エジプトのアマルナ革命とユダヤ教の起源 [古代ユダヤ&キリスト教]


このページでは、ヘブライ語学者でラビの家系に生まれたメソド・サバとロジェ・サバが、「出エジプト記の秘密」(2000)で説いた、ユダヤ教の起源に関する説を紹介します。

エジプトの当時の記録には、ユダヤ人に関する記述は一切なく、旧約が語る出エジプトのような歴史的事実があったとは考えられません。

かつて、精神分析学のジークムント・フロイトが、モーゼはエジプト人であり、ユダヤ教はアテン信仰だったと推測しました。

サバの主張は、これをアラム語の旧約聖書(公認の最古の翻訳聖書)とエジプトの資料を根拠として深めたものです。
サバは、ユダヤ教とユダヤ人の起源が、アテン信仰とその神官・信者であり、反宗教改革によって追放されたのが出エジプトの実態であったと説きます。


<アマルナ革命>

古代エジプトは伝統的に多神教ですが、新王国第18王朝の第10代王のアメンホテプ4世(=アクエンアテン=ネフェルペルウラー、BC1353-1336年頃)が、おそらく人類初の一神教的な宗教改革を断行しました。

これは、「アマルナ革命」を呼ばれ、アテン(アトン)神を信仰し、この神に捧げられた都市アケトアテン(現アマルナ)を建設し、首都をここに移転しました。

その背景には、旧都テーベで、強力な権力を持っていたアメン神官の力を削ぎ、アテン神の化身として、王の神聖さを復活させる目的がありました。

アメン(アモン、アムン)神は、当時のエジプトの多神教の中心となる神です。
テーベの主神で、「隠れたる者」の意味であり、男根として表現されることがあり、戦勝を祈願する神でした。

これに対して、アテン神は、もともとマイナーな地方の太陽神であり、太陽円盤をかぶる隼の姿で表現され、平和と恵みの神とされました。
アマルナ革命以降は、太陽円盤から多数の女性の手を伸ばした太陽光の神として表現されました。

アメンホテプ4世は、自身で大小の「アテン讃歌」を作りました。
ちなみに、これが旧約の「詩編104編」と類似しているとの指摘もあります。

アテン信仰には、王の家族のための宗教という傾向があり、王と王妃だけが直接、この神に接触できました。
ですが、アテン信仰では人間を平等とし、魔術を禁止しました。

また、アマルナ時代の美術は、動・植物などを写実的に表現しました。
そして、従来のエジプトの神殿の至聖所は、屋根のある暗い部屋でしたが、アテン神殿では屋外で太陽光が当たる場所にしました。

このように、アマルナ革命には、当時のエジプトでは考えられないような多数の革命が行われ、そこには進歩的な側面がありました。


ちなみに、アメンホテプ4世の墓は、王家の谷ではなく、アマルナにあります。


<アマルナ王家>

アテン神の信仰は、アメンホテプ3世が重視し、アメンホテプ4世によって一神教化されました。

ちなみに、アメンホテプ3世の時代の改革派のアテン神官に、モーセ(モーゼに似ています)という名の神官がいます。

アテン神を信仰してアマルナを首都としたアメンホテプ4世からアイまでの王は、アマルナ王家を呼ばれ、後に、エジプトの宗教的伝統に反逆したとして王名表から削らました。

ですが、アマルナ王家のエジプトは、平和的な時代です。
それに対して、アメンホテプ三世以前のエジプトは積極的に軍事侵攻をしましたし、アマルナ王家から代わって王となったホルエムヘブも次のラムセス1世も軍人で、以降、王に軍人の属性が生まれした。

アマルナ王家の継承関係は、アメンホテプ4世→スメンクカーラー→ツタンカーメン→アイとされますが、はっきりとは分かりません。

アメンホテプ4世の王妃ネフェルティティは、王と同格なほどの絶大な権力を持ち、一時、共同統治も行ったかもしれません。
彼女の祖父母は、おそらく西アジア出身です。

アメンホテプ4世の後を継いだスメンクカーラーの正体ははっきりせず、普通に考えるとツタンカーメンの兄ですが、ネフェルティティが男性王として名乗った名の可能性も指摘されています。
ちなみに、アマルナ王家は、王族の肖像を両性具有で表現していました。

次のツタンカーメン(BC1342-1324年頃)は、アメンホテプ4世の息子ですが、ツタンカーメンの母は不明です。
ネフェルティティの子には娘しかなかったのです。

ツタンカーメンは、最初、「トゥト・アンク・アテン」を名乗りましたが、これは「アテン神の生きた似像」、つまり、化身という意味です。
ツタンカーメンは、アメン神へ改宗し、同時に、「トゥト・アンク・アメン(ツタンカーメン)」に改名しました。

ツタンカーメンには息子がおらず、軍人のホルエムヘブを後継指名していました。

次のアイ(=ケペルケペルウラー、アイは王の父という称号、BC1323-1319年頃)は、アメンホテプ3世の王妃の兄で、ひょっとしたらネフェルティティの父かもしれないと指摘されています。

彼は、ツタンカーメン王の宰相で、アマルナ王家の長老的人物でした。
彼の墓にはアテン讃歌が彫られているので、アテン神と信仰していたのでしょう。
彼は、アテン信仰とアマルナ王家を守るために、ホルエムヘブへの継承をやめさせて、老齢にもかかわらずに無理やり即位したと推測されます。


<反革命と出エジプト>

サバは、アイが、ツタンカーメンにアメン(多神教)信仰への復帰を決意させたと推測しています。
だとすれば、それは止むなくのことであったのでしょう。
もしかしたら、アイは反対した可能性もあるでしょう。

そして、アイは、アテン信者を、アケトアテンからエジプトの辺境の属国であるカナンに移住させました。

移住はアテン神官が率いましたが、モーゼに相当する歴史的人物は記録にありません。
ちなみに、アラム語の旧約には、モーゼをエジプト語で「神の息子」と表現し、ユダヤ人とは書いていません。

サバは、アイがモーゼのモデルの一人だと考えます。
アイはアテン信者の前ではアテン神の化身として振る舞ったはずです。

サバは、他にも旧約の主要人物のモデルを、下記のようにエジプトの王に当てはめています。

・アブラハム:アメンホテプ4世
・ヨセフ  :アイ
・モーゼ  :アイ、19王朝を開いたラムセス1世、


<イスラエルとユダ>

追放されたアテン神官達は、「ヤフウド」と呼ばれ、ユダ族になりました。
一方、他の雑多な信者達は「イスラエル」を作りました。
アラム語の聖書は「ヤフウド」と下層の「イスラエルの子ら」を区別しています。

エジプトでは王は神の化身で、アメンホテプ3世は「ヤフー」と呼ばれ、神=「ヤフー」でした。
これが「ヤフウド」の神の名「ヤーヴェ」の語源になりました。
神の4文字の本来の発音は、「ヤフウ(ヤフウヘ)」でした。

一方、「イスラエルの子ら」の神の名が「イェホヴァ」でした。

ただ、旧約の神の属性には、アテン神の属性はほとんど見られません。
カナン、バビロニアに移って以降、大きく変質したのでしょうか?


<ヘブライ語アルファベットのエジプト宗教由来の意味>

サバによれば、ヘブライ語アルファベットは、フェニキアの22文字のアルファベットのシステムを取り入れたものです。
ですが、各文字はフェニキア文字と似ておらず、ヒエログリフをもとにして作られました。

そして、サバは、エジプトの宗教に基づく各アルファベットの本来の意味を、下記のように解きました。

アレフ :アテン神、アメン神
ベート :世界内の神の内的活動
ギメル :ファラオ 
ダレット:神(アドナイ)
へー  :ファラオの5つの名
ヴァヴ :角のある蛇
ザイン :プタハ神の杖
ヘット :アテンの首都アケト
テット :トート神
ユッド :ピラミッドの中の王
ハフ  :生命力カー、オシリスの王杖
ラメド :王の蛇形記章
メム  :アメンの妻ムウト女神であるハゲワシ
ヌン  :原初の海
サメフ :昼夜循環としての蛇
アイン :王杖を持つプタハ神
べヘイ :神聖な言葉を発するプタハ神の口
ツァディ:アクエンアテン王
コフ  :原初の蛇
レーシュ:ラー神
シン  :葦原
タヴ  :雌牛であるハトホル女神

ヨーロッパの神秘主義者の中には、モーゼがエジプトの秘教を奪って、それがカバラになった、といった説を唱えた人もいましたが、このように、アルファベットの中にもエジプトの宗教の影響があるとすると、その説もまったくの間違いとは言えないのかもしれません。

ですが、3世紀頃のカバラにつながる書「形成の書(セフィール・イエツラー)」に書かれたアルファベットの象徴と比較すると、ほとんど共通する意味は見いだせません。
1500年以上の開きがありますから、その間に失われたのでしょうか。


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