陰陽道 [日本]


古代の陰陽道は、国家が管理して始まった占い、祓い、祈祷の技術体系です。
中国の陰陽五行説、道教の方術、呪禁などをベースに、神道、密教などを折衷的に取り込んで、日本で独自な形に発展しました。

陰陽道は、基本的に実践的な技術体系であって、思想ではありません。

陰陽道の修行・施術には変性意識が必須であり、人格の変容も伴ったはずです。
ですが、陰陽師の内面、その成長に焦点が当てられることはなかったようです。

陰陽道のベースとなっている陰陽五行説などは、オリエントのヘルメス学同様に古代の基礎科学であり、神智学の基礎学門という側面があります。
そのため、日本の仏教、神道などの神秘思想にも影響を与えました。


<陰陽道の誕生>

「日本書紀」によれば、日本における公式の陰陽五行説の輸入は、継体朝の513年に百済から五経博士が来朝したのが最初です。

その後、推古朝の602年に、百済僧の観勒が天文、地理(風水)、遁甲方術書を献上し、蘇我氏の法興寺に住みました。
そのため、陰陽五行説などの陰陽道のベースとなる思想は、仏教や仏教僧と不可分になりました。

632年には、聖徳太子の命で、僧旻が中国で新しい陰陽思想を学んで伝え、蘇我入鹿や中臣鎌足らもこれを学んだと伝えられています。

663年の白村江の戦い後には、多数の百済人が亡命し、陰陽五行思想の興隆の原因となりました。

天武天皇は天文・遁甲に通じ、672年の壬申の乱の後、「陰陽寮」を設立(675年以前)し、陰陽道などの関連4部門を組織化し、それらを国家によって独占化しました。
これが「陰陽道」の始まりです。
そして、701年の大宝律令で、陰陽寮は中務省管下の専門官僚組織となりました。

陰陽寮は、「陰陽」、「暦」、「天文」、「漏刻」の四部門から構成されています。
「陰陽道」は占い(占筮、相地)、「暦道」は暦の作成、「天文道」は天の変異の観察、「漏刻道」は時刻の測定・告知を行います。

「暦道」は、方違えなどの吉凶に直結する暦注(大安・赤口といった六曜星など)の付いた具注暦を作成し、「陰陽道」と関係の深い部署となりました。

「天文道」は、「天人相感」の思想が背景となっていて、政治が悪いと天に災いの前兆が出て、それを無視すると災いが起こるとされます。
日本では「董仲舒祭法」の祭りによってこれに対処しました。

陰陽寮の統括者は「陰陽頭」で、従五位下相当の官位でした。
「陰陽道」の責任者は「陰陽博士」で、正七位下相当でした。
「陰陽道」の専門職の「陰陽師」は、従七位上相当で、定員は6名でした。
狭義の「陰陽師」と言えるのは、この6名のみなのです。
また、その下に学生として「陰陽生」が10名いました。

当初、「陰陽頭」は、単なる官僚の一地位で、藤原氏の恵まれない人物が就任していました。
ですが、860年に真野麻呂が専門家として初めて「陰陽頭」になり、それ以降は専門家が続くことになりました。

「陰陽道」の基礎テキストは、隋の蕭吉による「五行大義」や唐の呂才らによる「新撰陰陽書」、「黄帝金櫃」、「易経」などでした。


ですが、陰陽五行説と方術などは、民間においても、上記とは別に流入していたと思われます。
特に、古くは豊国(豊前国)などに入った秦氏の影響が大きく、それが山岳信仰、後の修験道に影響を与えたと思われます。
ちなみに、587年に、豊国からは、呪術的医療に秀でた豊国法師が用明天皇の治療のために呼び寄せられたことがありました。


<陰陽道の日本化と宗家の誕生>

9Cになると、日本独自の陰陽道書籍が現れるようになり、陰陽道の一層の日本化が進みました。

陰陽博士となった滋岳川人は、多くの著作を残し、その先駆けとなった存在です。
彼の著作としては、「世要動静経」、「指掌宿曜経」、「滋川新術遁甲書」、「金匱新注」、「六甲六帖」、「宅肝経」などがあります。
ですが、どれも散逸し、引用で知られるのみとなっています。

10Cの中頃になると、陰陽寮に秦氏の進出が目立つようになりました。

秦氏と関連の強かった氏族に賀茂氏がいます。
その賀茂氏の最初の陰陽師として台頭したのが賀茂忠行です。

そして、その子、保憲(914 - 977)は、陰陽関連の第一人者となり、陰陽頭にもなりました。
彼の著作には、「暦林」があります。

保憲は子の賀茂光栄(939 - 1015)に「暦道」を伝え、弟子の安倍晴明(921 - 1005)に「天文道」を伝えました。

安倍晴明は、陰陽寮では陰陽師のポストには1度だけ就いたことがあったようですが、ほとんど「天文道」に属し、天文博士になりました。
ですが、退官後に蔵人所に入って、職業的な陰陽師として活動しました。

晴明の著作には、六壬占に関する「占事略决」があります。
ですが、彼はここで、自分は六壬式占に疎いので老後になってからその核心に迫りたい、と書いています。

また、「簠簋内伝」が晴明の撰とされていますが、実際には後世に土御門家と無関係な者によって著されたものです。

この後、賀茂氏(後の勘解由小路家)と安倍氏(後の土御門家)が、暦・天文道をその宗家として支配するようになりました。

そして、院政期の11Cには、両家の間で優位だった賀茂家に対抗するために、安倍家が晴明を神格化した伝説を広めたこともあって、立場を逆転させました。

陰陽師が祀る最重要な神に、「泰山府君」がいますが、この神の祀りも安倍家が独占しました。
「泰山府君」は、閻魔大王の部下で、寿命を管理し、この世の栄達を左右し、天皇、将軍を守護する神です。


<呪禁道と宿曜道>

「陰陽道」のベースになった技術に「呪禁道」、互いに影響を与え合った技術に「宿曜道」があります。

「呪禁道」は、道教方術の「道禁」、密教の「禁呪」が習合して生まれた呪術的な医療法です。
「呪禁」の方法は、病の原因となる存在を呪術的に退けるものです。

律令制においては、典薬寮に呪禁師、呪禁博士がいました。
「呪禁道」は、韓国連が家筋となって伝えていました。

699年に、韓国連広足の讒言によって役小角を伊豆の島に流される事件が起こりました。
広足は呪禁道に秀でた典薬頭であり、役小角は賀茂氏の道教(神仙思想)系の山岳宗教者です。
この事件には、韓国連と賀茂氏、呪禁道と陰陽道的な呪術の間の争いを見ることができます。
その後、勢力は逆転し、8-9Cには「呪禁道」は衰退しました。


「宿曜道」は、仏教が伝えるインド系占星術と陰陽五行説が習合したもので、暦法、占法、招福儀軌を持ちます。

「宿曜道」は、奈良仏教の雑密で盛んになりました。
聖武天皇の看病に当たって出世した道鏡も宿曜師でした。

その後は、空海も新訳の「宿曜経」を持ち帰りました。

「宿曜道」と「陰陽道(暦道)」は競い合い、影響を与え合いました。


<陰陽師の変容>

陰陽師が行っていた仕事は、当初は、占いでした。
ですが、奈良時代後期から鎮祭(遷都による地鎮祭など)に参加するようになりました。

そして、奈良時代末期から平安初期には、鎮祭(陰陽道祭)は、怨霊や祟り、自然災害や変異に対しても行われるようになりました。

また、平安中期には、禁忌や物の怪が強調されるようになり、陰陽道は平安貴族の教養的知識になりました。
こうして、平安貴族の個人の願望の広がりで、陰陽道が普及し、陰陽師は呪術的宗教者のようになりました。

悪霊を祓うこと(魔物封じ)は、神道も仏教も行いましたが、穢れの問題で、死霊を扱えるのは陰陽師だけであり、陰陽師は一番地位が低い存在でした。
また、貴族に雇われて貴族のもとにまで出かけて仕事を行うのは陰陽師だけでした。

そして、平安末期には、道教の北斗信仰、冥界(泰山府君)信仰に基づいて、貴族個人の延命や息災を祈願することも多くなりました。
北斗七星は死を司る存在とされ、人は生まれ年の干支から、その一つの星に属すとされました。

この陰陽道によって拡大した禁忌と祓いの観念は、日本古来の神祇信仰を変容させて、浄穢、物忌の観念・制度を中心とした「神道」の成立に大きな影響を与えました。


<陰陽道の祓い>

大祓では、中臣氏が祓詞を読み、卜部氏がお祓いをして、さらにその後、陰陽師が祓い(追儺式、鬼遣らい)を行っていました。
この追儺式は、節分の元になりました。

追儺式は、最初、渡来系の漢部氏が行っていて、皇天上帝をはじめてとして、三極大君、日月星辰、八法諸神、東王父、西王母など、多数の道教の神々を招きました。
そして、人形に穢れを移して火や水に投棄しました。

その後の「延喜式」(927年)の祭文では、山や川にいる様々な道教系の神々、そして、日本の神々を召喚します。
追儺は、多数の御幣、供物を並べた祭壇を前に行われ、あちこちに隠れている鬼・妖怪などに対して、供物(食物)を与えて、彼らが住むべき遠い場所を告げ、そこへ退くように願います。
このような鬼に優しい方法は、日本的で、中国では行いません。

ですが、もし従わないようなら、大小の儺公が追いかけて五兵で殺すぞと脅します。
「大儺公」は、追儺を行う神を演じる人であり、「方相氏」とも呼ばれます。
「小儺公」は、子供が演じます。
彼らが持つ「五兵」は5つの武器で、矛、盾、弓、杖、屋根瓦です。


陰陽師は、個人の依頼によっても祓いを行うようになりました。
10C頃から陰陽師が行うようになった「七瀬祓」はこれに当たります。
これは、人形に息を吹きかけ、自分の体を撫でてから川に投棄するものです。


<式神と式占>

祓いや祈祷で対処できない時などに使う方法に、「式神」を使った「呪詛」があります。

「式神」は陰陽師が使役する霊的存在のことです。
「式神」は「式占」とも関係します。

陰陽道で使用する式占(式盤などを使って行う占いの方法)には、三式占と呼ばれる「太乙神数」、「六壬式占」、「雷公」、もしくは、「奇門遁甲」があります。

式占は、陰陽、五行、十干、十二支、八卦、八門、十二天将、十二月将などの象徴体系を利用し、日月星辰の連行・位置を考え、相生相克の原理などによって吉凶を判じます。

「十二天将」や「十二月将(1か月の太陽の位置を十二支で示したもの)」は、本来、抽象的な概念ですが、日本では人格的存在としてイメージされるようにもなって、「式神」としても利用されたようです。

ですが、「式盤」は正式には「栻盤」、「式神」は「識神」と書きましたので、本来、この両者の関係は直接的なものではありません。

「式神」の使役法は、様々な方法を使う複合的なもので、壇を作り、護符、呪文、存思(観想法)、反閇、手印などを使います。

陰陽道のベースとなった道術(法師・道士の術)には、「五法」と呼ばれる5種の術があります。

内蔵などの内在神の観想である「存思」、北斗七星などの形を踏む「禹歩(反閇)」、呪文や手印に合わせて片目をつぶる「營目」(あるいは、呼吸を止める「閉気」)、指の関節ごとに観想を行って鬼などの動きを封じる「掌訣」、「手印」(あるいは呪文)です。
「掌訣」は呪禁道でも使われました。

「反閇」は、場を清めるために特別な方法で行う足さばきです。
陰陽師が行った「反閇」の方法に、道教で「三歩九蹟法」、陰陽道で「九星反閇」と呼ばれた方法がありました。

これは、北斗七星に、弼星、輔星を含めた九星の形を踏むもので、九星には「奇門遁甲」の星名が対応しています。
「九星反閇」は、九星を踏む「三歩九蹟」だけでなく、易経の基づく「乾・坤・元・亨・利・貞」の六歩を踏むこと、さらには、五臓・五行の観想法や呪文を含む複合的な次第で行いました。



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