西田幾多郎の絶対無の哲学 [日本]


初めて日本独自の哲学を生み出したと言われる西田幾多郎は、参禅によって得た「見性」体験をもとに、東洋の無の思想を西洋哲学の枠組みを使いながら哲学化しました。

西田哲学の特徴は、「無」を「一般概念(概念的一般者)」として理解し、そこからの創造を、自己限定的、相互否定的、弁証法的なものとして理論化したことでしょう。

さらにそれは、華厳教学の事事無礙の世界を、主体性を持った個人による、歴史・社会的で物質的な創造として描くものでした。

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<参禅>

西田幾多郎(1870-1945)は、石川県河北郡の出身で、第四高等中学校第一部では、欧米への禅の紹介者として有名な鈴木大拙と同級生でした。

西田は、20代後半の1897(明治30)年頃から参禅を始め、金沢、京都の何人かの禅師に師事しました。
1901(明治34)年には、金沢の洗心庵の雪門禅師に戎を受けて、寸心居士の号を授かりました。

西田は、1902(明治35)年の書簡で、「必ず成就せずんば死して瞑せざらんと欲す」と書き送っています。
また、翌年の日記では、「見性までは宗教や哲学の事を考えず」と書いています。

禅では、無分別の智を得ることを「見性」と言いますが、西田は、是が非でも「見性」を得なければ哲学はできない、と考えていたのです。
その理由は、西田が、昭和18年に送った西谷啓治宛の書簡でわかります。

「禅といふものは真に現実把握を生命とするものではないかとおもひます。私はこんなことは不可能ではあるが何とかして哲学と結合したい、これが私の三十代からの念願で御座います」

つまり、禅こそが真の現実の認識をもたらすもので、それを哲学化したかった、ということです。

西田は、1903(明治36)年になって、京都の大徳寺の廣州禅師のもとで、「無字」の公案を通ることができました。
つまり、「見性」を認められたのです。

ですが、この時、西田自身は、その実感を持てませんでした。
そのため、その後も、金沢の洗心庵の雪門禅師のもとで、数年の間、「隻手音声」の公案に取り組みました。
その後は、仕事が忙しくなってか、参禅は途絶えます。

西田は、「見性」について、晩年に以下のように書いています。

「禅宗では、見性成仏と云ふが、かゝる語は誤解せられてはならない。…自己は自己自身を見ることはできない。…見と云ふのは、自己の転換を云ふのである」(場所的論理と宗教的世界観)

つまり、西田は、真理の認識というより、自己を否定する体験であると解釈しました。


<東洋思想、仏教、日本文化>

西田は、西洋思想の特徴を「対象論理」であると考えました。
彼は、「神秘主義」という言葉を、プロティノスや否定神学のような西洋の神秘主義を指して使いますが、これらについても「対象論理」であると批判しています。

西田は、「対象論理」でない東洋の思考、「無」の思想を、西洋に匹敵するような論理として体系化することを目指しました。

ですが、東洋思想や仏教は、心ばかりを対象として、物を対象としないことが欠点だと考えました。
そして、仏教思想を科学とも結びつけようと考えました。

ちなみに、西田は、量子力学の「観測の理論」が主客分離できないことや、「不確定性原理」、「相補性」が、自身の「絶対矛盾的自己同一」(後述)と似ていると考えました。


一方、日本文化の特徴は、「物」に至ることであると考えましたが、それは論理的ではなくて、情的、実践的なものでした。

「我国文化は、…物に至るという方向にあるのではないかと思ふ…事事無礙と云ふことである」
「日本へ仏教が入って来た時、華厳とか天台とか云ふ理智的な宗教が伝えられた…それは漸々と簡素化せされ、実践化せられた」(以上、「日本文化の問題」)

ですが、その華厳や天台の教学については、自身の哲学と通じるものであると考えていました。

「(絶対矛盾的自己同一の見方に)東洋哲学の粋とも云ふべき、天台や華厳の思想に通じるものがあると思ふ」(哲学論文集第五)


<初期の哲学:純粋経験>

西田は、最初の著作「善の研究」(1911)で、「純粋経験」を唯一の実在としてすべてを説明しようとしました。

「純粋経験」は、西田によれば、「一切の思慮分別の加わる以前の経験そのままの状態。言いかえれば直接的経験の状態」です。

それは、「未だ主もなく客もない、知識とその対象とが全く合一している」、「経験するというのは事実そのままに知るの意である」とも述べています。

つまり、「純粋経験」は「主客未分」の状態の「知」なのです。

「純粋経験」という言葉は、ウィリアム・ジェイムスから来ています。
西田は、ジェイムスの「宗教経験の諸相」を鈴木大拙に勧められて読み、「面白く候。よほど禅に似たる所あるように思われ候」と感想を送っています。

西田は、「純粋経験」が対象的思考によって分裂し、その後、自覚によって再統一されるまでの、意識の統一の展開過程を考えました。

1 主客未分の状態 :感覚的知覚
2 主客分裂の状態 :反省的思惟
3 自覚的統一の状態:知的直観

西田は、この過程を、
「先ず全体が含意的implicitに現れる、それよりその内容が分化発展する。而してこの分化発展が終わった時実在の実現せられ完成せられるのである」
と考えました。

西田は、最後に自覚的な統一に至った状態を神人合一としても解釈しています。

「真の自己を知り神と合する法は、ただ主客合一の力を自得するにあるのみである。…キリスト教ではこれを再生といい仏教ではこれを見性という」

また、西田は、「純粋経験」を展開させるものを、「意志」であり、「統一的或者」、「或無意識的統一力」であると書いています。

さらに、西田は、その「統一力」が「概念的一般性」であると書きます。

「純粋経験は体系的発展であるから、その根柢に働きつつある統一力はただちに概念の一般性そのものでなければならぬ…純粋経験の事実とはいわゆる一般的なるものが己自身を実現するのである」

このように、西田の思想には、その初めから、禅的な体験をもとにしながらも、それとはまったく異なる、ヘーゲル的とでも言える要素が結合しています。


また、その後の「自覚における直観と反省」(1917)では、3段階目の「自覚」を、「自己の内に自己を映す」こと、自己自身の直観であるとしました。


<前期の哲学1:絶対無の場所>

西田の哲学の初期から前期へは移行の特徴は、「意識」から「場所」へ、「個」から「一般(普遍)」への観点の移動であると見ることができます。

西田は、論文「場所」(1926)で、「場所」という概念を導入しました。
そして、「働くものから見るものへ」(1927)、「一般者の自覚的体系」(1930)などで「場所の理論」を構築していきました。
この「場所」の概念とともに、西田の哲学は「西田哲学」と呼ばれるものになりました。

「善の研究」では主客が「分離」した状態を自覚によって「統一」すると考えました。
ですが、「場所」の理論では、主観が客観を「包む」と考え、自覚を「包み込む」ものへと拡張していくと考えました。

上記した「自己を映す」という自覚は、自己を対象として限定する行為です。
ですが、主観である「意識する意識」は、対象化できません。
ですから、自己を対象として限定した時、常に、隠れ去ってしまうものがあるのです。
それが対象として限定されたものを「包み込む場所」です。

西田は、下記のような3段階の「場所」を考えました。

1 有の場所  :物と物が関係する場所
2 意識の野  :意識と対象が関係する場所
3 絶対無の場所:「意識の野」が拡大した極限

そして、3段階目の主客合一の状態の「場所」を、「真の無の場所」、「絶対無の場所」と表現し、「合わせ鏡」に喩えました。

ちなみに、「場所」は空間的イメージの概念ですが、西田がその後に展開した時間論では、それが「永遠の今」、「絶対的現在」として捉えられます。


<前期の哲学2:超越的述語面>

また、西田は、述語主義、普遍主義の立場から、「絶対無の場所」を「超越的述語面」として考えました。
これは、初期から存在した「一般概念」の展開という考えを体系化し、「場所」と概念的な判断との関係を明らかにしようとしたものです。

その理論的背景には、アリストテレスの「主語の論理学」と、ヘーゲルの「述語の論理学」があります。

アリストテレスは、「主語主義」の立場から、「主語(特殊)」となって「述語(一般)」とならないものを個的実体(基体)とし、「述語」は「主語」に内属するものとする論理学を作りました。
彼にとって、「一般」は抽象でしかありません。

これに対して、ヘーゲルは、「述語主義」の立場から、個物を含み、個物に内在する「具体的普遍」というものを考えて、「述語(普遍)」が「主語(特殊)」を個別化するとする論理学を作りました。
「普遍」は、個物へと発展する歴史的存在です。

これを受けて、西田も、「述語主義」の立場から、「述語」を「具体的一般者」と考えます。
そして、意識は「述語」となって「主語」にならないとし、「述語(普遍)」が「主語(個物)」を包括するとする論理学を作りました。
ですが、歴史の担い手は、「個」です。

西田は、ヘーゲルの弁証法を「過程的弁証法」、「思惟的弁証法」と呼び、これに対して、自分の弁証法を「場所的弁証法」、「行為の弁証法」と呼びます。
つまり、西田は、ヘーゲルの対象論理的な弁証法を、場所の論理の弁証法に変えたのです。

西田は、「述語」を、「主語」を包括する「述語面」として捉え、すべての「述語」を包括する「述語」として「超越的述語面」を考えました。
これが「絶対無の場所」であり、そこでこそ個体が成立するのです。

概念の包括関係で考えるということは、集合の階層を考えることになります。
「述語面」は、主語をすべて含む無限集合であり、「超越的述語面」は、すべての述語を含む、より大きな無限集合です。
つまり、「述語面」の集合の階層は、無限集合の階層です。

西田は、これをデデギントの無限論で考えようとしましたが、実際には、カントールの無限論の方が適していたはずです。


<前期の哲学3:一般者の自覚>

西田は、意識がより広い「場所」へと拡張する運動を、諸々の「一般者の自覚」の体系として語ります。
そして、3段階の「場所」は、下記のように、3段階の「一般者」の展開として考えます。

1 有の場所  :判断的一般者:知的自己 
2 意識の野  :自覚的一般者:意志的自己
3 絶対無の場所:叡智的一般者:叡智的自己→道徳的自己
→ 宗教的意識  :無の一般者 :真の自己

「判断的一般者」は主語と述語の世界、物と物の世界ですが、その限界である「述語面」の底を超越することによって「自覚的一般者」となります。

「自覚的一般者」は意識と対象の世界ですが、意識する意識へと至り、意識的自己の底を超越することで「叡智的一般者」となります。

「叡智的一般者」は、芸術的直観、つまり、創造的で実践的で自由な世界で、その極限は「無の一般者」と呼ばれます。

西田は、「叡智的一般者」が深まる中で、「道徳的自己」が現れると言います。
「道徳的自己」は善の意志を持つと同時に悪の意志も持つ矛盾的存在です。
そして、その矛盾が極まるところで自己が否定され、その底で「真の自己」が見出され、「宗教的意識」となります。


<後期の哲学:絶対矛盾的自己同一>

西田の初期・前期の哲学は、「絶対無の場所」へと至る「往相」の哲学でした。
それに対して、著「無の自覚的限定」(1932)、論文「絶対矛盾的自己同一」(1939)などの後期の哲学は、歴史的現実へ至る「還相」の哲学です。
これは、観想から実践へ、抽象から現実へ、一般から個へ、という移行でもあります。

その歴史的現実への還相は、「絶対無の自覚的限定」として生まれます。
これは、主体的に見れば、「行為的直観」によって自己形成する過程です。
そして、その時の論理構造は、「絶対矛盾的自己同一」となります。

「行為的直観」とは、「行為(作ること)」と「直観(見ること)」が同時で、例えば、画家が創造的に描く時、同時に、創造的に見ているということです。
これは、常に既存の自己の否定を通して、「行為」と「直観」が、弁証法的に互いに自己否定的に相手を創造します。

西田は、概念的な把握も、「行為的直観」的に行うべきとします。
つまり、「行為的直観」による創造が形式論理を含むことで、知識が「具体的一般者」の自己限定として生まれるのです。


西田は、このような「行為的直観」的な創造を、人間的で「歴史社会的」な生産として考えます。
そして、これを、「生物的生命的」な生産と対比します。

ですが、「行為的直観」的な創造について、西田は「でなければならない」といった表現を多用します。
ですから、これが人間の世界の現実という側面と、目指すべき状態という側面があります。


「絶対無の自覚的限定」の論理構造は、矛盾・対立・相互否定を含んだままに自己同一性を持った状態であり、これが「絶対矛盾的自己同一」と表現されます。
これは、統一されることのない動的な運動です。

「絶対矛盾的自己同一」は、「一(絶対無)」と「多(限定)」の関係でもあり、「個人」と「個人」、「個人」と「物」の関係でもあり、「行為」と「直観」、「一般」と「特殊」、「超越」と「内在」、「外」と「内」、「過去」と「未来」などの関係でもあります。
つまり、「一即多・多即一」、「超越即内在・内在即超越」…です。


<鈴木大拙と西田哲学>

西田は、郷土の同級生だった鈴木大拙と、生涯に渡って思想的な影響を与え合いました。

西田は、仏教の論理を西洋の対象論理に対抗できるような普遍的な論理として体系化しなければいけない、という考えを持っていました。
鈴木も西田の影響を受けてか、同じ問題意識を共有していました。

西田が「矛盾的自己同一」を打ち出した2年後の1941(昭和16)年に、大拙は、「禅への道」で禅の認識を論理化した「即非の論理」を打ち出しました。
そして、1944(昭和19)年の「日本的霊性」で、その詳細を論じました。

「即非の論理」は、「AはAだと云うのは、AはAではない、故にAはAである」という、「否定を媒介にして、始めて肯定に入る」禅の論理です。

西田は、自分の「矛盾的自己同一」の論理と、大拙の「即非の論理」が、ほとんど同じものであると考えていました。
そして、西田は、大拙宛の書簡で、次のように書いています。

「私は即非の般若的立場から人といふもの即ち人格を出したいとおもふのです。そしてそれを現実の歴史的世界と結合したいとおもふのです」

ですが、西田が、「絶対無の自覚的限定」を「行為的直観」と「絶対矛盾的自己同一」で考えたことは、すでに、個人を重視し(人格を出す)、社会的行為を重視する(歴史的世界と結合する)試みでした。
これは、晩年の哲学にも受け継がれます。


鈴木は、「即非の論理」を作り出すのと平行して、真宗論を書きました。
1942(昭和16)年に「浄土系思想論」を出版し、主著の「日本的霊性」でも真宗を大きく扱っています。

鈴木の真宗観は、「往生」ではなく、禅的な解釈によって、「他力」や「自然法爾」、「名号(念仏)」を評価するものです。
この鈴木の真宗観は、西田の晩年の宗教哲学に大きな影響を与えました。

西田、鈴木は真宗王国と呼ばれる北陸の地域ですから、二人の根底には、その影響があるのでしょう。


<晩年の哲学:逆対応>

西田は、1945年、亡くなる前に「場所的論理と宗教的世界観」を脱稿しました。

この書は、自身の「絶対矛盾的自己同一」の立場から、浄土教、禅、キリスト教を統一的に把握しようとしたものです。

西田は、宗教心を、対象的論理ではなく、「場所的論理」、「絶対矛盾的自己同一」の論理によってしか理解できないものであるとします。
ですから、この書は、西田哲学の「場所の論理」の最終的な形を示すものでもあります。

西田は、自己の根底において、絶対者(キリスト教と仏教の両方を扱うのでこの言葉を使います)と自己が、相互否定的に生まれる「絶対矛盾的自己同一」体験によって、宗教的回心が起こるとしました。

西田は、このあり方を「逆対応の論理」と表現します。
これは、絶対者と自己などが、互いに自己否定的に対応しあっている状態を表現します。

つまり、個人が個人として限定される極限において、個が否定、超越され、絶対者と対面します。

「個なれば個なるほど、絶対的一者に対する、即ち神に対するということができる。我々の自己が神に対するというのは、個の極限としてである」

例えば、道徳的意志は自己矛盾を含むので、その極致において道徳を否定するに至り、絶対者に対して、自己の死を自覚し、始めて自己を自覚するのです。

この時、絶対者の側から見れば、絶対者が自己を限定して個として現れるのですが、これが「逆対応(逆限定)」です。

「逆対応」は、述語主義の点からも「主語的方向と述語的方向の矛盾的自己同一」、「個物的限定即一般的限定」と説かれます。

西田は、キリスト教における「啓示」も「絶対矛盾的自己同一」、「逆対応」として理解しました。
また、禅の「見性」も同様です。

「我々の自己は、何処までも自己の底に自己を越えたものに於いて自己を有つ、自己否定に於いて自己自身を肯定するのである。かゝる矛盾的自己同一の根柢に徹することを、見性と云ふのである」

西田の真宗における阿弥陀仏(他力、自然法爾)と個人との関係も同様に解釈されます。

「親鸞聖人の義なきを義とするとか、自然法爾とかいう所に、日本精神的に現実即絶対として、絶対の否定即肯定なるものがあると思うが…」

また、西田は、鈴木の「名号の論理」も同様のものとして評価しました。
これは、念仏を唱えることは阿弥陀仏と一体になることで、それは個的主体を超えていると共に主体であり、受動的であるとともに能動的であると考えるものです。
この時、阿弥陀仏からの呼声と、阿弥陀仏への呼びかけが、同時となります。

「矛盾的自己同一的媒介は、表現による外ない。言葉による外ない。仏の絶対悲願を表すものは、名号の外にないのである」


<仏教教学、特に華厳思想との比較>

西田の述語主義的な「場所」の理論は、どこから来たのでしょうか?

西田は、プラトンが述語主義であり、「場所」という概念がプラトンの「コーラ(受容器)」とつながりがあると書いているので、それが一つの源泉かもしれません。

仏教には、「場所」と同様に空間的イメージの概念として、「法界」があります。
華厳経学の「四種法界説」は、複数の段階の「場所」を設定した西田の発想と似ています。
ただ、四法界説では、後の二法界は、還相に当たりますが。

また、仏教の修行では、外界(客観)を空じ(法無我)、内面(主観)を空じ(人無我)ます。
これらは、段階的に述語面を超越していく西田の発想と似ています。

西田は、言及していないと思いますが、仏教の「空」や「無」は、本来、述語の位置にあって、主語の実体性を否定する言葉です。
そういう意味では、絶対の述語であるとも言えます。
主語になるべきではない言葉という意味で、「場所」と「空」、「無」は同じです。

仏教における「一般」と「特殊」をめぐる論理学に相当するものは、華厳教学の「理」と「事」の理論でしょう。

また、「絶対矛盾的自己同一」は、華厳の「一即多・多即一」などと似ている部分があります。
ただ、華厳の言う「一」は「個(一部分)」ですが、西田の言う「一」は「全体(一切)」のことです。

また、西田は「大乗起信論」を読んで、「中々分らない」と日記に書いています。
ですが、「大乗起信論」の「真如」の概念は、「そのまま」の体験である「純粋経験」と似ています。

また、「本覚」の概念は、「純粋経験」の最初に存在する統一という側面と似ています。
統一が分裂し再統一に至るという流れは、「大乗起信論」では、「本覚」→「無覚」→「究竟覚」となります。


西田哲学の仏教から見た問題点としては、次のような点があります。

部派仏教や大乗の中観、唯識には、詳細な煩悩論とそれと対応する修道論がありますが、西田哲学には、哲学なので当然かもしれませんが、それらはありません。

ですが、実は、禅宗は如来蔵思想的であるため、煩悩論が欠如しています。
一方、真宗は、末法思想として、皆が平等に悪人であり、煩悩をなくすことなど不可能との立場に立つため、逆の理由で、同様の結果となります。

禅宗と真宗は、正当なインド仏教からすれば、煩悩論が欠如した致命的な仏教であり、西田哲学はそれらの影響を受けています。

そのため、還相的側面においても、煩悩のない後得的な分別と、煩悩のある妄分別の区別を明確化しません。
ですから、後期の哲学が還相的だとは言え、それは、人が「絶対無の場所」へ至った往相からのあるべき展開としての還相ではなく、単なる人間世界の現実である、往相の裏側としての還相として読めてしまいます。

これは、禅の修行で言えば、西田が往相に当たる「見性」は通りましたが、還相に当たる「仏向上」の修行に至っていないことと対応しています。


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