤージニャヴァルキヤは、「熟睡」の時に、感官にあるプラーナが心臓の内部空間に収縮すると言います。
また、彼の影響を受けたと思えるカーシ国王によれば、心臓の内部空間から7万2千の脈管が広がって、「プリータト」という場所につながっていて、アートマンはここに安らぎます。

「プリータト」は、心臓の周りだとか、身体全体だろうとか解釈されていますが、どこなのか分かっていません。
ですが、心臓の内部空間が外部空間でもあるように、「プリータト」は実質的にブラフマンの「至上界」なのでしょう。

ヤージニャヴァルキヤは、「熟睡」の状態を男女の一体の状態にも喩えています。

「愛する婦人に抱擁されている時に内外の何物も覚えぬように、このプルシャは叡智のアートマンに抱擁された結果、内外の何物も覚知しないのです。これこそ、彼の満足、自足、無願、無苦の状態です。」

そして、この状態を「他者として彼から区別されるものがない」とも表現しています。

また、「夢睡眠」の時には、地上界(覚醒)と至上界(熟睡)の中間にいる状態であって、アートマンが自らの光によって夢の世界を創造すると考えました。
そして、プルシャは体中を巡るのです。


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