大本の隠退・贖罪神話 [日本]


大本の宇宙生成論」から続くページです。

大本の神話、教義の特徴は、隠退させられていた神が復帰して理想の国を作る、という救済神話です。
これは半ば終末論的です。
これを担うのは、「艮の金神」こと「(大)国常立尊」です。

また、これと重なるような、贖罪を負って隠退していた神が救世主として理想の国作りを助けるという神話です。
これを担うのは、「素戔嗚尊(須佐之男尊)」です。

このページでは、これらの神話の要点を中心に簡単に紹介し、分析します。

ですがその前に、歴史編などですでに書きましたが、神話と対応する大本の2つの霊統に関して、復習的にまとめます。


<厳と瑞の霊統>

大本の基本的な霊統は、二人の教祖、出口ナオと王仁三郎のそれぞれが持つ対照的な二つの御霊である「厳の御霊」と「瑞の御霊」の対立で構成されています。

ですが、王仁三郎は、自身を開祖のナオよりも上位と位置づけ、さらに両霊統を統合する御霊を持つ、あるいは、その顕現としました。

ナオ  :厳:変性男子:火:霊:艮の金神:国常立尊:天照大御神:稚姫君命
王仁三郎:瑞:変性女子:水:体:坤の金神:豊雲野神:須佐之男尊
統合  :伊都能姫、弥勒の大神、大国常立神、素戔嗚尊

この二元論は、日本書紀が取り入れた陰陽説、山口志道の「火/水」の二元論、本田霊学の「霊・体・力」説などを結びつけたものです。

ナオは最初、王仁三郎(須佐之男尊)を悪役として必要な存在とみなしていました。
ですが、やがてそれを見直して、「天の祖神」、「弥勒の大神」の現れと見做すようになりました。

王仁三郎は、自身を、2つの霊統の分裂以前、あるいは、統合した「大国常立尊」、「伊都能売」と見做しました。

また、ナオの「大本神諭」では、この2つの御霊に加えて、他にも2つの御霊が語られます。
一つは、ナオの長女の澄が体現する、「大地の金神」である「金勝要神(きんかつかねのかみ)」。
もう一つは、澄と王仁三郎の子である清吉が体現する、救世主である「日之出の神」です。

「霊界物語」では、「大地の金神」は、「櫛名田姫」でもあるとされます。
そして、「日の出神」は、伊邪那岐尊の息子で、ヨモツヒラサカの戦いでは全軍の総司令官として活躍します。

また、王仁三郎は、ナオの御霊を、「国常立尊」や「天照大御神」より下位の存在で、救世主を待つ「稚姫君命」とし、ナオと王仁三郎の関係の主従を逆転させました。

そして、王仁三郎は、自身が持つ「瑞の御霊」である「素戔嗚尊」を、贖い主である救世主とし、それが、「大国常立尊(天之御中主神)」でもあり、「天照大御神」より上位の存在としました。
ですが、地上に降りた「須佐之男尊」は、終末の大救世主たる「伊都能姫」を見出す存在です。


<国祖隠退>

「霊界物語」の4巻で、「国常立命(国祖、国治立命)」の隠退の神話が語られます。

その前段までの物語では、「国祖」が地上霊界の主宰神になり、「稚姫君命(稚桜姫命)」を宰相として神政を司らせました。
そして、地上現界は、「須佐之男命(国大立命)」に主宰させていました。

ですが、三種の邪霊が神々や人に憑依して乗っ取り、地上を混乱させていました。

・八頭八尾の大蛇  :分裂させる
・金毛九尾白面の悪狐:愛欲で操る
・六面八臂の邪鬼  :支配する

そして、彼らの影響で悪神化して、「国祖」、「稚姫君命」ら正神の神政の邪魔をしていたのが、「盤古大神」と「大自在天神大国彦」の勢力です。
それぞれの陣営は、次のような特徴を持ちます。

・正神系  :霊主体従(霊五体五)
・盤古大神 :体主霊従(霊に偏向)
・大自在天神:力主霊従(体に偏向)

まず、「稚姫君尊」が、悪鬼の誘惑で夫婦仲を壊して律法を破ったため、三千年の間、幽界に落ちて罪をつぐなうことになりました。
「稚姫君尊」の生まれ変わりが出口ナオとされます。

「国祖」は、まだ混沌としていた世界を統治するには厳格すぎました。
悪霊の入れ物となった二神の勢力は、「国祖」の神政を糾弾するため、「国祖」を神々による「常世会議」にかけた後、八つ裂きの刑にしました。
そして、「国祖」の隠退を「天の大神(伊邪那美神、伊邪那岐神、天照大御神)」に訴えました。

「天の大神」は、涙を飲んで、時が来たら復権させ、私も地に降りて手伝うと約束して、「国祖」を隠退させました。
王仁三郎が大本に加わってナオを助けたのは、この約束を果たすためだとされます。

「国祖」は、幽界に追放されましたが、霊魂は「地上の高天原」である「聖地エルサレム」から艮の方向にある「秀妻国(日本)」に、妻の「豊雲野神(豊国姫命)」は、坤の方向の島国に留まりました。
そして、邪神達は、「国祖」を祟り神、鬼であると宣伝しました。

これが、この二神が、「艮の金神」、「坤の金神」と呼ばれるようになった理由です。
そして、日本の神事(節分の豆まきなどを含めてすべて)は、「国祖」を調伏するものとなりました。

その後、「盤古大神」の一派が地上の神政を担うも、「大自在天神」一派との間で争いが起き、混乱が続きました。

また、「国祖」が隠退して、大地から「国祖」の精霊が抜け出したため、天変地異が起こり、大洪水と地軸が傾くに到りました。

「国祖」と妻神は、その状態を悲しんで、贖い主として、天教山(富士山)の噴火口に身を投じました。


<須佐之男尊の贖罪>

「霊界物語」の、「国祖(国常立尊)」が地上霊界の神政から隠退し、贖い主になった神話は、次に語られる「素戔嗚尊(須佐之男尊)」が地上現界の神政から隠退し、贖い主にあった神話と、ほとんど同型です。

「霊界物語」だけで語れる須佐之男尊の物語には、古事記に類する部分と、独自の部分があります。
独自の物語では、須佐之男尊は、「三五(あなない)教」(詳細は下記)の指導者となり、宣伝使を世界に派遣しつつ、自身も旅をして、八岐大蛇に象徴される悪を「言向け和する」(言霊の言葉で改心させる)ことで、「国祖」による「五六七(みろく)神政」の成就のために尽くします。

「霊界物語」の中には、ところどころで古事記の神話の解釈が挿入されています。
これは、「言霊解」などと題されていて、王仁三郎が行った講演の記録です。
ここでは、須佐之男尊の物語が、以下のように解釈されています。

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*須佐之男尊に扮した王仁三郎


伊邪那岐大神は、須佐之男尊に、海原(地上現界のこと)を主宰するように命じました。

地上現界にいる神々は、地上で罪穢れを落としてからでないと高天原に昇れないことになっていました。
ですが、神々はそれを理解せず、高天原の天照大神に憧れているばかりで、須佐之男尊の言葉に耳を傾け、自らを省みることがありませんでした。

須佐之男尊は、その有様に、心を痛めて泣きました。
そして、自責の念を感じて、母のいる根の堅州国(月界のこと)に隠退しようと思いました。

伊邪那岐大神も、この須佐之男尊を隠退させることで、神々も改心してくれるだろうと思い、須佐之男尊を地上現界から追放しました。


須佐之男命は、天照大御神に別れを告げるために高天原に登りました。
ところが、天照大御神は猜疑心から須佐之男尊を武力で迎え撃つ準備をしました。

二神の誓約(うけい)の結果、天照大御神の玉からは五男神が、須佐之男命の剣からは三女神が生まれました。
これによって、天照大御神は「変性男子(身体は女性で霊魂は男性)」、須佐之男命は「変性女子(身体は男性で霊魂は女性)」であることが判明しました。

また、天照大御神の御霊は、五男神を生んだこともあって、「厳(五、いつ)の御霊」、須佐之男命の御霊は、三女神を生んだこともあって「瑞(三、みつ)の御霊」と呼ばれます。

そして、五男神と三女神の名前の言霊解釈から、「厳の御霊」は攻撃的で、「瑞の御霊」は慈悲深いことが示されます。

以上は古事記を元にした解釈ですが、「霊界物語」独自の物語では、天照大御神の猜疑心の裏には、彼女が須佐之男尊の領土を侵略しようとしていことがあったと明かされます。

王仁三郎は、この時の二神の関係を、彼が大本に参加した時の、ナオと彼の関係に重ねています。


その後、須佐之男尊の部下が勝手に、天照大御神の田を破壊すなどの乱暴を働きましたが、須佐之男尊はその罪をかぶりました。

記紀神話ではその後、須佐之男命が斎服殿に馬の皮を逆剥ぎにして投げ込んだ時に、天の服織女が梭で女陰を衝いて死んだとされます。
これについては、王仁三郎は明確な解釈を行っていませんが、神衣を織ることは、天照大御神の経綸の行いのことであるとしています。

ところで、ナオのお筆先では、ナオの神が「国常立尊」でもあり、「稚日女尊」でもあると出ています。
「稚日女尊」は、日本書紀の一書でのみと名前が書かれている、この時に亡くなった服織女です。

このことは、ナオと王仁三郎との対立の深さを示しているように思えますが、王仁三郎は、「稚日女尊」と須佐之男尊の間に性的関係があったのだと解釈しました。

こうして、須佐之男尊は、罪をかぶって天上霊界から追放されました。
この須佐之男尊の行為は、キリストの贖罪と同様の行いだとされます。


そして、須佐之男尊が地上(出雲)に下ります。
これは、王仁三郎が大本に入ったことと同じとされます。

そこで出会った老夫と老女はナオであり、その童女は世の人々、「櫛名田姫」は「大地の金神」である澄です。

「八岐大蛇」は邪霊にまどわされている人々で、「十拳剣」でこれを切るのは、破邪顕正の心で人民を改心させることです。
そして、尾から「草薙の剣」を見出すことは、下層の人民の中に潜む大救世主である「伊都能売」の御霊を持つ人を見つけることです。

須佐之男命による八岐大蛇退治は、「霊界物語」では世界を舞台にした「言向け和す」旅になります。

そして、丹波の綾の聖地では、「錦の宮」という三五教の神殿を建てて、須佐之男尊が指導を行い、言依別命が教主として、五六七神政成就のための宣教を行いました。
もちろん、これは大本の開教と重なります。


72巻までの「霊界物語」では、その最後までが描かれませんでしたが、伊邪那美神から受けた須佐之男尊の使命は、「八岐大蛇」が憑依した「大黒主」を言向け和して、「天叢雲の剣(救世主としての伊都売神)」を得て、天照大御神に奉ることでした。


<三五教>

「国祖」が創始し、須佐之男尊が指導したのは、「三五(あなない)教」です。

「三五教」の「宣伝使」が、改心したり悪に落ちたりを繰り返しながら「身魂みがし」をして成長していくのが、「霊界物語」の重要なテーマの一つです。

「三五教」の特徴は、非暴力主義、無抵抗主義、言葉によって改心させる(言向け和す)ことです。

つまり、記紀神話の「天の岩戸開き」のように、天照大御神を騙して引き出すのではなく、その猜疑心をなくすのです。
また、記紀神話の「八岐大蛇退治」のように、武力によって倒すのではなく、言葉によって改心させるのです。

「三五教」に敵対するのは、「大自在天神」系の「バラモン教」と、「盤古大神」系の「ウラル教」、そして、「高姫」系の「ウラナイ教」です。

それぞれは、下記のような特徴があります。

 (宗教)  (主宰神)   (特徴)
・三五教  :正神系   :霊主体従(霊先体後):非暴力主義、説得主義
・バラモン教:大自在天神系:力主霊体(霊に偏向):暴力主義、権威主義
・ウラル教 :盤古大神系 :体主霊従(体に偏向):物質主義、個人主義
・ウラナイ教:高姫系   :インチキ、須佐之男尊に敵対

「三五教」は大本がモデル(あるいは、その逆)です。
「三五教」は、三葉彦神が創始した「三大教」と、埴安彦神が創始した「五大教」を合体させて生まれました。

「三」は天照大御神と須佐之男尊の誓約(うけひ)で生まれた三女神を、三葉彦神は王仁三郎を象徴します。
「五」は、同様に、五男神を、埴安彦神はナオを象徴します。 

「ウラナイ教」の名前は、「ウラル教」の「ウラ」と、「三五(あなない)教」の「五(ない、ナオの方)」を足したものです。
ウラナイ教は、大本の反王仁三郎派がモデルでしょう。
大本では、ナオが「表」、王仁三郎が「裏」とされ、「ウラナイ」とは王仁三郎の排除を意味します。


<大本の隠退・贖罪神話について>

「国祖」の隠退と復活の神話は、世界でも他に類を見ないものです。
ですが、類似した神話は様々なものがありますし、また、これを生み出した背景には様々な事項を考えることができます。

大本神話の特徴をモデル化すると、下記のようになるでしょう。

地上を主宰する天神(国常立尊)が、厳格すぎるゆえに主宰権を失って、さらに地上は乱れたが、復帰して終末後の神の国(みろくの世)を作る。

地上における主宰神(須佐之男尊)が、主宰権を失って堕天するも、贖い主となり堕天し、宗教的指導による救済を行い、終末の救世主(伊都能姫)を育成する。

また、両神の隠退は、単に主宰権の喪失だけではなく、八つ裂きのような肉体への刑罰、悪神の汚名、を伴っています。

これらは、広義では、堕天、終末論を伴う救済神話です。
ですが、その固有の特徴には、厳格さや慈悲深さに由来する贖罪が堕天の理由となって、悪神の汚名を着せられている点や、2霊統の統合がテーマになっている点などがあります。


<大本神話と旧約・新約神話>

須佐之男尊の「贖罪」に関しては、王仁三郎自身がキリスト教について言及しているように、キリスト教の贖罪觀念の影響を受けています。
王仁三郎自身(須佐之男尊)をイエス、ナオ(稚姫君神)を洗礼者ヨハネと比べるような記述もあります。

また、旧約から新約への変化は、「律法」から「愛」へという救済思想の変化ですが、これは、ナオ(国常立大神)の「厳の御霊」から王仁三郎(須佐之男尊)の「瑞の御霊」への変化とも対応します。
国常立神が律法を作った厳格な神であるのに対して、須佐之男尊は「言向け和」する慈悲深い神です。

また、大本の「立替え立直し」、「大峠」の思想は、一種の終末論なので、その点でも、新約との類似があります。
「贖い主」と「教主」としてのイエスが須佐之男尊ならば、「ヨハネ黙示録」の「終末の救世主」に相当するのが「伊都能姫」でしょう。

また、「霊界物語」への旧約の影響もあって、大洪水、アダムとイヴに対応する天足彦と胞場姫、「知恵の樹」の実に対応する「体守霊従」の果実などが明らかにそうです。


<大本神話とイラン系神話>

神道は多神教で、古事記には長い神統譜があります。
それに対して、キリスト教は一神教なので、大本神話との類似には限界があります。

古事記には、造化三神の段階があり、国常立尊の段階があり、伊邪那岐神の段階があり、天照大御神の段階があり、さらに天孫降臨後や国津神の段階などがあります。

こういった多層的な神統譜と、終末論的な救済神話を持つのはイラン系宗教(ゾロアスター教、ミトラ教、マニ教、ミトラス教)です。
これらには、根源神の段階、天体・気象神の段階、地上の救世神の段階、終末の救世神の段階がありますし、隠退と似た堕天の神話があり、世が堕落していく神話があります。

実は、キリスト教の終末論も仏教の弥勒信仰も、イラン系宗教の影響で生まれ、その救済神話を簡略化したものです。
さらに実は、大本が言う「みろくの世」という言葉も、仏教の弥勒信仰ではなく、ミトラ教の中国版である弥勒教が日本に伝来して生まれた、鹿島や富士講の「みろく信仰」に由来するものです。

王仁三郎は、イラン系宗教やその「みろく信仰」への影響については、ほとんど知らなかったでしょう。
ですが、多層的な神統譜と堕天や終末論的な救済神話を合わせ持つ神話は、必然的に似てきます。


ただ、ゾロアスター教と大本との間には、偶然ではない影響があるのかもしれません。

王仁三郎は、人間が、「黄金時代」、「白銀時代」、「赤銅時代」、「黒鉄時代」、「泥土時代」という五時代を経て、徐々に悪化すると考えました。
これに似た神話は、古くはゾロアスター教やギリシャ神話で語られ、仏教では末法思想という形で日本に伝わっています。

また、「艮の金神」が隠退していたのは3000年ですが、この3000年というのは、ゾロアスター教で区切りとされる年数で、アンラ・マンユが深淵に落ちていた期間も3000年です。

そして、大本では、隠退の3000年の後に、復帰のための50年の準備期間が設定されていましたが、ゾロスター教でも、最後のサオシャントが57年の神聖な統治を行った後に、最終戦争を向かえます。


イラン系堕天神話(原人間の殺害を含む)の核心は、堕天した、あるいは、殺害された神(マズダ、アーリマン)や神的な「原人間」が、人間の霊魂の奥底にある神性になったとする点です。
そして、救世主の与える霊的智恵によってその神性を顕在化させるのが救済です。

大本の隠退神話には、直接的にはこの側面がありません。
国常立尊の死せる霊魂が人間の霊魂になったわけではありません。

ですが、人間の霊魂は、天之御中主神の分霊(直霊・本守護霊)であり、国常立大神の隠退によって世が「体主霊従」になり、須佐之男尊の指導によって「霊主体従」に戻ると語ることは、ほとんど同じ思想を表現しています。


イラン系救済神話の現代版と言えるのが、ブラヴァツキー夫人の神智学です。
神智学は、秘教を抑圧したキリスト教に批判的で、その秘教的本源に遡って普遍主義志向で創造されたものです。
ですから、霊学の秘教的志向を持つ王仁三郎が、神智学の神話を知らず、キリスト教しか参照しなかったのは、実に残念なことです。

イラン系救済神話には、堕天したアーリマンの復帰を説くものがありますが、これは自由意志の獲得というテーマを内包し、秘密教義とされました。
神智学はこれを重視して取り込みましたが、大本神話にはこのテーマはないようです。

ちなみに、大本が提携したバハイ教も、イラン系宗教の現代版と言えますが、イスラム教の影響が濃く、神話的側面は希薄です。


<大本神話と日本の宗教・神話>

最後に、日本古来の伝統という点からいくつか述べてみます。

日本書紀は、陰陽思想を取り入れているので、大本の「火/水(厳/瑞)」の二元論による解釈の基盤があります。

そして、記紀神話の須佐之男尊には、すでに、おそらく結果的に、統合神、贖罪神という性質があります。

記紀神話の須佐之男尊の基本性質は、大気・水の循環(海・蒸発・雲・降雨・川・地下水)の神です。
ですから、王仁三郎が、須佐之男尊を「瑞の御霊」としたのは正しいのです。

そのため、昇天して太陽を隠す一方で、地上に下って豊穣をもたらし、穢れを浄化して地下に下る神なのです。
水の神には、天地の媒介神にして、贖罪神、復活神という性質があるのです。

ちなみに、折口信夫は、古代においては、丹波氏が水の神の巫女の家系だったと書いています。


日本には、記紀神話に対する、いわゆる「埋没神」の復活の潮流があります。
これは、天皇家や藤原氏、そして、天孫族の支配に抗する宗教伝統です。

これらの非主流派とされた神々は、記紀神話と律令神道の体制では、抹消されるか、悪神化されるか、矮小化されるか、記紀の神々へ改名をさせられました。

埋没神の復活というテーマは、古くは記紀以外の各氏族の古伝にもあり、三輪流神道や伊勢神道、教派神道にもあります。
また、神仏習合の中で、仏教系の神仏の姿をまとって復活した神々もあります。

歴史編で書いたように、大本の「艮の金神」=「国常立尊」の隠退と復活の神話の背景には、綾部の九鬼家の「鬼」、丹波の元伊勢外宮の「豊受大神」、海部氏の籠神社の元天照「火明命」などの「埋没神」とのつながりを感じます。


また、日本には、古来、荒魂即和魂で、祟る「荒魂」を祀って守護神の「和魂」にするという宗教観があります。

天津神の支配に屈して発現した国津神などの「荒魂」は、中世には「黒い翁」となり、「荒神(こうじん)」となり、「金神(こんじん)」となりました。

宗教観の変化の中で、「和霊」の「荒魂」化は、行き過ぎた厳格さが理由と見なされたり、主宰権の喪失と見なされたりしてもおかしくはありません。
そして、「荒魂」の「和霊」化は、慈悲深さという性質が必要だと見なされたり、主宰権の復活と見なされたりしてもおかしくはありません。

「荒神」は、中世に、一部で根源神にまで格上げされました。
「金神」の根源神化は、近世の金光教に始まり、大本で完全な姿になったと言えます。



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